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さらさらと心が流れる工夫

私たちの頭の中にはいつもあれこれと考えが浮かんでいます。考えようとしてないのに、あれこれと考えている。
それはまるで、頭の中にいるもう一人の自分とおしゃべりをしているようだとも言えます。その頭の中のおしゃべりをマインドトークと名付け、体験会やセミナーなどで説明すると、

・マインドトークは悪いもの
・マインドトークをしてはダメ
・マインドトークを消さなきゃ
・いくら頑張っても消えない自分はダメだ

などと捉える方がほとんどです。
そして、「無になろう」と思って瞑想や坐禅をして、「無になれなかったから駄目だ、自分は無理だ」と言われる方も多くいます。

いえいえ、マインドトーク自体は悪いものでもなければ、瞑想や坐禅は、‟いわゆる無”になろうとするものではありません。これについて、第26代妙心寺派管長であり花園大学学長を長く務められた山田無文老師がわかりやすくお話しくださっているので、一部抜粋し、今の時代に合った言葉にしてお伝えします。


心の中に、
ああだろうかこうだろうか、
ああでもないこうでもないと、
心の中に対立的な意識が争い出してくるのを
心の病気というのである。

ほんのちょっとした、
他人が見たら問題にならんような
些細なことを思い詰めて、
毎日毎日それを思い詰めていくと
心の病になってしまう。

始めはちょっとした一念だったけれども、
それを毎日思い詰めて、積み重ねていくと、
どうにもならん、二進も三進もいかん、
どんな名医も救うことのできん心の病になってしまう。

ほんのちょっと悲しい、私ほど可哀そうな者はないと、
ある動機でちょっと思ったことが、
それがはじめは小さな振動だったが、
毎日動いていくうちに大きな力のある振動になってきて、
私ほど可哀そうな者はない、もう生きておる値打ちはない、
死んでしまいたい…

そうなってくると、傍からだれが注意しても、
忠告しても、 耳に入らん。

だから、そのはじめの一念を気をつけんといけん。
はじめの一念が大事。

その一念が起こるのが人間だから、
悲しいという意識が起こったり、
嬉しいという意識が起こったり、
自分ほどつまらんという劣等感が起こったり、
俺はうまくやったなという優越感が起こったり、
そういう念が起こるのはやむを得んが、

「起こるこれ病、継がざるこれ薬」

念が起こるのは病気だが、その念をすぐ切り捨てよ、
その念をすぐ捨てよ。

その念の後を継いで、第二第三の念を起こしていくと、
それが心の病になってくるのである。

念のあるのが当たり前である、生きておるのだから、
人間だから、念のあるのが当たり前。

だが、その念の起きたときに、すぐその念を捨てていく工夫が大切。
問題はそれだけである。

ところが間違った仏法を聞くというと、
念を起こしちゃいかんと努力する。
念を起こしちゃいかん、
念を起こしちゃいかんと努力するが、
そんなことは不可能。

人間生きているうち
念が起こらんなんていうことは
石地蔵でなければできんことだ。

そうじゃない、念は起こってもよろしい、
妄想は起こってもよろしいから、
後を継がんように
さらさらと心が流れる工夫をしていかにゃいかん。

念が起こるのは当たり前なんだから、
起こってもそれを苦にせずに、
その念を継がずに、
第二の念を起こさんことが工夫である。

それが人生のコツです。

※昭和38年居士接心にて行われた『信心銘』ご提唱の音声記録を文字起こししました。一部抜粋し、現代に合った表現に修正しているため、実際の表現とは異なる部分があります。ご了承ください。

(妙心寺HP・ポッドキャスト https://www.myoshinji.or.jp/podcast/shinjinmei_kojizessin)

「念」。つまり、マインドトークが生じたら、ただ気付く。
マインドフルネス道実践は、山田無文老師の言われる、“さらさらと心が流れる工夫”の方法です。
ぜひ一緒にマインドフルネス道生活を送りましょう。

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