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知的障がい者の施設で発見した、わたくしの「愛が足りない」気がする

音楽教室で仕事をしていた青年時代、大阪府の大型知的障がい者施設へ仕事で通っていた。その時のエピソードをご紹介。

例によって、有料(100円)ですが、無料で最後までご覧いただけます。
是非、ご慈悲をよろしくお願いいたします。賢。

あなたの街でも知的障がい者に遭遇しませんか?

わたくしも昔はそうでした。学校帰りなどで知的障がい者を見かけると、本能的に「怖い」とか「こっちへ来たらどうしよう?」などと思っていました。

ところが社会人になり、わたくしが担当する音楽教室に2人の知的障がい者が通っていたのです。2人とも小学生の男女でした。

男の子には、わたくしあだ名を付けられて「結婚詐欺師」と呼ばれていました。((+_+)) でもレッスンは静かに進んでいたようです。ガラス越しにレッスンを覗くと、わたくしを指さして「・・師」って多分言ってると思うんですけどレッスンの邪魔になるので、覗くのは止めました。

知的肢体不自由児「桶谷佳代」ちゃんとの出会い
(ちてきしたいふじゆうじ)

何で個人名出したかというと今でもお会いしたいからです。再会したいとずっと思っています。成長した佳代ちゃんと会いたいです。

何故かというと縁があったからなんです。彼女はピアノを習いに来ていました。実際は先生がピアノの音をクイズみたいに出したり、簡単なメロディを弾いてあげたり、歌を歌っても言葉にはなりません。そんなレッスンです。専門的に言うと「音楽療法」の原点みたいなことです。

でも、いつもお母さまと一緒に来て楽しそうに帰ってきました。

確か2年後位だったと思います。ある日、わたくしが弾き語りをプレゼントすることになり、オリジナル曲を1曲披露しました。

佳代ちゃんは大喜び、カタコトで「私・も・作・り・た・い」と言ったのです。

先生もお母さまもそれにはビックリ。

その日は、そんな和気あいあいとした感じで終わったのです。

佳代ちゃんがピアノ発表会へ

先生もそれからは大変、音楽的な相談もされましたし、先生と一緒に悩んでしまいました。そして、それから数か月経ちました。

年に一度のアンサンブル発表会、ピアノ発表会を春休みに行っていて、佳代ちゃんも何回か出ていたと思います。自信があったり、なかったりだったのでしょう。

宣言通り、佳代ちゃん、この春は自分で曲を作っていたのでした。
(勿論、先生も手伝っています。)

それはそれは先生も大変な作業。最初のモチーフ(最初の2小節のメロディのこと)を佳代ちゃんと2人であーでもない、こーでもないと悩みつつの創作でした。

それで短い曲ですが、できあがったのです。

発表会当日、車いすのままステージへ。アナウンスのコメントで、「楽しい気持ちでつくりました」と、場内はシーンと静まり返り、そしてカタコトの演奏がはじまりました。わたくしには長い時間に感じられました。

終わった瞬間、虚を突いたかのような拍手喝采、涙ぐむ親御さんも何人かいらっしゃいました。本当に嬉しいことです。音楽の神髄を見た気がします。

わたくしはロビーで佳代ちゃんの手を握りしめ「よく、一人で頑張ったね」と一言声をかけるのが精一杯でした。

「音楽療法」をしてほしい

冒頭に申し上げました大阪府の知的障がい者施設へは、木琴やシロフォン等の打楽器なんかをよくご注文頂いていました。

簡単に言いますと敷地が大変広く、東京ドーム?甲子園球場?どっちゃでもいいですが、そういうのが何個も入る?施設から施設まで車でしか移動が出来ないような距離です。

日帰りの学校もありますし、日常生活を送っている施設もあり、ですから日勤の方もいれば、シフト交代制で夜勤があったりなど職員の方も様々です。

ある日、楽譜かなんか持って行った時だったと思います。「瑚心さん、音楽療法、ってわかる?」と音楽室の先生が訪ねてきたのです。

一様、大学生の時に趣味でかじった程度ですけど、知らないですとは言いにくく、「少し知っています」と。

悩んだ末に・・・。

どちらかと言えば、業界では「音楽療法」ブームだったので、色々な先生がトライしていたと思います。

大学でわたくしの師匠が「f分の1ゆらぎ」(これは数年後電化製品を扱う業界で使われた言葉)を発見したので知っていました。世間では新商品の「扇風機」の風がどうなるのかは知りませんが、説明すると専門的になるのでしません。

わたくしのレベルでできたのは、わらべ唄でした。わらべ唄は音階と音階を奏でる特有のリズムからなる、古来から人づてに伝承されてきたもののですが(ほら難しい・民謡や童謡とは若干違います。あちらはハーモニーが明確です。)

「通りゃんせ、通りゃんせ・・・」はそうです。
「あの子が欲しい、この子が欲しい」いわゆる子どもの遊び唄です。

知的障がい者の意外な反応

この遊び唄を音楽ホールで鳴らすんです。

どうなるか。そこには障がい者が30人位はいました。
わたくし当日は行けずビデオを拝見。

皆がダンスを踊り始めるのです。リズムに乗って(あわせてではなく)ひたすら先生に抱き着いたり、例えば普段頭に手がくっついていて離さない子がこの時は手を離すんです。

ダンスミュージック風に踊る女の子。

訳が分からないですよね。一言で言うとダンスホール化しました。

30分ほどで終了。一瞬で静かに、元通りになります。先生方はへとへとでした。「瑚心さん、大変やったわ。でも、またやりましょう。」(根性!)

後日談と10年後

後日、今度は童謡や唱歌を中心にやりましたが同じような傾向が。「皆の中に眠っている心のひだに触れるものがあるんかな?」と先生の分析。

時代は進み「音楽療法学会」なるものもできて研究・学問は進んでいきます。でも大事なのは現場での実践。

ある先生はラテンパーカッション(南米で主に伝わる打楽器類)を使います。発達障がいを持つ子どもたち(小学生)って規律などの存在しないし、先生の言うことを聞きません。昔から発達障がいというのはあったのですが、
その時期の先生方はその辺の勉強が足りませんでした。一時期「学級崩壊」と言われた時期は、その時です。

で、先生がホールの中央にパーカッションを固めておきます。子どもたちは親御さんと一緒に円を作って素知らぬ顔。

やがて先生が円の側でクィーカという打楽器でリズムを刻み始めます。はじめの10分程度は無反応。その後一人の子がセンターに来てタンバリンを叩き始めます。

数分後には2・3人がセンターに来てガチャガチャ、タンバリンやボンゴをいじり始め、それで徐々にリズムを一定に刻みはじめ、30分後には親御さんの元を離れ、打楽器隊の演奏になってしまう、という光景を見ました。

最後に

もし何かの参考になればと思い、書けるだけのことは書きました。今でも認知症の高齢者にはどうなんだろうか?とか、

トラウマやPTSD(心的外傷後ストレス障害・強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、その経験に対して強い恐怖を感じるものです。)にはどうなんだろうか?等考えます。

実際に研究や実証はどこかで行われているのかも知れませんが、ヤマハ音楽教室が手を付けていない(そういう時期もあった)ということ自体納得できないし、どこかで実例があれば、また記事にする機会を設けたいと思います。

(瑚心すくい)今日の体重は見ない


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