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悪童たちの先生

 そろばんは子供の代表的な習い事のひとつだった。小学生の頃の一時期にそろばんを習っていた。若い女の先生が教える珠算塾に、週に何度か通っていた。

 塾はいつも大勢の子供でにぎやかだった。先生は正面の壁に掛けた大きなそろばんの珠を弾いて教える。生徒は板敷の床に並べられた木製の長机に、最初だけは座布団に正座して教わる。
 教室内が静かなのは、先生が問題を読み上げる時だけだった。男の子は口の悪い生意気な悪童ばかりだった。悪ガキぶりを競い合っていた感がある。女の子もいたはずだが記憶はない。それだけ男の子がやかましく、幅を利かせていたのだろう。
 悪童たちは先生を学校の先生のような畏怖の対象とは見なさず、身近にいるそこらのネエちゃんくらいにしか思っていなかった。そんな生徒らになめられてはいけないという思いからだろう。先生の教え方もガラッパチだった。
 たとえばこんなやり取りを覚えている。
「願いましては~」
(パチパチパチ‥‥)
「~円では? はい、できた人」
「こんなの屁のカッパだよ!」
「よし、屁のカッパ。言ってみ!」

 先生には高校生の妹がいた。しばしば教室にも顔を出し、先生に救いを求めるように何か訊いていた。帰宅した制服姿のままのこともあった。
 困り果てたような妹に対し、先生はよく小言を言っていた。勝気な姉と頼りなげな妹という、姉妹の性格と関係性のようなものが、小学生の目にもよくわかった。
 塾の建物に隣接して、先生の家族が暮らす母屋があった。ある時母屋にいた妹を、先生の真似をして「ひとみぃ~」とからかうと、唇を噛み悔しそうな表情で睨まれた。そのさまが先生にそっくりだった。
 姉妹で話している時にも「ひとみぃ~」とやったことがある。同じ表情が二人から返ってくるのをおもしろがった。
 先生の怒った表情はよく覚えている。蛍光灯の照明におでこをてからせ、細い目を吊り上げ、唇を噛んで、時には拳を振り上げてみせた。
「ひとみぃ~」以外にもいろいろ言ったようだが思い出せない。先生には事あるごとに憎まれ口をたたき、それを何とも思っていなかったのだろう。

*  *  *

 塾の建物は、川の堤防外側の斜面という、少し変わった立地にあった。堤防といっても何もない草地ではなく、中腹の平坦な土地には家が建ち並んでいた。斜面全体に樹木が生い茂り、ところどころに小さな畑があった。
 教室も母屋も樹木の陰にあった。母屋の庭にはひときわ大きな木があり、母屋の屋根を覆うように枝葉を広げていた。
 堤の下の道から母屋まで、石畳の長い登り坂が伸びていて、その途中から教室への石段が分かれていた。下の道も木陰の中にあった。

 教室のすぐ裏手は、堤の上を通う道になっていた。道の両側には桜が植えられていて、春になると千本ものソメイヨシノが花を咲かせた。明治天皇が行幸したという桜の名所として知られているが、花見客がそこまで足を伸ばしてくることはなかった。
 夏の夕べの教室は蝉の声に包まれた。風を入れるため壁の一部を外にはね上げていたので、よくアブラゼミが飛び込んできては壁にとまり、やかましい声で鳴き出した。床の蚊取り線香に注意しながら忍び足で近づき、蝉を素手で捕まえて逃がしてやるのが私の役目だった。
 晩秋から冬にかけての夕暮れ時は、堤の上を吹きわたる寒風に縮こまりながら、前のクラスが終わるのを待った。葉をすべて落とした桜の枝が、茜色の空をこまかくかくしているのが、寒さをよけいに募らせた。遠くには富士山の大きなシルエットを眺めることができた。

*  *  *

 ある日の夕方、教室に続く石段を上がっている時だった。後頭部に衝撃と激痛が走った。授業を待つ間、下の道の広場で野球をしていた悪童たちの、バット代わりに打ってちぎれた塩ビが飛んできたのだ。経験したことのない痛みだった。後頭部に手を当ててみると、生温かい血が手のひら一面に付いた。最初は笑った悪童たちは、それを見ると悲鳴をあげ、散りぢりに逃げた。
 後頭部を押さえながら、教室には向かわず母屋に行くと、テレビを観ていた先生の母親が、畳からほとんど飛び上がった。先生たちがその場で応急手当をしてくれた。母親の「ああここだわ。(血が)出てくる」という言葉を覚えている。そして、先生が近くの病院へ連れて行ってくれた。

 怪我は大したことではなかったようだが、包帯で頭をぐるぐる巻きにされた。そして先生がそのまま、手を引いて家まで送ってくれた。
 病院を出た時には痛みはなくなっていた。治療の効果もあるのだろう。怪我をしたショックもなく、悪童たちへの憤りもなかった。
 だが、歩いている間、ずっと黙りこくっていたように思う。先生はいっそう心配し、時々気遣う言葉をかけてくれた。
「ゆっくり歩こうね」
 そう言う先生も、家に着くまで言葉少なだった。表情はわからなかった。のんびりとした足取りのせいで、あてどない散歩でもしているような錯覚にとらわれた。だがそれは散歩とは程遠いものだった。家に辿り着くまでの時間はとてつもなく長かった。

 塾から母に連絡が行っていたようで、包帯姿を見てもそれほど驚かず、むしろ「まあ、大げさな」と笑っていた。治療に当たった病院の医師を、母はよく知っていた。
 先生がいつもとまったく違う消え入るような口調で、母に頭を下げ詫びるようすを覚えている。

*  *  *

 やがて珠算塾をやめ、そろばんに触れる機会はなくなっていった。計算は電卓でする時代になりつつあった。
 そうやって何年かしてから、母から先生の勤め先での評判を聞いた。先生の新しい仕事は、材木会社の経理事務だった。電卓を使わない先生のそろばんの計算は、入社以来ひとつのミスもないものだったという。
 先生も一人の会社員として神妙な面持ちで仕事をしているのかと、少しばかりおかしくなった。そして記憶の彼方から蘇ってきたのは、悪童たちの挑発に気安く乗ってくれた蛮カラな先生ではなく、怪我をして手を引かれながらそぞろ歩いた時の、ゆくりなくも遠い先生だった。

 その後、堤の上のでこぼこ道は舗装され、道幅も広くなった。斜面を覆っていた樹木や畑の多くがなくなり、家で埋め尽くされるようになった。車で通りかかると、ちょうど道路の高さに家の屋根が広がっていた。このあたりだったかと見当をつけてみても、それらしい建物は判別できなかった。
 新しい家は斜面だけでなく、堤の上の道路沿いにもできていた。いつも車をゆっくり走らせ、看板や案内板を探すのだが、「珠算」も「そろばん」も「算盤」も見出すことはなかった。
 昔のように蝉がかまびすしく鳴くことも、寒風が吹きすさぶこともないのだろう。だが、桜は毎年同じように花を咲かせている。


記 事 一 覧

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