シュレディンガーの法則

全く自慢にならない話なのだが、私が関わる相手は全員何かしら重い過去や現状を持っており、出会うたびに「またか」と思ってしまう。大変失礼であることは重重承知の上なのだが。
少し前までは私がそういう方を惹きつけやすい体質なのだと、はたまた私がそういう方に惹きつけられやすい体質なのだと思っていたのだが、最近少し考えが変わりつつある。いや、大変馬鹿らしい考え方でこんなことあるはずがない!といった考え方ですが。

シュレディンガーの猫、といった話をご存知だろうか。
その中には猫が入っているとされている箱が自分の目の前にあるのだが自分はまだその中にいる「猫」を認識していないため、その猫は自分の中では「本当に存在しているのか不明なもの」になるといった、自分の認識外のものは存在しない可能性があるといった物事の考え方である。
私は自分のこれまでの経験を振り返り、もしかすれば私もこうなのじゃないか?と思ってしまったのである。
私が壮絶な過去を持つ人に惹かれるのでも、そういう方が私に惹かれるのでもなく、私が関わってしまったがためにその人は悲しい過去を持つといった性質を与えられてしまったのではないかと。
いや、本当に馬鹿馬鹿しい考え方で反吐が出る。あまりにも自己犠牲が過ぎる考え方だし、第一こんな話をここでしても自分しか認識できないものであるから理解されるはずがないのである。
しかし、私は思わずにはいられない。現に深く関わらなかった人が酷い目に遭ったという話は聞いたことがない。私が関わっていないから話が回ってこないだけなのかもしれないが…いや絶対そうだろう。

しかし、こんな考え方を持ってしまった以上、私は今後どう人間と関わっていけばよいのだろうか。私が対象の人生に関与した時点で「ああ、この人はこれから不幸になるのかもしれない」という考え方が頭をよぎる。
私は、それが凄く辛い。
だからこそ、私は今関わって「しまった」方々は私の責務を果たし、メンタルケアなどといった私にできることは精一杯しようと思う。その人の体験に私が一才関係していなかったとしても、「私のせいで」その人が辛い思いをした可能性はもしかしたらあるかもしれない。
私は、私の責任をただ負いたいだけなのだ。
そうすれば、少しでもこの体質の責任を取れるかもしれない。
いつかそんな責任を取らなくてもいい日が来ることを願っている。

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