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瞑想についてのエセー

エセーなので結論や筋道が決まっていて書いているわけではありません。エセーとは本来、考えるために書くということだったと思います。(モンテーニュ、もしくは、ナシーム・ニコラス・タレブ)。

明日、瞑想ミーティング

明日、瞑想を始めてみたいという方とミーティングをするので、その前に、自分が瞑想というものについてどのように考えているかを書き出しておこうと思いました。

あくまでも個人的な考えです。

ここがすごく大事で、どのような文章や発言も個人的な考えかもしれないと読むとあまり余計に巻き込まれずに済みます。

客観というもの

瞑想に取り組む以前に客観というものに少し疑問を持っておくのは準備運動として良いことだと思います。

完全な客観というものがもしあっても、人間はそれ自体を体験できません。「完全な客観」ですから。人間が体験する知覚は主観になります。「完全な客観」が存在していても、その認知は主観を通してしか実現しません。

つまり普段「客観」と言って話が通ってしまっている事柄は、主観の中に概念として作り出されたものです。数ある概念の中で、他者も「それは客観だ」と納得しやすい概念と、そうでない概念があると言うことです。

ですから、なにを見ようが、なにを聞こうが、なにに触れようが、それは自分の外側である客観世界の中に自分という存在とは独立して存在している、つまり、「これは客観的な存在だ」と思う主観的な概念に接しているということになります。

三次元+時間

私達は一般にこの世界を次のように理解しています。

「三次元空間の中に事物があり、時間という四番目の次元の流れに従って進んでいる。」

この捉え方、つまり概念をとてもたくさんの人が持っていて、当たり前だと思っており、この概念の上で諸々の情報を交換したり、物事を計画したり実行したりしています。

「三次元空間+時間次元」という概念は我々の文化によく浸透していますので、これは客観的とみなされていますね。これを客観と言わずしてなにを客観と言うのか、と。そのくらいの感覚です。

ここでちょっと話を戻したいのですが、「三次元空間+時間次元」これは概念ですね。歴史的にはたくさんの世界観のバージョンがあって、これはその中のひとつに過ぎません。そしてもう一つ、この概念がいくら客観的でも、それはたくさんの主観に支えられた客観性です。現時点にて多数決で勝っているだけの話です。

概念の力

私達は概念の力を利用してこの世界を見ています。

その証拠に、どんな立体物でも、視覚上では二次元の面で認識しています(が、立体として認識できます)。

自分の手を見てください。手の甲の側を見ているあなたは甲の反対側には手のひらが存在すると容易に認識できると思います。これが概念の力です。今実際には目に見えていない側を概念が補ってくれているのです。

この二次元平面を概念で勝手に補って立体化する人間の習性を利用している例はたくさんあります。最近だと3Dの映画やVRがそうですね。

概念の力ってすごいのかも、と気付いていただけたでしょうか?

我々人間の営みには、この概念の力のように、目に見えない力(見ることができない力と言ってもいいかもしれません)がとてつもなく大きな役割を果たしています。

ただの肉と骨の塊

道端に肉と骨の塊=物体を置いていても、そのままではなにも起こりません。せいぜい腐って肥やしになるのが関の山でしょう。しかも、新鮮な肉や骨が土に還元されるにはそれなりの時間経過が必要です。ゆっくりゆっくり腐って行って、長い時間をかけて土に還ります。

この肉と骨の変化は物質の持つ潜在的なエネルギーを解放するプロセスです。肉と骨という単なる物質に全プロセスを任せた場合、上記のように、非常に単純な結果(土に還ること)に向かってゆっくりと変化=エネルギーの解放が進みます。

生命を持った肉と骨の塊

次に道端に犬を放しましょう。

この犬も物質的には肉と骨などの塊です。違うのは「生きている」ということです。犬には生命が宿っています。

この生命というもの(「もの」なのか「こと」なのか、と考えたりしますが…)それ自体は見ることができません。しかし、犬は明らかに肉と骨の塊とは違います。欲求を持って行動します。

エネルギーの解放という視点で見ると、犬のそれは肉と骨の塊に比べて明らかに複雑さが増しています。欲求があっちこっちに向かうからですね。食べたい、排泄したい、かぎたい、見たい…。肉と骨の塊はゆっくりと土に還るという単純な選択肢しかなかったようですが、生命を持った犬は多様で複雑な目的を、しかもそれぞれかなりスピーディにこなしています。

物質レベルで備わっている化学的なエネルギーの解放プロセスと比較して、生命のそれは時間単位で段違いに多量のエネルギーを解放していると言えないでしょうか。

心を持った肉と骨の塊

そして最後に登場するのが人間です。人間は犬などの動物と違って概念を持つことができます。

人間が概念を使って目的を設定し、手段を概念的に合理化し、視覚的には二次元の認識しか持っていない知覚を概念の力で三次元+時間まで拡張することで達成する行為・行動の多様さ、そして、その効率性を改めて思い浮かべてみてください。すごいでしょ? 圧倒的でしょ?

犬を放置しておいても東京の街はできませんよ。人間にしかできない、動物のレベルを超越したエネルギー解放力=概念の力があってこそ、都市は存在するのです。

このように見ていくと、物質よりも生命、生命よりも概念を伴うことができる心の活動という順番に、エネルギーの解放力が指数関数的に増大しているのがわかると思います。

→ ここまでの解釈は P.D.ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』という本の内容を元にして書かせていただきました。

やっと瞑想の話へ

前置きが非常に長くなりました。

瞑想とはなんなのか、その定義をここで云々するつもりはありません。

しかし、瞑想が結局なんなのかわからなくても、世に紹介されている瞑想方法をどれかひとつ選んでトライしてみれば、その人の準備ができているか否かに関わらず、人間が普段認知している世界の中で「心の世界」という最もエネルギー量の大きな領域に関わっていくということになります。

これをお読みになっているみなさんの中には「最もエネルギー量が大きのは物質の世界なのではないか?」と思っている方は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

 原子爆弾もスペースシャトルも高層ビルもダムも、みんな物質で、こういう強そうな物質に比べたら人間の肉体なんてか弱いものだ、と。獰猛な動物に比べても人間が弱いじゃないか、と。そんな弱々しい人間の、しかも、内面や主観の中に閉じ込められている「心」などという目に見えないものに大した力があるようには思えない、と。

はい。物質優位のこの世界観であなたが幸せならば瞑想などする必要はどこにもないと僕は思います。その世界観=概念の中で幸せなんだったら、別にそれをどうこうする必要はないと僕は思います。

疑問が分かれ道を作る

僕個人が思うに、心のエネルギーの強烈さになんらかの形で触れてしまった人がいて、「ん?これってどういうことだ?」と思ったときに、物質優位の世界観で生成された言語では説明がつかないぞ、となる。そして、「これは既成概念を改める、もしくは、捨てることが必要かもな」「さて、じゃあ、今まで通ってきた道とは別の道へ行けってことだな…」となった場合に、いろんな分かれ道が出現する。その中の一つが瞑想だと思う、ということです。

テリトリー

ほとんどの人々は、自分のテリトリー内のことは自分でコントロールできると思って暮らしています。向き不向きや出会う・出会わないというのは認めていて、自分のテリトリー外のことまでコントロールできるなんて傲慢さはないにしろ、テリトリーの中で起こっている事象は自分の力でどうとでもできるという基礎的な自信(最低限の自己肯定感)を背景にして生きてらっしゃると思います。

そして、自分自身の身体(肉体)や生命、心や魂や精神と呼ばれているなにか、これらもそのテリトリーの中のものという認識でおり、特に不満や不便が生じない限りは、これらもコントロール可能であると思っていらっしゃいます。

この認識に水を差すつもりはありません。

しかし、この認識が崩れ落ちる、もしくは、崩壊する予感に襲われる、ということが人生の中でやってくることがあります。

事件が起こる

そうすると、身体の病気になる人もいるし、いわゆる精神病になる人もいます。

薬物やアルコールなどで自分自身を迫害することに没頭・依存する人もいます。

はたまた、(これはオカルト的な発想なので受け入れられない人もいらっしゃるでしょうが、)無意識に自分で自分を傷つけたり、事故に遭いに行ったりする人もいます。

こういった「事件」をきっかけに、それまでの自分とは一体何だったんだ?と思うことがあります。

それまで「テリトリー内のコントロールできる自分」と思っていたものが崩れだす。

このような事件を体験するさなかや、そこからなんとか抜け出したあとで、瞑想というものに出会う人は結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。

瞑想で迷走する

瞑想とひとことで言っても、方法の違いを拾っていきますととんでもなく多義に渡るものです。

瞑想との出会い方も多義に渡るでしょうし、瞑想を始めてみたいという人の個性も多様でしょうが、瞑想のジャンル的な広がりもそれに輪をかけて半端ではないのです。

よくある話は、「事件」に遭遇してそれだけでヘトヘトなのに、瞑想に救いを求めようと思ったら、なにがなんだか、どれが正解なんだかわからなくて余計に混乱した。魂の探求に出たつもりが余計に迷ってしまった。ミイラ取りがミイラになってしまった。そんなことがこの瞑想の世界では起こりがちです。

先に瞑想の定義を云々することを避けると宣言しましたが、探求の道筋に一般的なガイドラインを提示することも同様にここでは避けましょう。正直、僕にもさっぱりわかりません

明日の瞑想ミーティングでは、「これが答えですよ」というのを提供できるとは全く思っていません。瞑想を始めてみたいという人の話を聞いて、僕が経験したことの中で参考になりそうな話をしたいと思います。

話の力は概念の力に由来し、概念の力は心の力に由来しますから、ミーティングとは非常に巨大な力が解放される機会だと言うことを改めて感じます。

瞑想はその巨大な力のソースにアプローチしようという試みのひとつであるという認識を持って話したいと思います。

最後にお知らせ

今日はたまたま瞑想というテーマのミーティングを控えていてこのような駄文を書いてみました。

僕が今現在、個人的に展開している活動は、オンライン/オフライン問わずですが、一対一を基本とした小さなミーティングの場で相談に乗ることです。

占星術やタロットは相談者の助けになると思った場合と、相談者からリクエストがあった場合に、相談を持ちかけてくれた方の自己理解のための道具として使います。

占星術にしてもタロットにしても、あまり、というかほとんど全く、未来を当てるような占いの道具としては使いません。

占い師のような、いわゆる「霊感」を持っていると感じさせる人物が未来を「予言」すると、本当にそうなるんじゃないかという暗示をかけることになってしまいます。未来はわからないから面白いのです(断言)。よって僕が未来を予言して方向づけを行ってしまったら、その分だけ未来を殺すことになりかねません。そんな糞つまらないことには興味がないので、占星術とタロットは純粋に無意識との対話言語、対話装置として使っています。

具体例をあげますと、もし相談者が「お金持ちになれますか?」と相談してきたら、それを『なぜ今お金持ちではないのか』に変換します。僕がタロットの先生と思っているアレハンドロ・ホドロフスキーの言葉を借りれば「現在に還元する」という姿勢・手法になります。→ 参考文献『サイコマジック』

もしこのようなプライベート・ミーティングに参加してみたいという方がいらっしゃいましたらDMなどでご連絡いただければと思います。

SN

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