笑ってはいけない大宴会①~憂虞~

 今から30年近く前。
 その頃Tさんが籍を置いていた会社というのが建設業界でも最底辺とされる、口の悪い業界人達からは“人夫出し”なんて揶揄されるような業種の小さな会社でしてね。
 つまり、事前の知識や経験、学歴は不問で、入社にあたっては試験も面接も要らない、他の職人さん技術者さんの補助みたいな仕事がもっぱらの職種なんであります。
 そんな小さな会社なのに社長さんの上に会長さんがいらっしゃる。
 今の、当代の社長さんというのが亡くなったお父さんの事業を引き継いだ二代目で、会長さんはそのお母さん…つまり初代社長の奥様なんですが、この方が会社の金庫の鍵を一手に握っておられる。まぁ、当代の社長がちょっと目を離した隙にベンツだの、国産高級車だのを買っちまう浪費家なもんですから、それも仕方ないのかもしれませんがね。
 ま、それでも古株の社員達は陰で“因業ババア”と呼んでいたそうで。
 どの辺が“因業”かと言うと、会長さんの座右の銘が『利権が絡めば私も絡む』、好きな言葉は『貰う・拾う・タダ』ってんですから、そのドケチぶりときたら徹底してるんですな。
 
 さて、そんなとある日曜日。
 その日は中央競馬のGⅠレース・オークス(東京優駿牝馬)が行われる日で、バクチ好きばかりの会社内は浮き足立っておりましてね。
 その会社がかなり特殊で、社員は全員寮住まい、しかも毎週日曜日の朝に希望すれば給料の前借りをさせてくれるという、遊び人や計画性の無い人間には天国のようなシステムがありまして。
 当然、社員のほぼ全員が列をなして前借りの窓口にならぶ訳です。
 Tさんの番が来て、所定の紙に日付・自分の名前・希望額(上限は2万円)を書こうとすると“因業”さんがそれを手で制し、黙って1万円札2枚を差し出して来た。
 「これはお小遣いね」
 ウィンクでもせんばかりの笑みを浮かべて。
 ……サブタイトルに掲げましたる【憂虞】ってのは“心配し、怖れる事”の意味なんですが、ここに掛かってくる訳です。
 日頃は前借りですらも厭な顔しかしない“因業”さんが頼みもしないのに、自ら進んでお小遣い……そら~、Tさんならずとも「何か(裏が)ある」と思いますでしょ?

 「(その)変わりと言うのも何なんだけど、頼みたい事があるの」
 Tさん、内心では『ホラ来た!』なんて思いつつ平静を装い「な、何です?」と聞いた。
 “因業”さんの頼みというのが「これから鬼怒川温泉で行われる宴会に、先輩二人と出て欲しい」と。つまり、鬼怒川温泉までの長距離移動と午後6時開始の宴会とで折角の日曜日をまるまる潰してしまう事になるから、その償いとしてのお小遣いである、という事なんですな。
 「悪い話じゃない、と思うのよ。車移動だし、宴会の参加費は会社持ちで飲み放題食べ放題だし…」
 そういう“因業”さんの目は1ミリも笑っては居りませんで、それはつまり「断る選択肢は無い」を物語って居ります。

 でまぁ、そのまま御一緒する先輩方、I塚さんとO久保さんに合流し、I塚さんの愛車・濃紺のクラウンで一路鬼怒川温泉を目指すことになりました。
 「Tちゃんも巻き込まれたんだ。まぁ、何事も経験だしな」
 ハンドルを握りながらI塚さんがバックミラーごしに笑いかけてきます。
 どういう事かと聞いてみますと、当時はまだ暴力団対策法なんて法律が影も形もない頃で、新規の社員集めや仕事を円滑に進めるのに“そういった組織”との繋がりが不可欠だった時代。
 Tさんの会社は地元一帯を取り仕切る組織の庇護を受けていて、その組織がTさんの会社同様に庇護を受けている業者さんたちを集めて親睦団体・さくら会(仮名)を作り、年に一回総会を開催しているんだそうですよ。
 鬼怒川温泉でホテルを一棟まるまる貸し切って!

 Tさんはそういった“暴力関係の自由業の方々”との宴会、勿論経験がありませんし……まぁ、カラオケにでもなれば出て来るのは『兄弟仁義』だの『網走番外地』といった任侠ソングばかりなんだろう、そのくらいは想像できるのですが……いずれにしても暗い行く末しか見通せず、暗澹たる思いで東北自動車道をひたすら北上するのでありました。

 

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