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第13回ケア塾茶山『星の王子さま』を読む(2018年9月12日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 


はじめに

西川:
 今日は73ページ、Ⅻ章からですね。その前にもういっぺんうぬぼれ男の話にちょっと戻りましょうか。法華経だったと思いますけど、常不軽菩薩[*1]って聞いたことあります? 

 人を常に軽んじない。そういう悟りを目指している菩薩がいるんです。誰にでも「あなたを称賛します」みたいな感じで頭を下げる、拝む人なんですよ。見境がないということで周りからはボロクソに言われたりするんですけれども、そういう常不軽菩薩的な生き方を王子はできていないわけです。「何があんたえらいの?」みたいに。

[*1] 常不軽菩薩:じょうふきょうぼさつ、法華経に登場する菩薩。自身が誹謗され迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される。

 今日の話に繋がるんですけど、この小惑星の話はだいたい大人と呼ばれるような人たちの滑稽さ、愚かさなんかを擬人化して、それに対して純真な子どもの心を持ってる王子が「大人って変だなあ」みたいな感じでバカにしてまわる、と読むのが一般的な読み方になっていると思います。

 でも、それは当たり前すぎます(笑)。何度も何度も読んでいくうちに、そんな分かりやすいことをサン=テグジュペリが書くわけはないと僕は思うようになりました。「確かに地理はね、勉強して役に立ちましたよ。アリゾナと中国が一目で見分けれるようになりましたからね」とか書いてましたけど、そんなアホな話はないわけです。

 だから彼が書いてある通りのことを、常識でそのまま読んでしまうと、本当にサン=テグジュペリが伝えたかったことは伝わってこないと僕なんかは思います。もちろん、別に何かをこう説明するための書物じゃないんで、まあ、受け取り方は自由といえば自由なんですけど。

 人々の間に受け入れられている、純真な、純真無垢な王子とそれに対して、もうほんとにまあ滑稽なほど愚かで、頭の固い、つまらぬことに振り回されている大人たちという、子どもと大人の二項対立。この読み方はね、あまりにも、何て言うかな、まあお粗末なんです。何の努力もいらないわけです。また、そのようにも読めるように書いてあるんですね。

 そもそも王子は、最初から賢かったわけじゃない。いきなり、箱描かれて、その中に「あ、これが僕の欲しかったヒツジだ!」みたいに、なんかすごい超能力みたいな感じで、見えないものを見る力がある王子が出でてきますけど、あれはバラと諍いを起こしていろんな星をめぐって、地球に来てほぼ一年経った頃の王子なんです。

 だから小惑星をめぐっている頃の王子とは違います。僕は、王子が大切なことをどんどん見落としていってるんじゃないかと思うんです。王様についても「たとえそれが実際の権力は持ってなくっても、王様としての権威みたいなものを守るときに、道理っていうのは何よりも大切や」みたいな言葉とか。

 まあそれでも全面的に王様に肩入れするわけいきませんけれども、そんなに簡単に相手を唾棄すべき存在というか、バカにできるほど僕たちは、単純でもないし、もう少しその人間の愚かに見える姿から、もうちょっと人間について考え直してみてもいいんじゃないかなと思いますね。


子どもは神か

西川:
 さて、サン=テグジュペリはフランスのパイロットであり作家ですけど、パスカルが大好きなんですね。パスカル好きな人いっぱいいます。で、僕も『パンセ』を最近またちょこちょこ読んでるんです。

 『パンセ』はパスカルが書いたやつで、もともと、死後に残された紙切れです。それをどんなふうに編集するかについては版がいろいろあるんです。僕たちが読み始めた頃は、ブランシュヴィック版といってテーマごとに分けてるやつでした。まあ非常に読みやすくて、大流行りでした。

 最近はラフュマ版とか、死後すぐに写した写本の順番通りに翻訳するのとかいろんなところから出てますんで、どんなもんかなと思って、また読み始めてるわけです。そうすると「え、これって『星の王子さま』で言ってることと、もうなんかめちゃくちゃ重なる」というのがいっぱいあるんですよ。

 このうぬぼれについてもそうです。たとえばパンセの120番の断章。ちょっと読んでみます。

私たちの思い上がりときたら、全世界の人に知られたい、いや、それどころか私たちの死後にやってくる人にも知られたいと願うほど強い。そして私たちのうぬぼれときたら、周囲の五、六人の評価だけでいい気になって満足するほど軽薄だ。
                        『パンセ』120番断章

 このうぬぼれ屋はまさにそうですね。ほんとに「誰が来ても自分を称賛してもらいたい、思い上がりたい」ということでしたね。まあ普通の人間が持っているのはそれ以上です。それこそ「死後に自分の名を残したい」なんて言っている人が山ほどいるわけですから。そういうかたちで、もうすでに亡くなってしまった人のことも立派な人だったら僕たち称賛します。

 ところが歴史が変わると、英雄だった人が急に悪党になったり、また英雄になったり、ころころころころ変わるんです。そういうふうな「全世界に知られたい」「死後にまで知られたい」と思うほど強烈な望みを持っていますが、その称賛の内実は、実はほんの数人のはずです。

 でもここで、「西川さん、すごーい!」とか言われたら、「ふふーん」みたいに、もうなんか全世界からほめたたえられてるような気分になるわけです。うぬぼれ男もそうですよね。たった一人来た人がパチパチって手叩いてくれたら「どうもー」ってなるわけだから。みたいなことを考えていくと、うぬぼれ屋のことがそんなに憎めないやつになってきませんか?

 あとはそういうものに対してどう対応するかということです。相手をシニカルに「底の浅いやつやな、軽薄なやつだな」と思ってバカにしてしまうのかどうか。

 浜田寿美男先生は「支援は常に私たちの支援であるべきで、そうでないときについ人は神の位置に立ってしまって、相手を評価してしまう」と言っています。

 「あなた、ほんとに軽薄ですね」は、言ってみれば、神の位置から言ってるわけです。「人間って何て愚かなんでしょう」「あなたは何て愚かなんでしょう」、そして「大人って何て愚かなんだ」も神の位置に立ってるわけです。

 でももちろん神イコール子どもではないんです。ただ聖書には「天国に入るためにはどうしたらいいか」「幼子のようにならなあかん」みたいなことがイエスの言葉としてありますね。いわゆる大人的な力やとか知恵とかじゃなくって、そういう幼子のような心が大事なことは、キリスト教圏では長年言われてきたことです。でも、繰り返しますが、神イコール子どもではない。

 だから、よその国はどうか分かりませんけれど、日本における『星の王子さま』受容の歴史は、なんか大人対子どもとの二項対立で、子どもの純真さをこうたたえるみたいなところがあります。

 だからこそこう「世俗にまみれた大人たちがもう一度読んで、素直な心を取り戻すために読むべきだ」みたいなことがよく言われるんですけど、そういう読み方をしても、そらいい話かもしれませんが、それは無理でしょう。

 『星の王子さま』を読んだからって、王子さまのような子どもには戻れないんですよ。むしろ、そういう大人であることの惨めさとか愚かさに対して、どう考えどう生きるのかを――ここにヒントがあるかどうかは別として――、考えていったほうがいいんじゃないかなあと思っています。

忘れるためさ

西川:
 今日のところを読んでみましょう。

 つぎの星には酒飲みが住んでいました。王子さまはその星には短い時間しかいませんでしたが、それでも、たいそう気分がふさいでしまいました。
 「そこで、なにをしてるんだい?」と王子さまは酒飲みにききました。見れば、山のような空の酒瓶と、山のような新しい酒瓶を前に、酒飲みはじっと黙って座っていました。

写真1酒飲み

 まず、前回もいった通り、星をめぐる時に挨拶があるかどうか見てみましょう。うぬぼれ男の時も、向こうから「ファンがやって来たぞ」と言われて、「こんにちは」と返しているわけですけど、星によって全部違いますね。

 酒飲みの星を訪れた今回、王子は何も挨拶してません。いきなり、「そこで、なにをしてるんだい?」。まるで警察官みたいな言い方ですね。「そこで何してるんだ」って。

 おまけにフランス語では「テュ」(tu)で呼びかけてますから、丁寧な言い方じゃなくて、ものすごくなれなれしいタメ口です。「おっさんそこで何やってんの」みたいな感じなんですよね。じっと黙って座っている人にそういうことを言うわけです。

 「酒を飲んでいるのさ」と暗い顔で、酒飲みは答えました。
 「なんでお酒を飲むの?」と王子さまはたずねました。
 「忘れるためさ」と酒飲みは答えました。
 「なにを忘れるためなの?」と王子さまは重ねてききました。もう酒飲みのことが気の毒になってきていました。

 これ、おもしろいでしょ?ここはどういうことなんでしょうか?まだ何にも悲惨なことは言うてないわけですよ。気の毒だと思われるようなことは何も言ってない。すでに気の毒だという気持ちになってきたということですけどね。

 「恥ずかしい思いを忘れるためさ」と、首(こうべ)をたれながら、酒飲みは正直に答えました。

 「正直に」というところが大事だと思います。

 「いったい、なにが恥ずかしいの?」男を救ってやりたいと思って、王子さまは突っこんだことをききました。
 「酒を飲んでいることが恥ずかしいのさ」と言うなり、酒飲みは黙りこくり、そのあとはもう一言も口を利かなくなりました。
 どうしたらよいか分からずに、王子さまはその星をあとにしました。
 「おとなたちというのはやっぱり、とてもとても変だなあ」ともっぱら心の中で言いながら、王子さまは旅をつづけました。

 精神科看護師として、十何年間めしを食べてきた僕としては、この王子では「救えない」のはわかります。救ってやろうと思ったけど、「どうしていいか分かんない」と言って「変だなあ」と立ち去るだけですから。

 もう気の毒になっているわけですよ。それで「何とかしてあげたい」と思っているけれど、もうどうしようも手がつけようがなくて、結局相手のことを「変だ」と立ち去っているわけです。これでは全然看護にはならないし、ケアにもなりません。相手を「変なやつだ」と言うだけで終わりですから。「変な妄想持ったやつだなあ」とか「困ったね、いくら言っても治らないねえ」とか。

 要するに相手の病気だとか相手の障害だとか相手のせいにして、自分は安全なところへ去ってしまうんだったら、いわゆる「豊かな出会い」にはならない。常に成果をもたらす必要はないんですけど、この出会いは王子の成長、そしてこの酒飲みにとってどういう意味があったのでしょうか?

 一人で黙って飲んでいたのに、あれこれ聞かれて答えさせられた。そう考えると、ケア論として、ここで一体何が起きていたのか、と考えてもいいかもしれませんね。

 「なにを忘れるためなの?」と王子さまは重ねてききました。もう酒飲みのことが気の毒になってきていました。  

 ここらへんからちょっとみんなにも考えてもらいたいんです。ここ、なんでだと思います? 相手の情報として王子が知ったのは、山のような空の酒瓶と山のような新しい酒瓶を前にじっと黙って座っていたこと、それから「酒を飲んでるのさ」「忘れるためさ」という二つの台詞だけなんですよ。

写真1酒飲み

 でも分かりますよね?僕たちだってそうなりませんか?上の絵見てもらってもいいんですけど、「いやあ、お酒いっぱいあって楽しそうやなあ」と思うかもしれません。こうじーっと座ってるところに「何してんの?」「いや、酒飲んでるんだ」とはいうかもしれませんね。「何でお酒飲むの?」とは聞かないかもしれない。「一緒に飲もか」とか。いろいろでしょうけど、相手に「忘れるためさ」と言われた時にどう思うのか?気の毒になるでしょうか?

B:やっぱり忘れなきゃいけないつらいことがあるんだろうな、だから酒飲んでるんだろうなとは思うかな。

西川:
 酒飲むことよりも、「忘れるためさ」がきっとつらいんだと思います。「はっはっはっは!」とか言いながら、めちゃくちゃ楽しそうに陽気に飲んでるような顔してたおっちゃんがいたとします。「よう飲んでますなあ」「ようそんなに飲むねえ」とか声掛けたら、帰ってきたのが「忘れるためだ」。気持ちはガラッと変わりますね。

 だから酒浸りになっている状態よりも、酒に酔っているということよりも、何より「忘れるためさ」というこの言葉で、「あ、この人は悲しい思いをしている、苦しい思いをしている」人として感受できるっていうことですよね。

 この「忘れるためにさ」ということよりも、「酒浸り」のところで、僕たちは「ああ、飲んべえの話ね」みたいなになっちゃうんです。酒飲みっていうのに対するわれわれのイメージは何なのかと考えると、まあ「ずーっと飲んでる」とか。要するに「常軌を逸した飲み方」「働いていない」とか、「無駄遣いしている」とか、それから「理性を失っている」「だらしない」とか。

 そういうイメージが「酒飲み」っていう言葉にはいっぱい込められてるんですよね。お酒そのものにはそんなに悪いイメージはない。三三九度だってやるし、固めの杯だってやるし、祭りには酒はつきものやし、神聖なものともいえるかもしれない。

 でもそれを常態的に、常習的に飲む人については「酒飲み」みたいな言い方してしまうわけです。アルコール依存、というか依存症の話としてこれを読んでみても考えることがいっぱいあると思うんです。


依存の悪循環

西川:
 一昨日釜ヶ崎のおっちゃん二人が僕のところに遊びに来ました。夕方来て晩飯食べて帰るはずだったんです。飲むのは三人。僕とその二人です。僕は缶ビール500(ml)を6本と日本酒の四合瓶を1本置いてました。そんなに多くない。いや少なくもないですけど、まあ「飲みすぎるとなんかひどくなるやろな」と思ったから、「この程度にしとこ」と思ったわけです。周りに自動販売機もないので。

 だから「これでもうおしまい」と思っていたら、敵もさる者でした(笑)。リュックからパッと、ボーンッて出してきたら、焼酎甲類・乙類・混合酒が出てきた。いわゆる安いやつです。1.8リットル紙パックの芋焼酎と「ああ、わしも持って来ましたわ」言うてボンと出てきたら米焼酎がね、半升。

 結局、1.5升焼酎飲んで、焼酎5合ですよ。それでビールが1.2リットルで酒が3合。それで、帰れるわけがない(笑)。で結局二人とも泊まったんです。

 一人はアルコール依存で病院に行ってます。アンタビューズ[*2]なんかももらって治療受けてるんですが、「でもやっぱり全然飲めへんっていうのはやっぱりおかしいと思うから、飲むんです」とかいってます。でも「病院やめようと思ったけど、やめると毎日飲む羽目になるんで、やっぱりたまには休肝日」とかちょっと揺れている人なんです。

 もう片一方はもう全然朝から飲む。夜中の3時、僕がトイレに起きたらまだ飲んでたんです。「はよ寝ぇや」とか言いながらしばらく寝てました。それで朝になって朝ご飯を僕が作ってやったら、まだ焼酎が少しだけ残っていたんですよ。ほんなら「ごはんは?」「いや、ごはんはいいです。僕朝から飲むんで、すいません」とか言うて、また飲んでる(笑)。

 それで一緒に今度釜ヶ崎行くんですけど、その途中にまた焼酎買って、まあそれをまた延々と飲んでる。もうずーっと飲んでるんです。別に悪いことしないんです。飲んでるだけなんですよ。飲んでるだけなんですけど、なぜかあまり「そんなに飲めて素晴らしいね」とはなかなか言えないですね。

 ずっと本持って歩いてる人に「いつまでも本持って歩くのやめたら?」とは言わないですよね?「常に本持ってますね」とか「常にパソコン持ってますね」っていうのはほめられるのに、酒瓶を持ってるとボロクソに言われる。いったい何なのかなあとか思ったりもしますけど。

 でもまあそういう人に対する――まあ「そういう人に」って言うことないですけど――、アルコール依存症、つまりアディクションの治療方法に、さっき言ったような強制的な嫌酒剤(アンタビューズ)があります。嫌酒剤は自分が飲まないとだめなんですけど、薬飲んでからアルコールを飲むと動悸がするし吐き気がする。身体的に圧倒的な不調になります。もちろん説明があってから処方されるんです。それを飲んだら一日もう酒飲めない。飲んだらひどいことになるから。覚悟して薬を飲むんですよ。自らそういう嫌酒剤を飲むっていう、自己決定の世界なんですね。

[*2] アンタビューズ、アンタブス:Antabuse、抗酒薬。単独に服用してもなんら徴候を呈しないが、服用後アルコール飲料をとると非常に不快な症状が現れる。

 昔、僕が精神病院勤めてた時にはアルコール病棟ってありました。要するに「依存症の人は飲めないところに入れちゃう」みたいな感じでした。「肝機能を良くして」云々で、身体的な治療はできるわけですけど、飲みたいという気持ちに関してはむずかしいですよね。向こうは酒飲んでなかったら普通の人ですから、計算もできるし嘘もつけるわけですよ。

 「もう飲みませんよ。こんなとこもういいですよ。もう半年ですよ。もう先生帰してくださいよ。信じてください」とか言って、出た途端に飲んだりとかするわけです。

 その中でだんだん酒との縁が切れていくのは――治療効果って言っていいのかどうか分かりませんけど――、断酒会、アルコール・アノニマス(アルコホーリクス・アノニマス[*3])、要するに仲間が大事だとされていますね。

 自分のアルコールとの付き合いで失敗したことなんかをそれぞれ話し合う。断酒会と言いながら、酒飲んだ時の失敗談をいっぱいする会に、自分たちが継続して参加するのが一番いいんだ、みたいに言われたりします。

 王子と酒飲みの話ってものすごい悪循環になっているわけでしょう?恥ずかしいことを忘れよう。「なんでお酒飲むの?」「忘れるためさ」「何を忘れるの?」「恥ずかしい思い」「なにが恥ずかしいの?」「酒を飲むことだ」。悪循環じゃないですか。

 さっきの断酒会の話も含めて考えた時に何が問題なんでしょうか?たぶん王子の話しかけ方はアルコール依存症に対するアプローチとしてはよろしくはないです。別にでも、この人看護師じゃないから、まあこうなったっていいのかもしれない。それより問題はこの悪循環に陥ることの原因って何なのかということです。なんだと思います?

[*3] アルコホーリクス・アノニマス:Alcoholics Anonymous、無名のアルコホーリクたち。1935年にアメリカでビル・ウィンソンとボブ・スミスの出会いから始まり、世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助(自助グループ)の集まりで、略してAAと呼ばれる。


依存症とセルフコントロール

C:
 本人の中に――たぶん本人にももう分からなくなってるかもしれないけど――、たぶん最初忘れたいことって他にあったのかもしれませんね。あるいは何か別の理由があって、お酒を飲もうとしてたんかもしれませんね。でその後、循環してるから、悪循環がこう繰り返して、もう本人もこの「酒を飲んでるのが恥ずかしいのさ」としかもう答えられなくなってるみたいな。だとしたら、そこにダイアローグによって入り込んでいくのがケアや治療の糸口になるかもしれないですけど、王子さまはそこに行かないですよね。

 それと「気の毒になってきた」っていうのは、王子さまが自分のことと重ねてたのかなとは思いました。王子さまってなんかもっとつらい過去を背負ってるみたいなことは描かれてますよね。パイロットとの話でも。忘れたいもの、つらいことはあったんだろうな。

西川:バラのこと忘れようと思って旅に出たんですよ。

C:そうそう。だから「この酒飲みにも『バラ』がいたのかなあ」とか、そんな感じのことですよね。でもここではなんかそれ以上突っこまないですね。この明らかに循環したようなこと言われて。で、それ以上なんかもう興味湧かなかったというか。

西川:
 そうなんですよ。こういう悪循環にハマる、まあメカニズムって言ったらおかしいですけど、なぜこうなってしまうのかというと、恐らくは一人だからです。孤独だからです。

 それに仲間でない人と出会ってもだめなんですよ。この王子は酒飲みの仲間にはなっていない。

 悪循環に陥る時の最大の要因として、自分の中で解決を見つけようとするセルフコントロールがあげられることが多いですよね。アルコール依存でよく言われるのは、全然セルフコントロールできてないからということです。

 「自制心がないからそんなアル中、依存症になるんや」といいますが、実は、忘れるために酒を飲むのは、自分が何かをしたい時に、忘れたいことがあった時に、酒を飲めば自分の精神状態が変わるからです。

 さっきまでつらかったことをまるで忘れたかのようにケラケラケラケラ笑い出したりすることを知っていて、酒を使っているわけです。だから自分がなりたい自分になるために酒を飲んでいるわけです。セルフコントロールしようという意欲がめちゃくちゃ強い人なんですよ。

 忘れたいことを、自分で忘れようとするために、何かそういう酒とかを使ってでも自分の思いを遂げようとしている。だから、セルフコントロール欲求がものすごい強いんですよね。「忘れたいけど到底忘れられへんわなあ、泣くしかないわなあ」という人は、酒で忘れようとして、いつの間にか酒に飲まれてしまって、そこから抜け出せないっていうことはないわけです。

 これはよく言われることなんですけど、アルコール依存症の場合でも、「なんとかして自分はもう酒をやめます!俺が決意したらやめるんです!」というのは、要するにまだセルフコントロールの癖が抜けていないわけです。

 だからそれはあんまりよろしくないんです。「先生の前で誓います。もう私やめますから、もう私を信じてください」と言った途端にアウトなんです。セルフコントロールで、自分のもう忘れてしまいたいことをお酒に酔って何とかしようとか、人に頼らないわけです。自分で何とかしようとするわけですよ。

 だからその時に酒を助けにするわけです。人に頼るんじゃなくて、酒に頼るんです。酒を飲むのは自分ですよ。要するに自分で自分を何とかしようとするのが、アルコール依存の一番根深ーい病理といえば病理なんです。

自分基準という地獄

西川:
 でも、自分で自分のことをコントロールすることを、今の社会はものすごくほめたたえてんですよ。その道具が違うだけなんです。

 ある意味では酒は、神聖な儀式とか、人が今までの日常とは違う、違う人生に踏み出す時とかにお酒が必要になるんですけど、これは人の気持ちだけでは、人の決意だけではそんなに人生なんて変わらないからということです。

 だから酒という薬物を使って「非日常」に入るわけですよ。その時にものすごく大切なきっかけとなるものなんですね。だから別に栄養がなかろうが、子どもにとってはまずかろうが、なんです。お酒は、炭水化物のおにぎりがおいしいようにおいしいわけじゃないですよ。最初から「うまい!」と思って飲んでいないです。

 酔い心地に慣れていくうちに、お酒というものにだんだんだんだん自分が親しんでいきます。だからある意味、人が自分を変える時に一番手を出しやすいものなんですね。お酒ってもともと手やすく手に入るもんじゃないはずなんですけど。でも、ともかくそれでやろうとしているんです。で、その中でよけい一人でいるから、セルフコントロールの罠にはまった人のあがきになってしまう。

 断酒会なんか僕はあんまりよく知りませんけれども、昔は、基本的には「やめるか? やめないとここから出さないぞ!」「酒やめるやめないはあなたの決心一つや」というかたちでした。アルコール依存症なんかを閉鎖病棟入れた時にはそういう考え方でした。

 だから「私やめます!」といって、飲んだらまた入って来る。そういう懲罰的にやっていたわけです。それとは違って断酒会ではもう名乗らない。「私が」と言わない。無名の者として酒飲んだ時の失敗を語ります。成功したことじゃなくてセルフコントロールに失敗した話をしていく。

 失敗したことをみんなが聞いてくれるわけです。「失敗したことで悩んでるけども、また失敗するかもしれんけれど」「僕も実はこんな失敗がありました」と、どんどんどんどん、セルフコントロールに失敗した、酒の失敗の話をお互いがすることによって、「あ、失敗することもあるんや」というかたちで、「自分で自分を何とかする」というモードから外れるわけです。

 そうしてはじめて、人の助言とか人の支えが、ほんとにあたたかく自分の身に沁みてくる。「自分で何とかやろう」と思ってる時には結局、助けてあげようと思っても、「黙りこくり、そのあとはもう一言も口を利かなくなりました」という拒絶になっちゃいます。まだ自分で「忘れるために」と言っているんですから。「忘れたいからさ。忘れるために飲んでるんだ」。飲むことの理由が自分の中にあるわけですから。

 そういう自分の世界にいることの恐ろしさ、蟻地獄を、もうちょっと僕たち考えてもいいかなと思います。それこそ「自己決定」とか「自己責任」だとか「自立する」だとか、要するに「自分らしく」とかは、要するに自分を全部基準に置くわけですけど、そうやっちゃうとものすごい怖い世界になります。孤独地獄っていうのかな。

写真1酒飲み

 もうそういう悪循環にいっぺん入ったら、もう逃れようがなくなってしまうわけです。まあ、言ってみたら、酒飲みは社会的に、反社会的、非社会的・非生産的というかたちです――この絵もそうですけれども――。釜ヶ崎のおっちゃんとか路上の人たちも、昼間っから酒飲んで寝てる。実は、夜中一生懸命空き缶拾ってるわけですけれども。

 そういう酒飲んで寝てる姿に対してみんなボロクソに言います。でもその酒を飲む姿は、一面では「セルフコントロールしよう」「酒の力を借りてでも」ということなんです。「どうしようもない自分をそのままに置いとけない。何とか忘れたい」というかたち。

 今の自分をいいようにできなかったら、その自分を消してしまいたい。そういう自分を、愚かな自分を忘れてしまうぐらい、我を忘れるぐらいの酒を飲んでしまいたい。だからもう一度、我に戻ったら「ああ恥ずかしい、また…」ということになるわけですよね。そうならないためには何をすればよいのか。

 よくよく考えてみると、『星の王子さま』では登場人物が――以前Cくんが言ってましたけど――、登場人物が一度に3人とか複数出てくるところほとんどないんですよ。だいたい一対一なんです。みんな孤独と孤独が出会うんです。だからあの王にしたってうぬぼれ男にしたって、一人だっていうことがどういうふうにまた影響してるのか考えてみてもいいですね。ほんとに人と人とが出会うっていうことが、どういうふうにして可能なのか。

 で、恐らくまだ王子は出会えていないんです。会ってるのに出会えていない。なぜ出会えてないのかというところを読み解かないと、その後の、それこそキツネとかの話が響いてこないと僕は思います。最初から、出た時から、王子をすごい純真無垢で、大人の矛盾を突きまくる聡明な子どもと考えてたらだめなわけで。

 『星の王子さま』は、成長物語・冒険物語というか、教養小説と言うんですけど、だんだんだんだん成長していく過程をたぶん描いてるんです。ただ「この人はこういうふうにえらくなりました、この人はこういうふうにえらくなりました」とは解説してくれていません。だから、パッと読むとですね、まるでそのバカな大人たちと会って、大人の愚かさを指摘していく賢い子どもだなあって読んでしまうんですけど、そういうふうに読まない方がいいです。

人間の惨めさ

西川:
 で、僕もこういう酒飲みのところが事実ありますから、酒飲みの擁護したいんですけど、あのー、「恥ずかしい、恥ずかしい」「恥ずかしい思いを忘れるためさ」とあるわけですが、恥ずかしいこといっぱいあるんです。恥ずかしいというのは「自分が惨めだ」とか。だとしたら、「惨めだ」ということが分かるためには、何が必要なのでしょうか。

「恥ずかしい思いを忘れるためさ」と、首(こうべ)をたれながら、酒飲みは正直に答えました。

 それに酒飲みは正直に答えているんです。これ、本心なんですね。「恥ずかしい思いを忘れたい」「自分は恥ずかしい思いに満たされてる」っていうことです。まあその後のことはちょっと置いといて。「非常に自分自身の、自分の存在が惨めで恥ずかしくって」って「いやしいもんだと思っている」。

 でも――これたとえが難しいんですけど――、かつて栄光というか誇りを感じたことがなかった人間は惨めさとか恥ずかしさを感じるだろうでしょうか。一度も転落の経験がない場合です。「かつてはそうじゃなかったのに、今こんなふうになってしまった」とか「もうこんなにボケたら、もう早よお迎え来てもらったほうがいいわ。もう惨めやわ」とか「もうこんな歳とって」「もうこんな貧乏になって」とかではない場合。

 「こんな貧乏になって」は、昔もうちょっと金持っていたということですよね。貧乏が惨めだと思うのは、昔もっと金を持ってたからか、もしくは、まわりに金持ちというものを見て知っているわけです。すべてが同じように貧しい時に、自分が貧しいことを惨めだとは思わない。だから惨めさを知るということは、惨めさの反対を知っているということです。少なくとも「知っている」わけです。

 で、先ほども言いましたけど、僕は『パンセ』を読んでるんですが、『パンセ』には人間のこの惨めさみたいなこといっぱい書いてあります。「神なき人間の悲惨さ」っていう形で書いてるんです。

 『パンセ』の断章の中で、パスカルは「人間の偉大さは、自分が惨めであることを自覚している時にこそある」と書いてます。「恥ずかしい思いを忘れるためさ」ということですね。まあ、これを偉大とは到底思えませんけれど、正直に「恥ずかしい思いを忘れるためさ」と言っているわけです。

 人間存在の恥ずかしさ、惨めさ、卑しさ。これ考えてみると、キリスト教的に考えたら神に比べればということです。まあまあそんなことを僕が言うても仕方がないんですけど。

 エデンの園を追われて以来、人は運命に翻弄される儚い命を生きてるだけで、自分がいかに努力しようと運命は容赦なくやって来るわけですし、言ってみたら、そのことを忘れている間だけ笑えるんですよ。

 自分は必ず死すべき存在であって、別に生まれて来なくってもよかった。必ずしも、必ずしも、必ずしも自分の存在が必要であったわけではない。たまたまこの世に来た。たまたま来たけれども、必ずこの世から消し去られる。

 そうやって『パンセ』なんか読んでいくと、いろいろ考えていくと、「もうほんとに人間て惨め」みたいになるわけです。パスカルの場合は、その惨めさを自覚してもう一度救われるためにはどうすればいいのかということで、キリスト教の信仰が大切なんだとなって、キリスト教の護教論[*4]を企画していたんですね。

[*4] 護教論:apologetics、宗教の非合理性、非科学性を非難する議論に対して、宗教が人間にとって必要不可欠であり、理性に反するものでないことを弁明する議論をいい、特にキリスト教の立場からキリスト教信仰の正当性、真理性が論じられるときに用いられる言葉。

 まあそれはそれとして、一方で、人間の、さっきの「思い上がり」じゃないですけど、「俺が。俺こそが」とか「人間は」とかの思い上がりはものすごい強い。軽薄であるけど、ものすごい強いわけです。

 自分が偉大だと思うことは、いわゆるこうギリシャのあたりからずーっと言われてる傲慢、倨傲(きょごう)、ヒュブリス(ὕβρις、hubris)と言うんですけど、ギリシャ語では、これこそが人間の最大の罪だと言われていたわけです。

 「人間ごとき存在であるのに自分の偉大さを誇るなんていうのは、人間として最も愚かで最も罪深いことや」というのが向こうの考え方としてあるわけですね。だからと言って惨めさに落ち込んでしまえば、絶望して無力にならざるを得ない。

 偉大を願いながらも、思い上がりはものすごい強い。そういう人間でありながらも、でも事実は、事実はですよ、ものすごく悲惨な惨めな存在である時にどうすればいいのでしょうか。

忘れようとして忘れることができるか

西川:
 にっちもさっちも行かなくなった時には、ある意味、酒飲みたいに。そういうことを考えてる自分そのものを忘れてしまいたい、恥ずかしい思いを特に忘れ去ってしまいたい、となる。そういう傲慢さにまでは陥らないけれども、でも惨めさに耐え忍ぶほどの力もないときに、「忘れてしまいたい」ということですね。それについて、鷲田先生が、よく言うのは「忘れたらあかんこと、忘れていいこと、忘れなあかんこと」。忘れるには、この三つの態度があると言うんです。

 僕こないだ西成のココルームで合作俳句っていうのやったんです。三人で五七五を作るっていうやつ。相談してじゃないんです。上の句書いたやつが回ってくるんですよ。それに書いたらまた誰かのが回ってくるっていうやつなんですけど。

 それでおもしろいのがあってね。「苦労」というテーマというか、まあとっかかりの言葉が「苦労」だったんです。最初、僕が書いたんですよ。「忘れたよ」。「わ・す・れ・た・よ」っていう。で、「忘れたよ」をもらった人が「忘れてへんで」って書いてました(笑)。「忘れたよ 忘れてへんで」。それで、その次にまた「忘れたんだよ」と書いているという(笑)。

 五七五になってないです。そこらへんは自由なんです。でも「忘れたよ 忘れてないよ 忘れたんだよ」。「忘れた」というのは、これは本当は自覚できないはずです。言われるまで分からないわけですから。忘れていて、意識に上っていないわけですから。「忘れる」ということは、「忘れよう」って思えば思うほど、無理なんですよね。

 僕のもう一人の師匠の植島先生からいっぺん聞いたことがある話ですけど、「どんな願いでも叶えてあげる。ただ一つだけ条件がある。ただ一つだけ。そんな難しいことじゃない」。で、うさぎのしっぽかなんかピッと見せて、「このうさぎのしっぽのこと絶対にもう思い出さないで」。「はい、何? 君の望みは」「いや…」。「忘れられましたか?」みたいなね(笑)。とにかくみんな忘れることはできない。忘れられないです。

 「忘れる」は、言ってみたら人間の力の及ばないようなところにある。にも関わらず、僕たちは惨めさに関しては「忘れたい」と思ってしまう。だから、自らの力を頼んで忘れようとすることが悪循環というか、より滑稽に見えてしまう。そこで、王子がもうほんと救いがない「なんで? おかしいやん!」というところに、突っ込んでしまうのが、僕はすごくここでは大事なことかなと思います。

セルフコントロールの病い

西川:じゃあとは、この絵をじーっと見て、さあみなさんで何か感じたことを聞いてみましょうか。「まあ、よう似た人がいてるなあ」みたいな感じですけどね。

写真1酒飲み

C:たしかにこれは一人飲みしてる図ですよね、うん。二人飲みやったらもうちょっと向かい側にスペースがある感じがしますもんね。瓶もこれ向こう側に倒れてるから、明らかにこの人が倒してますよね。

西川:でもね、ちゃんと蓋閉まってんだよ、これ(笑)。

C:これ、一応飲んだけどまだ残ってるから、蓋しといたんでしょうね。コルクか。フランスだし。

西川:でも、酒をにらんでないでしょう?

C:そうですね。焦点が合ってない。王子さまも見てない感じがしますけど、これは。

西川:まあこのあたりからみんなお酒を、よかったら飲みながら。もう19時半ですから、ややこしい話はこれぐらいなんですし。「酒を飲むっていうことはどういうことなのか?」

C:この後ろにあるの空き瓶じゃないですね。まだ入ってるやつだ。まあそう聞きながら見ると、この酒飲みが一番自分を持っているというか、自己完結はたしかにしてる感じがしますね。この人、王子さまが出てった後も何も変わってなさそう。

西川:変わらない。

C:この他の登場人物、結構「王子さんと出会った後どうしたんだろう?」っていう想像力が働くとこもあるんですよ。

西川:王様は王様で、「お前を大臣にしてやる。…あ、行っちゃった」みたいなね、悲しい思いしてるでしょうし。

C:そうそう。二番目の人も、「こんなことをして、いったいなにがおもしろいの?」みたいな捨て台詞を残されて。

西川:「尊敬してくれてる?」みたいな感じで、やっぱり心が通ってますね。

C:四つ目の事業家なんかも最後ぽかんとして、こう返事ができなくてみたいなことが書いてあって。この酒飲みだけ一番、出て行った後に、何も変化がなさそうな感じがたしかにします。

西川:恥ずかしい思いを忘れるって、「恥ずかしくない存在になりたい」と言っているんですよね?それは本当は悪い話じゃないんです。ところが一人でやっちゃうとそうはならない。

C:「何が恥ずかしいの?」っていうのは「救ってやりたい」と思って聞いたって書いてるから。何が救いなのかと王子さまは考えてたかということですけど、恥ずかしい思いを忘れることが救いだと思って、忘れるのを協力してあげたいと思ったんですかね?王子さまは。

西川:いやいや、これ結局何にもできなかったんでしょう。いやあ、どうするかなあ。僕なら一緒に飲み始めますけどね。一人で飲むのをやめれば、酒を飲む経験は変わりますよ。

C:たしかにそうですよね。大人だったらそうしますよね。酒飲んでて「つらいことあって飲んでるんだよ」「じゃあ一緒に飲もうか」は大人の対応に感じます。王子さまだからそうならないんですよね。

西川:それか、そんな人は気持ち悪いから避けるか。どちらかですね。でも一緒に飲んで、ずーっと飲んでるかもしれないけどね。分かんないけど(笑)。

A:住人になっちゃう(笑)。

C:そういえば、王子さんが食べたりするシーンあんまりないですよね。水飲むシーンはあるけど。

西川:
 「どこにこれ卵があるんですか? 卵焼きするの」「どこに水湧いてるんですか?」みたいなことキリがなくなるからね。フランスのアニメーションとか見たら、あのちっちゃい星にほんとにいろんな物が全部あるんだよね。「みんな好き勝手に解釈すんねんな」って思います。

 あ、それで一個だけ。僕は分かんなくても一応フランス語写しているんですよ。それで分かんなくても辞書引っ張ったりとかしてるんです。それはそれですごい勉強なったんですけど、なんか違うから今日はしませんでしたけど。で、YouTubeで朗読の結構いいのがあったんです。今日のとこだけちょっと聞いてみましょうか。酔っ払いがどんな声かってね。

[YouTube音声]

西川:
 これはね、結構フランス語の読み方もゆっくりだし、なんかいいんですよ。子どもの声もいい。でも、全体的にあんまりいいのないです。ジェラール・フィリップと子役の40分ぐらいのラジオドラマにしてるのはすごくいいんですけど、でも速すぎて聞き取れない。これはそうでもないですね。

 ただ、この酔っ払いのイメージがどうしても年老いた男という感じでしょ?実際多いわけですけど、なぜなんでしょうか。

 考えてみると、男はセルフコントロールの力で社会的に評価されるわけです。「お前何できる?」「いや、私これでこうこうできます」というかたち。自分のできることで評価される。

 でも言ってみたら、今は男だけじゃないですよね。女性も、企業社会ではそういうところで評価されるんですけど、それが言ってみたら、職を失くしたりだとか年老いてくると、どうしてもそういうところから外れざるを得ないわけです。だから、「かつての栄光」を知っている人間は惨めになってしまう。その惨めさをまた「忘れる」というかたちででもいいからセルフコントロールしようとすると、酒の輪の中に入ってしまう。

 だからある程度歳とったら、ほんとに家出するべきですよね(笑)。

D:お酒飲みの話にすごく興味があったんです。半分でも聞けてよかったです。

西川:
 ほんとに愚かな感じがするんですけど、そこから僕たちが学ぶのは、簡単にそれを切り捨てるような、「とてもとても変だなあ」という王子になっても仕方がないってことです。

 そうではなくて、こういうあり方をせざるを得ないところがどこにあるんだろうか、ということです。それを、酒飲む人のだらしなさという個人の問題にしたりしてはダメだと思います。やっぱり自分と地続きの問題として考えなきゃいけません。

C:今聞いてて改めて思いましたけど、「王子さま」と訳されているところ、原文はいちいち全部「プティ・プランス」(Petit Prince)なんですよね。だからこれタイトルが『ル・プティ・プランス』(Le Petit Prince)だと、これ直訳的に言うと、これ「星の王子さま」っていう訳になったら、全部いちいち「星の王子さま」「星の王子さま」になりますよね。

西川:そうそう。

C:これそうすると確かに日本語としてはね、すごくなんか、

西川:ただなんか「王子」ばかりでもないときがあるんですよ。「坊や」みたいな言い方になったりとか。

C:これ、単語的っていうか構文的に言うと、「ル・プティ・プランス」(Le Petit Prince)だから「王子さま」であって、「王子」じゃなくて「王子さま」になるっていうんですよね。

西川:まあ、もう翻訳はね、仕方がないです。もう稲垣さんを信じるしかないですね(笑)。

C:たしかあのほら、えーと、光文社やっけ、新訳のやつは『ちいさな王子』っていう訳してて。あれはたしか本文も全部「ちいさい王子」「ちいさい王子」って。

西川:でもそれだって、一括変換できるわけですからね。やっぱり、本来は――今ちょうどベルクソン読んでるんですけど――、言葉は、文脈によって多様な意味を表すわけです。だからそれ母語やったらその多様な意味の変化が分かるわけですよ。そうするとやっぱり、全部違うように訳さなくてはいけないと思います。

C:そういう翻訳の考え方もありですよね。論文訳すときなんかは概念を対応させるっていう意味で言葉を使うから。

西川:これ論文じゃないですからね(笑)。

C:そうそう。「ル・プティ・プランス」(Le Petit Prince)って、たしかに本のタイトルとして使えるし、そのまま本文にも使えるから。やっぱり日本語の文法の事情がそこらへん違うから、はっきりとはならなくても別にいいのかもしれませんね。英語で本文読んでたら、「リトル・プリンス」(Little Prince)ってのはしょっちゅう、ほぼずーっと出てきっぱなしの言葉なわけですし。

西川:いろいろこう見てきましたけど、やっぱり僕、稲垣さんの訳はいいと思いますよ。ただ、ちょっと説明過多に近いような訳し方してるとこあったりはしますね。

C:時々ちょっとなんか言葉を補って訳してる感じのとこあったりとかしてますね。

西川:まあでもいいです。僕は「これを読む」というつもりでやってますから。

 

ちょっと恥ずかしいこと

F:「恥ずかしい」と「惨め」って、少しニュアンスが私は違うかなって。

西川:
 ああ。「オント」(honte)っていうフランス語なんですけど、まあ恥とか羞恥心、恥ずかしさみたいな意味になってるんです。やっぱり無力だっていうことなんですね。人に誇れるほどの力がないっていうか。

 だからそれを正直に分かってるってことが、人間にとっての偉大さだとパスカルなんかは言うんです。でもそれを偉大なまんまで終わらせない。『パンセ』ってほんとに矛盾の中での人間をいかに書くかというのが強烈なんです。僕はそれに文章の書き方もものすごい影響受けていると思います。きれいに対句みたいになってるところがいっぱいあるんです。やっぱり、古典的な名文に近いんでしょうけど。

C:『パンセ』に「個別的にはどれも表せない似ている二つの顔も、一緒になるとその相似によって笑わせる」というやつあって。「ああ、これは何か似顔絵のことだな」と思って。

西川:それ最初のほう? 

C:これはラフュマ版だと13番、ブランシュヴィク版だと133番だそうです。本では読んだけど前後のテキストとかないから、「どういう流れでこういうこと言ってるのかな?」とか思いましたね。

西川:わかりませんよ。今の『パンセ』も要するに断片ですから。

C:何でここで顔が出てくるんだろう。たしかにこれは分かるんですけど。似てるのがそれぞれ別々にあったって何もないんだけど、並んでるとおもしろい。これは結構似顔絵のまあ醍醐味のところがあって、同じじゃだめなんですよね。まったく同じだとなんか不気味になったりとかするし、あり得ないよね。ずれがあるところが大事。

西川:たとえば恥ずかしいことに対しては、どうしたらいいと思います?

B:うーん。

西川:
 ちょっと恥ずかしいこと。僕は最初に離婚した時、まだ二十何歳でしたけど、それが恥ずかしくって言えないんです。知ってる人は知ってる。そらもうその前にいろいろ四の五のごたごたあったから分かっているんですけど、まあ「とうとう離婚することになりました」と。

 ほんとに僕に親身になってくれてる人は「まあ西川、めし食いに来いや」みたいな感じで、まあそれに当たらず触れず普通にという感じでしたけど。まったく知らない人もいますよね。

 やっぱり言えないんですよ。言えないんです。二年ぐらい人に言えなかったんです。「実は僕、離婚してまして」「子どもは嫁さんとこ行きました」みたいなことは言えない。ほんとうに言えない。

 『傷だらけの天使』[*5]で、別れてね、健太という息子を嫁さんが連れて帰ってという件がありましたけど、そういうのって言えないんですよ。それでほんと苦しかったんです。谷荘吉[*6]というホスピス医と神戸でお話やってた時に、思わずそのことを言ってしまったんです。思わず言ってしまって。

 その時はPL病院にいたんですけど。あ、だから五年くらい言えなかったんですね。そこにPL病院の婦長さんがいまして、「そうなのぉ」って言われて(笑)。まあその時は僕もう再婚してはいたんですけど、「そうなのぉ」って言われて。

 それで一気になんかこう、なんか「恥ずかしい、恥ずかしい」…。「恥ずかしい」と言うのも申し訳ないんですけどね。当時の嫁さんにも悪いし。でも、とにかく言えなかったんです。よう言わんかった。

 「幸せにすると思ったのにできなかった」とか、ほんまに「子どもまで」みたいな、そんな思いがずーっとあって。それを認めて離婚したんですけど、でもそのことを人には言えなかった。

 その後なんか「西川さんは露悪趣味やねえ」「自虐ネタが多い男や」みたいに言われるようになって、人から指摘される前に、ぼんぼんぼんぼんと言っちゃう感じになっちゃった。まあそれもどうかなと思いますけど(笑)。

 さて、どうしたらいいと思いますか。自分の恥ずかしいこととか、忘れてしまいたいことに対して、どう付き合うのがいいのか。僕やっぱりつらかった。それはすごく覚えてます。別にわざわざ言う必要ないです。言う必要ないんだけど、言わないでいるっていうこと。恥ずかしいから言わない。できることなら忘れたいし、人に知られたくないっていうのが、ものすごくこう自分の生きてる上ではしんどいんですよ。

 「西川さんって優しそうね」とか言われても「はい」とか言えないわけですよ(笑)。「いや、だってこれを聞いたら変わるよ、あなた」みたいな感じがするし(笑)。そんな時はだからやっぱ酒飲んでしまいますよね、うん。ずーっと酒飲んでた覚えありますけどね。いまだに全快してるとは思いませんが。

[*5] 『傷だらけの天使』:1974年10月5日から1975年3月29日まで、毎週土曜日22:00 - 22:55に日本テレビ系で放送された萩原健一、水谷豊出演のテレビドラマである。全26話。

[*6] 谷荘吉:医学博士。東京大学医科学研究所助教授、金沢医科大学教授、日本厚生団衛生科学研究所所長などをへて、2000年より介護老人保健施設・洛西けいゆうの里(京都市)施設長、高齢者ケアセンターひょうご診療所管理医師を歴任。日本ホスピス在宅ケア研究会顧問、近畿ホスピス在宅ケア研究会会長、大阪・生と死を考える会会長、東京・生と死を考える会顧問なども。2014年逝去


秘密は日常のなかにとけていく

C:さっきの植島先生の話と一緒で、忘れたいときはそういう主体的な方法を考えてたら、絶対忘れられないですよね。

西川:そうそう、そうなんだよ。

C:告白しないと。

西川:
 でも言っちゃうと、だから秘密じゃなくしてしまうと、いつの間にか忘れてしまう。そのつらかったこと、「ひどいことしたな」とかいっぱい思ってたのが。
 一人で反省してると、反省しても反省しても許してくれる人がいないから、いつまでも反省して自分を責めなくちゃいけない。で、自分を自分を許すって言ったら、それはもう偽善でしょう。だから、だからね、それはやっぱり「秘密でなくする」ことというか。

 いろいろな心理療法でも、相手が自分の問題について少しでも語り始めたら、それはもうその問題と彼、彼女自身が距離を持ち始めてることだから、あとはもう見守るだけでいいんだそうです。その最初の一言というか、「話そう」ということが難しい。到底出せない。

 だからいつもよく言うんですけど、テイク・ケア(take care)といいますけど、ケア(care)っていうのは相手の気苦労であったり嫌なことなわけですよ。しんどいことなんです。

 そのケアをこう受け取ってくれる人がいたら、受け取ってもらえたら。「テイク・ケア」だから、「あなたのしんどいの、これですか?」みたいな感じで。でも相手が受け取ってくれそうになかったら渡せないし。そういう意味で、「酒飲んで今日はもう全部話したらやー!」とか言うのもそうかもしれません。酒の力借りてしゃべっちゃうみたいな。

C:逆説的やけど、たしかに常時意識の上にのぼるようにさせ続けてたら、忘れる必要ないですよね(笑)。忘れたいことっていうのかな、あの、常時頭の中にあればあるほど、こうね、忘れたいっていう状態にはなってないというか。

西川:
 いやいや、忘れたいんですよ。だからほんとに秘密とか特別なことにしないで、日常のことにどうやってするかっていうことですけど、その日常にしてくれるのは大抵、自分以外の人なんです。

 最初は、「そう、離婚したの?」とか、「えー! どんなふうな、どんな人やったん?」とか聞いてくるけど、そんな話は長続きしません。そんないつまでも相手の興味関心をひく話じゃないわけです。

 こっちとしてはもうずっと一生抱えていかなあかんぐらいの話やと思ってるけど、向こうはいっぺん聞いたら、「そう」。で、「実はこないだ言った…」「もういいよ、それは」みたいになって、もう関心を示してはくれなくなる。

 そういう意味で日常の中に埋没させてくれるのは人々ですよ。自分じゃなくって、まわりの人たち。知ってる人たちが、「まあそんなこともあったらしいけどね、今はどうのこうの」みたいな感じで、そのうちそんなことも言えなくなりますから。最初のうちだけなんですよ。でもそれを一人の心に残してると、いつまでもいつまでも続いてしまう。まあそれがいいことか悪いことか、よく分かりませんけどね。

D:「忘れる」というのは、つまり浄化させるようなことなんですか?

西川:さあー、何でしょうねえ。

D:なんか忘れたいことがあっても、なんか「忘れたらだめ」ってみたいなところが心の奥の中に逆にあるかもしれないですよね。で、だから誰にも言わないけど、忘れたいけど、時々思い出して苦しむんだけど、うん、でも忘れ…、なんか、なんかで絶対忘れさせないものが自分の中にあるのかなあ、みたいな気がちょっと。

西川:僕も忘れたらあかんこといっぱいあると思うんですけど、なんか「ついつい忘れてるなあ」みたいなことあります。こないだもずいぶん前の女房から、「今日は***と***の命日やから、***に行ってきます」ってメッセージが。まあ滅多に来ないんです。一年か二年にいっぺんくらいしか来ないんですけど、「ああそうやった、命日やったな」って。

 僕たちの間に生まれた子どもが死んだ日なんですけど、ほんとにすっかり忘れてました。「ごめんなさい」って言いましたけど、僕は忘れるつもりなかったんですよ。たとえ一緒に暮らさなくなったとしても、何しても。

 一緒にお墓参り行くとかは、最初の頃は言ってましたけど、だんだん「それはもういいか」「どちらにもお互いの生活があるし」って感じだったんです。まあでも、うーん、忘れたらいけないこともあると思いますね。


天使とけだもの

西川:
 忘れようとして酒を飲む。そういう人ってやっぱり気の毒でしょうか。気の毒といえば気の毒なんだけど、でも傷を持つことが人間らしさなんじゃないのかなって、僕なんかは思うんです。

 それこそ何て言うのかな、そんなパッパラパーに能天気に幸せなのが人間かなあって思います。人間って自分の無力さとか自分の罪深さとか、忘れたらあかんことを忘れてしまったりだとか、で、そのことにやっぱり気づいた途端にまた「あーっ」とか思ったりだとか。だからと言ってすぐに、変われるわけでもないしね。

 「天使になろうとすればするほど、けだものに近づく」っていう言葉が『パンセ』の中にありますけど、やっぱり僕らは天使でもけだものでもないんです。人間なんですよ。

 サン=テグジュペリにも絶対そういうフランス・モラリスト的な考え方があると思うんですけど、たいていそういうふうには読まれてない。読まれてないことが多すぎるから、小惑星の旅で、大人たちのために、もうちょっと言葉を足してあげてもいいんじゃないかなあと思ったりします。

C:
 これ昨日たまたま読んでた本ですけど、これに、フロイト[*7]の言葉がちょっと引用してあって。人間こうネガティブなすごい傷つくような体験をすると、その内容を消去するっていうよりは、その体験を繰り返し、あえて立ち返ろうとする傾向みたいなものがあると。

 フロイトの場合は「人間は快楽に向かって行く傾向がある」っていうのがまず前提にあったのに、「なんでそんな苦痛に向かっていうことを人間はするんだろう?」みたいな問いの立て方をしたらしいですが。

 そんなことがちょっと今、昨日たまたま読んだけど、大澤真幸[*8]と熊谷晋一郎[*9]の対談のところに出てきてましたけど。たしかにそういうことってありますよね。僕もありますけどね。ネガティブですごく強烈に苦しい体験って鮮明に覚えてて、なんか時あらばっていうか、隙あらば思い返して、みたいなことありますね。

[*7] フロイト:ジークムント・フロイト、Sigmund Freud、1856-1939、オーストリアの精神科医。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行い、さらに精神力動論を展開した。精神分析学の創始者として知られる。
[*8] 大澤真幸:おおさわ まさち、1958年長野県生まれ。社会学者。
[*9] 熊谷晋一郎:くまがや しんいちろう、1977年山口県生まれ。小児科医、東京大学先端科学技術研究センター准教授。障害者の立場から当事者研究を行っている。

西川:いや、でも思い出せないですね。本当に思い出せない。なんであんなに悲しんだのに、悲しんだり苦しんだり自分を責めたりしたことがあったのに、ある意味今は平和なんです。それはだから自分が努力した結果じゃないですけど、まあ生き続けてきたご褒美みたいなもんかなみたいなね、気がしますけど。

実際に何をしてくれたのか

西川:
 さて、次のところのビジネスマンの話はちょっと長すぎるけど、どうしましょうかね? どうしようかなと思ってるんですけど。これまでもう済んじゃったところで「ここが気になったところですけど」とかってないですか。まあその時しゃべったことを思い出せるか分かりませんけど。

 僕が『星の王子さま』読んで考えるのがもう何回目かでしょう。毎回変わっていっているので、たとえば僕がここでしゃべっているのは「最新」の話なんですね。でもいつも通り「決定」ではないです。前ここでしゃべったことが、「いやー、あの時はこう言ったけど、いやー、今考えるとそうじゃないかもしれないなあ」とか、いろんなこと考えますから。

 たとえば、一番最初のところ。

 「そうだよ、こんなヒツジなんだ、ぼくがほしかったのは。このヒツジ、たくさん草、食べるかなあ?」

 最初の頃、僕はこれを「見抜く力」って書いているんです。でもこれ、たぶんそれだけではないと今は思っています。たぶん、超能力みたいに「見えないものを見る」みたいに考えるだけではない。

 パイロットはぶっきらぼうに言ってるんです。

 「ほら、箱だよ」「君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」

写真4王子さまのヒツジ

 ちょっと嫌気がさしているわけです。でもイラつきながらもまだ相手のことを思って付き合っている。なんかね、態度とか言葉づかいに惑わされずに、そっけない箱を描かれてポンと渡されたことに惑わされずに、自分に向かって「ほら、君のほしいヒツジはこの中に入ってる」っていう対応、「自分を相手にしてくれてる」っていうところを、王子はちゃんと引き受けてるんじゃないかなって今は思うようになりました。

 言ってる意味分かります?言ってみたら、「こん中に入ってるわ、お前の好きなの」って言われたら、「あ、もう怒ったかな」って思うのが普通じゃないですか。今まで一生懸命ヒツジの絵描いてくれたのにいきなり箱になったし、態度も変わった。

 でも「バラの言うことなんか本気にしちゃだめだったんだ」って、王子さまは気づくわけですよ。「そうじゃなくって、実際に花が何をしてくれたのかっていうことを自分はもっと味わって、そのバラを愛さなきゃいけなかったんだ」「でも僕は幼かったからそれは分からなかったんだ」って言っているわけです。

 だからこれをやっぱり表面的に、「えー! 今まで一生懸命描いてくれたのに、『これだ、箱だ』って言って。嫌なんでしょ? あなたほんとはもう、僕のためにヒツジの絵を描くのが」みたいに、相手の言ってることやとか態度にこだわったら、こうはならないんですよ。明るい顔で、「あ、僕のこれ!」とかってならない。だから王子が変わってきたのかもしれないと思うんですよね。

 まあ、一回目二回目読んだ時には、やっぱり見えないものを見るような能力がある少年として現れてきているようにしかみえない。でも、僕も毎回言ってますけど、『星の王子さま』って読み返していくと、最初の頃の謎が少しずつ解けてくるような、そんなふうな書き方になってるんですよね。いくらでも変わってくるなって思います。

 でもみんな、ほんとはもっと後ろのほうが早く行きたいとか思いません。でも、思わないでください。

一同:(笑)

西川:
 たっぷりとここらあたりを読んで後ろの話に入っていくと、単純にきれいな話じゃなくって、王子はどこでどう変わっていったのかが、大きなテーマとして出てきます。

 そして、やっぱり「孤独」がやっぱり僕ものすごい重要なものとしてあると思うんです。バラが来るまで彼はこのちっちゃな星の王子さまだったんです。ちゃんと世話もしてたんですよ。バオバブのことも気にしてたんですよ。ちゃんと規則正しく生きてた。

 で、バラが来て、バラに心奪われるような出会いをして、もう混乱しちゃうわけです。それで自分の星やのに自分の星から出てしまうことになるわけですよ。それで一人で生きてる人たちと出会うわけですけど、なかなか本当の意味での出会いができていかない。

 それで同じように心を打ち明けて話せる友だちのいないパイロットがサハラ砂漠の中で、ほんとこんなさみしいことはないっていうとこ、たった一人ぼっちのパイロットとその、これから帰ろうとする、星に帰ろうとする王子が出会うんですよ。

 いろんなふうに考えることができるんですけど、「孤独」みたいなこと、「一人」っていうことをテーマにこれを読んでいっても読めるでしょう。そっちのほうが、僕は、「大人対子ども」の話よりずっとなんか意味があるんじゃないかって。この小惑星の大人たちがもっと活きてくるような気するんですよ。「大人対子ども」の話として読むと、小惑星の大人たちはなんか付け足しみたいになってしまうように思いませんか?


サン=テグジュペリの仕掛け

西川:
 まあみなさん、次のビジネスマンのところは相当長いんですけど、おもしろいですよ。たとえばね、まあ宿題っていうことないですけど、次のところ。

 四つ目の星は実業家の星でした。実業家は大忙しだったので、王子さまがやって来ても、顔をあげることさえしませんでした。
 「こんにちは」と王子さまは実業家に言いました。「タバコの火が消えていますよ」
 「三足す二は五、五足す七は十二、十二足す三は十五。こんにちは。十五足す七は二十二。二十二足す六は二十八。タバコに火をつけなおす時間もない。二十六足す五は三十一。やれやれ! ということは合計で、五億一六二万二七三一になる」

写真2実業家

 この台詞に引っ掛けがあります。どこだと思います?これを見つけてみましょう。制限時間ってそんなんないですけどね。僕は、四、五回目こんな勉強会をやって初めて気がつきました。

 大人は「ああ足してんねんなあ」みたいな感じでしっかり読まないでしょ? 誰か見つけてください。それで今日は終わりにしましょうか。三足す二は五やなあ。五足す七は十二やなあ。

C:ああ、十五、十五、また二十二、二十二ってなってるその次が、「二十二足す六は二十八」のあとが二十六から始まってますよね。

西川:そうそうそうそう、えらいねー! (拍手)

C:「二十六足す五は三十一」って、二十八じゃなくて。

西川:
 そうそう、そこがおかしいんですよ。ものすごい緻密に計算してるように見えながら、実は間違えてるんです。「こんな失敗しょっちゅうやってるわけですよ」ってことがさりげなく書いてあるんです。

 これ前にも後ろにも何にも書いてないでしょ?サン=テグジュペリってほんとにこういうやり方をするんです。だからね、さらっと読んじゃうと何も分かんない。本当に心して読まないと。「ものすごい計算ばっかりしてる男だなー」みたいに思うけど、実はそう言いながらしょっちゅうこうやって、「えー、二十二足す六は二十八」、で、ちょっともうひとこと言うたら、「二十六足す五は三十一、やれやれ」。「もう間違うてるよ、お前」って感じですよね。

C:で、そのあとが「五億一六二万…」(笑)。

西川:
 こういうかたちでサン=テグジュペリは読者の読みを、なんというか、チェックするんですよ。恐ろしいでしょう?だから「読めた」と思っててもひょっとしたら、ひょっとしたらなんかまだ抜けてるかもしれません。

 それでさらには挿絵ですよね。挿絵に込められたメッセージをどう読むのか?まあでもそれは書かれてあることの中に見つけることできるんです。もっと本当は、この物語を読んだあと、ここに文章としても絵としても書かれていないもの。ほんとに最後の絵が何なのかっていうことです。この166ページ、この絵からどんな話ができるのか?そこまでいくと、『星の王子さま』、とりあえずちょっとはなじみになったかなあと思います。

写真3最後の絵

 はい、そんな感じでございます。案外ぱっと見つけられちゃったなあ(笑)。

A:すごいね、Cさん。

西川:さすが。

C:フランス語よりも日本語だと見つけやすいんですかね。

西川:まあフランス人はフランス語の方が分かりやすいだろうけど(笑)。

C:これ用法はどうなんですか?ちっちゃい数字ってあの、数字じゃなくてスペルで書く傾向がありますよね。

西川:スペルで書いてる、スペルで。

C:でしょ?スペルだとちょっと見つけにくいと。数字だったらすぐ気づくんじゃないですかね?

西川:いやー、信じやすい大人はね、気づかないですよ(笑)

C:以前もほら、この「こんにちは」っていう台詞もね、「こんにちは」にすぐ答えてなくて、数字をしゃべるついでに差し込むみたいにして「こんにちは」って言ったりとか、こういうのもね、気づきにくかったりとかね、「なんや返事してないやん」ってなりますよね、すっと読んでると。

西川:
 そんなふうにテキストを十分に味わうのもおもしろいんですけど、本当は、本当はその先にある何かを探したいですねえ。でもそれはそんなに簡単なことではないです。誰もが同じことではないですし。その本との付き合い方によって見えて来るものは変わってくるし、人によって変わってくる。

 そういうのが素晴らしい本なんです。誰が読んでも同じ結論。それは教科書だったり取扱説明書です。でも、文学ですから。一人一人読む人によって違うし、読む時によって違う。答えてくれるだけのものがあるんです。一生懸命読んでも答えてくれない本って世の中にはいっぱいあるわけです。

 でも、『星の王子さま』は少なくとも熱意を込めて、「何かを」って思う飢え渇をもって読んだら、必ず与えてくれる本だと僕は思います。


(第13回終了)

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