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三島由紀夫の恋愛

 三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』から、若き日の三島の男色の性向を知ることができる。また、鬱積したエネルギーで膨満したような、『禁色』という分厚い男色小説もある。三島をめぐる評伝や回想などでも、同じような性的嗜好が指摘されている。だから三島という人は、生身の女性には興味がなかったのだろうと思っていた。

 しかし、『ヒタメン』を読んでその認識が一変した。
 これは副題に「三島由紀夫若き日の恋」とあるように、三島と恋愛関係にあった女性の証言をもとに書かれた、ノンフィクションとされる作品だ。著者は岩下尚史。
「ヒタメン」とは能の「直面」で、面を着けず素顔のまま舞うことをいう。『ヒタメン』も、三島の恋愛の側面からその素顔に迫ろうとしたもので、タイトルは『仮面の告白』に因んだものだろう。
 著者の岩下尚史は、一時期コメンテーターとしてテレビにもよく出ていた。いわゆるオネエ系に連なるキャラクターで、証言者の女性へのインタビューでも、慇懃な上品さを装いながらズケズケと際どいことを聞き出している。
 岩下は十代の頃から能や歌舞伎、日本舞踊などの芸事に親しんだという。花柳界にも詳しく、それらが縁となって、かつて料亭の娘だった豊田貞子を知る。そしてその貞子こそ、三島がひたむきに愛した女性だった。

*  *  *

 十九歳の貞子が二十九歳の三島と出会ったのは、歌舞伎座の楽屋だった。それからほどなく、おそらくは三島が偶然を装って再会した時に、貞子は待ち合わせ場所を書いた名刺を手渡される。そしてそれから約三年もの間、二人は毎日のように会ったという。
 貞子によると、会うのは名の通った料亭やレストラン、ナイトクラブなどで、毎回のように違う店だった。「自分ですることといったら歯を磨くか息をすることぐらい」というお嬢様の貞子にとって、それらは特別な店ではなかったろう。
 だが当時の三島からすれば、名前が売れ始めていたとはいえ不相応な高級店で、三島は友人から毎週のように多額の借金をしていた。それを貞子が知ったのは三島の死後だったという。
 また、人目を忍ぶ逢瀬の場所も、どういうふうに探してくるのかと貞子が訝しむほど、毎夜違うところだったそうだ。今ではインターネットや情報誌で簡単に調べることができるが、三島は自分でそういう界隈を歩き回って探したのだろうか。

 それまでの三島の女性との関わりは、学生時代にいくつかの淡い恋を経験しているものの、大人の恋愛経験は皆無に近いものだったようだ。貞子が初めての女性だったのかもしれない。
 友人に深夜わざわざ電話して、興奮した口ぶりで報告しているのは、この貞子とのことだったのだろうか。
 いずれにしても、こんな経緯からも、貞子に注ぐ三島の情熱はわかるような気がするが、三島が貞子を熱愛したほどには、貞子は三島を愛したわけではなかったようだ。子供のように無邪気な三島と比べると、十歳年下ながら貞子にはどこか醒めたところがあり、つまり大人で、よほどしっかりしていた。

 同時期の三島の友人に、実業家の娘の湯浅あつ子がいる。あつ子はのち、タレントのロイ・ジェームス夫人となる女性で、『鏡子の家』の主人公のモデルとも言われる。前述の三島のデート代を工面した人物だが、ある時三島から、貞子の月のものが一度もないことを打ち明けられる。
 あつ子は貞子が女としてひそかに対処していることを知り、同時に三島の無知に呆れる。
『ヒタメン』の表紙の写真を見ると、三島に寄り添う貞子の顔は、副作用のせいか心なしふっくらとしているように見える。

 それでも三年もの間三島に会い続けた理由のひとつは、貞子自身が言うように、三島の純粋さに惹かれたからだ。
 三島と関わった多くの人が口をそろえて言うことが、三島の生真面目さとこの純粋さだ。貞子のほかにも、美輪明宏や瀬戸内寂聴ら、三島に親しく接した人はもちろん、体験入隊した自衛隊の隊員や剣道仲間からも、同じような声が聞かれる。「三島さんは純粋な人だ」と。
 それらの人たちは「純粋」の具体的な中身までは言及していないが、『金閣寺』などの文学作品を生み出す芸術至上主義や、『葉隠入門』で声高に語られた自己の律し方のことを言っているのではないだろう。
 それはむしろ、女子高生の言動に深く落ち込んだり、分不相応なスポーツに手を出して醜態を演じたり、それらの体たらくを臆面もなく打ち明けたりするような、ごく卑近な素顔のことだろう。
 三島の小説には『金閣寺』の柏木や『天人五衰』の透など、悪意に満ちた人格がしばしば登場する。ほかの登場人物についても、人間のいやな部分をことさら誇張して描いている。
 人物には三島自身の一面が投影されているのかもしれないが、辛辣な物言いをしたり傲慢な態度を取ったりする人が、実は気弱で愛すべき人物だったということは、われわれが日常生活でしばしば経験することだ。

 ともあれ、いつ寝ているのかと貞子が不思議に思うくらい、この時期の三島は元気だったようだ。創作活動においても、「おもしろいほど、書けて書けて、仕方がないんだ」というほど充実した時期だった。『金閣寺』もこの時に書かれている。
 作家がすぐれた作品を生みだす背景には、ふた通りの対照的な精神状態があるようだ。
 ひとつは実生活が不遇で満たされず、その渇きや不全感を埋め、苦しみから逃れるために書くような場合。
 もうひとつは実生活が十二分に満たされ、その充実感や情熱がそのまま執筆活動につながる場合だ。
 三島の三年間は後者だろう。後年の三島が書けないとこぼすようになったことを考えると、この三年間は作家としても人としても至福の時間だったに違いない。

 三島と別れた理由について、貞子ははっきり語っていない。いつものように会う約束をしていたが行かなかった、と述べるにとどめている。
 別れてから三年後、貞子は自身の結婚式の数日前に、偶然三島と再会する。三島は貞子と別れてほどなく見合結婚していたが、さまざまな家庭の問題を抱えていて、顔つきがすっかり変わっていたという。
 茫然とする貞子に三島は、「僕と一緒に行こうよ」とだけ言う。貞子は婚約者が一緒だったので、三島の結婚のお祝いを言っただけでその場をあとにする。それが三島の顔を見た最後だったという。
 人が一生において、心から愛する人と巡りあうことはそう何度もないだろう。そんな経験すらないまま生涯を終える人もいる。
 だが、たった一人の人でも強く愛したという記憶は、切なさや痛みを超えて、その人の人生を深い悦びで彩るはずだ。
 三島にとって、貞子はそんな女性だったのではないだろうか。

*  *  *

 文は人なりと言われるが、作家の生身の人となりは、作品からではなかなか知ることができないものだ。関わった人の証言や回想で、思いもよらなかった人間像に触れることができる。恋愛はその人のありのままの姿を映し出す。
 私にとって三島由紀夫という作家は、普通の人とは懸け離れた考え方や感じ方をする、人間らしからぬ存在だった。今でもそれは変わらない。だが現実の三島は、あまりにも人間らしい人間だったようだ。

 三島は四十五歳でみずから命を絶った。さまざまな理由が取り沙汰され、論じられているが、老いを忌避したことがそのひとつだろう。そして多くの人が、老人の三島は想像できないという。見たくはないという。私も以前はそうだった。
 だが、四十五歳を過ぎ、三島が生きなかった時間を生きつつある今、年老いて枯れた三島を見たかったと思う。


記 事 一 覧

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