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12/8「遠隔地でのグループ活動におけるリモート練習法の一形式」

「いるといないとは、距離のもんだい。」
-いしいしんじ『麦ふみクーツェ』より抜粋-

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0. はじめに

この度、
ACAPPELLER.JP」と「アレンジャーの会」による
「アカペラアドベントカレンダー」
という企画に参加し、
僭越ながら12/8の記事を担当することになった。

自分は「遠隔地でのグループ活動におけるリモート練習法の一形式」と題して、
自分の所属するアカペラグループ「suisai」での実践を紹介する、という内容で、遅筆を振るう。

「アカペラアドベントカレンダー」企画

この企画は、12/1〜12/25までの間、参加者がライターとなり、日替わりでアカペラに纏わる話題をリレー形式でお送りする趣旨のものだ。
詳細や企画の経緯などは、上記のリンクをぜひ参照されたい。

優しさにあふれた、素敵な企画だと思う。
来る日を待ちながら、いちにちの終りにひとつずつ、ろうそくに色とりどりの灯をともしていくような。
そしてそれぞれの灯が、誰かの行く先を明るくしたり、硬く凝(こご)った心をほどいていくような。
そんな試みになることを望んでいる。
そして自分の掲げた灯も、微かでもその一助になれれば、嬉しい。

昨日12/7の記事は、Vocal Asia Japan(VAJ)副代表の「しげ」さん(@shige_kimchi)より
韓国でのコンテンポラリー・アカペラのご経験についてのものだ。

「韓国でアカペラ活動をやってましたという話」

今夏のVAF日本開催や、海外で活躍する講師やアーティストの、日本でのワークショップ開催など、
以前にも増して「A Cappella」が国内外の他地域を繋ぎ合う、そんな流れが色濃くなっているのを感じている。
特に、コンテンポラリー・アカペラが教育や人格形成の文脈上でも考えられるものであるという記述には、生涯を通して楽しむ文化として、人々に受け入れられているさまを、生きた言葉として感じた。
翻って、日本ではどうか。
自分自身の在り方も含め、改めて見つめ直す機会になった。
しげさん、ありがとうございました。

また、明日12/9の記事は「あいら」さん(@chamenma)より
「婚約指輪ならぬ"婚約楽譜"を納品した話」
とのことで、
(勝ち負けではないが)もうタイトルから既に「ああ勝った、勝ちだ」と感じている。

だって読みたくなるよ。
「なんだなんだどうした」ってなるもの。
勿論タイトルだけでなく、内容を推し量っても、誰かの人生の節目に、うたを贈ること、
すぐに消えてしまうたよりない声を、そこにずっと繋ぎ止めていくために著すこと、その万感を想像するだけでも、俄に胸に迫るものがある。きっと、優しさと愛に満ちた記事であることと思う。

こちらも、どうぞお楽しみに。

そのような有意義な記事からバトンを受け継ぎ、
そして生きる時間の節目に、アカペラが携わるという魅力ある記事を明日に控え、
その間に挟まれた自分はほとほと力不足ではないかと緊張しているが、先ずは書く。

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また、自分の担当する今日、12/8は
「ソラマチアカペラストリート(SAS)2019」への、suisaiの出演日でもある。

「トブタメニ。」

この文章が公開される頃にはきっと、2日間にわたるイベントは幕を閉じ、
suisaiもまた、舞台から放たれ、空に溶け出した数え切れないほどの歌声を見つめながら、そこにそっと声を重ねていることと思う。

どんな空を、皆で見上げただろうか。
どんな色や、形や、風景が心に浮かんだか。
この文章を書いてから数時間後の自分に、
ぜひ今日の演奏についての感想をきかせてもらいたい。

あと、suisaiからのささやかなお知らせとして、
よければ下記のURLを見てほしい。

https://score.kingoftinyroom.net/score/minato_suisai/

どうぞ、よろしく。

1. アカペラグループ「suisai」について

具体的な実践の記述に移る前に、その実践の場でもある「suisai」というグループについて、少し紙幅を割かせてもらいたい。
何故なら、今回のテーマは単に自分だけの実践ではなく、むしろ自分以外のメンバー、suisaiというグループ全体の実践であるからだ。

此処で実際に書くのは自分だ。
だが、自分の手柄などとは到底思っていない。

自分は言うなれば「苦労をかけている側」の人間だ。
自分がもっと皆の近くに居さえすれば、感じさせることのなかった思いや、かける必要のなかった手間が沢山ある、と思う。

すまないな、と思っている。
すまないな、と思いながら、それでも書く。

感謝があるからだ。

都度直面する状況の中で、自分たちの目指すものを諦めないために、
知恵を出し、工夫し、必要なものを取り揃え、想像を働かせ、
そうして今も、こうして一緒に歌えている。

だから、自分もできる限りのことをしている。
いいものをつくりたいと思って、やっている。
その積み重ねが、今日のSASで届けるうたでもある。

どんなうたを、皆さまに聴いてもらえるだろうか。
いつも試されている。そう思っている。
少しでも、聴く人のこころに浮かぶものがあれば、それはsuisai自身にとっても、大きな希望になる。

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suisaiは、
「みえないものを、えがくように、うたう」
というテーマのもと、2017年に結成し、今年で3シーズン目になるアカペラグループだ。

suisai official website

suisai YouTube channel

自分以外の5人は、現在東京を拠点として練習や活動を行なっている。
東京に居る5人での練習は月に平均して3〜4回、うち1回は、週末の時間を利用して比較的長い時間(4〜5時間ほど)行なっている。

他方、自分も含めた6人での練習の機会は、現状「ほぼ無い」と言って良い、と思う。
2ヶ月に1度、練習だけのために上京できれば良い方で、
ライブの当日に顔を合わせ、抱き合わせる形で練習や声合わせをし、そのまま本番に臨む、ということが殆どだ。

こうして文章にしてみると、こと自分の状況に限って言えば、本当に、決して胸を張れる活動とは言えないな、と思う。
それでもその中で、グループ全体でやり繰りをして、有難いことに様々なイベントやライブへのお誘いや、出演の機会に恵まれている。
また、今年の6月には初めてのミニアルバムを制作し、リリースすることができた。

suisai 1st mini album「ユートリズム」

こうして少しずつでも、自分たちの描くものを形にし、さらには聴いてくださる方々に好いていただけること、本当に有難いことだと思う。
それに伴って、例え離れていても、何とかかんとか、やりようはあるものだという自信も、次第についてきた。
幸いなことにメンバーも、自分たちの実践について記事にすることを諒解してくれた。
少しでも誰かの役に立てばと思っている。

2. suisaiでの実践について

とは言え、劇的にものすごいことをしているのかと言われれば、他のグループの事例を引いているという訳でもないので、もしかしたら割と普通、なのかもしれない。
そこのところは、正直よく判らないが、
皆で知恵を絞ってつくり、良くしてきた仕組みだし、自分の実感として、良い流れを感じているものだから、
ためらわずに書いてみる。

なお、活動における役割の分掌などについては割愛し、今回は特に「共有」に焦点を当てて書いていく。

2-1. 共有のツール

suisaiでは、現状、各種の情報について主に3種類の共有ツールを用いている。
情報の種類およびレベルに応じて、その3種類を使い分けている。

①LINE:
インスタントな会話、ある程度すぐに確認が必要なもの。
(例:練習15分遅れますごめん)

②Slack:
チームの意思決定効率化のためのコラボレーションソフトウェアで、ビジネスでも多く用いられているアプリケーションのよう。

「Slack」website

suisaiでは、複数の「ある程度進捗管理が必要な未決定の議題」
(例:「練習内容共有」「ライブ」など、複数のチャンネルを設定でき、そのそれぞれでLINEのトーク画面が展開できるイメージ)
について、共有や議論、意思決定を行うためのツールとして用いている。

③Trello:
タスク管理アプリケーション。
複数の大項目を設定でき、その中で各レベルでの必要なタスクを整理し、進捗管理を行うことができる。

「Trello」website

Slackとの連動が可能で、Trello内での投稿を、Slackでそのまま検討することもできる。
suisaiでは、大項目内のタスクを定式化し、検討項目を当該様式に沿ってクリアしていくことで、時間短縮、省力化を進めている。
(例:ライブ→「概要」「告知」「当日のセットリスト」「準備物」などを検討項目とし、個別の事案をその中に埋め込んでいく)

その他には、
グループ外との窓口として

・質問などの各種問合せ:
公式Websiteのcontact、Gmail
・各メンバーとお客様との交流の場:
公式LINEアカウント

などを連動させながら、
リモートでの意思決定をface-to-faceでの会議に漸近できるような仕組みをつくり、都度改善を施している。

2-2. 録音音源の共有

ここと次節では、2-1.で示したツールを用いて、具体的な楽曲の練習手順について述べていく。

繰り返しになるが、この手順自体も特別なものとは考えていない。すぐにでも援用可能だ。
媒体がデジタルであることを除けば、かなりアナログで、手間もかかる方法だと思う。

ただ、最終的に落とし込んでいく先がメンバー相互の身体感覚に行き着くならば、そのための想像力を補填する意味合いでは、
音源をほぼオン・タイムで共有できるようになったことは、練習の質を大きく変えるものだといえるだろう。

基本的な流れを、以下に示す。

①(5人での)練習音源をクラウド上に共有する

②各メンバー:①の音源をダウンロードし、それを聞き返しながら反省を行う(自パートの苦手部分、全体、および他メンバーの改善点、演奏における新たな解釈、など)

③各自が②で行なった反省を共有し、次回の練習までに改善のための自主練習を行なったり、方向性を確認できる状況をつくっておく

④次回練習に臨む、①へ戻る

PDCAサイクルのようなものだ。
上記はあくまで理想的な流れなので、グループ全体が常に十全にこれらを実践できているわけではないが、
少なくとも様式をある程度定めることで、手順自体に割くリソースが減り、
楽曲自体に純粋に注力する余地が増える
ことになると考えている。

2-3. 楽曲分析・解釈の共有

ここでは、主に「作編曲者からの楽譜の完成の報告から、初回の練習まで」のフェーズで、
各メンバーが楽曲の解釈や、読譜、分析を行い、それを共有する流れについて述べていく。

大まかな手順を以下に示す。

⓪(カバー曲であれば原曲の解釈を予め各自進めておき、編曲の段階から共有を行う。作編曲の主担当者をインスパイアする)

①作編曲者:完成楽譜をクラウド上に共有する

②各メンバー:楽譜をダウンロードし、楽曲を読み解く
・読譜:
楽譜を読み込み、歌唱のニュアンス、アンサンブルにおける注意点、解釈等を予め洗い出しつつ、初回の合わせ練習に向けて自主練習を行う
・原曲の歌詞、制作の背景等の読み込み:
どのようなテーマ、意図でつくられた楽曲か、歌詞におけるキーワードおよびそれに接着する象徴性を読み、解釈を行う
情景描写等を想像し、自分の言葉で新たに書く

③各自が②で行なった内容を共有し、それぞれの歌唱にどう反映されるかを想像しながら、自主練習を行う

④合わせ練習に臨む

望ましいと考えるイメージは「初回の練習において、前向きな議論を生みながら曲を組み立てる時間が生まれる」というものだ。
いざ実践してみると、自分の価値観の引き出しにはないものが、他のメンバーから飛び出してくることがある。
ひとりでは考え付かなかったであろう解釈や歌い回しに膝を打つことも多い。
「自分の価値観の外にあるものに対して力を注ごうとするメタ意識」というのも、いい。

体感レベルの話に終始してしまうが、
アンサンブルにおいて

・良い意味での混淆性、雑居性、カオスな感じ
・歌唱のニュアンスの多様性
・混淆性を前提とした演奏中の意思疎通

が生まれるように思う。

解釈の枯渇は創作物をひとつの死に至らしめる。
楽曲が死なないため、歌い手が新鮮さをもって楽曲に関わり続けるための方法だと考えている。

以上、具体的な練習の流れ-「何を行うか」について述べた。
実はそれ以上に「どう行うか」が重要だと考えているが、これについてはまだ十分に伝える筆力を持たないため、割愛する。

3. 合わせ練習の頻度が少ないことを、どう捉えるか

ここまで、主に合わせ練習から次回の合わせ練習までの間の実践について、
特に「共有」に照準を絞って書いてきた。
3.では、それらの実践が、合わせ練習においてどのような効果を発揮し得るかを述べる。

そうは言っても、合わせ練習の頻度自体少ないことに変わりはなく、生まれる不便やもどかしさもまた、勿論消える訳ではない。

だが、仮に学生時代のサークル活動のように、週に1度、もしくはそれ以上の頻度で合わせ練習が「できる」状況があったら、果たしてどうだっただろう?
そう考えたときに、
平均して約2カ月に1度のペースでしか合わせ練習が「できない」からこそ生まれた心境、およびグループのサウンドの変化、というものも-これも個人的実感の域を超えないが-ある、と感じている。

言い訳がましく聞えるかも知れないが、気を確かに持って、書き進める。
読んでいる皆さんも、大概長いね…。
もう少しだけ、お付き合いください。

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前提として、少なくとも自分の中では

【合わせ練習≒ゲネプロ】
という意識でいる。
以下、語義とずれがあるが、許してほしい。

ひとりでもできる確認ごとを全員で行うことを、必ずしも時間の無駄だと言う気はない。
ただ、自分ではない誰か、メンバーと直に会い、同じ時間/空間を共有して声を重ね合うことは、
当たり前のようでいて、実は全く当たり前ではない切実さを持っていて、
離れたところに居ると、そのことを特に強く実感する。

だとすれば、
舞台の本番が近かろうと、そうでなかろうと、
隣に居てくれる皆としかできないこと、味わえないもの、つくれないうたで、一瞬でも多く自分を充したい。
一瞬でも長く濃く、喜びをもって歌っていたい。
だから可能な限り、合わせ練習はゲネプロとして、集中して、全員で楽曲を詰めていくために時間を使いたい、という気持で臨んでいる。

効果①「喜びが大きくなる」

喜びは大切だ。とても。

自分の場合、東京まで片道3時間かけ移動する。
2カ月に1度、仮に午後の時間、丸々練習する機会(13:00〜18:00)を持てたとして、それよりも更に長い時間を移動に要している。
生活の中で、これを頻繁に行うのはやはり負担が大きいな、と思う。
だからこそ、久々に会えるというだけでも、ああ、いいな、と思う。

素直に、メンバーの顔を見て、元気かどうか確認して、「おお髪切ったな!」なんて言ったくらいにして、近況を聴いて、
迷惑かどうかもさして考えず、リュックにお土産なんか詰めて持って行ったりして、
一緒に昼飯なんか食べられたりしたら、それだけでもう、OKだ。楽しい。
もし練習後に一杯、なんてことができたら、帰路で事故るんじゃないか心配にすらなる。

歌っていても楽しい。ひたすらに楽しい。
言っちゃ悪いが例え下手くそでも楽しい。
音源で聴いていた歌声が目の前に、耳許にある。
嬉しいよ。それは。

練習終わりは、どうしたって
「ああ、帰りたくないなあ」となる。
帰り道、次の合わせ練習について思い切り想像を膨らませて、それまでなんとか息を繋ぎとめようと、頼りなく決意したり、する。

これは感情の話なので、勿論個人差はあるが、
少なくとも自分にとっては、回数の少ない合わせ練習の機会は、大体がこんな感じだ。

「好きなんですね」という共感の言葉を求めて書いている訳ではない。
それでも畢竟、手前が好きで組んだグループだ。
誰しも多少はその喜び、解ってくれるか、と思って書いている。

一言でいえば(一言に言えるなら最初から言えと思う)、メリハリだ。気持が入る。
頻度が多いと「ああ、また練習だ」となりがちだ。会えることの新鮮味が薄まる。
でも、それはどうしても仕方ない。

声は気分にとても影響されやすい。
「こころそのもの」と言ってもいいくらいだと考えている。

何となく憂鬱なまま、高頻度の練習を漫然とこなし続けるくらいならば、
無理して焦らずに、退屈やさびしさが浮かんでくるくらいまで、敢えて暫く熱を冷ますのも大切なことだと思う。
喜んで歌いたいからね、やっぱり。

効果②「サウンドの可塑性が高まる」

こちらはよりふわふわとせずに書ける気がする。
合わせ練習までの間隔を長く取ることで、各メンバーのサウンドがグループサウンドとして
「こうあるべき」という権力性を離れ、良い意味で「野放し」になる。

アンサンブルを調和させる上でのある程度のモラルラインはあるものの、
ある一回の合わせ練習から次回までの間に、各々の日々を過ごす経験が歌唱に還元できるとしたら、それはアンサンブルの複雑さに寄与するのではないかと考えている。

個人は多様なアイデンティティの束だ。
その中には(工夫次第だが、詳しくは後述)
「アカペラグループでの活動や歌唱」に直接収斂させにくいものもあるだろう。
(例:走るのが速い、花屋さんで働いている、姉が2人いて、末っ子長男だ、目が悪い、坂道の多いところに住んでいる、お菓子作りが好きだ、など)

だが、上記の例に対して
「いやいや2号、そうでもないよ?」
と異議を唱えたくなる俊足の花屋さんアカペラプレイヤーの方も、きっと何処かに居るのだ。

「歌う経験」以外の場、
個人が様々な属性に絡め取られ、あるいは選び取りながら送る日々の中で、
感受性を動かしたり、
新しいものの見方や知識を得たり、
身体操作を身に付けたりなど、

「それらが結果的に歌唱やアンサンブル、アカペラグループでの活動に還元できる経験」
というものは、実はとても多いように思う。

仮に練習の頻度を極限まで高くできる環境に「恵まれた」として、個々人の意識や感受性が「練習」のみに囚われてしまうとしたら、
グループサウンドは洗練され、精緻化されるかも知れないとしても、同時に脆く、危ういものとなるおそれも高まるだろう。
そして、そういった危うさや脆さは不思議と、聴き手にも伝わってしまうものだと思っている。

各々が日々を送る中で培われるもの。
ひとりずつでは経験し得ないものごと。
一見すると不純物のように思えるようなものも、雑多なまま全部持ち寄って、試しに鳴らしてみると、案外と良い音がするかも知れない。

4. おわりに-ひとりであること、あるいは「さびしさ」の運用について-

「いるといないとは、距離のもんだい。」

「遠隔地での-」と題し、大変冗長な文章をここまで玩んでおいて、実は、
「問題の性質そのものと、距離の近さ/遠さとはあまり関係ない」と思っている。

例え近くても、自分の声を出すのは詰まるところ自分ひとりであって、
自分ではない誰かの声を代わりに自分が出す、ということは「基本的には」できないからだ。

皆で集まって合わせる以外の時間は、何をどうしたって、ひとりで読譜をして、ひとりで練習をして、
頭の中でどんなに皆の声を思い浮かべたって、
耳の中にどんなに録音音源を流し込んだって、
部屋に居て歌っているのは、自分ひとりだったりする。
天井の隅にしみ込みながら、虚ろに跳ね返るのは、
何処までいっても自分ひとりの、生きて出た声だったりする。

「畢竟ひとはどこまでも、ひとりきりだ」
という思いこそが、自分ではない誰かを希求し、声を重ねたいという思いに繋がると思っている。
少なくとも自分自身は、これまでずっとその思いに突き動かされて、歌ってきたと思っている。

もし、そうならば。
近くても遠くても、どうせさびしいのならば。「遠いから-」という悩みを持っている方々に限らずとも、何かの手掛かりになれるかも知れない。

距離や時間の「隔たり」が、誰かと一緒に歌いたいという思いを阻んで、悩みに変わりそうなときに、
例え誰かひとりでも、そのような人のこころに寄り添うことが出来れば、嬉しい。
この長い長い文章が、もし誰かのろうそくの灯火になるならば、
その燃え種はきっと「さびしさ」だ。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
12/9、次のろうそくに、灯を渡します。

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