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受難のボストンバッグ

 イスラエルの国際空港ベングリオン空港は、地中海に面した商業都市テルアビブにある。空港名は初代首相ダヴィッド・ベン=グリオンにちなんだもの。
 ベングリオン空港での入国審査は、イスラエルが国際社会で置かれた難しい立場を反映して、かなり厳しいものだと聞いていた。
 すでに経由地のパリの空港からして、ライフルを縦に構えた何人もの警備員が、トランジットエリアの壁際や柱の前で立哨していた。全員身じろぎもせず目を光らせていて、うっかり怪しげな動きでもすれば撃たれそうだった。
 だが、ベングリオン空港の入国審査は、ほかの国のそれと大して変わらなかった。厳しいというより、イスラエルの危機管理に対する姿勢を考えれば、むしろ呆気ないくらい簡単なものだった。ホントに入国していいのかなと。
 しかし、出国はまったく違った。

*  *  *

 出国は四か月後だった。
 空港に到着してから、シャトルバスに乗り換えて出発ターミナルに向かうのだが、バスの出発を待っていると、前方の乗車口から一人の兵士が乗り込んできた。
 空港警備の兵士と思われるが、町なかで見かける小銃だけの兵士に比べると、出立ちが大きく異なっていた。
 オリーブグリーンの戦闘服の上に、銃弾などから身を守る防護ベストを着て、弾倉などが入るポーチをいくつも付けていた。自動小銃は狭いバスの中ではやたら大きく見えた。ヘルメットではなくベレー帽だったが、戦地に見るような重装備だった。これで通常の検問なのだろうか。
 その若い兵士が、ほぼ座席が埋まったバスの通路を、自動小銃の銃身を下に向けて構えながら、ことさらゆっくりと歩いてきた。
 その日焼けした端正な顔には、意味ありげな笑いが浮かんでいた。
 皆さん待たされて気の毒ですねと憫れむようにも、おかしなことを企んでも無駄ですよと嘲るようにも、男ぶりを自信たっぷりにひけらかすようにも見えたが、真意ははかりかねた。何ともいやな笑いだった。バスの中は、その不気味な笑いに対する戸惑いで静まり返った。
 そんなニヤけた顔に大きな銃では咄嗟の行動がとれないぞと思ったが、兵士は座席の横をゆっくり通り過ぎると、通路の一番奥で回れ右をして、またゆっくり歩いて降りて行った。
 イスラエル滞在中、あんな兵士に遭遇したのはこの時だけだった。一般の人たちにもいなかった。あまりに奇異な印象を受けたので、ほんの数分のことだったが鮮明に覚えている。 

 そして、出国のセキュリティーチェック。
 ジーンズにポロシャツという服装は普通だろうが、入国時のような小ぎれいな姿ではなく、真っ黒に日焼けしてサンダルをつっかけていた。荷物はショルダーバッグとボストンバッグが一つずつ。二十代の日本人単独旅行者。
 これがどう見られたのかわからないが、何となく嫌な予感はしていた。
 若い女性検査官だった。「イングリッシュ、OK?」と始まり、以下のことを立て続けに質問された。
・滞在期間はどれくらいか
・目的は何か
・どこに行ったか
・どこに滞在したか
・キブツでは何をしたか
・キブツの友人の名前を挙げて
 キブツとは生活共同体のことで、そこで働きながら生活していた。
 質問はほかにもあったと思うが、考えるひまを与えないような矢継ぎ早の聞き方だった。
 そして、何か武器ウエポンを持っているかと訊ねられた。
 良からぬ企みをもって武器を持ち込もうとする輩が「持ってるよ」と答えるわけがなく、あまり意味のない質問だと思うのだが、これは善良な一般旅行者に向けられたお決まりの質問だろう。「武器に似たもの」「武器になり得るもの」を持っているかという意味だ。

 次いで荷物検査。
 ボストンバッグの中身をすべて出すよう求められた。
 検査官は金属探知機と思われるものを片手に、取り出される荷物を一つ一つ検め始めた。小分けにしてパックしたものは出さなくてよいと言われたが、中を見てもかまわないかと断られたうえで、やはり残らず調べられた。
 不審感を抱かれることはなかったようで、個々の荷物について質問されることも特になかった。
 しかし、バッグ本体を手に取った検査官が、あることに気がついた。

*  *  *

 キブツは同じところに三か月間滞在した。
 その滞在中、日本から空手着を送ってもらっていた。キブツの子供に空手を教えるためだったが、キブツを出たあとの旅行中は、短パン代わりに時々空手着を穿いていた。
 空手着は柔道着のような厚みがないので、イスラエルの暑い気候でも快適だった。また、教会をはじめとした多くの宗教施設では、肌を露出した服装では入場を断られるので、そんな時にも白い清潔そうな空手着は重宝した。

 だが、そういう機会が減ると空手着は荷物になり、バッグに無理やり詰め込むようになった。バッグの表面がデコボコにふくらみ、はちきれそうだった。土産は最後に買えばいいと思っていたが、荷物は一向に減らなかった。
 そこで、バッグの持ち手の部分に両腕を通し、リュックのように背負った。ショルダーバッグにはカメラと大量のフィルム、貴重品が入っていたが、こちらはきちんと肩に掛けた。
 当然のことながら、ボストンバッグはバックパックではないので、短い持ち手が肩を締めつけた。ショルダーもかなりの重量だった。

 一か月もの間、こんな格好で真夏のイスラエル国内を、北のメツーラから南のエイラートまで回った。交通手段がない時はひたすら歩いた。バッグの重みで体は前かがみになり、持ち手が両肩に食い込んだ。痛みと暑さで意識が朦朧となった。
 肩と首の痛みは日増しにひどくなったが、今こうしてこの異国の地を黙々と歩く自分を、知る人も知ろうとする人もいないのだと思うと、言い知れぬ解放感が生まれた。世界から隔絶したような一人旅は、もうこれが最後だろうと思った。
 エルサレムにはヴィア・ドロローサという、受難のキリストが十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで歩いた道がある。
 ボストンバッグを背負いながら、ぼんやりとした頭で自分をそのキリストになぞらえた。そして、肩と首の痛みも、苦行のような道行きも、自分が選んだ生き方がもたらしたのだと考えると、そう悪いものではなかった。

 空手着は旅行中に知り合ったパレスチナ人に安く譲った。さらに、旅行に不要と思われるものは日本に郵送した。それでも重かったのは、やはりボストンバッグだったからだろう。
 そのうち、バッグの持ち手がちぎれそうになったので、エルサレムの旧市街で同じくらいのバッグを買った。そこに荷物の入ったバッグを押し込んだ。大きさはぴったりだった。
 日本から持ってきたそのバッグは捨てられなかった。荷物の多い外出や旅行に、ずっと使い続けてきたバッグだった。

*  *  *

 検査官は、その二重になったバッグに気がついたのだ。
 検査官の表情が変わった。
「出して」
 有無を言わせぬ口調だった。内側のバッグを取り出すのを、検査官は緊張した面持ちで見ていた。そして二つのバッグが並べられると、やにわにそれらを手に取り、ひっくり返して隈なく調べ始めた。
 もう少し丁寧に扱ってくれよと思ったが、一つは壊れかけていたし、そもそも誤解されるようなことをしたのが間違いだった。
 なぜ重ねていたのかを訊かれたように思うが、込み入った経緯を説明する語学力はなかった。エルサレムで買ったとしか言えなかったかもしれない。しかし検査官はバッグに集中していて、話はろくに聞いていないように見えた。
 私たちの周囲を、順番を待つ旅行者が遠巻きにしていた。そして、やさぐれたようなサンダル履きの日本人の男を、怯えたようにも訝しむようにも見える眼差しで見ていた。欧米人のように肩をすくめ、両手を広げてみせると、年配の女性がかろうじて苦笑いで応えてくれた。

 バッグの中からは何も出てこなかった。あたりまえだ。
 問題のないことがはっきりすると、検査官もほっとしたようにため息をついた。
「仕方がないんです」
 検査官はそう言うと、荷物をバッグに戻すのを手伝おうとした。
「わかっています」と答えたが、態度には出たかもしれない。
 検査官はさらに何か言いたそうだった。
 機内持込みのショルダーバッグは、中をざっと見られただけだった。
 その後の出国審査はすんなり通り、予約した便に搭乗することができた。

*  *  *

 だが、それで終わりではなかった。
 成田の税関で、係官がボストンバッグを前にカマをかけてきた。
「大麻はどれくらいあるのかなー?」
 間延びしたような言い方で、冗談めかして訊かれた。まともに受け止めればずいぶん不躾な質問だが、もういい加減ウンザリしていた。
「勘弁してくださいよ。向こうでさんざん絞られたんだから」
 意外にもそれで納得したのか、検査はバッグの口がほんの少し広げられ、ちらと見られただけで終わった。

 良くも悪くも、さまざまな思い出が染み込んだボストンバッグだったが、帰国後ほどなく、二つとも相次いで処分した。傷みや汚れがひどかったからで、むろんそれ以上の理由はない。


記 事 索 引

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