九死に一生②

 思い返すと、ああもう五十年近くも前になるんだな、と感慨深いものがあるんですけど。

 小学校三年生の冬、元々生まれつきの持病がありまして「将来の為に手術しておきましょう」という医師の勧めに従って、北海道のとある大学病院に入院したんです。
 お正月が明けて間もない時期に。
 その日の夜は全く眠気が起きませんでね。
 『枕が変わると眠れない人』って居りますでしょ?その典型的なタイプなんですよ。

 午後九時消灯で、十時を過ぎていたとは思うんですが、バタバタと廊下を何人かが走り回っている足音が聞こえたかと思いますとパッと病室の照明が点いて看護師さんの声がした。

 「病院に爆弾が仕掛けられているそうです。誘導に従って避難して下さい!」

 その一言で病棟中が蜂の巣をつついたような騒ぎになったのは言うまでもありません。今でも騒ぎにはなるでしょうが、時代背景と当時の北海道が置かれている状況が皆を一瞬で切迫した空気にさせたんですな。

 1960年代、日米安保条約を締結すべきか否かの対立に端を発した“学生運動”は当初こそ全国的な広がりをみせましたが徐々に下火となっていき、70年代に入るとその衰えは決定的となっていきます。
 しかし、強行に闘争継続を掲げる一部の過激派グループは少人数に分かれ、散り散りになりながら地方へと落ち延び潜伏して機をまっていたんであります。
 一部は海外のテロリスト達とつながってハイジャック事件などを起こしたりもしてますが、北海道に落ち延びた者達は爆破テロを得意としておりまして、北海道庁を手始めに大企業の北海道支社を次々と爆破していったんであります。
 勿論、逃走中、潜伏中の連中に資金や物資が潤沢にある筈も無く、ビル1個を丸ごと吹き飛ばすような大がかりなものではありませんで、例えば荷物を装った小包爆弾ですとか、それでも建物の一部を損壊するには、或いは荷解きしようとした人を殺めてしまうくらいの威力はありましたからね。
 当時は結構頻繁に爆破事件が報道されてましたわ。

 さて、避難と言いましても真冬の夜、しかもここは北海道ですから建物の外へ退避する訳にもいきませんで、入院患者数百人と病棟の当直スタッフが一階の受付ロビーに集められた訳です。
 ま、建物が倒壊する規模の爆弾が破裂してしまえばひとたまりもありませんがね。
 一時間……二時間まではかからなかったと思いますが、警察の方で病院内の捜索が行われ「見つからないって事は、爆弾なんて仕掛けられてなくない?」って結論になり病室へ戻されたんですがね。

 まぁ、それだけの話なんですが、当時の北海道では“ある”と思えば無かったり、“フェイク”だと油断するとボンッ!というある種の“イタチごっこ”だったので、リアルに怖かったんですよ。

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