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第15回ケア塾茶山 『星の王子さまを読む』(2018年11月14日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表)


はじめに

西川:
 やっと半分ぐらいですね。でもなんかなあ、取り残したことがいっぱいあるような気がしますね。

 相変わらず『星の王子さま』についての本を読んでるんですけど、あれ読んだりこれ読んだり、あんまり読みすぎるとよくないね。「あ、こいつも同じこと書いてる」「こいつも同じこと書いてる」「これは書けないな」、「書いてもしゃあないな」。

 誰でも本出す時代だから、電子書籍でも『星の王子さま』のこと書いてる人たくさんいるんですけどどうしようもないね。ほんとに(笑)。

A:三冊ぐらい別々の訳者の『星の王子さま』が平積みになってましたよ。私がたまたま目についただけかも分かりませんけど。読書の秋だから(笑)。

西川:岩波文庫にも新しく入りましたね。美智子妃殿下(2019年から上皇后美智子陛下)と内藤濯の話が後ろに載ってます。美智子さんの本は結構売れますから。

A:ファンが多いからね。

B:ずっと売れ続けているんですかね?

西川:売れてますね。75年になるのかな。5年前に『星の王子さま』70周年ということでガリマール社[*1]とかいろんなフランスの出版社から特別版の豪華な『星の王子さま』がいっぱい出版されたので。

[*1]ガリマール出版社:Éditions Gallimard、フランスを代表する出版社の一つ。

D:初版の本も残ってるんですか?

西川:残ってますね。プレゼント用にサイン本もあるみたいで。

D:どんな本の形をしてたのかちょっと気になりますね。大きさとか。

西川:
 最初はアメリカからペーパーバック[*2]で出てるんです。レイナル・ヒッチコック社。その翌年にフランスで出ます。1946年。フランスで出版されたのはサン=テグジュペリが亡くなってから3年もあとです。

レイナル・ヒッチコック社初版本1943年4月

 アメリカで出たのは1943年の4月だったかな。サン=テグジュペリが亡くなったのは44年の7月です。ニューヨークから北アフリカのほうに戻るとき、サン=テグジュペリが特別版の一冊だけを持って帰ったという話もあります。

[*2]ペーパーバック:紙表紙を用いた低価格の軽装本。ソフトカバーsoftcoverともよばれ、上製の堅表紙本(ハードカバーhardcover)と対比した意味で用いられる。

 サン=テグジュペリの伝記はおもしろいですね。やっぱり複雑な人ですよ。人気はあるけど、それでまわりからも愛されてるけど、非常に複雑な人で、やっぱり結構困ったところがある人だったんじゃないかな。

 サン=テグジュペリのお姉さん、シモーヌ・ド・サン=テグジュペリ[*3]が子ども時代のことを書いてます。そこにアントワーヌとかこのサン=テグジュペリが出てくるんです。どんな暮らししてたかね。おもしろいですよ。貴族だったわけで、どんな生活していたのか分からないから。

 昨日の夜から朝にかけて読んでたんですけど、思い出の話なのにものすごくくわしく書いてありました。文章が上手。ほんとすごい上手。まあ翻訳やけど、すっごい上手で、五感に訴えるような。

 風景とか、それから何て言うかな、色も豊富やし、匂いとかもするはずです。ただぼくは「菩提樹の香りが」って言われても分からないんですけど。虫とか花とか草とか木とかの固有名詞がばんばん入ってました。うん。

 お姉さんはインドシナで二十何年間いたみたい。ずいぶん長生きしてるんです。古文書の管理係みたいなことやっていたみたい。フランスに帰ってきてから、サン=テグジュペリのいろんな手記なんかの管理をやってました。サン=テグジュペリはマザコンだったからお母ちゃんにしょっちゅう手紙を出してて。それをまとめた『母への手紙』[*4]が有名ですね。。

[*3]シモーヌ・ド・サン=テグジュペリ:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの実姉
[*4]『母への手紙』:Lettres à sa Mère、1955年刊行

 結構おもしろかったですね。吉田出版から『庭園と五人の子どもたち』[*5]っていう題名で出てます。上に姉さん二人、弟が一人と妹が一人。だからサン=テグジュペリは五人兄弟の真ん中でした。サンテックスが愛称なんですけど、これは家族以外の人の愛称だったそうです。家族とかまあ本当に仲のいい人は「アントワーヌ・ド」やから、アントワーヌを略して「トニオ」と言ってたらしいね。

 臨床哲学の中岡成文[*6]先生という、鷲田先生と一緒に、僕にいっぱい教えてくれた先生が、西田幾多郎のこと書いた『私と出会うための西田幾多郎』という本があります。普通「西田は」って書きますよね。でも、中岡先生は「幾多郎は」って書くきます(笑)。「幾多郎の言う何々は…」、おもしろいね。

[*5]『庭園と五人の子どもたち』:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの幼少期がシモーヌの巧みな筆致と豊富な写真によって生き生きと描かれた著書。『庭園の五人の子どもたち―アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリとその家族のふるさと』(2012 吉田書店)
[*6]中岡成文:鷲田清一らと共に臨床哲学の運動を起こした。『私と出会うための西田幾多郎』(1999 出窓社)

少しお葬式の話

西川:
 それでは改めて始めましょうか。ケア塾の第15回目になります。今日は最初から飛ばすんじゃなくて、最初に自己紹介しましょうかね。名前と、それから最近あったちょっとおもしろいことというか、気になったことというか。
 
 僕からいきます。このあいだ子守りで天王寺動物園に行きました。天王寺動物園はもともと阿倍野に住んでた小っちゃい頃から行ってたんですけど、大人になってからも、子どもも連れて行ってます。

 ボアコンストリクター[*7]というか、爬虫類館にボアもいるんですよ。ゾウを飲み込むほどのでかいやつじゃないですが、とぐろ巻いてるボアを見に行きました。

[*7]ボアコンストリクター:学名Boa constrictor、ボア科ボア属に分類されるヘビ。

 それから、ちょうどそこに夜行性の動物もいて。コウモリのとこ行ったんですよ。コウモリの餌やりがちょうどありました。おじさんがね「コウモリてみんな嫌う人多いですけど、そんな血を吸うようなコウモリはいませんよ」「動物の血をなめるようなコウモリは少しはいますけど」って言ってましたね。

 普段は果物とか食べるそうです。俳句で調べてみたら、コウモリって蚊喰鳥(かくいどり)って書きます。蚊を食べるから益獣に近い。サイコロぐらいの大きさのリンゴやバナナをバラバラッてやったら、逆さにぶら下がってるコウモリがバタバタバタって来て、地べたにベタンって降りてきて、くわえるんです。

 餌もらって地べたに這いつくばってるコウモリはめちゃくちゃみっともないんです(笑)。羽もピーンと伸ばして飛んでる時にはすごいかっこいいんですけど、地べたでへなへなってなると本当にか弱い感じだし、顔はほんとにネズミみたいな顔してるし。

 ピッと逆さになってるとこなんか、なんとなく「紳士然と」というか、何かすごいかっこいいイメージがあったんですけど。「餌もらうようになったらおしまいやな」みたいな感じしましたね。

 爪みたいなのが一本あるだけだから不器用にしか動けないんですよ。這うのもめちゃくちゃ下手。だからすごく食べにくそうなんです。ところがうまいことくわえて、上手に逆立ちしながら食べるやつものいました。

 まあ何回も動物園行ってたし、「コウモリなんて知ってるや」と思ってたんだけど、実際に、あれだけジーッと見たのは初めてやったんで、おもしろかったなと思いました。まあそういうことで、西川でした。

A:はい。Aです。今、実家に帰ってるので、85歳の母がせっせとおさんどんしてくれて、カキフライとかしてくれてますけど、いつも「揚げすぎ」とかって怒っちゃったり。とんでもない娘です(笑)

E:Eと申します。まあ先月初めてこちらに来させていただいてから無事に『星の王子さま』をゲットしまして。で、初めて読んでるんですけど、なんか全然思ってたのと違うっていうか。なんかほんまにもっとその子ども向けの、なんかファンタジックな感じのお話かなと思ってたら、蓋を開けてみると全然違うっていう。

F:ココペリのFです。スタッフとして、三回ぐらい参加させてもらってます。いろんな利用者さんのところに入らせていただくようになって、普通に生活してたら関わることがなかったような方々と関わるようになりました。それぞれの方の考えがしっかりしていたりとか、生活もすごくマネージメントされてたり、教わることがたくさんあって、仕事が楽しいなあと思うようになりました。

西川:ココペリのスタッフになったの、いつ頃なんですか?

F:4月の終わりに入らせてもらって、半年ぐらいです。

西川:それまではそういうことは全然関係なかったんですか?

F:ずっと東京で普通に会社勤めをしていました。

西川:へー。それはね、ずいぶん世界が変わったでしょ。

F:はい。パーッと変わって、すごくいい経験をさせてもらっています。

D:ココペリでコーディネーターしてますDといいます。僕は普段落語を趣味でやってます。おもしろい話か。。。いやーネタ帳作っておけばよかったな。小話でもできるんですけど、だいたい僕はすべり芸なんで。

一同:(笑)

西川:落語家ではだれが好きですか。

D:さん喬[*8]さんとか、松喬[*9]さんとか。知ってます?

西川:何さん喬と言うんですか?

D:えー、すいません、さん喬しか全然覚えてない。

西川:(笑)

[*8]さん喬:柳家さん喬(やなぎや さんきょう)1948- 、落語家。
[*9]松喬:6代目 笑福亭 松喬(しょうふくてい しょきょう)1951-2013、落語家。

G:ココペリのGです。今日は人生で初めての経験を二つしました。今日ここ来る前に介護やってからきたんですけど、お風呂介護があったんで、ちょっと服脱いでたら、このシャツのこの袖のところのボタンが取れちゃいまして。で、その直後に今度はちょっとまた僕のジャケットのほうもなんか引っ掛けて、ここボタン取れちゃいまして。30分間ぐらいでボタンが二個取れて。ボタンて時々取れるもんやけど、30分以内に取れることってないなあと思って。

H:はい、Hです。最近印象的だったことは、なんかTwitterで「日本住血吸虫[*10]っていう寄生虫の項目がいいよ」っていうツイートがありました。山梨にいるミヤイリガイという貝が中間宿主になって、その日本住血吸虫が田畑を作業している人に寄生して、お腹をぱんぱんにして殺してしまう。そういう地方病が山梨にあって。病気にかかる危険があるのに、みんなが農作業しているんです。その話がなんかこう迫ってきました。

[*10]日本住血吸虫:学名Schistosoma japonicum、扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱有壁吸虫目住血吸虫科住血吸虫属に属する動物。哺乳類の門脈内に寄生する寄生虫の一種。中間宿主は淡水(水田や側溝、ため池)に生息する小型の巻貝のミヤイリガイ(別名カタヤマガイ)。最終宿主はヒト、ネコ、イヌ、ウシなどの様々な哺乳類。

B:Bと申します。演劇の仕事をしております。つい11月2日に大きな公演がやっと終わったので、ちょっと今ほっとしているところです。それと、うちの母親が9月に亡くなって、お葬式の段取りを決める時に葬儀会社の方とお話ししました。家族葬でやりたいのに「会場が大きいとこしかない」とか「この会場にはこれしか合わない」とか、だんだんと向こうの言いたい放題になるんです(笑)。こっちも金額も大きくならないように一生懸命にやりあう。ぎりぎりの時になんだかもう(笑)。

西川:
 僕は貧乏のどん底の時におじいちゃんが亡くなりました。

 当時、僕が親の家を売り飛ばして。まあ家がなくなっちゃったんですよ。それで堺にある大きなお屋敷――古くからある筒井順慶[*11]の子孫なんですけど――の離れを借りることになったんです。

[*11]筒井順慶:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。大和筒井城主、後に大和国郡山城主。

 それがもともと犬小屋でね。大正時代に隠居所に建て替えたけど、畳全部腐ってるんですよ。そこにビニールのゴザひいて、おじいちゃんと両親と僕と四人で暮らしてた。そのうちおじいちゃんが病気になってしまって。病院に入れたら「病院に拉致されたから、無理やり連れて帰ってくれ」って言われて連れて帰ってきたり。でも薬はないし。

 僕とおふくろが看護師だから、なんとか面倒みてきたんですけど、結局亡くなって。最後のほうは治療もできなくて、もう看護だけみたいな感じでした。死後の処置も僕らがしましたからね。棺桶は弟に買いに行かせて。「棺桶とドライアイス、買うてこい」とかいって。それから棺桶を運ぶ車もレンタカーで借りましたね。

 だから全然葬儀屋入れませんでした。すぐ近くの浄土真宗のお坊さんにボーイスカウトか何かで弟が世話になってたんで、もう無理やり「坊さんだけ来てくれ」とかいって。それでも10万ぐらい。10万で全部やっちゃったという。

B:すごいですね。

西川:自分たちで葬式やるっていうのは村八分状態。もともとは地域の共同体で、葬式なんかの時にはいろいろ手伝いがあるわけですから。でももう今の世の中葬儀もよほどのことがなかったら近隣の人たちが手伝ってくれるなんてことなくて、要するにそういう専門業者が仲立ちになってやるしかないわけです。家族葬と言いながら、家族だけで全部取り仕切ろうと思うたら大変ですよ。本気で全部やろうと思ったらね(笑)。お坊さんまで呼んでくるとかね。

B:お坊さんを呼ばない方もいらっしゃるみたいですね。

西川:
 うん。宗派がなければね。

 今、釜ヶ崎の人たちとおつきあいしてるなかで、亡くなってからあとで発見されることもあるんです。ほとんど葬儀はないんですよね。まあ彼ら高齢単身で、まあまあ身よりも何もないんで生活保護受けているので、亡くなっても遺体の引き取り手がいないんです。

 最近、「見送りの会」というのが釜ヶ崎のおっちゃんたちの中でできてきて、そういう一人者同士の葬儀を、何とかしたいということで、お互いの日常の安否確認やったりだとか、ちょっと病気なったら病院に見舞いに行ったりだとかしてます。

 僕は釜ヶ崎でずっと哲学の会をやってたんですけど、いつもいつも来てくれてた人が、亡くなったことをついこのあいだ聞いて。西成の社会医療センターで亡くなったみたいですけど。誰も亡くなったことを知らなかったんです。

 で、ココルームの上田假奈代さん[*12]が「なかなか来えへんなあ」と、ふと気になって何かのつてで聞いたら、どうも…。まあ癌やったから社会医療センター、あそこは保険証も何も要りませんからね。まあそこで亡くなったっていうことを、まあだいぶ粘って聞いたみたいです。

 それで、ココルームで追悼句会をやりました。合作俳句を三人で作る。おふざけの俳句なんですけど、その人のことを思いながらいろんな句を作りました。こんな追悼というか、やり方もありだなあと思ったりしました。

[*12]上田假奈代(うえだ かなよ): 詩人、詩業家。NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表。


フランス語で点灯夫

西川:
 では読んでいきましょうか。

 五つ目の星はとても奇妙な星でした。これまで訪ねた星のなかで、いちばん小さい星でした。ガス灯が一つ立っていて、ガス灯の点灯夫が一人いるのが精いっぱいの大きさでした。空のどこか、家もなく住民もいない惑星に、ガス灯があり、点灯夫が一人いることが、いったいなんの役に立つのか。王子さまには、どうも合点がいきませんでした。合点がいかないながら、王子さまは胸の内で思いました。
 「もしかすると、この人はまともな人じゃないかもしれないな。けれども、この人は、王様やうぬぼれ屋や実業家や酒飲みに比べたら、ずっとまともかもしれない。少なくとも、この人の仕事には意味があるからな。この人がガス灯に火をともすということは、星が一つ生まれたり、花が一つ生まれたりするようなものなんだ。この人がガス灯を消すと、花とか星が眠りについたりするんだからな。とてもすてきな仕事だ。すてきな仕事だからこそ、ほんとうに役に立つんだ」
 惑星のそばまで来ると、王子さまはていねいに点灯夫にお辞儀をしました。
 「おはよう。たった今、ガス灯を消したね。でも、どうしてなの?」
 「そういう決まりなんだよ」と点灯夫は答えました。「おはよう」
 「決まりって、なんのことなの?」
 「ガス灯を消す、っていうことさ。こんばんは」
 そう言うなり、点灯夫はガス灯に再び火をともしました。
 「たった今、ガス灯にまた火をともしたね。いったい、どうしてなの?」
 「そういう決まりなんだよ」
 「分からないなあ」と王子さまは言いました。
 「分かるも分からないもないんだよ」と点灯夫は答えました。「決まりは決まりなんだ。おはよう」
 そう言うなり、点灯夫はガス灯の火を消しました。
 それから、点灯夫は赤いチェックのハンカチで額の汗を拭きました。

 「もう、むちゃくちゃな仕事になっているんだよ。以前は、無理のない仕事だった。朝、ガス灯の火を消して、夕方につければよかった。朝、火を消したら、あとは一日じゅう休めた。夕方、火をつけたら、あとは夜じゅう眠れたからね……」
 「で、そのときから、決まりが変わったの?」
 「決まりは変わってなんかいないよ」と点灯夫は答えました。「だから、大変なのさ! 惑星が年々どんどん速く自転するようになってきた。それなのに、決まりは変わっていないんだ!」
 「で、どうなったの?」と王子さまはききました。
 「それで、もう今じゃ、惑星は一分で一回転してしまう。おれは一秒だって休めないはめになった。なにしろ、一分に一度、火をともすそばから火を消すんだからね」
 「そいつはおもしろい! あなたの星では一日が一分だなんてね」
 「ぜんぜん、おもしろくなんかないよ」と点灯夫は言いました。「さっきから、もうかれこれ一ヶ月も、あんたとおれは話をしていることになるよ」
 「一ヶ月だって?」
 「そうだよ。三十分だ。ということは三十日だよ。こんばんは」
 そう言うなり、点灯夫は再びガス灯に火をともしました。
 王子さまは点灯夫をじっと見つめました。王子さまは点灯夫が好きになりました。決まりを点灯夫がたいそう忠実に守ってきたからです。王子さまは日の入りを思いだしました。かつて自分が椅子を動かすことで、何度もつぎつぎに見ようとした自分の星の日の入りを。王子さまは、好きになった点灯夫を楽にしてあげられたら、いいなあと思いました。
 「ねえ……。いつだって好きなときに休めるやり方があるよ……」
 「そんなやり方があるなら、いつだって休みたいさ」と点灯夫は言いました。
 それというのも、ちゃんと仕事をする人でも、怠けたくなることだってあるからです。
 王子さまは先をつづけました。
 「あなたの星はとても小さいから、大股で三歩も歩けば、一周できてしまう。ゆっくり歩くんだよ。ゆっくり歩いて、お日さまが照っているところにずっといるようにするんだ。休みたいときには、歩けばいいってことだよ……。そうすれば、好きなだけ昼間がつづくことになるよね」
 「そんなことをしてみても、大して楽にならないね」と点灯夫は言いました。 「おれが日頃からしたいと思っているのは、眠ることなんだよ」
 「それは、困りものだね」と王子さまが言いました。
 「困りものだよ」と点灯夫が言いました。「おはよう」
 そう言うなり、点灯夫はガス灯を消しました。
 「この人は」と王子さまは、もっと遠くへ旅をつづけながら、つぶやきました。「王様とか、うぬぼれ屋とか、酒飲みとか、実業家とか、ほかのみんなからは、ばかにされるだろうな。けれども、このぼくには、滑稽に思えないのはこの人だけだ。たぶん、それは、この人が自分のためじゃないことに汗水流しているからだ」
 残念だなあ、と王子さまはため息をつきました。そして、さらにこんなふうに独り言を言いました。
 「親友にしてもいい、とぼくが思えたのはこの点灯夫だけだ。だけど、点灯夫の星はほんとうに小さすぎる。二人でいっしょに暮らす場所なんかない……」
 王子さまが自分では受け入れようとしなかったことがあります。それは、この惑星に後ろ髪引かれた、いちばんの理由です。その恵まれた惑星では、二十四時間のうちに見られるのでした、なんと一四四〇回もの日の入りが!

※編者注:「王子さまが自分では受け入れようとしなかったことがあります。」の部分は、第1刷では「王子さまが打ち明けようとしなかったことがあります。」

≪ 西川の朗読に続いて改めてフランス語の朗読を聴く ≫


西川:
 こんな感じなんですけど、どうでした?今回はフランス語の朗読を聞いてみました。点灯夫の声はわかりましたね。「コンスィーニュ(consigne)」「ボン・ソワール(Bonsoir)」とかって言ってます。

 何て言うのかな、王様とかうぬぼれ男とか酒飲みとかはなんとなく声というか、自分の中でキャラクターとして立つような気するんですけど、「この点灯夫ってどんな声かなあ」「どんな話し方かなあ」と思ったんです。とにかくあまりピンと来なかった。

 よく市販されてる朗読は、一人でやってるやつが多いんです。声色を使ったりしてるやつが多くって。それでもおもしろいのはあるんですけどあんまりね。

 今回聞いたフランス語の朗読は出どころはよくわかりませんが、地の声とナレーションと、王子と、それからほかの登場人物をバラバラの人が演じてます。

 僕は「こんなに軽い感じでしゃべるんかあ」とか思いましたね。それと、リズミカルにセリフを言うでしょ。なんか普通にしゃべるというよりは、「コンスィーニュ(consigne)…」、だからずーっとこうメロディーがあってて、同じ歌をくり返すみたいな読み方してるなあと思いました。点灯夫にはぴったりだなという気はしましたね。どうですか?演劇のかた(笑)。

B:おっしゃったとおり、リズミカルっていうのかな。一定のこういう流れが読み方としてすごくおもしろいですね。

西川:Hさんはどうですか?点灯夫を親友にしたいと思います?

H:え?あー親友に(笑)。どうかなあ。

西川:いきなり振りますけど(笑)。僕は別に親友になんかしたくないな、と思うんです。

H:うーん。

西川:何で僕は王子はこいつが好きなのかよくわからないんですよね。


点灯夫の仕事

G:
 僕、点灯夫の個性について考えながら聞いてて思ってたんですけど、これキャラクターの絵、ビジュアルもありますよね。なんかこのビジュアルで、点灯夫をイメージしていたんです。でも、この星は点灯夫一人しかいないけど、これ地球にも点灯夫いるんですよね。

 地球のほうはものすごい数いますよね。えーと、後の方に、46万2511人いるって書いてあります。これたぶん星が大きいからってことなんでしょうけど、僕今までみんな同じ点灯夫をイメージしてたんですよ。この人が46万人いるようなイメージで見てたなと思いました。

西川:そんなわけはないよ(笑)。

G:
 そんなはずはないですよね(笑)。「一人ひとり個性があるはずだよね」っていうのを今、改めて思ったんです。ここだけ見たらなんか、「たとえ」みたいにも見えるじゃないですか。子ども向けにわかりやすく説明してて。

 要はこれ、あれですよね、なんか日照時間がこう、時差が地球によって場所が違うみたいなことですね。大人が読むとね、なんか(笑)。

西川:うんうん。

G:
 要するに日没と日の出の時間には、何て言うのかな、南極と北極のところはめったに変わらないけど、あとのところは日没と日の出があるから点灯夫はすごく働かされてるっていう。まあ科学的な知識に染まってしまうと、そういうふうに「たとえ」で見てしまうんですけど。そうすると完全に没個性になってしまって、もうほんまに記号的な点灯夫にしかならない。

 だから「ああ、僕やっぱりそこらへんこう大人になってしまってたよなあ」と思いました。「点灯夫、一人、四六万人いて、四六万人の人生があったはずなのに、すごく全部、記号的な一つの点灯夫のイメージでしか見てなかったな」って。

西川:うん。まあ、この人の人生はランプに火をともして消してだけか(笑)

G:ねえ。

西川:
 昔はそれこそゆっくり休めて、その休む時にはその点灯夫っていう職務から離れてるから、その人なりの人生を送ってたかもしれないけど。眠りだって、仕事からの、それから昼間のいろんな人間関係、しがらみからも離れて夢の世界に行くから、それこそどんな夢見たって自由なわけですもんね。

 その人らしさみたいなものは、昼間の仕事以外、それから夜寝てる時ってあるんやけど、この人、人生すべて、生活すべてが点灯夫としての仕事でもう塗り込められてしまってて、個性らしき個性って発揮しようがないね。点灯夫としての人生があるだけ、暮らしがあるだけみたいなことです。まあ、地球の上は若干違いますね。

G:
 うん。あとこの最後のほう、

「一ヶ月も、あんたとおれは話をしていることになるよ」
「一ヶ月だって?」
「そうだよ。三十分だ」

 ここらへんでは点灯夫は相対的な視点が持てていますよね。「一ヶ月というのは君で言うところの三十分だ」「普通の、ほかのところで言うところの三十分だということは三十日だよ」とかって翻訳することもできてる。

 だけどこの前のところ。

 「夕方につければよかった。朝、火を消したら、あとは一日じゅう休めた。夕方、火をつけたら、あとは夜じゅう眠れたからね……」

 ここでは昔のこととしてしゃべっていますよね。ここらへん、ちょっと時間感覚の視点にずれがあるように思いました。


パズルを解くように

西川:
 そういえば、天文学の人にも『星の王子さま』好きな人がたくさんいますね。佐治晴夫[*13]とか。宇宙物理学の人。あの人の本はどれ読んでもいいですね。文章がいい。とても理系の人とは思えない美しい文章を書く人です。それでピアノも弾くみたいでね。大阪音大の客員教授って最終の経歴には書かれてました。「人のからだは星からできている」っていう話とか、僕は結構あの人の宇宙論が好きで、よく読みました。自転とか公転の話とか、暦(こよみ)の話とか。

 一分が一日になったっていうのはおかしいって言うけど、でも、われわれの暦というか、一年というのは地球が一回公転してるんですよ。だから、ものすごい端っこのほうの惑星では地球でいうところの160年ぐらいかかるんですよね。地球の一年というのは、端っこの惑星にしたら二日ぐらいです。二日か三日ぐらい。

 暦ってそういうもんなんですよね。そういうことを勉強し始めると結構おもしろい。サン=テグジュペリは夜間飛行をやっていたこともあってか、天文のことはかなり勉強してるんですよね。かなり勉強してる人なので、単純な思いつきで書いてはいないですね。

[*13]佐治晴夫:さじ はるお、1935年-、理学博士。エッセイ「自然科学とファンタジー」が『星の王子さまとサン=テグジュペリ』(2013 河出書房新社)に所収。

 『リトルプリンス・トリック』[*14]では、王子さまはハレー彗星だという説を出してますね。ま、トンデモ本かもしれませんけど。でも読んでるあいだは、僕、結構、説得させられてました(笑)。「王子さまの蝶ネクタイ、これはオリオン座なんです」とか「マフラーは、これは何を意味してるんでしょう? いや、これは実はハレー彗星の尾なんです」みたいな感じ。

 「出てくるいろんな星のなかに、必ず星座が隠れてて」と読み解きをする本です。まあまあ、おもしろいといえばおもしろいですよね。「ほんまかいな?」っていう感じですけど。

[*14]『リトルプリンス・トリック “星の王子”からのメッセージ』:滝川 美緒子、滝川クリステル著、2015 講談社

 『星の王子さま』はそういうパズル解きみたいな読み方が結構できるんですよ。塚崎幹夫なんかは「三本のバオバブがドイツ、イタリア、日本や」みたいな解釈を出したりしています。他にも、ボアがナチスだとしたら、食べられようとしているわし鼻のけだもの。これはもうユダヤ人を表してるとみるわけです。

 とにかく、『星の王子さま』の解説・解釈する本って山ほどあるんですよ。もう最近それを読みすぎて、「それがわかったからどうやねん?」と言う感じもしてきたり。でも一方で、アレゴリー(寓話)というか、一つのものにいろんな意味をかぶせていくかたちで書かれている文学作品なので、一対一関係で読み解いていこうとすると、ものすごく頭でっかちのばかばかしい読み方になってしまいます。

 「ハレー彗星や」と読んでしまったら、それ以外に読めなくなってしまうし、バオバブのことを、ドイツやナチスや日本や、ムッソリーニや、ファシストやと言ったら、それしか読みようがなくなってしまう。

 そういうことも含み合わせながらって読む。それも人から聞いたやつばかりじゃなくて、自分にとってどうなのかって考える。あんまりボアの中を描かれてしまうと、今度はこれゾウを飲み込んだボアにしか見えなくなっちゃう。ここに何を見たってもいいのに、いっぺん説明されてしまうと、それ以外の可能性が手に入らなくなってしまう。そっちのほうが恐ろしい。

 実は、結構、学生さんにやってもらったんです。「これを見てゾウじゃない中身を描いてくれ」って。みんなめちゃくちゃ苦労してましたね。もう、いっぺんゾウを見てしまうとゾウしか描けなくなってしまう。

 だからいろんな『星の王子さま』に関する本あるんですけど、三分の一ぐらいの気の入れ方で読まないといけいないなあと(笑)。特にね、最初一冊二冊ものすごい謎解きのうまいやつに当たると、「ああ、そうやったんや!」と思うんですけどね。でも僕の言うこともあんまり信用しないほうがいいですよ。


朗読と解釈

D:フランス語っていうのはきれいなもんですね。と言うのか、ハッとしました。

西川:ねえ。うん。

G:濁音があんまりない。

D:うん、なんか「あっ」て思って、なんかすごいなと思って。っていうのも…、あ、ていうか西川先生が読んだのと同じまったく文章で、まあもちろん日本語で…、フランス語で読んでるにもかかわらず、何か聞こえ…、違う違う、あの、何て言うの、こう受け取り方が、同じ言葉やのになんか変わって聞こえたような気がして。

西川:そうそう、それはそうですよ。

D:「そんなことあるんや」って思いましたね。同じ言葉じゃないですか? まあ…、であとは目で追っかけるだけなんですけど。

西川:ただ、僕が読むより、森本レオが読んだほうがええと思うんですけど。

一同:(笑)

D:いや、まあそれは(笑)。責めてるわけじゃないんですけど。

G:これ、読んだ人の解釈もね、通されてるし。

西川:そうそうそう。

D:うーん、何で…、それは不思議。まあ落語でもたぶんそうだと思うんですけど、同じ話でも話す人が代わると受け取り方が変わります。僕とかまあ見る側が全然違う。感動することもあれば、同じ文章でも全然響かないということもあるとあらためて思って、すごくビビッときましたけど。

西川:なんかそういう意味では、自分が声に出して読むっていうことがすごく大事だと思います。

D:うーん。

西川:たとえば、文字面(もじづら)を読むだけやったら読めるんですけど、ここはどんなふうにして読もうと思います?

「それで、もう今じゃ、惑星は一分で一回転してしまう。おれは一秒だって休めないはめになった。なにしろ、一分に一度、火をともすそばから火を消すんだからね」

 これ点灯夫はどんな気持ちで言っているんでしょう?「で、どうなったの?」とか、次々と質問してくる王子に対してですよ。怒って言ってるのか、あきらめ加減で言ってるのか、それとも淡々としゃべってるのか。

 地の文では気持ちとか書いてないでしょう?だからこのセリフをどういう気持ちでいっているのかはわからない。たとえば星の王子さまに対してそっぽ向きながら言ってんのか、じっと見つめながらいっているのか。

 演劇なんてそうですよね。セリフ書いてあったって、それが具体的な人と人との関係の中でどんなふうにして現れてくるかっていうのは書かれてないわけですよ。でもそれをどこかでわかっていないと、やっぱり理解が平板になるね。

 そのあたり、ある意味、朗読を聞けば、その人がその本をどう読んでいるのかが伝わります。正しい正しくないは別ですよ。でも少なくとも「この人の朗読が好き」「この人の朗読はどうもあかん」はあります。

 日本語の朗読もいっぱい出てます。もちろんそれ全部を聞いてるわけじゃないですけど、活動弁士[*15]で有名な人がいてて、その人が『星の王子さま』を読んでるのがあるんです。これ結構、下馬評[*16]はいいんですよ。でも僕が聞くと全然よろしくない。「何だこれ?」って感じで、もうだめなんです。たしかに声の張りはあるし、めりはり利いてるし、わかるんですけど、ぼくにはだめ。もうまるでだめ。

 でも、フランス語はわからないのに、ジェラール・フィリップ[*17]と、『禁じられた遊び』の男の子役が王子をやっている30分ぐらいのレコード盤は、もう何とも言えない。まあ、僕だいたい、ジェラール・フィリップの大ファンですから。『モンパルナスの灯』[*19]のわがままなモディリアーニをやらしたら、もう最高やからね。あれを聞くと、「あー…」てなるね。王子の声も最高。うん。

[*15]活動弁士:「活動写真弁士」の略。無声映画時代、映画上映中に画面の人物のせりふをしゃべり、話の筋を説明した職業の人。弁士。[出典 小学館デジタル大辞泉]
[*16]下馬評:下馬先で主人を待っている間、供の者がしあう批評の意。第三者が興味本位にするうわさ・批評。[出典 小学館デジタル大辞泉]
[*17]ジェラール・フィリップ:Gérard Philipe、1922年 - 1959年。フランスの俳優。
[*18]『モンパルナスの灯』:フランス語原題:Les amants de Montparnasse (Montparnasse 19) 、1958年のフランス映画。画家アメデオ・モディリアーニの伝記映画。ジャック・ベッケル監督・脚本。ジェラール・フィリップが主演でモディリアーニを演じている。

 ところでさっき美智子さんの話しましたね。内藤濯が『星の王子さま』を書いて、それがどうも美智子さんの知るところになって、内藤濯が『星の王子さま』の勉強会みたいなのをやったんだそうです。そこにおしのびで美智子妃殿下が来るようになって。それがマスコミにすっぱ抜かれて、みたいなことがあった。

 それで美智子妃殿下は出歩かなくなってしまったそうですが、その時に、美智子さんから内藤濯さんに――当時の内藤濯はもう70過ぎ、80近いです――、「これフランスでお土産でもらったやつです」って言って、ジェラール・フィリップが朗読しているレコードを渡したそうです。うん。エピソードとして、今回の岩波文庫のやつにはうしろに載ってました。

 僕はあの、CSCD[*19]の同僚だった久保田テツ[*20]さんがフランス行った時に、蚤の市でやっぱりレコード、古いその『星の王子さま』、ジェラール・フィリップのやつを買って僕にくれました。もうプレイヤーないんで聞けませんけど、とか言われて。

 それはいいんだけど、「それを聞いてから、もう自分の想像力が羽ばたかなくなった」と言って、レコードを聞かないようにしてるという人もいるみたいです。『「星の王子さま」をフランス語で読む』という文庫本出している加藤恭子[*21]さんは「いいんやけど、あれを聞いたらほかに読みようがなくなるから、もう聞きたくない」って書いてましたね。

[*19]CSCD:Center for the Study of Co-Design、大阪大学コミュニケーションデザインセンター
[*20]久保田テツ: 映像作家および音響作家。CSCDにて主に映像メディアデザインとコミュニケーションに関する教育研究、映像ドキュメンテーション実践、アートを軸とした社学連携事業などに取り組む。
[*21]加藤恭子:『「星の王子さま」をフランス語で読む』2000 ちくま学芸文庫

D:そうですよね。フランス語でしゃべってる点灯夫は僕の中では悲壮感がなくて、ひょうひょうとしてるイメージに変わってしまって。もうそういうふうにしか見えないです。

西川:でも、本当は悲壮感あふれる人やと思ってたんやけど、というところもありますよね。実はベルトコンベアのなかでほとんど半分動く機械のようになってしまった人間は、人間的な苦悩からものすごい離れたところにいるのかもしれません。

D:なんかしんどそうな。

西川:
 もう「決まりだから。決まりだから」って、「次々やる、決まりだから」。決まり。悩む暇もない。

 シモーヌ・ヴェイユ[*22]が『工場日記』で書いてますけど、彼女は働く労働者と同じようになりたいと思って、工場(こうば)に行くわけです。食べるものも一緒にして。もともとインテリのお嬢さんだから、あっという間にからだをこわすんです。「本当に苦しい時に人は苦しみの言葉を出せない」みたいなことを書いてますね。

 そういう「決まりは決まりだから」「考えるも考えないもないんだ」というところでは、重々しい人間的苦悩、「この仕事は俺にとって何の意味があるんだ?」みたいな実存的な雰囲気とはすごくかけ離れたものになってるのかもしれない。

 こんな感じの読みが可能かもしれないってことを、解説書を読まずとも、この朗読から感じることだってできるわけです。

[*22] シモーヌ・ヴェイユ:Simone Weil、1909年 - 1943年、フランスの哲学者。第二次世界大戦中に英国でほぼ無名のまま客死。戦後、知人に託されていたノートを編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーとなった。『工場日記』1972 講談社文庫、1986 講談社学術文庫、2019 みすず書房。

 だから本に対して何か自分の考えを表明するっていうのは、本の評論文とか「書く」という方法だけじゃなくて、声に出して読むだとか、演劇にするんでもそうだし、絵にするでもそうだし、いろんなかたちで『星の王子さま』から感じたことを表現することができます。

 そう考えると『星の王子さま』について人びとがどんなふうに考えたのかなといった時に、僕みたいにどちらかというと本の虫で次から次へと本ばっかり集める人間は、やっぱり偏ったものの見方をしてしまう。

 『星の王子さま』で音楽を作ってる人もいますしね。僕は音楽わからないんであまり聴きませんけど、いろんなものを聞いたり、観たりするのもいいかもしれない。アニメだってね、いいかもしれないし。


声帯の振動と思考

F:私、最初に先生に朗読していただいた時に、私はこの点灯夫は淡々と自分の仕事を受け入れて、嫌悪することなくひたすら仕事をやってて、えらいな、すごいなあと思ったんですよね。なので、フランス語の朗読聞いた時に私にはイメージがぴったりで。

西川:ああ、本当。

F:はい。悲壮感とか、私は逆に感じなくて、読み取れなかったです。

西川:
 でも悲壮感のない人にこそ、本当に深い悲しみがあると見る必要があるかもしれない。いじめにあってる子どもが「え、いつも笑ってましたよ」「泣いたり恨んだりとか、そんな。いつも仲よく遊んでましたよ」とかよくありますよね。「いじめられてるんだ、僕!」って言えないんだ。「元気だよ。学校楽しいよ」とか言って。それで本当にいじめに遭ってるやつらって、もうニタニタ笑っているしかないのかもしれない。

 ニタニタ笑いながら遊んでるように見えるけど、それは本当は、自分がいじめられてること、自分が本当はみじめな立場に置かれていること、相手に反抗もできないし誰かに助けを求めることもできないしってことかもしれない。誰にも自分の苦しみはわかってもらえない。だからニタニタ笑いをするしかない。

 まわりの大人たちからは「いや、仲よくしてたと思いますけどね」ってなるから、悲しみが一切出てこない。悲しみや苦しみが一切顔に出てこないからこその苦しみみたいなものがあるんだと思います。本人に自覚されてない場合すら、あるわけです。

 その、最後に書いてあるでしょ?

 王子さまは自分では受け入れようとしなかったことがあります。 

 何でわざわざ、こんなこと書いてあるのでしょうか。僕は、これは点灯夫自身が受け入れようとしていない苦しみとパラレルというか、同じようにこう重なり合うようなとこあるなと思います。「休めるなら休みたいよ」ぐらいの話になってるんやけど、で、実はそんなにものすごい苦しみのさなかにあるようには見えないんやけれど、無意識へと押さえ込んでしまってるそういう苦しみがあるのかもしれない。

E:私はなんかその、フランス語の朗読の音声を聞いて、なんか点灯夫めっちゃゆるいし、めっちゃなんか軽いノリやなっていうふうに、すごい感じました。うん。なんか、だから自分が文章で読んでる時にはなんかもっとこう、しんどい仕事からそれこそ逃れられずに、ずっとこう黙々と続けてるうちに、何かそれがつらいっていうことすら感じなくなってしまった人、みたいな感じで読んでたんで。うーん。

西川:だから本当は、点灯夫のセリフも、こんなすごみのある低い声で朗読したら、すごく悩んでるように聞こえるんですよ。

 「おはよう。たった今、ガス灯を消したね。でも、どうしてなの?」(かわいい声)
 「そういう決まりなんだよ」(しぶい声)

一同:(笑)

西川:
 同じセリフでも読み方によって全然違うわけですね。黙読も、やっぱり本来は「声に出さない音読」なんですよ。ほかの人にも聞こえないけど、自分にもしかとは聞こえないけれども、やっぱり何らかの表現になっているはずです。

 実際には黙読してても声帯のあたりにやっぱり微妙な振動が出ていることが最近いろんなところでわかっています。黙読だけじゃなくて、もの考えてるだけでも実は震えています

 内言、内語と言われてたやつですけど。「これからどうしようかな」って無言で思ったら、「これからどうしようかな」っていうふうに声帯は小さく動いていることが、最近の生理学的な検査がわかってきています。

 それで、ALSの人とかとのコミュニケーションの道具に使えないかという研究が進んでいるんですね。だから幻聴と思ってるものも実は自分の声帯が動いてる、こともあるかもしれない。

 自分にも自覚できないからだの動きがあるっていわれると、「え?」と思うけど、本来振動なんていちいち自覚してないですもんね。声帯は自分が声を出すところだから、自分が全部意のままにしてるかのように思ってるけれども、実はそうじゃないところがあるのかもしれない。だから「脳で考えてる」って言うけれど、声帯がなかったら考えにくいかもしれない。ひょっとしたら、みたいに思いますね。

G:聴覚もそうかもしれないね。聞いてるように見えても全然、聞いてるものじゃないかもしれない。響いてるっていうのは、聞いてるのかもしれないですよね。「内語の時に聴覚も刺激されてるかもしれない」って研究ってないですかね? マンガとかアニメ化されたりとかする時にはよくあるわけですから。「全然声のイメージが違う」ってよくありますし。

西川:基本的に、聞き分けることができるというのは、ある程度それが発話できるからですね。ベルグソン[*23]が『物質と記憶』の中で書いてることなんですけど、人の話を聞き分けることは、自分がその話をできる、あるいは発話が可能だということがやっぱりどうしても必要なんです。だから、英語でこBとVの発音を聞き分けれないのは、たぶん話せないからです。

[*23]ベルグソン:アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson) 1859-1941、フランスの哲学者。『物質と記憶』(Matière et Mémoire)(1896) は、日本ではちくま学芸文庫、岩波文庫、講談社学術文庫(2019)より出版。

G:日本語にそういう発話がないからですよね。だから、そういう耳に育たない。


ガス灯と情報、スピードと

西川:
 ガス灯は電灯に替わるまでのほんの一時期、人びとの暮らしの中に入ってきました。都市とか道路とかって公共的なところに使われるもんなんですね。ランプは自分の家屋に使われる非常に個人的なものでしたけれども、それに対してガス灯は配管も必要だし公共的なものなんです。これが19世紀の中頃ぐらいにイギリスで実用化されて、まあロンドン、パリと広がっていきます。日本にも来たんですけど、ずいぶんあとですね。

 でもサン=テグジュペリの活躍してる時代、20世紀になったら、ガス灯はあっという間にその役割を終えてしまって、電灯に様変わりしました。だってガス灯は点灯夫が要るんですもん。

 日本では点消方(てんしょうがた)といったそうです。「点」って「点ける」。で「消す」。「点ける、消す、方」。「何々方」って、「方」は役職でしょうね。点消方っていう、雇われ人ができたらしいです。「点灯」言うたらつけるだけやからね。これ本当はつけたり消したりするわけですから、昔の日本語の役目のほうが正しいなと思いますけれど(笑)。まあそういうね、言ってみたら古い、すぐに時代遅れになってしまった仕事だっていうことも、ちょっとこの点灯夫のところを読む時には頭に入れると、おもしろいです。

 とにかくスピードがものすごく増していくわけです。スピード重視が20世紀以降、まあサン=テグジュペリが一番嫌ったアメリカナイズ、現代化の特徴です。現代文明の最たるものはスピードなんです。圧倒的にスピード。速くする。

 さっき、サン=テグジュペリが子どもだった頃の話をお姉さんが書いた伝記を読んだ話をしましたけど、もう当時と今では全然暮らし方が違いますよね。まず速さで言ったら、19世紀と20世紀、21世紀で何が一番違うかって言うと移動手段が圧倒的に違う。蒸気機関車から以降ロケットまで、スピードはものすごい勢いで変わってきてるわけです。

 もう一つあるのはコミュニケーションです。昔は狼煙(のろし)ですよね。実際に対面で誰かに会いに行こうと思ったらそこまで行かなくちゃいけません。歩くなり、馬車に乗るなり、船に乗るなり。乗り物が速くなったぶんだけ速くはなりましたけれども、みんながみんなそんな移動手段を自由に使えるわけじゃありませんね。サン=テグジュペリは飛行士としては郵便飛行なんですよ。

 フランスはアフリカのあちこちに植民地を持っていました。だからフランスから、アフリカまでいろんな連絡を取らなくちゃいけないわけです。植民地だからね。それでまあ船とか列車とかでなんとか郵便物送るんですけども、ものすごい時間かかる。そこで飛行機が出てきたわけです。

 第一次世界大戦ぐらいから圧倒的に実用化されたんです。最初は軍用機としてだったけど、第一次世界大戦が終わった時に、それまで軍用機を作ってた会社がアエロポスタル[*24]という郵便飛行会社に変わります。そこにサン=テグジュペリが入ります。

 飛行機はたしかに速いんですけど、汽車よりも船よりも速いんですけど、最初の頃の飛行機は夜、飛べません。船は列車も夜でも走れる。いくら速くても飛行機は夜に飛べなかった。だから、そこを無理やり飛ぼうとしたわけです。つまり夜間飛行です。

 夜間飛行が可能になれば世界最速の郵便物を配達する手段になります。そのために彼らは夜間飛行の冒険にどんどん挑戦します。それが彼の二冊目の『夜間飛行』という小説です。サン=テグジュペリたちは、列車や船とかを飛び越えて、郵便飛行がコミュニケーションの速さのトップにいくための開拓者だったんです。サン=テグジュペリ自身もそういうスピードに使命を賭けてたわけです。

[*24] アエロポスタル:アエロポスタル(Aéropostale)として知られるコンパニー・ジェネラル・アエロポスタル(Compagnie générale aéropostale)は、フランスの航空会社の草分け。1918年設立、1932年解散。エールフランスの母体となった会社のひとつ。

 学問にしたってそうかもしれない。情報の手に入れやすさってことになると、今なんかすさまじいですよね。もう瞬時です。飛行機どころじゃない。それなのに、「さらに、さらに」って、スピードには圧倒的な信頼をおいています。

 ゆっくりすること、待つということ。「待つ」については、鷲田先生が一冊本を書いてるぐらいやから、ここで簡単に言いませんけど、「あなたの星はとても小さいから」というのは理屈なんですよ。「ゆっくり歩くんだよ。ゆっくり歩いて」の「ゆっくり」というやつ。この「ゆっくり」ということが、スピードに翻弄されている点灯夫に対して、王子が一番言いたかったことです。

 「ゆっくりしたほうがいいこと」って、いったい何なんでしょうか。これは本気で考えたほうがいい。たとえば、われわれはほんとうにレディメイドでできている。既製品というか、もう常にできあがってるもので生活してるわけです。

 昔はお嫁入りの前に裁縫、まあ和裁ですけど、自分で縫えるのが、要するに主婦になるための資格の一つだったわけですね。うん。でも、そんなものはもう今はありません。

 花嫁修業で洋裁というのが、一時期流行ったことはありましたけど、今そんなんしている人っていませんよね。少なくとも、主婦としての必要なスキルとしての裁縫っていうか、衣服を作るということはないわけです。

 織物をするなんて、沙織織りとか、もう完璧に趣味の世界、カルチャーセンターになってしまってます。でも本来は女の人が家庭の中で家族の衣服をという時にはもう徹底的に自分が持ってたものを仕立て直していたわけです。

 食事にしてもそうです。自分たちで耕して、自分たちでとってきて、自分たちで調理して食べる。ところが、今は都会では誰がどこでどんなふうに育てたか、農薬をどんだけ使ってるのか、どんなふうにして養殖した魚なのか、どんなふうにして殺したやつなのか、どんなふうにしてパック詰めしたのか、、、、われわれは何にも知らない。何にも知らなくても、毛もなければ流れた血もない、何もないきれいな料理寸前のお肉がパック詰めして売られているわけですから。言ってみたら、手間ひま全然かけてないわけですよ。

 ほとんどそういうことばかりです。だからある意味では、ほんの一分間に一回転するなかで消したりつけたりだから、本当に自分らしい暮らしをしてない。そのスピードに追いつくのに精いっぱいのこの点灯夫のあり方は、点灯夫自身は軽ーいノリで「決まりは決まりなんだよ」といっているわけです。

 われわれも「常識は常識なんだよ」と思っていますよね。たとえば、誰かに何かを伝えたいと思った時に、どうするのかといったら、今だったらもうメールとか一瞬ですよね。だから、何かの不具合で着かなかったら腹立つみたいな感じにすらなってますよね。

 昔だったら丁寧に丁寧に、まずはアポイントメントの約束を取るために封書で手紙を出して、それで待ち合わせの場所が決まったらそこに自分が出かけていって、儀式的な話をやって、そこでようやく話をします。ものすごく手間ひまかかっていた。今はもうそういうの一切なしですね。

 この「速ければいいのか」という話が、前に出てきたビジネスマンのところですね。ビジネスマンの「ビジネス」(business)っていうのは「ビジー」(busy)、忙しいってことなんですよ。多忙であるということ。次から来るできごとを、どんどんどんどんこなしていく。

 そのためにスピード、効率性が一番の世界なわけですけど、こういうスピード重視によって、われわれのなかの何が失われているのでしょうか。でも、失われていることを、われわれも「決まりは決まりだ」と気づかない。「『決まりは決まりや』ってちょっとおかしいやん、お前」って思いますよね?

 ところがわれわれだって「それが常識やろ、今の世の中やろ」「それが普通や」と言ってしまいます。「それが普通やん。もういちいちそんな、鶏肉食べたいから言うて、鶏(とり)育てるか?」「そんなん、違うやろ」って。

 ブタを食べるためには、痩せたブタでも一生懸命、村で飼って、それで年に一度のお祭りの時にみんなで殺してごちそう食べるのが普通だった時代、社会があったけど、今はそれが普通ではないわけです。

 でも本当に人間の暮らしは、そもそも最初っからそうだったのでしょうか。「この星だって昔はもっと違うかったんや」と言ってるわけですよ。「それが今では一分間に一回転してしまうようになって」っていう話でした。このスピードがどんどんどんどん上がっていって、本人はどんどんどんどん個性のないというか、喜びのない人生に追いやられて、本人も寝たい、要するにこの生活から逃れたいとは思っているんです。

 ところが、次のもっと豊かな暮らしっていうか、希望はないわけですよ。単に「寝たい。休めるもんなら休みたいよ」って言ってるだけ。でも休めない、「だってこれ決まりだから」。僕たちだってそうなんですよ。「できることなら、牧歌的で大地に根をはった生活をしてみたい」と言ってるだけ。でも「決まりだからしょうがないね」と。

 最近汐ノ宮[*25]に行ってよく思うんですよ(笑)。ほとんど明かりのない、汐ノ宮の駅を降りて――駅舎には光ありますよ――、そっからしばらくずーっと光がない。そのうち、踏切の所に光がぽつんとあって、また家のとこまで光がない。阿倍野にいた時と全然違うわけです。

 空見てみたり月見てみたりしていると、「もうこういうことを忘れて、何十年も僕は生きてたよなあ」「ああ、暗いしコンビニもないし、不便ちゃあ不便やけど」とか思うわけです。自分が「これが普通や」と思ってた暮らしの中で忘れてきたものがいっぱいあるわけですよ。もっともっとあると思う。僕はiPhone持ってますけど、iPhoneをやめて僕に連絡とろうと思ったら、お手紙しかない、とした方がよいかもしれない。

[*25]汐ノ宮:汐ノ宮駅(しおのみやえき)は、大阪府河内長野市汐の宮町にある、近畿日本鉄道(近鉄)長野線の駅。

一同:(笑)

西川:
 そうすると、たぶんまた人間に対する見方も変わってくるんじゃないでしょうか。無個性なフォントじゃない手書きの葉書が来るようになった時ですよ。遠い人からの何日か前かのその人の思いが今、目の前のこの紙にこのインクという物として「ある」。こういう人間関係の持ち方をすると、相手に対する想像力を働かさないとどうしようもない。メールは想像力があんまりいりません。ここに書いてあることを読めば、「ああ、それがあなたの要求ね」となる。だから、ずいぶん変わるんじゃないかなって思うんです。


眠りと自由

西川:
 あと不眠についてね。僕、精神科に勤めてたんで、不眠の患者さんって山ほど来るわけです。普通、不眠というと、眠りの中断というか、うーん、「眠るのは自然なことで、眠れないのは不自然なことだ」「病的なことだ」という理解がわれわれの普通ですよね。精神科領域、精神科医療の中でもそうです。

 でも、僕もきちんと読んだわけじゃないですけど、『夢と眠りの博物誌』[*26]っていうおもしろい本があります。そこにレヴィナス[*27]の話が出てきます。レヴィナスは、疲れと不眠、眠りがテーマになってるみたいです。僕も臨床哲学にいた時まわりにレヴィナス研究者がいっぱいいましたから聞いてましたけど、あんまりピンと来ませんでしたね。

[*26]『夢と眠りの博物誌』: 立木 鷹志著、2012 青弓社
[*27]レヴィナス:エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas)、1906-1995、フランスの哲学者。現代哲学における「他者論」の代表的人物とされている。ロシア帝国、現リトアニア、カウナス出身のユダヤ人。

 まあ、レヴィナスはともかく、普通にわれわれ生き物が寝るというのは大変なことなんです。最初に出てきたゾウを飲み込んだボアは、六ヶ月間眠らなあかんて書いてました。ボアのなかで消化されるゾウにとってこの6ヶ月は恐怖だけど、でも、ボアにとっても恐怖なんです。なんせ無防備になってしまうから。六ヶ月のあいだ外敵から身を守るすべがない。逃げようがない。

 常に生き物というのはお互いがお互いを食うか食われるか。だから食ったほうも命がけなんです。六ヶ月も寝てしまうんですから。ということで、われわれは、特に弱ければ弱いほど常に他のものからの攻撃に備えて逃げる構えを持っとかなくちゃいけません。起きとくっていうことが生きのびるために何としてでも必要なことなんです。だからほんの少しでも何か変わったことがあったら、サッと起きてサッと逃げる。そうでなかったら「気ぃついたらもう食われてた」「気ぃついたらボアの中」っていうことになってると思います。

 ということは強い者ほど眠れる。だからライオンは腹いっぱいになったら寝るわけです。あいつらは、あいつらを食おうとするやつがなかなかいないんでね。まあ、人間が出てきて、絶滅危惧種になりつつありますけれども。

 だからその生の危険性っていうものから、安心して逃れられる余裕のあるものは長く眠れることになります。そうでない者は、もうほんの少し、どうしても眠らなくちゃいけないから寝るけど、すぐに起きないといけない。だからこま切れにしか寝れないんです。

 まあ変温動物である爬虫類だとか、それから虫だとか魚もそうですけど、寝てるのか寝てないのかはっきりしないのもいます。活動性が低下してる時間があるのは見て取れますが、それがわれわれのような「眠り」と言えるのかどうかはわかりませんよね。

 レヴィナスが言っているのもそれなんです。実存の赤裸々な中に生きるということに人は疲れてしまって、そして仕方なしに眠ってしまう。本来はずっともう寝れない。生きてるということが恐ろしいことで、眠りっていうような夢の中になんか到底入れない。

 だから本来は覚醒・不眠が、動物の、生き物の、弱い者の普通のあり方であって、眠るっていうことのほうがまあ言うてみたら異常なわけです。眠りに落ちたら、ポタンと落としてしまうじゃないですか。そうやって自分のこう主体性を全部なくしてしまうということですから。言ってみたら自由、主体性を手放すっていうことです。でも、やっぱり眠りが必要になってしまう。

 だから「決まりは決まりだから、考えても仕方がないんだ」って不自由だと思うじゃないですか。「あそこの学校はもう規則だらけで、自由がないからいらんわ」という話はよくありますけど、自由とは何か。

 それで今日、電車の中で思ったんですけど、もし――これを思考実験って言うんですけど――、

1)もし、自分の死ぬ日、時間も含めて、自分のこれからの人生について、自分がすべて計画したとおりに人生がなされるとする。ただし計画しなかったことは何ひとつ起こらない

2)自分の人生はすべて自分がマネージメントできる。でも死なないという選択はありません。死ぬ日にち、時間も決めなくちゃいけない。それまでの自分の人生、すべて自分の計画どおり、望みどおりのことが起きます。ただし自分が想像もつかなかったことが起きません。

 といったときに、これは自由なのか。

D:なんか(笑)、言い方も含めて、不自由な感じしますね。なんか「けっ」みたいな。

一同:(笑)

西川:
 どう思います? 「行きたい学校に行きたかったけど、行かれへんかったから」とか「自分のなりたかった仕事になられへんかったから」とか「自分の望みがかなわなかったから」とかあるから人生が不自由だと思っているわけです。

 でも、「じゃあ全部あなたの望みどおりにかなえてあげましょう」「あなたの望みが、もうどんな望みでも結構です」となったらどうか。言ったら言っただけすべてですよ。自分のなすことすべてが自分の思いどおりになる。自分の思いどおりになるけれども、それは自由なのか、幸せなのか。

 この点灯夫の場合は、「自分の考え」と「決まり」は別のもの。ただ、決まりには従うんです。自分がどう考えるということは関係ないわけです。サン=テグジュペリの人生観のひとつは「人生、命より大切なものがある」という考え方です。危ない人。よくこんな本を小学生に読ませるなあと思いますねえ。

 「命よりも大切なものがある」という考え方、「人間には人間を超える何かがある」と思ってるわけです。だから、人間の自由なんてものは、さっき僕が言ったような話のレベルなんですよ。「本当にそんなんで幸せなのか?」っていうことなんです。

 そうじゃない何か。だから、人生のなかで偶然というもの、それから人間にとってどうしても知ることができない、人間を超えたものとのつながり、みたいなところがなければ、人生なんてつまらない。

 でも、じゃあそれがいったい何なのかというところまでは書いてくれていない。書いてくれてないけれども、点灯夫はとにかくその王様や何やかんやとは違って、自分以外のものに対して忠実に勤めをはたそうとしているところに、「自分の信頼できる友人にしてもいいかなあ」というサン=テグジュペリの考えを読むこともできますね。

 これを教訓話で読んでしまうとおもしろくはないんだけど、でも点灯夫の中に、軽く見えるけれども本人が自覚すらしていない、現代の非常な実存の軽さ、「存在の耐えられない軽さ」にとらわれてしまっていることもあるかもしれない。

 ここはここでいろんな読み方ができるところかな?。

D:もう一個だけ聞いていいですか? フランス人って軽い?

西川:いや、フランス人ってものすごい理論的だって聞きますけど。

D:どんな感じなんやろ? なんかそういう、何か特色があるじゃないですか。「日本人は生真面目で何々だ」とか。そういう感じの視点もなんか持ってたら、また見え方も違うのかな。

西川:うーん。当時のフランス人にとって子どもというのは、「大人未満」だったみたいですね。たとえば、日本人は「子どもかわいい」としてたわけですけど、幕末に来たいろんな人たち――渡辺京二[*28]か何かが『逝きし世の面影』か何かで本で書いてますけど――、向こうの西洋人がびっくりしたことです。日本人が子どもをめっちゃかわいがってるのをみて。ヨーロッパあたりでは、伝統的に子どもっていうのはしつけの対象ってところがあるみたいですね。

[*28]渡辺京二:わたなべ きょうじ、1930- 。熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。『逝きし世の面影 日本近代素描』(1998 葦書房・2005 平凡 社ライブラリー)で、1999年に第12回和辻哲郎文化賞を受賞。

D:なるほど。

西川:強制して、しつけて、飼いならす。ムチでバンバンやらないと、ほとんどけだものやから一緒に暮らせない相手。トイレットトレーニングもそうですけど。そういうところがある。

D:じゃあ、ここに出てくる星の王子さまにもそういうニュアンスがもしかして含まれてる…、

西川:
 だからこそ、『星の王子さま』は非常に変わってるんです。フランス人が書いたわりに、その大人対子どもで、子どもに徹底的に肩入れするみたいなところがあるから。サン=テグジュペリ自身が「あなたはフランスですかアメリカですか」ってきかれると「僕は子どもの国からやってきた」と言ってた人だから。

 あとはサン=テグジュペリは出自が貴族だから、貴族的な性格がすごく強いです。でもアフリカに行って結構いろんな人と付き合ったりとかして、ニューヨークにも行ってるのにアメリカ嫌いだったりとか。まあフランスのなかでも、この人はド・ゴール派からもめちゃくちゃ嫌われ、反ド・ゴール派からも嫌われ、フランス人に誰も味方がいなかったわけです。そんなときに『星の王子さま』はニューヨークで書いた本なんです。

 それで親友はレオン・ヴェルトだけみたいな。彼は、ユダヤ人で、ナチスから隠れてなんか田舎で住んでいて、年老いた人。彼だけ。でも、ものすごい友に飢えていた。名声はものすごい手に入れたんだけど、友がいなかった、孤独な人なんです。

「老い」という宝

D:スピード重視だと、あとからツケが来ないんですかね? 速く移動した時間分のツケ。そんなことを最近、勝手に妄想してしまっているんです。

西川:
 何にもしないでぼーっとしてる時間ってすっごい大事だと思いますね。僕は全然勤めていませんけど、今までこう仕事を変わる時には必ずいっぺん仕事辞めて、就職先決めてないんです。だから無職になるんです。

そうすると、「世の中は誰も俺のこと必要としてないんだな」とか思います。つくづくそう思います。つくづくそう思った次にまた仕事が来たら、「はあ、やっと僕に行き場所ができた」みたいな気持ちになりますよね。「この仕事がどうのこうの」とかあんまり思っていませんし、勤め先になんか自分を全部委ねてしまうというのも、一時期しなきゃいけない時もありますけど、「もう嫌やなあ」とまたなります。

 本当に、老いというものはなんかいろんな肩書やとかそういうものが全部はがれ落ちていって、まるまんまの自分が生きていてよかったと思えるような自分なのかどうなのかが試される。「あいつよりこれができる」とか、「僕の何かで誰それが喜んでくれる」とかじゃないんです。

 そういうことを知らなくても、人生終わることもできるんかもしれません。でも、今日、電車の中でつくづく思ったんです。「そうや、自分で思ったとおりにすべてそうなるんやったら、ぞっとするなあ」と思って。

 「自分が思いもつかなかったことは何一つ起こらない」がミソですね。偶然が起きない。自分の願いがすべて実現するけど、自分が思いもよらなかったこと、要するに自分の、自分の想念の枠内に人生が収まってしまうって、つまらんことです。

 そうなると、めっちゃ迷惑な、ほんまにもうわけの分からんやつと会うことなんかが、自分の人生を自分の思惑から外してくれる、「何か」なのかもしれないですね。

H:もし自分の思うとおりになるんだったら、その時って疑問をさしはさめるんですかね?

西川:ん?

H:疑問をさしはさめるのかな?と思って。自分の思い通りになってるんだったら、一つも疑問が起きない状態になってるんじゃないか?この自動的な機械みたいなことになってるんじゃないか?

西川:だから、それを星めぐりのときの王様は、自分の望みを道理に合わせたんですよ。道理は必ずそうなるから、王様の命令は必ず実行されることになります。「自分の思い通りに全宇宙は動いてる。だって僕は宇宙の道理に自分の欲望を合わせているから」ということなんです。だからある意味でこの人はほんとに哲人王なんですよ(笑)。

B:自分の思う通りだったら、その中に困難を入れとけばいい、ってことですか。変な人たちとかを思うところの中にちょっとだけスパイスにする。

西川:でも、それも自分の思った通りの変な人やったらねえ。ともかく、自分の思う通りにすべて自分の人生が成り立ってしまったら、それこそ自己責任の世界ですから。

H:小さいころ読んだ本で、まあすべてが思い通りになる物語がありましたねえ。男の子が「あれが欲しい、これが欲しい」。すぐ実現するんです。そして彼が大人になった。そして案の定、退屈になって「もうこんな世界なんて」って思ってしまう。「自分なんて死んじゃえばいいのに」って。そう思った瞬間心臓が止まる。

西川:
 『浦島太郎』の竜宮城の世界って「夏が見たい」と思ったら夏の部屋行ったらいいし、で夏の次は秋やのに「いや、やっぱ春見たい」ったら春に行けるし、たら春から冬、もう好きなほうに行けるわけです。そうすることで言ってみたら時空を超えるわけ。時空を超えていったい何が起きたかというと、竜宮城で過ごしていた何日間が実は何百年だったわけです。

 本来、人が人の世界の中で何百年ていうか、百年でもいいけど寿命を生き延びるっていうことは、たった一日だって抜きにできない、ものごとの順序の中に翻弄されながら生きることです。やめることはできないんですよ。そういう苦労もある。

 そして、自分の望みだけじゃなくて人の望みによって、望み、人の憎しみによって自分の思いがねじ曲げられるのが人生なんです。そういうはてに老いの尊さみたいなのが手に入るんです。

 浦島太郎が竜宮城で過ごしてたのは、時間の流れも無視するぐらいの自分の望みがすべて叶えられる世界です。でも、時が経ったとしても、みなが望んでいた宝箱の中に入れる宝物のような「老い」は手に入らないんです。

 「開けてはだめよ」っていう乙姫のことばを「歳をとったけど、老いを見る資格がない」っていうふうに読んでみたらどうでしょう。僕が『浦島太郎』を使って子供たちになんか認知症の話をするっていうのをやった時に、なんか一生懸命考えて出てきたんです。

 宝箱の中の煙は「老い」なんです。これは宝なんですよ。玉手箱には大事なもの入れるんです。「だから持って帰って」って言うけど、「開けちゃだめ」って言うんですよ。「大事なもんやからあげる」って言ってくれる。でも「開けちゃだめ」という。

 この矛盾にはどんな秘密があるんでしょうか。普通は「約束破ったから罰としておじいさんになった」と考えるのは、「老いにはやっぱり価値がない」という考え方ですよ。それは現在のわれわれの考え方です。

 でもそうじゃないと考えたら、逆に「老い」を手に入れるために必要なものが何なのかって考えたら、それは竜宮城的な生き方ではないですよね。父母のために漁に出て、魚が一匹しか釣れなくても、亀をいじめてるやつ子どもを見つけたら、その亀を助けるために一匹しか釣れなかった魚をやる。思い通りにならない人生の中でそれをずーっと続けていたら、玉手箱に入れるまでもなく自分がきちんとした老いを手に入れることができたのに。

 子どもたちにその話をしたんですけど、みんな「何とかして乙姫に仕返しがしたい」とか、「玉手箱の仕組みを調べて元に戻す」とか、「いや、あきらめずにもういっぺん働いて家建てる」とか、なんか、そんな話ばっかりでしたね。

D:なんかそういうのおもしろいですね。「開けたらあかんけど、渡すんや」みたいな。

G:あのね、浦島太郎も典拠(御伽文庫[*29])だと、あのあと、さらにお爺さんになったあとは鶴になる。

西川:亀といっしょになるんですよね。

G:で、亀が乙姫様だから、要するに最終的には夫婦になる。

西川:異種婚姻譚[*30]ですね、

[*29]御伽文庫:江戸時代に〈御伽文庫〉としてセットで刊行された絵入刊本23編をさす。室町時代には写本で行われ,絵巻や奈良絵本も少なくなかった説話の何篇かが、江戸時代に入って、絵入り板本として板行され世に広まった。中でも、本屋が二十三編を集めて、同じ体裁で「御伽文庫」または「御伽草紙」(御伽草子)と名づけて出板した。
[*30]異種婚姻譚:人間と違った種類に存在と人間とが結婚する説話の総称。

G:古い話だとそうなってるんですよね。でも鶴と亀って、「鶴は千年、亀は万年」って言うぐらいだから要するに人間的な時間から超越してる存在ですよね。その意味では時間的なものが象徴されていますね。

西川:いろんな物語の読み方もあるんですけど、文献史的に「これの原本は、原本は、原本は」と学的な研究のやり方もあるんですけど、そこには自由がないですよね。

G:じゃ、いつのどのテキストに設定すればよいんですかね?

西川:
 「自分がどんなふうにものごとと向き合いたいか」で決まるんじゃないでしょうか。地理学者のように向き合いたいのか? 王子のように向き合いたいのか? パイロットのように向き合いたいのか?

 『星の王子さま』をどう読むかというのは「あなたはどう生きますか」とほとんど表裏の話です。だから「フランス語で読まなきゃだめだ」とフランス語で読むっていうやり方もあるし、「こんなものはおまえ、楽しんで読んだらいいんだよ」っていうやり方もあるし、「これ子どもに読ませればいいんだ」っていうやり方もあるし、いろんなやり方、接し方があると思いますけどね。

 僕は自分が最近ちょっと間違えてんちゃうかなーとか思ったりします。あんまり本読みすぎて、自分で考えることが少なくなってきてるんで。「これはあんまりもう読んだらあかんのちゃう?」とは思うんですけどねぇ。ときどきええのあんねんなあ。

G:知識が邪魔して元に戻れないっていうのもある種の不自由ですねぇ。知る前には戻れないし。

西川:うん。いや大丈夫、忘れるから。

一同:(笑)

西川:
 まあ、最近読んだ『「星の王子さま」からのクリスマス・メッセージ』[*31]。教文館から出てますね。著者は高橋洋代さん。70歳くらいでしょうか。このあいだ僕がうぬぼれ男のところで、「いや、実はこれパンセにも同じようなやつがあって」って、言いましたけど、あれと同じことがもっと丁寧に書かれてありました。

 「この本はクリスマスプレゼントとして企画された本で、レオン・ヴェルトに向けて書かれている」って。それで、レオン・ヴェルトとサン=テグジュペリは、パスカルの大ファンだったみたいです。パンセについてもいっぱい話し合っていたそうです。だからレオン・ヴェルトにしかわからない「パンセに載ってるあれや!」とわかるようなエピソードがいっぱい入っているはずだそうです。

 たとえば、「B612」という惑星があったじゃないですか。本では「これはパンセのブランシュヴィック版[*32]の612番や」と書いてました。「ほんまでっか?」と思いましたが(笑)。見てみたら、それは神との契約の話なんです。神とアブラハムとの契約の話で。なんかそう言われたらそんな気もしてきますね。

 パンセって断片集だから、当時ラフュマ版[*33]とかいっぱい版があるんです。彼らが読んでたのはブランシュヴィック版だそうです。著者の高橋さんは保育の先生か何かで、子どものことや子育ての経験談も書いてあって、僕にしてはけっこう読みごたえがあって面白かった。

 「パスカルと関係がある」と言う人は多いんだけど、「B612がブランシュヴィック版の612番や」と、どんどん論を進めていく本は初めて見ましたので。紹介しておきますね。

[*31]『『星の王子さま』からのクリスマス・メッセージ』:高橋洋代著。2013 教文館
[*32]ブランシュヴィック版:『パンセ』(Pensées)はフランスの哲学者ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 1623-1662)が晩年に書き留めた数多くの断片的な記述を死後に刊行した遺著。フランスの哲学者レオン・ブランシュヴィック(Leon Brunschvicg 1869-1944)は「合理的で、便利で、実際の用に立つ」という目的のもと「自由な考え方で断章の配列」をするという方針で1897年に『パンセ』を編集・出版。『パンセ』には編者によって数種の版があるが、長らく日本の多くの読者に親しまれてきたのはブランシュヴィック版。
[*33]ラフュマ版:ルイ・ラフュマ(Louis Lafuma 1890-1964)によって1951年に編集・出版されたパスカル『パンセ』の版の一つ。第一写本を優先するラフュマ版の系列が、現在ではパスカル研究の標準的刊本として認められている。


矛盾の主体としての人間

西川:
 『パンセ』との関わり合いを指摘している人に共通しているのは、とにかく『星の王子さま』はスッとわかりやすいメッセージの本じゃないってことです。ほんとうに矛盾したメッセージがいっぱい入れられている。

 僕は大学時代は卒論を「矛盾の主体としての人間」っていうタイトルで、『パンセ』について書こうと思っていました。三木清[*34]の『パスカルにおける人間の研究』にものすごい影響受けてましたねえ。

 人間はどうしても矛盾してしまう。天使になろうと思えばけだものになり、けだものになろうと思ったら天使になる。有名な断片ありますけど、そういう自分の思いとは矛盾したあり方をせざるを得ないような人間存在について哲学を書きたいとすごく思ってて。『星の王子さま』にはそういうことが書いていると思いますねえ。

 サン=テグジュペリ自身もその意味で本当に人間的な人です。伝記を読むと、ほんとにそれがわかります。矛盾した人です。

[*34] 三木清:みき きよし、1897-1945。京都学派の哲学者。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死したが、死後刊行された『人生論ノート』は終戦直後のベストセラーになった。 『パスカルにおける人間の研究』(1926 岩波書店)は三木哲学の基礎を築いた書と評される。

西川:
 そういえば、「おとなって変だな」っていうけど、『星の王子さま』の中で出てくる大人って、王様とか小惑星の六人、それから地球で出てくる転轍手やとか丸薬売りとかパイロットぐらい。

 王様は身分。呑み助とうぬぼれ屋は性格というか。この3人は職業も何もないんです。あとは点灯夫にしても地理学者にしても転轍手にしても丸薬売りにしても、みんな職業持っていますね。ビジネスマンにしてもそうです。

 だから、こう「私は何々だ」――ちょっと呑み助とうぬぼれ屋は別にして――、と一つでアイデンティファイすることを「おとな」って言ってるわけです。『星の王子さま』の中で、大人とはいったいどういう人のことを言っているのかなって考えてみるのもおもしろいかもしれませんね。

H:うん。なんか王子って「結局自分の仕事から逃げてきた」っていうような後ろめたい思いもあるのかなと思って、

西川:そうそうそう。

H:だからこそ点灯夫のこの、それに逃げないでやるのに憧れたり尊敬したりとかするのかなって。

西川:ただ、王子が星を出た理由についてはもっと考えてもいいかもしれないね。普通だったら腹を立てたとき、バラに「出て行け」という気がしませんか? 何で自分が出て行ったんだろう。まあ僕みたいに出て行くタイプの人もいますけどね。

一同:(笑)

西川:バラが来るまでの王子って子どもじゃないですよね。日ごと夕ごと、ちゃんと顔を洗って、星の仕事をやっちゃうし。「何が起きるかわからない」って、休火山までちゃんと掃除してます。バオバブにも警戒している、ものすごい用心深いやつです。ちっとも子どもらしくないよね。でも悲しいときには夕日ばっかり見たり、妙に老成してたり。

G:ね、このプリンスって言葉が、そういう「小さな国の君主」みたいなニュアンスもあるんですよね、たしかね、もともと。

西川:そうそう。

G:日本語だとなんか「王子さま」っていうと、王様がいて、その子どもで、みたいなイメージの言葉になってしまうけど、もうちょっと自立したイメージなのかもしれないですよね。

西川:あと、もう全然家族のにおいがないっていうのも特徴ですよね。

G:王子さまなのにね。

西川:
 サン=テグジュペリそのものは常に家族の、特にお母ちゃんのことを片時も忘れられないような人ですけど。うん。でも、地方の貴族、没落していく貴族だったわけですけど、本当にあちこち預けられたり、バカンスになったら大叔母さんのお城に行ったりとか。学校もスイスでしたね。

 あ、海軍兵学校には落ちてるんです。数学はめっちゃ優秀だったけど、やっぱり、地理と歴史がだめだったんだって(笑)。

 暇つぶしに高等数学解いてる端に、星の王子さまのデッサンみたいなことやってたりとかわけのわからん人です。こどもの時に蒸気機関みたいなのを作って、爆発させて弟を怪我させたり。目のすぐ上にバーンってその破片が。血まみれだった、みたいなことも書いてありましたけど。

 あとおとぎ話とかを、シモーヌってお姉さんがものすごくいっぱい作って、演劇とかもやってたみたい。で、村の人呼んで、自分とこのお城の玄関の大広間で演じたり。その写真なんかもいっぱいみることができます。

B:貴族の遊びですね。

西川:
 すごいですよね。だから子どもの頃から物語作ったりとかはしていたみたいです。『帽子の大冒険』とかっていう作品もあってね。帽子がなんか数奇な運命をたどるんですよ。ショーウィンドウにあった帽子が誰かに買われて、その後どうなるのかっていうようなことをまあ子どもの頃に書いてますから。

 今日はこの辺にしましょうか。

(第15回終了)

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