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『決定 → 経験』という創造のサイクルについて

「運命はすでに決まっているのだから」(理由A)という考えを持ち、その考え方によって努力することをやめて(行動X)しまったとすると、それは「(理由A)と(行動X)の組み合わせを実現した」ということになる。実現、または、創造と言ってもいいと思う。

特に理由もなし(理由B)に努力することをやめて(行動X')しまったというのも同じことだし、なんだかやる気が湧いて楽しくなってきた(理由C)ので、苦もなく努力することができた(行動Y)というのも、創造の枠組みとしては同じことである。

別の見方をすることもできる。

運命は決定しているのだからという理由で努力することをやめる(決定A)という決定をして、その決定を満たす状況を経験する。この決定と経験の連鎖を創造と呼ぶこともできる。
「その決定を満たす状況を経験する」という部分がどんな決定に対しても同様に成り立つならば、決定 ーーー と、それに続く経験 ーーー の連続があるだけとも言える。

こちらの見方のほうが抽象度が高く、シンプルでわかりやすい。(認めやすい、とは思わないが。)

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なにがどういうことになっていて、その状況の中で「私」とはなんなのか(「何者なのか」「どういう役割なのか」「原因なのか、結果なのか」などなど)を、意識的に決めていることもあるし、意識せずに受動的に、もしくは、行き当たりばったりで決めている(この場合は「決めている」という認識はない)こともある。

もし、意識的に決めても・決めなくても、全ての感覚や経験を作り出している心の法則=創造のプロセスは、『決定 → 経験』というサイクルで動き続けているとしたらどうだろう?
物事や出来事を能動的に意識的に捉え、その状況・環境・関係性の中で自分が何者なのか(何者で在りたいのか)を、自由に、そして、自分を大切にして決定することに心のエネルギーを使っていくのが経済的ではないだろうか。
なにせ、経験は決定に伴ってくるのだから。

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さらっと書き流したけれども「全ての感覚や経験を作り出している」のは「心」なのだ。

これを断定型で書いているのは、ある人たちにとっては違和感のあることなんじゃないかと思う。

例えば、「私は経済的状況に恵まれていなくて(簡単に言えばお金がなくて)、やりたいことができていないし、自分は不幸だと感じる」という人がいるとして、その人がそういう状況や感覚を作り出しているのは「状況(お財布の中身(の寂しさ)、預金残高(の低さ)、今後の収入見込(のなさ))」であって、その人自身の「心」ではないと考えていてもおかしくない。多分、この考え方・感じ方のほうが一般的であろうとも思う。

しかし、ここに書いた日本語の文章をありのままよくよく冷静に読んで見れば、この中で創造のプロセスが働いているのがわかるはずである。

つまり、この人は「状況」を根拠として「自分は金欠で、行動が制限されていて、不幸だ」という決定を多分無意識に、いや、習慣的にしていて、それを経験しているに過ぎない。
そしてその経験のリアリティの中で「私は何者か」というアイデンティティを築いていて、もしかすると「金欠で不幸なのが自分という存在の条件だ」とまで考え、それを瞬間ごとの決定の中に織り交ぜることが習慣になっているのかもしれない。

このような考えの固定化や習慣化、また、あるパターンに対して条件的に反射して判断を下すことなど、これら全てを作り出しているのが心なのだ。決して物や身体ではない。物体は心の在り方と経験が作り出した結果だと見るのが妥当だ。その逆ではない。

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このように自分の心の在り方、仕組み、動きの中に能動的な原因性を見つけ、その力の強力さを認めると、『決定 → 経験』という創造のサイクルを理解しやすいと思うし、実際、物質的≒電磁気的な力とは比べ物にならないくらい、心の力がいかに強力かということを思い知ると思う。

ある意味で心の力は危険だ。
使い方次第で人を幸福にも不幸にもする。

心が自分を中心にした世界を日々創造している。
その仕組みをまず最初に理解することが大切なのだ。

心の仕組みを知らないと、ルールを知らないゲームに強制参加させられているような居心地の悪さを味わうことになる。
多分、この居心地の悪さは「生きづらさ」という感覚で味わっている人がそこそこ多いのではないだろうか?

繰り返すが、心が世界を築いており、その心は『決定 → 経験』という創造のサイクルをノンストップで走らせている。意識してようが、してまいが、常に決定して、決定したことを経験している、この経験が世界となって目前に顕れ、その経験=世界が以降の決定に影響を及ぼす(もしくは、及ぼさないという影響を及ぼす)。

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こうして文章に書き出してしまうと、あっけないくらい単純な話である。

なにか問題を抱えているからといって悩む必要はない。まして、問題を抱えてしまった自分を責める必要なんてない。更に言うと、問題そのもの(問題視されている出来事そのもの)をいじくり回すのは無駄もいいところだ。

問題に打ちのめされる必要はないし、なんなら問題を解決しようとする必要もない。意味がないからだ。

創造のサイクルは『決定 → 経験』という、なにが良くてなにが悪いとか、そういう次元を超えたところで走っているプロセスである。

なにかが問題だと思うなら、それとは別の決定を意識的に選択して経験すればいい。というかそれしかできない。

その新しい決定+経験が結果的に、外から見た場合に、問題解決になっていることもあるだろうとは思う。
しかし、創造のサイクルを回している心の根源的な立場からしたらそんなのはどうでもいいことだ。
ある創造の次に別の創造が起こった、別の展開へプロセスが進んだ、というだけのことなのだから。

このサクッと軽い感じが、純粋なエネルギーとして世界を作っている心の側から見たビジョンである。

不安定で停滞していて詰まらなくて生きづらいビジョンに意識を向け続ければ、心はなんの文句も言わずにその通りの世界を経験できるように世界を創造し続ける。それは創造された結果としての世界の構成物の中に責任があるのではなく、世界を創造している心の持ち主の側に責任の所在がある。当たり前の話だ。

我々は意識していようがいまいが、今見ているこの世界全体のオーナーなのである。

よって、この世界の在り方を決めるのは自分次第ということになる。

具体的になににどう意識を向けるのか、そこにどんな感情がどの程度働いているのが、この心の動きがそのまま『決定 → 経験』の創造のサイクルの中を流れるエネルギーの連鎖を生む。

漫然と生きていれば、世界はその漫然とした感覚を経験できるように寸分の狂いもなく完璧に心によって創造される。

「なにかを成し遂げるにはそれなりの努力が必要だ」と思えば、そう思った本人の尺度で「それなり」の努力を経験できる舞台が用意される。

「私なんて取るに足りない人間だ」と思えば、その人の理解に沿った「取るに足りなさ」を経験できるように世界が創造される。

そう、ネガティブな考えで決定した通りの経験が起こるように心はきっちり創造の仕事を休まず成し遂げているのである。心は純粋で偉大だ。

もし、「私には幸福になる資格がある! でも今は我慢の時だ」と考えていたらどうなるだろうか?
冷静に日本語の文章を素直に読める人はわかると思う。
この言明を心に抱く人は、幸福になる資格があるというアイデンティティ感覚と、それを我慢している自分という感覚を併せ持った経験をするだろう。つまるところ、今すぐには幸福にならない。我慢の時だという感覚に意識の重心を偏らせ続ければ、幸福になるまでの我慢大会が継続されることになる。心の創造力は完璧だからだ。

全ての人、そして、全ての瞬間において、なにに、どんな考えにリアリティの中心を置くかはその人の自由なのだ。
だからして、その人がその瞬間に抱いている最も腹落ちしているリアリティによって『決定 → 経験』のプロセスが走っている。

ただ厄介なのは、どういったリアリティに腹落ちしているかを意識的に知っていても、全く知らず無意識的に刷り込まれているとしても、『決定 → 経験』の創造のプロセスは止まらないということ。
というわけで、ネガティブな感情を放置しがちで決定の中に自分や他人を傷つけることが無意識に含まれてしまう傾向がある人にとって、この偉大であると同時に単純馬鹿な創造のプロセスは危険極まりないのである。

逆に、こどものようにその日そのときを楽しんで過ごしている人にとって、幸せであること、幸福感・満足感を感じることはいとも簡単である。すべてがシンプルだからだ。余計なことがなにもない。なにをどう思うかは自分で決めれば良い。それだけだ。だから、このような人にとっては、ある意味「幸せだ」ということは結果に過ぎない。おまけみたいなものなのだ。

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ここまで読み進めてくれた読者には感謝しかない。
ありがとう。
そろそろ締めに入っていくことにする。

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もしこの長い文章を読む価値があるとすれば、こういうことかもしれない。

とても辛い思いをしている人がいるとして、その人はいくらでも別の選択、別の創造を自分の意志でできるということだ。誰の許可も要らない。今この瞬間から選択を変えることが可能なのだ。

今抱えている問題だらけのリアリティを急激に別の方向へ展開しても、心の創造力/想像力は無限なので、信念と習慣もいっしょになってチェンジすることができれば、その人は確実に不幸な状態を乗り越えることができる。
これは「自分じゃどうしようもない」と絶望している人には朗報である。あなた自身にこそ、そして、あなた自身にしか、その絶望を乗り越えるための希望を見出す力もその無限のポテンシャルを活用する資格もない。これが事実だ。
自分のリアリティを自分で決定する自由はすべての人に平等に与えられている。

次に価値があるとすればこれだ。

今は幸せなのだが、それはたまたま、偶然の産物で、いつこの幸福感を失うか不安でたまらないという人。この人は、その幸せに固執するのではなく、果敢にバージョンアップし、「ちょっと別の形」にどんどん展開していくことで無限に持続することが可能なのだ。

すべての物事は流転している。ある側面を見れば、生まれる→死ぬ→復活する…を繰り返すように見える。まばたきをするよりもずっと速いスピードで創造のプロセスは進んでいる。ある物事を好きだと感じたり、それがあると幸せだと感じたならば、絶えずバージョンアップし、展開させることだ。

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今日書いたことは別に僕のオリジナルじゃない。
普遍的なことだと感じる。
自分が理解したことを書いているので嘘はないが、語彙は読書した内容に多くを負っている。

最後に自分にとってもいい機会なので、この理解、認識に至るまでに読んだ本をざっと挙げておこうと思う。
読書好きな読者の参考になりますように。

心の創造力の強力さをありとあらゆる事例を交えて理解させてくれる本当にすごい説得力を持った古典である。全然古さを感じない。今日のこの投稿自体、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を読んでいたらふと思い立って書き始めたものだ。

僕が『決定 → 経験』と理解した創造のサイクルについて、これほどわかりやすく、フランクに解説してくれている本を他に知らない。

『神との対話』とはまたちょっと違うニュアンスで創造のプロセスや我々自身に内在する「仕組み」を解説してくれているのが『セス・マテリアル』だと思う。
『セス・マテリアル』を読んでいるとグルジェフの「3と7の法則」を思い起こすのは僕だけだろうか?

<自分が体験している世界を創造する仕組みは常に動いていて、かつ、それは選り好みをしないので、主観で好ましいものに意識を向ければ好ましいものが「引き寄せられた」世界が創造される。これは、好ましくないものに意識を向けても同様であり、なににどれだけ意識を向けるかは、この私の、この世界の、この世界の中で経験することのオーナーである「私」に委ねられている>
これが『引き寄せの法則』に対する僕の大雑把な理解である。
これは、今日投稿した内容のコンセプトの要約でもある。

多分であるが、参考文献に挙げた書籍の中で一番「読む人を選ぶ」のがこのグルジェフの『ベルゼバブが孫に語った物語』だと感じる。はっきり言って読みやすい本ではない。長いし、用語は意味不明だし、読んでいてほとんどの人が(最初は)「気分が悪い」と感じる話題の目白押しになるようにあえて構成されている本である。言ってしまえば、読書体験としては「サイアク」な本なのである。
しかし、この本を挙げないわけにはいかない。
なぜなら、自分が体験する世界全体に対して他ならぬ自分自身がオーナーであるという意識、そして、その世界の創造に意識的に、能動的に取り組んでいくことの本当の意味を「これでもか!」という破壊力で表現してくれている本として、これ以上適切な選択肢を他に知らないから。

SN

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