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生成AIをめぐる感情論

ちょっと、ふと見かけたコピーが気になって、書き始めた。

そのコピーそのものを書くことは控えるが、意味合いは以下のようなものだった。「オレ、サイテー、AIに長文投稿を書かせてたら、売上が出てしまった」という趣旨で、下げつつ誇る?的な投稿文。

生成AI出てきてから、常にこういう論調はあるし、AIに書かせた文章、売れるんだったらボロ儲けじゃーん的なイケイケも居たりはする。

下げて書くか、上げて書くかの違いはあれど、つまりはAIで不労所得上げられるよ、という釣り感満載の記事なわけです。
そして、そういう実態も存在するし、その行為そのものも否定はしない。
生成AIが生まれた、ということは、そういう時代になったという事であってまあ今後数年もすれば日常的にみかける常態になるわけだろうし。

資本主義というものが生まれてこのかた、資本家は、労働者を働かせて、自分は働かず儲けるみたいなマルクスが批判しそうな文脈のことは1800年代から存在してきた。ただ、人間が人間を働かせるのではなく、AIを働かせたら売上が上がったという、この2024年のAI革命黎明期のモヤッとした時期に生まれた新しい資本行動に伴う興奮も、そのコピーにある。

そもそも6月21日、Claude 3.5 Sonnetが発表された、翌々日に、32,475字、原稿用紙 96枚相当の小説を書かせてみた記事を、わざわざ投稿した自分である。人間は若干の指示をするだけで、自動書記のごとく生成されていく小説を見れば、確かに、その様を初めて目撃する自分も興奮した。

AIとは道具だ。
徹頭徹尾、最初から最後まで道具だ。

という発言を書いてしまう自分を客観化すると、アフリカ人は奴隷だ、徹頭徹尾、最初から最後まで奴隷だ。と言っていた侵略西欧人のようで嫌な書き方ではあるが、AIは、徹頭徹尾、最初から最後まで道具だ。という立場で書く。

だとすれば、人に変わって、文章を書いたからと言って、画像を生成したからと言って、至極忠実にAIに備わった能力を発揮したにすぎない。

それを買うか、買わないか、つい買ってしまったか、どうかは人間世界の経済活動に生まれる購買時の心理であり、稀少性だったりの理由が背後に伴う購買行動にAIが生成したものも、買われるに値するものとして流通した、それだけのことである。

さて、AIのことではない、人間の側の問題として、AI使って売っちゃったら、売れちゃってサイテーって卑下してみせて売り込むのは止めてほしい。
買っちゃうやろ、じゃなくて、AIを使うことを恥じるメンタリティって、確かに誰にも少なからず、なんか、存在しているような気がするということ。

このことが気になった。

今月始まるオリンピックがある。
例えば、100m走でドーピングして金メダルを獲得する選手がいたとして、彼の心のうちにドーピングで勝ったことの後ろめたさは残るだろう。
そういう種類の感情である。自分自身でやらなければ正しくない的な。

とすると生成AIの受容とは、そういった感情と対峙しなくてはならず、案外それは結構根深い。

正しさとは何か?みたいなことを言いかねない。
でも、いま画像生成で作られた絵がコンテストでグランプリを獲得して問題になる。生成AIで90%書かれた小説が出てきて芥川賞を獲ってしまう。
というときに、そのニュースを見聞する心の内の、その種の正しさをめぐる感情論が生まれてきて、様々な価値観の人との意見の違いに対峙することになる。

たぶん、それはもう始まっているし、そういうところの違和感からこの投稿を書いている自分自身が、そのはざまにあるコトを見定めようとしている。

AIは確かに凄い。

ただ、それが当たり前になってしまったであろう5年後あたりを想定するとき、誰が新幹線と自分の足の脚力とを比較するだろうか?
そのような問題だと思う。
当たり前に徹底的に差がありすぎれば、嫉妬など生まれない。
凄い速度を出す交通機関を、歩かずに済んだ!とただありがたく利用させていただくのみだ。

たぶん誰もが、AIを自分たちより低く見ている。
だからAIが将棋名人に勝って驚いたのだし、今生成される文章も、画像も、映像も、パソコン✕人間が作ったものに近づいてきているから驚いているし、嫉妬する。

だれが藤井名人の棋力と自分の棋力を比較して嫉妬する?
そういう嫉妬は能力が僅差で、凌ぎ削りあっているトップ棋士達には生まれえても、一般人の私達に生まれようがない。藤井名人すごいなーとしか。

つまりAIを、まだまだショボいんだろ?程度に思っているから皆驚いている2023年〜2024年特有の風景な訳です。

人間が人間たるところは、その人間の持てるところではなくて、人間を相互理解し、お互いの得手不得手を、うまく組み合わせて、1+1=2以上のパフォーマンスを発揮させうる共働作業が可能なところ。

人を使うのがうまいリーダーの下には、優秀な人材も集まり、その人材を適切に運用できる人、つまりは仕事を任せきれる人が素晴らしい組織トップとしてパフォーマンスを上げることができる。例えば昭和の企業経営者、松下電器の松下幸之助のような方は、そういう人に任せる力において突出していたと思う。

思うにAIと人間の関係はこれ。
徹頭徹尾、道具であるAIを駆使して、どれだけ自組織のパフォーマンスを最大化するか?人間は徹底的にAIを管理、指示する役割であり、AIはその求めい対して爆速で回答を与え、爆速で結果を出す。

AI時代に人に問われるのは、自分がやれる力、ではなくてAIを使える力だ。
自分に代わって、やってもらったら売れちゃった。
いいじゃないですか、そうでなければ部下AIの立場はない。
どう指示する?どう命令する?
適切で良い指示が出せれば、それでよくて、あなたの能力なんて問うてない。

オレ、サイテーでいいのです、AIよりも優れたる人間は、5年後には居なくなる。AIにうまく指示したり、命令することしかできなくて、いいんです。
そうやって稼いだり、儲けたりして、いいんです。それが好きなら。

そしてAIへの指示を終えて、画面から目を上げて、人と人と目が合った時に、飛び切りの満面の笑みを返す。そういう笑顔や愛嬌や、なごみを与えるムードメイカーとなる人を会社には採用したい。

そういう事が人間の最大の価値なのだと、5年後には、みんな誰もが気付いている世の中であってほしい。スキルが必要なことはAIがみなやってくれている、たいていの、あらゆることは、任せていればAIが、適切に、最速、最短に、動いてやってくれるような時代へは、あと5年もすればやってくる。

それがAGI時代なのでしょう。

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