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「こころ、揺れる」 - あなたを支えるのは、余計なものが何か、判別するための知識

あなたが、どんどん記憶が失われていく中でも、人生の最後の瞬間まで、忘れずにいたい、知識や考え方は何だろう?

いざという時に、あなたが、あなたらしく存在していけるよう、流されずに「こころ」を支えるために必要なのは、何が余計な知識なのかを、いざという時に判別するのに十分なだけの知識を、自分のモノにして使える状態でキープしておくことなのではないか、という話。


大人になっても、経験を積んでも、勉強が必要な理由。

知識やノウハウを吸収して成長を追い求める意義。

知っておくべきトレンドや技術の解説。

読むべき本、観るべき映画や演劇やドラマ、聞くべき音楽。

当然知っておくべき(とされる)常識。。。


世の中には、文字通り、あらゆる処理能力を超えるだけの情報が、その質や正確性を問わず、溢れかえっている。

メディアの情報は、全てが何かしら偏っているにもかかわらず、それを上手く視聴者が気付かないような形で(煽動的に見えないよう)伝えようという意図がある情報が大半で、それが真実なのか、真理なのかどうかは全く別の話だ。

個人が発信する情報は更に玉石混合で、ピンからキリまで様々なLevelのものが含まれており、大半が、ついさっき、どこかから伝え聞いたに過ぎないのに、あたかも一万年前から自分が知ってたかのように、マウンティングをしたいだけの安っぽいものが大半である。一次情報での裏付けなどしている訳がなく、真に意味するところや価値を理解できていないが故に他者にもそれが伝わらず、学生時代にやった伝言ゲームのように、最初のメッセージとは全く異なる話に置き換わっていたりもする。

個人的には、歴史上の成功事例や失敗事例、特に広く人々の支持を受けていたものや考え方が悲劇に変わっていった事例などを分析することに興味が強いが、こういう世の中に生きる一員として、どう振る舞えばいいのか、ということは、常に迷い悩むテーマの一つ。

私の考えとして、現時点での結論を一言でまとめると、「自分が処理しきれる情報だけで必要かつ十分」というものだが、もう一歩噛み砕くと、タイトル及び冒頭にまとめた説明になると思う。

以前、「当たり前が無いことを、当たり前に」というnoteで記載した内容と重なる部分もあるが、全ての人間にとって、この瞬間、そして未来のあらゆる時点において、全ての事象は、未体験の新領域である、ということ。

過去の歴史や知識、自分自身の経験やノウハウが、その予測や対応方法を大きく手助けすることは紛れもない事実だが、その中で、自分自身の「こころ」が、気持ち良い状態でいれるかどうか、というのは、正直誰も分からない。

博士に聞こうが、大きな知恵袋を持った人生の大先輩に聞こうが、結局自分の「こころ」が、それを踏まえて安心できて心地よいかどうかは、別の話だ。

これまで、ひたすら世界中の様々なニュースを追い続けて、市場の情報の海の中で揉まれ、判断を繰り返す毎日を過ごしている中で、不安で不安で仕方なく海に船を出すことを躊躇ったこともあれば、ひどい船酔いをしたり、小さな難破の経験も沢山ある。これまで絶対的だと思った知識や理論や、上司や同僚が、砂浜に丸一日かけて作った砂の城のように、小波に一瞬で流されていく様も五万と見てきた。未だにこの仕事が自分に向いているかは分からないが、だからこそ、人生のレッスンとして学べたことがあるとも言える。

それは、

・自分の処理能力を超えた情報に触れても、生きた知識としては扱えないということ。(自分の無知を知る、という意味で活かすことは出来るかもしれないが)

・一番大切なのは、何が余計な知識なのかを判別して、残った知識を、いかなる状況でも離さずにいれるか、それを自分に言い聞かせて、自分の「こころ」の平穏に繋げられるか、ということ。


一夜漬けの付け焼き刃的な知識など、寝れば吹き飛ぶ。

人生を左右しうる決断をするのに、全く役に立たない。

いざという時に、自分が惑わされないで自分らしくいられるためには、あなたの「こころ」を支えてくれる、コアとなる領域をひたすら磨き信じること、そして、余計なものが何なのかを判別できるのに十分な知識を身につけて、それを忘れずにいること。


自分の低い処理能力を考えると、必要な考え方は、誰でも知っているような、シンプルで普遍的なものばかりだと思う。

でも、不思議と、みんな、新しいものや(実はそれは昔から言われていることなのに、その人が初めて聞いたに過ぎないものが大半だけど笑)、格好良く聞こえるものばかりに目移りしていて、流されていて、その価値を見失っていたりするから、面白いな、皮肉だな、とも思う。


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