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晴れとエスカルゴと犬のフン

フランス、25年前。

1996年夏、モンペリエ(晴れ)
南仏プロヴァンスに近いモンペリエは、中世からの学園都市。パリのリヨン駅から高速列車TGV乗ること3時間30分、大学のある街だ。TGVの最高時速は300キロ以上、いわゆる日本の新幹線。花の都パリとフランスの各地方都市を結ぶ国内路線と、当時はなかったベルギーやドイツ、イタリア、スペインを結ぶ国際路線がある。

携帯電話が普及していなかった時代。私は、地図を片手に公衆電話を探していた。重厚な石造りの建物が並ぶ、恐らくは目抜き通りを歩いているのだろう。フランスの街は、広場やカテドラル(教会)を中心に造られていることが多い。石畳の通りの一角に、透明の公衆電話ボックスを見つけた。とにかく、自分に課したミッションをクリアするのに必死だった。

ボックスの扉を開け、中に入る。ブルーグレーの公衆電話の受話器をとって、テレカルトと呼ばれているカードを差し込んだ。これは途中、街角のタバコ屋で買ったものだ。

ミッションは、
・空港からパリ・リヨン駅に移動する
・高速列車TGVの切符を買う
・モンペリエまでたどり着く
・宿泊するホテルを探す
・日本に電話する

日本で勉強していたフランス語は、伝わったり伝わらなかったり。トラブルはなかったが、ここまでのミッションも容易ではなかった。

数回鳴った発信音の後、受話器の向こうから「もしもし」と母の声。安堵する。「お母さん、無事に着いたよ」海と陸の遠く、その向こう側。時差にして8時間。その時話した内容はもう覚えていない。「うん、大丈夫。またかけるね」受話器を掛けた途端、熱いものがまぶたに溢れた。

いま、この街にいる誰一人、私のことを知らない。もしも、いま私が殺されても、誰も私だとわからない。家族も友人もそばにいない。たった独り異国の地にいる大学生の胸をかすめるように、正体不明の恐怖が走った。

波のように襲ってくる恐怖から逃げるために、ボックスを出て歩き出す。しばらくすると、さっきまでは目に入らなかった街角の風景が見え始めた。劇場か庁舎だろうか、歴史を感じさせる石造りの大きな建物が向こうに見える。通りをはさんで反対側は、2軒のカフェが並んでいる。外に置かれたテーブルで、赤いパラソルの下、白いデミタスを片手に持った老人が、街に溶け込むように座っていた。

やっと降り立ったフランスの地、念願だった1年の留学生活が始まる。ここは単なる中継地点。でも、初めて降り立った街の色とふと湧き出した恐怖のトゲは、ずっと私の中に残っている。

1996年冬~春、ペルピニヤン(晴れ)
この街を選んだ理由は日本人が少ないから。大学と家を往復する毎日だったが、友人もできた。留学生は北欧はじめヨーロッパの国からが多かったが、年齢層はバラバラで10代から年配の夫婦もいた。親友になったのは韓国人の女の子。彼女とは、毎日会ってたくさん話をして過ごした。異国の生活も、かれこれ半年が過ぎていた。

街の中心に近いアパルトマンの2階で一人暮らしをしていた。夕方になると、窓の外にともる灯と聞こえてくるダウンタウンの喧騒が、今も耳の奥に残っている。私は一人部屋にいて、飲んではしゃぐフランス人の会話をまるでBGMのように聞いていた。一人暮らしは自由で快適で、孤独だった。だから、窓の外の喧騒は意外と心地よかった。

大学と家の往復という異国での生活は、いつの間にかルーティーンとなり、私の中に溶け込んでいた。時間があるときは、よく街中を散歩した。目的地は公園のときもあれば教会のときも。路地裏めぐりも楽しかった。

朝の散歩は、小さなブーランジュリー(パン屋)に必ず立ち寄る。狭い路地の途中にある、いかにもフランス人的なおじさんの小さなパン屋。そこでバゲットとパンオショコラを買うのが楽しみだった。店前に漂う焼き立てバゲットの匂いと、そのおいしさは忘れられない。
90年代の日本では、バゲットはデパートに入っている「アンデルセン」とか「ドンク」で買うものだったし、個人のパン店はまだ注目されていなかった。平成のパンブームは、もう少し後のことだ。

週末は、よく広場近くに立つマルシェに行った。まぶしい太陽の下、ぶらぶらと歩いて、並んでいる野菜やチーズを眺めていた。好きだったワインは街の酒屋で量り売り、容器を持参して注いでもらった。そのワインを飲みながら、親友と夜通し話した思い出も。

教会が好きな理由は、建築の美しさと荘厳な空気。居心地が良く心が落ち着いたのは、クリスチャンではない日本の女の子も受け入れる寛容な空気があったから、かもしれない。自分の心と平穏を感じられた場所。フランスのどこに行っても、必ず教会は訪れた。

根っこのない水草は、漂いながらゆらゆらと、五感を研ぎ澄ませて、たくさんのことを日々感じていた。好きも嫌いも、その全てが私の出会い。フランス色した記憶のぬくもり。

1997年初夏、コリウール(快晴)

絵画のような美しい海辺の街、コリウール。友人たちと数回訪れた。地中海に面した小さな港町は、南フランスで長く愛されている観光地だった。シンボリックな灯台、オレンジ色の屋根、カラフルな建物など、明るい色の街並に心が躍った。週末は、太陽と海風がもたらす開放感を求め、たくさんのフランス人が訪れていた。

石畳の階段の両脇には、クリーム色の壁のかわいらしいブティックや画廊が並ぶ。木製のドアや窓枠は赤や青、ピンクに塗られている。コリウールは、昔から多くの画家が訪れる風光明媚な場所で、ピカソやマティスもこの町が大好きだった。色鮮やかな街並みは、巨匠たちのイマジネーションと創作の種になったのだろう。

私のそばにあった青空と太陽は、本当にまぶしくてキラキラしていた。南仏で過ごした1年近く、雨の記憶は残っていない。数日くらいは降ったかもしれないが定かではない。梅雨や台風もない。きっと雨は降ったのだと思うが、その記憶が片隅にさえ残らないほど、晴れた日のまぶしかった記憶が強いのだろう。

空を見上げる。いつも少しため息をついた。自分が日本人だと強く感じていた瞬間、私は雨の日がどこか恋しかったのだ。ずっと晴れる毎日は、ちょっと心が疲弊する。自由で孤独で、明るく楽しく過ごしていた。でも……雨の日はきっと心の小休止なのだろう。

日々感じたフランスの色、音、匂い、味覚。脳裏に心地よく残る記憶の全て、心にひっかかっている小さなトゲ。それら全てから、四季のある日本に生まれたこと、日本人である自分、自分が心地よいと感じるコト、好きなモノ、これから大切にしていくだろうことを見つけられた旅だった。旅は自分探し、というのは本当なのだ。

1997年6月、パリ(曇)
フランス最後の1週間はパリで過ごした。節約をするため、移動は極力徒歩で。初日は大きなバックパックを背負い、ホテルを探すのに苦労した。街角にあるおしゃれなカフェやブランドショップを横目に、この場に似つかわしくない、バックパッカーの自分に恥ずかしさを感じた記憶。

貪欲にパリの街中を歩き回った。行きたかった場所全て。ノートル・ダム大聖堂、オルセー美術館、セーヌ川、凱旋門、エッフェル塔も。セーヌ川のほとりの散策は楽しかった。大聖堂も美術館も、心が震える思いだった。
それから、街の至る所に落ちていた犬のフンには心底がっかりした。どれもパリの横顔。もしかしたら、強烈に刻まれてしまったのは、犬のフンだったかもしれないけれど。

石畳の通りで電話ボックスを見つけた。「もうすぐ帰るね」と、母に伝えて受話器を掛けた私は、ほほえんでいた。

2021年、東京(冬)
あれから25年。愛おしい記憶、経験、苦い思い出。それらは日常のようであって、実は日常でない。異国で日々感じることは特別で、その場所と時間に身を置くことで、自分に出会えた。五感で感じた日々の全てこそが、私を変えた旅先での出会い。

最後に、帰国して考えた「かたつむり」の話。日本でエスカルゴは料理名だが、フランス語では、かたつむりをエスカルゴという。フランス人は「エスカルゴ」を食べ、日本人は梅雨の頃、アジサイにのる「かたつむり」をめでる。たしかにエスカルゴはおいしい。でも、アジサイの葉にのるかたつむりを見ていたいと思う。フランスでの日々に感謝して。

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