自明性のジレンマ ~狭い世界に生きる事と広い世界に生きる事~

ピアサポーター 金子祐也

 よく「あの人は狭い世界に生きている」や「私は広い世界に生きている」という言葉を聞きます。しかしどちらが正しい、正しくないというものはありません。

 思考を突き進めていくと世界は広がっていきます。時にはまだ見ぬ世界が開けたことで驚きや戸惑いもあります。

 もちろん発見した喜びも生まれます。それによって自分の世界のイメージは大きくなり、世界が広くなっていくのです。

 具体的には人類学の手法である自明性(当たり前)の破壊と異文化理解で行っていきます。

 しかしながら、これにはあるジレンマを抱えます。自分の世界はどこまで広がればいいのか、どこまで深く掘り下げていいのかというジレンマです。

 そのうちにある考えが生まれます。狭い世界のままではよかったのではないか、と。

 私が考えるのは、狭い世界と広い世界どちらもコインの裏と表、あるいはクラインの壷のように両者はつながっているのです。

 人間は考える葦であり、自然界における圧倒的な弱さと唯一思考する存在です。

 例えば未開の人間たちは言葉で存在しなくてもその行為は知っているというのをよく聞きます。

 具体的には壊れた椅子の足を取り外し、テーブルの脚として再利用したり、冷蔵庫の残った材料でありあわせの料理を作ったりするということです。いわゆるレヴィストロース言うの「プリコラージュ(器用仕事)」です。

 狭い世界だと思われている未開こそ、我々よりも見ているものも多いのです。

 そこにはもはや広い世界と狭い世界の境界線はありません。そういう意味では我々の世界とは単一なものなのかもしれません。

 ただ忘れてはいけないのは世界は果てしなく続いています。

 世界の狭さや広さに臆することなく思考していきましょう。

「思考の冒険」を続けていきましょう。

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