三角巾
10年ほど前になりますか、【肘部管症候群】と呼ばれる病気で手術を受けましてね。
当時私は“人形の街”に住んでおりまして、左の手指がビリビリと痺れてそれが長期間続いたもんですから地元の総合病院を受診したんでありますが、そこへ週に一度だけ外来診療を受け持っておられた『肩肘の権威』の先生から「問答無用で手術です」と言われてしまい、先生の本拠地であります県庁所在地の大病院に二泊三日で入院手術を受ける羽目になったんであります。
初日は入院するなり検査の嵐で二日目が手術。
【肘部管症候群】というのは職業で申しますと大工さんとか、或いは野球の選手といった腕や肘、手を酷使する方に多い病気……どちらかというと怪我に近いもので、肩から指先へと延びる神経は肘の骨と皮膚が最も近接した所を通っておりまして、そこで何かの拍子で神経が骨に触れてしまう、又は皮膚の内側に出来たイボもしくはオデキのような異物に神経が当たってしまって痺れてしまうものなんですがね。
二日目の午後一番に手術がスタート。局所麻酔で手早く済む術式なので午後三時には終わり、五時には麻酔が解けて腕を動かせるようになります、と。
ところがね。
局所麻酔ですから意識は鮮明にあって、とはいえ麻酔は麻酔ですから痛みは無い。
痛みは無いんだが鈍い感覚で腕の中を弄くり回されているのは分かるんですよ。
で、今回の手術のメインは、通常神経は肘を90度曲げた所謂“エルボー”の所を通っておりますが、それをちょっと内側へずらして神経と骨が接触しないようにしましょう、という作業。
つまり神経を移動させる訳で、目茶苦茶弄られる訳です。
神経なんてとんでもなく敏感な“センサー”なんですから、いくら麻酔が効いていても痛みではないにせよ電気ショック的な感じは受ける事になります。
そりゃあしかめっ面にもなりますわな。
そうしますと執刀してくれた“権威”先生、その表情を見る度に、
「痛い?(助手の看護師さんに)麻酔追加ね!」
ってんでドバドバ麻酔剤をトッピングしまくる事になります。
まぁ、手術は問題なく予定時間の通りに終了したんですがね。
問題なのは左の肩から指先までの感覚が全く無いんですよ。麻酔が効いちゃってますからね。
左腕が全く動かないと自力で身体を起こす事すら出来ませんで、その上感覚が全く無いもんですから油断すると脚やお尻の下敷きにしかねない!
ダラ~ンと垂れ下がったまま、自分の意思で腕どころか指先一つ操る事が出来んのです。
自分の身体の一部とは思えない。人生でこれだけ長く共に過ごしてきたのにこんな僅かな時間で、感覚が全く無く意のままに動かせないというだけで、
「何?この邪魔な物体」
みたいな。
看護師さんの介添えもあって手術台の上に座る事が出来、そうなると立ち上がる事も可能になる訳ですが、驚いたのは意のままに動かせないダラ~ンと垂れ下がっただけの左腕の重い事!
そのままだとバランスがとれずに歩くのもままならんのですよ。
そこで役に立ったのが三角巾でありまして。
入院三日前に基本的な検査……ま、ほぼほぼ健康診断とやる事は同じですわ……と入院するにあたっての諸々の説明を受けたんですが、その時に、
「三角巾、これだけは必ず用意して下さい!」
と、『そないに力んだらウ○コ漏れてまうで?!』ぐらいの力説ぶりで言われたんですが、言うだけの事、ありましたわね。
何しろ無感覚の左腕が重たすぎて右手で添えたり持ち上げたりしても持ち堪えられないんですよ。それを三角巾で吊ってバランスを取り、うっかり下敷きにしたりせんようにケアするというね。
食事が一番大変で、右利きですから箸を使う事は出来ても、三角巾で吊った左腕のせいで身体と食器の距離が空いて遠巻きに食べるしかない。
しかも術後二時間。午後五時には麻酔が解ける筈が術中に何度もトッピングしまくったせいか、八時になっても十時になっても左腕の感覚はいっこうに戻って来ない。
日付が変わって午前一時とか二時になってからでしたかね。ようやく左腕と意思疎通がとれたのは。
それでも完璧とはいかず、退院の日の朝食までは三角巾のお世話になり、徐々に慣らしていって、無事に午前十時に病院を後にしたんですけどね。
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