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"お試し"とは何か

[はじめに] [目次]

試着、試食、試住、試算、試聴、お試し体験、試算、「試〇」と呼ばれるもの、「お試し」と呼ばれるものは、暮らしやビジネス、そして人生の物語の中でと、色々なところで根付いている。"お試し"という言葉は気軽に使われている。

しかし、そんな「お試し」とは一体、何者なのだろうか。

「試し」と"お試し"

"お試し"は文字通り、「試す」が言葉の原点だ。そして以前に、"試みる"と“試す”は違うと言ったけれども、「試す」や「試し」と"お試し"もまた別ものだ。

まずは「試し」を調べるとこう書いてある。

ためすこと。こころみ。多く「ためしに」の形で副詞的にも用いる。

ためすことなので、「試す」も調べてみる。

物事の良否・真偽や能力の程度などを実際に調べ確かめる。こころみる。

「試す」は確かめることが主だ。そして、その確かめるには、アクションが伴う。座って見ている程度の確認ではない。※ここでは"試みる"という言葉が出ていて、話がスパイラルに陥りそうだけれど、前に言ったとおりである(★参考)。

"お試し"も辞書を引いてみる。ところが、"お試し"という言葉を掲載している辞典はあまりなかった。かろうじてあったものを見てみると、こう書いてある。

「試し」の美化語。特に、食料品・酒類・化粧品などを試食・試飲・試用すること。家具・住宅などの試用もある。無料・有料を問わずいう。「お試し品」
出典:デジタル大辞泉(小学館)

わかったような、わからないような、だと思う。結局は国語辞書でも「など」の扱いだ。色々な"お試し"の例示列挙だただそれもまた事実だ。

それに、この辞書ではマーケティングの世界に限定しているようだけれど、現実の使われ方としてはそれに止まっていない。"お試し"の用途は広い。仕事や恋愛でも「お試しで」なんて言うケースもある。インターンシップや同棲がそれだ。

でも、これを"お試し"に含める人と、そうではないという人がいるだろう。このことに限った話ではない。マーケティングの範囲でさえ、"お試し"や“試〇”と謳っていても、実体は"お試し"目的になっていないものもある。商品の販売や購入であれば、ただのセールスや勧誘の口実にしか過ぎないこともままある。どこまでが"お試し"なのかの範囲は実は不明確だ。

今のところ、"お試し"とは漠とした具体例の集合体であって、色々な”お試し”と呼んでよさそうなもの、例示されたもののリストをとりあえず、我々は試しに"お試し"と呼んでいる。そして、そのリストの境界や限界はあやふやだ。

それによくよく見ると、"お試し"という言葉は「試し」に「お」が付いただけだ。一見、"お試し"は「試し」や「試す」の丁寧語のようでもある。なのに、「お」が付くだけで意味が異なってくる。

「試し」や「試す」とは別に”お試し”の言葉が生まれた発祥や経緯はよくわからないけれども、想像してみるに、売り手であるお店が、買いに来たお客さんに売り込むのに、丁寧に「お試しください」と試食や試着、試供品なんかが生まれ(当初はその様な各用語もなく)、それぞれの分野で長い年月をかけてそれぞれの"お試し"のスタイルが暗黙の了解で確立されて、そのうち「お試しで」とか「お試しに」とか短く省略されて、それが商いに限らず世間一般的に「お試し」という共通認識が生まれた。——そんなことではないかと勝手に推測している。

そして、その延長線上で、本来は"お試し"ではなかったものも、機能や目的に照らして"お試し"の括りでの解釈が試みられるようになった。同棲だって、本来は愛情のその先にあるものであって、別に"お試し"目的で成立したものではない(はずだ)けれど、今では結婚生活と結婚相手の"お試し"の手段として活用されることも間々ある。

そういうわけで、"お試し"に定義はあるようでない。しかし、それでは"お試し"とは何かについて態々長々と書く意味がない。なので、試しに定義してみようと思う。ただ、書き始めるといくらでも「"お試し"とは何ぞや」が続いてしまうので、シンプルにポイントを絞ろうと思う。

そのポイントは4つで、

・「知る」と「確かめる」
・体感などを通じた情報のオリジナリティ
・同質性・再現性
・仕組み化された機会

だ。

①「知る」と「確かめる」

だいたいの国語辞典には、「試す」や「試し」とは「確かめる」ことだと書いてある。

しかし、"お試し"の「確かめる」は、ただ単に確かめるのではなく、ある目的がある。それは、「決める」に向けた「確かめる」なのだ。例えば、買い物でいえば買うか買わないかだ。同棲や交際であれば結婚する/しない、インターンシップであれば就職の選考過程に進む/進まない/進める/進めない。その判断や決定に役立つことだ。決してそうでなくても、それに近いところに立ったうえでの「確かめる」だ。

そして辞書には書いていないけれど、"お試し"は「確かめる」だけではなく、「知る」ことであることもある。“こともある”なのは、「知る」がない時もあるからだ。"お試し"しようとしている人が既に知っている場合は、知る必要がないからだ。"お試し"する人それぞれであるけれど、それでも「知る」は"お試し"では欠かせない要素だ。

「知る」をマッチングという言葉に置きかえてもいいかもしれない。"お試し"は出会いの場である。他方、「確かめる」はフィッティングとも置き換えられる。「確かめる」を超えて、「調整」することもあるからだ。この話は追々やりたいと思う。

さて、話を戻すと、ここでの「知る」とは、基本的には「なんとなく知る」だ。存在自体を知る段階のこともある。逆に詳しく知ってしまうこともある。でも、なんとなく知ることができればとりあえず良い。そして、この段階ではたとえば、購入する可能性は潜在的には秘めているけれども、お会計など「決める」段階に進むことは前提としていない。この時点での「知る」には気軽さがある。

”お試し”には、試す側と試される側が存在する。たとえば買い物でいえば、買い手と売り手だ。"お試し"における「知る」は、試される側(売り手)によって仕向けられた「知る」だ。試す側から能動的に知るために試すことはあまりない。

"お試し"に「知る」が存在することによって、「確かめる」は相対的に「知る」をもう一段階掘り下げたものとして存在する。「知る」から「確かめる」の工程は「理解を深める」ことでもある。もちろん、「知る」で終わることもある。

そして、"お試し"の中に「知るため」と「確認するため」の二つの役割が存在することは、おのずとそれぞれの"お試し"の性質の違いにあらわれる。同じ"お試し"の機会だとしても、「知る」ためなのか「確かめる」ためなのかで利用者側の動きは異なるし、売り手においても、買い手に対しての打ち手も違う。このあたりは"お試し"の肝でもあるから、後々書いていきたい。

②体感・情報のオリジナリティ

それから辞書にもあるとおり、"お試し"は行動をともなう。受け身ではない。ある程度の主体的あるいは能動的ななんらかの行動が伴っている。その行動を通じて「知る」や「確かめる」をしている。単に見聞きしている以上の何かだ。

”お試し”の「知る」や「確かめる」の多くは、体験による「体感」に支えられている。感じることによる理解だ。知るだけなら、触れなくても、やらなくてもいい。広告や動画でもなんとかわかる。それでも体感の効果は大きい。既成の観念を壊すことも多い。

ただ、気を付けないといけないのは、体感すること自体に価値があるわけではない。もちろん、体験や体感それ自体は大切なことだけれども、"お試し"というプロセスに限っていえば、体感して得られた情報を判断材料という情報に変換できてはじめて価値がうまれる。評価プロセスもそうだ。体感によって得られた情報は文字にされるとは限らない。無意識的に直感の判断に影響を与えていることもある。

体験によって得られた事実や体感は誰かから与えられた情報ではない。自分が生み出したオリジナルの情報だ。たしかに、パンフレットやWebの情報をただ単に眺め見るのも行動とは言えなくないけれど、その情報は自分だけのものではない。誰にでも利用できる情報だ。ところが、自身の行動や体感を通じて得られた情報は、たとえ人に共有することがあっても、細部まで含めると人には伝えきれるものではない。

これから何かを決めようとしている人にとって、汎用性の高い情報も大事といえば大事だが、決めようとしている人のためだけの判断材料となる情報が重要となることが多い。

"お試し"によって得られる情報は、単に見聞きする受け身の情報よりもコストがかかりやすい。もちろん、本など有料のコンテンツを買えばコストがかかる。しかし、体験から得られる情報は手間、暇、精神的な負担なども加わる。ゆえに見聞き以上の有難みが乗っかるのかもしれない。

ところで、オリジナルの情報は、体験や体感を通じるとは限らない。試算やシミュレーションという"お試し"を通じた場合がそうだ。自分の条件を計算式に入力して得られる情報だ。あまり手足を動かすことはない。もちろん、自分の条件を伝えるということはある程度の手間はかかる。試算結果も与えられた情報ではあるかもしれないけれど、自身の情報をインプットすることで、パッケージ化された情報を自分のためにカスタマイズしているとも言えなくないし、視覚や聴覚で受け取るから体験や体感と言えなくもない。でも、ちょっと無理がある気がする。

いずれにせよ、単なる見聞き以上に、何らかの行動を通じて自分だけのカスタマイズされた判断材料を受け取るということが重要だ。

③同質性と再現性

とはいえ、どんな行動でもいいというものではない。Yシャツを”お試し”するのに、ズボンを試着する人はいない。一番よいのは同じものを"お試し"することだ。気になるYシャツがあるのであれば、同じYシャツを試すのが当然だ。

しかし、いつでも同じものを"お試し"できるとは限らない。極端な話で言えば、新築で注文住宅を建てるのに試したいからって、"お試し"で建ててもらって住んでみるというのは現実的ではない。習い事などの体験教室も1から10まですべてを体験できるわけではない。

だから、それに近いもので"お試し"する。お金や手間暇、時間の制約もあるから、それは個々の提供者の努力や裁量次第になる。同じに近づけるようにする(同質性)。そこが、新しい技術や工夫の余地が生まれるところでもある。

旅行などのサービスでのVR活用や、保険の詳細な試算なんかもそうだ。Yシャツだって、欲しいサイズや色の商品の在庫が切れていることもある。そういう時は、違うサイズや色で"お試し"することもある。これも、工夫のひとつだ。

そして、1回こっきりでは困る。"お試し"したものの、もう二度と出来ない、あるいはもう一回やるのは意味がない、というのでは"お試し"ではない。たとえば、明日閉店してしまうお店のサービスを体験してもしようがない。お金がかかりすぎるなど、物理的だけでなく現実的事情でできないのもそうだ。どこかに旅行するのに予定の旅先に実際に見に行くのも(修学旅行の先生の視察は別として)、何か変だ。こういうのは非日常的な体験にあてはまる。

試したものを改めて利用や実行できるものであること(再現性)が、"お試し"する前提と言える。

④仕組み化された機会

そして、"お試し"が「試し」と違うのは、それが単なる「試す」という動作の延長戦上ではないということだ。"お試し"は機会だ。チャンスと捉えられることもある。

機会がないと"お試し"できないものも多い。機会がないとどうするかというと、たとえば無料で試食できなければ、正規の商品を購入して試す。試し買いだ。安い生活用品や食品はそれで済むことも多い。

その機会の多くは仕組み化されている。正規商品を購入(試し買い)するのとは違う、”お試し”ならではの設計されたルールや手立てだ。

試食なら、例えばスーパーに行くと、マネキンの人がお菓子やハムを小さく切り刻んで爪楊枝を立てている風景がある。買い物客は無料で、時には無言で、ひとつ手に取ってどういう味かを知り、確かめることができる。だいたいは一人1個だ。これもひとつの"お試し"のための仕組みだ。試着なら、購入しなくてもお店にある服を試着室や姿見の前で着用することができる。当たり前のことと思うかもしれない。

しかし本来、"お試し"でもないのにお店のものを勝手に使ったら、それはトラブルになる。提供者が明示したものであれ、暗黙の慣習であれ、"お試し"には一定のルールと合意がある。勝手に着ても怒られない。これも立派な"お試し"の仕組みの一部だ。

"お試し"の仕組みは、商品のタイプや性質、シチュエーションによって機会の提供方法も違ってくるし、提供者側の事情や環境によっても千差万別だ。あくまでもケースバイケースだ。

たとえ同じ商品だとしても、"お試し"の機会を提供する側にも制約条件があるので、好き勝手にやってくれとはなかなか言いにくい。しかし、制約がなくてもそうは言いにくい。というのも、好き勝手にやられると、"お試し"にならない場合がある。売り手の多くは商品を知ってもらいたいし、確かめてもらいたい立場なので、買い手に対して"お試し"の仕方をお膳立てしている。やり方を教えてくれる。わからないと、知ることも確かめることもしようのないものも多々ある。大なり小なり、"お試し"の仕方はプログラムだ。実際に知り、確かめるためのコンテンツであり方法だ。仕組み化された機会の上に乗っかっている。

基本的には"お試し"は誰かの手で提供されている。しかし、そうとは限らない。"お試し"したくても機会がない場合がある。特に買い物以外の場面で多いが、買い物でも、試し買いもできないくらい機会がない場合はどうか。その場合は、自分で工夫して機会をつくることもよくある。セルフ"お試し"だ。

たとえば、買いたい自転車があるとする。高級自転車で、お店では試乗はやっていない。どうするかといえば、たとえばレンタルサービスで同じ車種を探して乗ってみる。あるいは、たまたま持っていた友達に借りる。確認したい項目があれば、事前にネットでもポイントを調べたうえでチェックリストにしておいて、乗りながら確かめる。それから、子どもにゲームを買ってあげたい時がある。けれど、ハマるかどうかはわからない。たとえば将棋くらいなら、手作りで試しに与えてみて、喜んでくれたらちゃんとしたものを買ってあげるということもできなくはない。これも"お試し"の一種だ。知り、確かめるための工夫がある。

試し買いは、この意味においては実は"お試し"ではない方が多い。工夫や仕組みがなく、ただの日常の買い物の延長であり範疇だ。しかし、買った人の意思や使い方によっては"お試し"になる。たとえば、「試しに、この調味料を使ってみよう」と買って帰って、味の違いを検証しようと意識してその日の料理に加えてみる、可能であれば加えたものとそうでないものと2種類用意してみる、意識しながら味を確かめたり比べたりする、あるいは家族に感想や違いを聞いてみて今後の参考にする。その時、試しは"お試し"に進化する。試しにやってみたと、”お試し”をやってみた、との違いだ。ささやかなことだけれど、これもひとつのプログラムだ。明確な線引きはできないけれど、知り、確かめるための工夫が少しでも入っていて、漫然と使いっぱなしになっていない限りは。

***

結局、"お試し"とは定義すると、

ある同質的で再現可能な対象について、単純に見聞きする以上の能動的な行動によって、主に体感にもとづく独自の評価が可能な知るもしくは確かめるための仕組み化された機会とその活用プロセス

と、試しとりあえずそうしとこうと思う。

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