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第3回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2017年11月8日)

※アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)
進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)



はじめに


 3回目ですね。今日は僕(西川)が話していきます。

 こないだの月曜日ですね。山科に1時頃に待ち合わせて、京都刑務所に行ってきました。こないだも話したと思うんですけど、加古川の刑務所、それから少年院二つと、それから和歌山刑務所とまわってるので、刑務所としては3回目の訪問というか見学になります。

 山科の駅から、京阪の乗り口のある方から道をまっすぐ行って、ちょっと曲がるだけです。車で10分弱くらいかな。高ーい建物ではなくて、平屋みたいなやつです。きれいな瀟洒な感じで、一見したところ刑務所にはとても見えない。あとで刑務所の人から話聞いたら、桂離宮をイメージして設計したそうです。

 和歌山刑務所は女性刑務所。加古川はどちらかというと犯罪傾向のまあ進んでない人たち。で、京都刑務所には犯罪傾向の進んだ累刑犯(→累犯[*1])が入ってます。6人部屋に、今は満杯じゃないんで4人で入ったりとかしてます。独居房もあります。

 みんなイメージとしてはどうですか?
 6人部屋と独居房、どっちに入れられるほうがいいと思います?

 懲役刑は多床室、6人部屋に入るのが普通みたいです。刑務所内でさらに違反行為というかルール違反なんかすると独居房に入れられたりすることもありますが、仮釈放前には独居房に移ったりすることもあります。

 だから、特段その独居房が、刑罰が重いというわけでもないようですね。それで人によっては夜だけ独居房に入ることもあるそうです。それはかなり優秀な服役者でないと許されないそうなんですけど。やっぱり、なんかひと癖もふた癖もある人たちの中にいるっていうのはそれなりにしんどいことがあるみたいです。夜ぐらい一人で寝たいわけです。

 でも、内側からは取っ手もないようなところです。物の出し入れは食器口っていうところがあってそっから出し入れするだけ。それに声を出すことは禁じられてますから、看守を呼ぶのもこんな板をパンと押す感じです。

[*1] 累犯:第1の犯罪について懲役刑の執行を終わり若しくはその執行の免除を得たあと、5年以内に更に第2の犯罪を犯し、有期懲役に処すべき場合(再犯)、またはそのような犯罪が3回以上続く場合(三犯以上の累犯)をいう。

 何でそんな話をしたかっていうと、刑務所ってのは孤独なんです。もちろん行動の自由の制限もあるんですけど、僕が3ヶ所見学して、一番やっぱりしんどいと思ったのは、コミュニケーションが取れない、取らしてもらえないということです。

 1日のうちの間でわずかな休憩時間だけです。その間も同室内の人としかしゃべったらいけません。廊下を隔てて向こう側にいる人に声かけたらだめなんです。入浴、食事、作業の間も一切私語禁止っていう感じで、しゃべったら懲罰です。そして名前も呼んでもらえない。刑務所内っていうのはどこも基本目隠しだらけで姿もみえない。

 工場単位ごと、それから居室単位ごとに行動をいろいろ制限されます。運動の時間もなかなかすごかったです。運動場には個人用のやつもあって。運動場というかまあ全部コンクリになっている檻みたいなんがあるんです。上が網になっていて、そこから、ガチャンって入れられて「30分間、はい、運動しろ」といわれるわけです。

 上が扇形になってるんですけど、その真ん中がちょっと高くなって、そこに看守が、一望監視いう施設(パノプティコン[*2])から看る。そんな感じになってるんです。ともかく、コミュニケーション取れないってことは一人になることです。孤立するっていうか。

[*2] パノプティコン:panopticon 中央に高い塔を置き、それを取りまくように監房をもつ円形の刑務所施設。イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが設計した刑務所その他施設の構想。


ひとりと独りぼっち


 ぼくは2013年に自由律俳句の尾崎放哉[*3]に関する『「一人」のうらに』[*4]という本を書いたことあります。いろんなところで出版イベントをさせてもらいました。その時僕は本には書かなかった「ひとり」と「独りぼっち」の違いについてとかいろいろ話しました。1回目にここに来てくれた編集担当の浅野さんから、「それを書いてくれたらよかったのに」って言われましたけど。

[*3] 尾崎放哉:おざき ほうさい。1885-1926、鳥取県生まれ、俳人。本名は尾崎秀雄(おざき ひでお)。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。生命保険会社の退職後、京都、須磨、小浜の寺々を寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。晩年の8ヵ月を小豆島の西光寺奥の院南郷庵で寺男として暮らし、病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作った。

[*4]『「一人」のうらに』:『「一人」のうらに:尾崎放哉の島へ』、西川勝著、サウダージ・ブックス、2013年出版。

 今日扱う『星の王子さま』にも「独りぼっち」っていう言葉出てきます。「ひとり」でいるっていうことは、他者からの圧力を受けない。まあ他者からの侵害からは自由になるっていうことなんですね。でも「独りぼっち」っていうのは、つながりたいのにつながれない。取り付くしまもない、何もないところにただ一人、救いを求めているのに、つながりを求めているのに、それに応じてくれる人がないっていう状況なんです。

 でもこれ、他者から見て客観的に分別できるかっていえば、なかなかできないですよね。大勢とこうやって、大勢の中でこう一同に会してごはんを食べてるような状況でも、ものすごい独りぼっちを感じることあるわけです。

 このまえ僕「認知症の人と家族の会」で出張して、10何人かとテーブル囲みました。みんなおばちゃんどうしでしゃべって僕としゃべってくれる人は誰もいません。2時間の間ただ黙々と飯を食べます。外から見たら、楽しげに談笑しているように見えるかもしれませんけど、ものすごい寂しい思いしました。

 逆に、ただ一人でいてるから、ものすごく孤独かっていうとそうでもないですよね。それこそ山を一人で登るときは、誰の力も借りません。この時の「一人」は、自力・独力だから自分の誇りにもなることなんです。寂しくはない。だから「ひとり」と「独りぼっち」については、もう少しいろいろ考えてもいいように思います。

 今日の『星の王子さま』も基本は(あくまで基本は)、一人と一人の出会いの物語なんですよね。友だちを見つけるとかっていうことが大きなテーマになっています。これをケア論として読むわけです。ケアはケアする側だけでもケアされる側だけでも成り立たない。とにかく一人だけでは成立しない出来事ですね。

 その意味で、「ひとり」と「独りぼっち」の違いについて考えたり、ケアが生じている場面で人はいったいどういうあり方をしているのか考えるときに、今回の『星の王子さま』は大切なキーワードになるのかもしれません。

 ということで、今日は第Ⅱ章、10ページから始めます。

そんなこんなで、ぼくは、心を開いて話をする相手もなく、ずっと独りぼっちで生きてきました。

 ここで早速出てきますね。「心を開いて話をする相手がない」を「独りぼっち」と言ってるわけです。

六年前までのことです。

 ということは六年後。六年前まではそうだったんだけど、今はそうじゃないんだっていうことをここで既に言っています。

六年前、ぼくはサハラ砂漠に不時着しました。エンジンの具合が悪くなったのです。メカニックも旅客も乗りあわせていませんでしたので、「大変だけれど、自分ひとりで修理をしなくちゃ」とぼくは覚悟を決めました。

 ここも「自分ひとり」って書いてあります。

生きるか死ぬかの分かれ道、自分の命がかかっていました。飲み水が一週間分あるかないかだったのです。

 「大変だけど、自分ひとりで修理をしなくっちゃ」の「ひとり」は、「誰かに助けてもらえなきゃ、助けてくれる人がいないんだったら、もうあきらめて死んじゃう」ではないです。ひとりでもやる。そういう覚悟を持ったときにも「ひとり」という言葉を使うわけです。ところが心を開いて話をする相手がなかったら、「独りぼっち」なんです。このあたりをね、それぞれみなさん自分の経験でいろいろ考えてもらったらいいと思います。


あっこちゃんの会


 昨日は大阪の釜ヶ崎であっこちゃんの会、要はおしゃべりの会みたいなのを、僕とそれから昔の同僚やった宮本友介さんと二人でやってきました。生活保護を受けていて、高齢者で、独居。この三つが揃った人が登録して活動に参加します。ということは、親類縁者というか、土地の人たちとの縁も切れてしまっています。そういう人たちと、まあテーマ決めたり決めなかったりいろいろと話をするわけです。

 昨日はさっきの刑務所の話からやりました。とはいえ、刑務所の話もあそこらへんうっかりできないです。何回も入った人とかいるから。でも「『ひとり』と『独りぼっち』についてみなさん、なんかあったら教えてくれ」ってききました。もういきなり単刀直入にしゃべって。どうかな、と心配だったんだけど、もう5年近くおしゃべりやってることもあって、案外ぼつぼつ話してくれました。

 最初の第一声はね、「『ひとり』は渡哲也、『ひとりぼっち』は美空ひばり」って。「何ですか?」って言ったら「歌の名前」とかってね(笑)。めちゃくちゃ芸能関係に詳しい人がいたりするんです。

 「3年ほど、大昔50年以上前に、夫婦で、二人で暮らしたことあるけれども、別れてからはもう50年以上一人暮らしや」っていうね、78歳の男性もいました。「だから自分、夜になると、年齢もあるし…」。釜ヶ崎では、死後何日間か経ってから居室で発見されるようなことが常態化してるんです。俗に言う孤独死というか。だから「先のことを考えると、もう居ても立ってもいられなくなるから、最近はそういうことは考えんようにしてるんや」と話してくれました。

 この人は年期入ってますけども、リストラとか、自分の人生を大きく変えた出来事がつい5年ぐらい前で、ホームレスにまでなった人もいます。今は生活保護受けて、あっこちゃんの会をやっているひと花センターに来てもう一度人とのつながりをみたいなことを考えています。でも「夜になると、まあ孤独感というか孤立感というか、やっぱり気が狂いそうになる」と。

 だから「酒を飲む」という言う人もいれば、「自分は酒飲めないし、口下手やから」みたいな話をしてる人やとか、いろいろいますね。でも「一人でいる」っていうことの、こうやっぱり力強さも感じていたりまします。

 あっこちゃんの会は「生活保護受給の高齢単独独居の人の社会的つながり事業」なんですけど、生活保護受けてもみんなサービス付きの、そのまあドヤを改装したようなところで、ほとんどもうずっとそこにいます。ホームヘルパーとかの介護漬けで、外に出ることがなくなってしまう。

 しかも、下手にお金持ってるもんやから、外に出ると昔の知り合いから「金貸してくれ」って言われたら困るわけです。住所がはっきりしてるわけですから。前みたいにいつどこのドヤに泊まってるとかではなくて、今は狙い付けられたらもうしつこく来られるわけです。だからそれを嫌がって外に出なくなったりします。

 どうやら、お金さえ渡せば幸せになるわけではない。かえって、専門職から貧困ビジネスみたいに金巻き上げられたりします。今までは路上で話し合ってた相手を恐れるようになって、部屋に一人でこもるみたいな状況はおそらくたくさんあるんです。

 ひと花センターはそういうのを何とか解消しようと思ってやってるところです。登録されてるメンバーは生活保護を受けるときに、言われるんで仕方なしに受けてるんでしょう。実際に来てる人っていうのはそんなにたくさんはいません。来てる人はみんな「エリート」ですよね。いろんな問題を自分の中で解決しながら、社会的事業でボランティアやったりだとか、一緒に集団で活動やれる人ですから。

 そういう人たちも、ふいっと来なくなったりします。5年も通っていると分かるようになってきました。ものすごい機嫌よく来てた人がぷいっと来なくなる。ほいでもう酒飲んだくれてるって話が耳に入ったりとかします。そのまま来なくなる人もいますし、来ないなあと思ったら亡くなってたっていう人もいる。半年ぶりに帰ってきて、ひょうひょうとしてたりもする。僕、ここではあっこちゃんって呼ばれてますけど、「よう、あっこちゃん」とかって言われたりして。

 僕自身は親と暮らしたりだとか、結婚も数回してますから、常に家族がいるわけです。60年間の人生で、一人で暮らしたっていう期間は半年もないですね。常に何かこうシラミみたいな男で、人の温もりの側にいる男なんです。だから、よく分からないんですけど、「ひとり」と「独りぼっち」はものすごい違うように見えるけど、薄皮一枚というか表裏みたいなところがあるような気がします。

砂漠の声と出会い


 『星の王子さま』のパイロットと王子の出会いはサハラ砂漠。人っ子一人いないようなところで王子とパイロットが出会うことになります。わずか1週間ぐらい、10日ぐらいかな。そんな出来事なんです。

 でも、その出会いが「今までたくさんの立派な大人たちの中にも大したやつはいなかった」と思っていたパイロットにとって、心を開いて話ができる相手、生涯にわたる友との出会いなんです。

 決して友だちがいかにもできそうな場所で起こった出会いではないというところに、この物語の味わうべきところがあるのかなって思います。

 サン=テグジュペリはさらさらっと書いてるようですけど、折り畳んで折り畳んで、そんなに複雑に見えないんですけど、さらっと読めるようにして、ほんとに幾重にも重なる深いメッセージをこう作品の中に入れてるなあって、そんなふうに思います。

 「生きるか死ぬかの分かれ道」っていうところ、ここもね大事です。サン=テグジュペリ自身は「ただ生きるっていうことに意味がある」とか「死は敗北や」とは、他の作品にしてもそうですけど、思ってない節があるんです。

 「命よりも大切なものがある」っていうのがサン=テグジュペリの非常に貴族的なというか、そういう価値観です。これは後々出てくるんで、またその時考えたらいいかなって思います。

 で、サハラ砂漠に不時着したっていう話。実際にサン=テグジュペリも不時着してるんです。この時サン=テグジュペリは一人じゃなくて二人で不時着してます。当時の飛行機はまあ軽ーい飛行機なんで、墜落しても今の飛行機みたいに大破して爆発してっていうことないんです。ガチャンガチャンっておもちゃの飛行機が潰れるみたいにして潰れるんで、打ちどころが悪くなかったら不時着してもだいたい生き残ることになります。

 でも砂漠の真ん中です。水を求めて、もう一人の人と砂漠の中を何日も何日もさまよい歩いて、最終的に土地の遊牧民に助けられたっていう経験をサン=テグジュペリ自身もしています。まあそれはそれでまた別の作品にあるんで詳細は省きます。だからこれはまるっきりの想像で書いてるんじゃないです。サン=テグジュペリ自身が実際に体験してるんです。

 最初の夜、人の住むところから何千キロも離れた砂の上で、ぼくは眠りにつきました。大海原の真ん中を救命ボートで漂流する難破船の乗組員にも負けないくらい、ぼくは独りぼっちでした。と、そんなとき、どんなにぼくがびっくりしたか、お分かりでしょう。なんと、明け方、不思議な小声にぼくは起こされたのです。こんな声が聞こえてきました……。 

 ここに「お分かりでしょう」っていう箇所があります。さらっと書いてますけど、これは読者に対しての呼びかけです。本というかお話というものは、聞く人に対して話してるっていうのが当たり前と言えば当たり前なんです。それをここで明示的に書いている。献辞は別ですけれど、今まで読者に対して直接話しかけるような言葉遣いはここが初めてです。ここからちょこちょこ出てきます。

 次のページをちょっと覗いてみましょう。12ページの2行目に「その子のいちばん出来のよい絵を見てください」とあります。これも読者に対して言っていますね。それから12ページの真ん中あたりの段落の「びっくり仰天」っていうところに「忘れないでください」とあります。これも読者に対する呼びかけです。ということは、このⅡ章には読者に対していろいろ話しかけてるところがいっぱいあるんです。なぜでしょう?

 いろんな研究者が言ってますけど、ここでサン=テグジュペリは、読者と「契約」を結ぼうとしてます。「これが分からない読者はこのあと読んでも分かれへんよ」みたいな。分かります? 「読者なら、この本が分かるあなたなら、この呼びかけに応えられるはずだ」っていうメッセージを、きちんとこういうかたちで入れてるんです。何度も何度も読んで話しているうちに気づいたことです。最初のうちは全然気にもせず読み飛ばしてました。

 それからもう一つ。「不思議な小声にぼくは起こされたのです」というところ。声なんですよ。王子はまず声で登場するんです。姿を見たんじゃないんです。「その王子が現れた」ではないし、「王子と出会った」でもないんです。声が聞こえたんです。

 声は、聞こうと思わなかったら聞こえないんです。特に小さな声は。どっかでしゃべってる声がする。それが自分に対して話しかけてるものなのかどうなのかっていうことは簡単にはわかりません。

 相手と目が合う。これは相手がこちらを見てる、自分は向こうを見てるというかたちで関係は案外はっきりしています。でも、ここでぼそぼそってなんか言ったときには「え? それ誰に言うてんのかな」ってなりますよね。「何々さん」とかって言ったら話は違いますが、そうでないときは、声を受け止める必要がある。それはアンテナをちゃんと張っているということなんです。

 だからここで、パイロットはこういう小さな声にちゃんと反応したっていうことになります。サハラ砂漠だからということがあるかもしれません。けれども、まあ少なくとも、声で登場することの意味はあるんです。

 この作品は、最後に王子は姿を消します。何を残すかっていったら、笑い声です。「星を見たら王子の笑い声が聞こえる」みたいなかたちで、声で登場して声を残していく。だから、この声に対する思い入れっていうのも、ちゃんと計算されつくしてます。サン=テグジュペリは王子の登場と、それから王子が消えてからのところに声をちゃんと配置している。

 そうなると「声って何なんや」となってきます。鷲田先生の臨床哲学でも『「聴く」ことの力』で声について書かれたりしていますね。あと、川田順造[*5]っていう人類学者、レヴィ=ストロース[*6]なんかを訳した人ですけど、あの人にも『聲(こえ)』[*5参照]っていう本があります。

 声ははかなく消えていくものなんです。だからそれをまず大事にする。手で触れるものとか絵で描けるものとかではなくて、姿とかでもなくて、声というもので登場させるっていうあたりも、非常に大事なメッセージなのかもしれません。

 明け方っていうのも気になります。太陽がようやく上がってくるところに登場する。何か幾重にもこういう詩的なイメージがあります。真っ昼間いきなり声が聞こえてくるよりも、明け方、小さな声で、不思議な小声で現れてくる、王子にふさわしい登場の仕方をサン=テグジュペリはしっかりと作っているわけです。

[*5] 川田順造:かわだ じゅんぞう。1934年、東京都生まれ、文化人類学者。東京外国語大学名誉教授。主としてアフリカを対象とする民俗学的調査を行い、数多くの著作を著す。またクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の翻訳でも知られる。著書の『聲(こえ)』は1988年、筑摩書房より出版。
[*6] レヴィ=ストロース:Claude Lévi-Strauss 1908-2009、ベルギー生まれ、フランスの社会人類学者、民族学者。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。


男の子とヒツジの絵

「すみません……。ヒツジの絵、かいてよ」
「ええっ?」
「ヒツジの絵、かいてよ……」

 ここが、いちばん最初の王子とのやり取りになります。ここだけはいろんな研究者(主に仏文学者)が解説しています。「すみません……。ヒツジの絵、かいてよ」のところ。これは原文で“S’il vous plaît... dessine-moi un mouton !”(シル・ヴ・プレ...デシヌ・モア・アン・ムトン)となります。「……」がありますね? “S'il vous plait.”で「……」があって、“dessine-moi un mouton !”(デシヌ・モア・アン・ムトン)と続きます。

 フランス語はyouっていうか「あなた」をvous(ヴ)とtu(テュ)にわけて表現します。ものすごい丁寧に使うvousっていう単語と、それから仲良くなってから使うtu、「あなた」に二つの言い方があるんです。それによって動詞の活用も違います。

 “S'il vous plait”って言ったときには、かしこまった言い方なんです。だから「すみません」って訳してますけど、「申し訳ありませんが」とか、まあなんか、どちらかってものすごいくそ丁寧な言い方なんです。

 でも、次の“dessine-moi un mouton!”。dessineってのはtuっていう、こう親しい人に人に対して使う動詞です。「僕にヒツジの絵を描いてや!」という感じなんです。馴れ馴れしいため口なんですよ。

 だから、「……」の間に、がらっと違ってるんです。分かります? 普通ならば“S'il vous plait”って言ったら、次もvousで活用するような言葉づかいをするのが普通なんです。だからこれフランス人やったらすぐ分かるわけです。でもこれ日本語にしちゃうとなかなかそのニュアンスが出てこない。

 この訳も必死になってやってると思います。「すみません」の後に「……」。この「……」のところに何があったかっていうことです。この黙ってるところに何があったか。なぜvousがtuに変わったのかっていうことです。なぜでしょうか。

 これパイロットのことを王子が見抜いてるんですよ。「外見は大人だけれども、tuで話しかけていい人なんだ」っていう感じ。とまあ、こんなふうに解釈もできます。

 もうひとつ。「ヒツジの絵、かいてよ」の部分。このときは「ヒツジの絵」って言ってます。これがこのあとだんだん「ヒツジ」に変わっていきますからね。「ヒツジの絵」が「ヒツジ」に変わるんです。ここも注意して読んでおいてほしいです。

 ぼくはがばと跳ね起きました。まるで雷にでも打たれたみたいに。何度も目をこすってから、しっかり前を見ました。

 やっぱり大人は目で見てみないと信用できへんわけですよ。声は聞こえたけれども、声で気がついたんやけれども、でも「えっ?」みたいな。突然に変なこと、想像もしてなかったようなことを言われて、目をこすって「夢じゃないのか」と、ほんとにその声の主がいるのか確かめようとするわけです。

すると、見るからに風変わりな男の子が目の前にいました。

 ここも注意してください。「男の子」とあります。「王子」とは書いてません。この「男の子」がいつから「王子」に変わるのかにも気を付けながら読むと、また何かメッセージがあるかもしれません。

なんだか真剣な面持ちで、ぼくをじっと見つめています。あとでなんとかぼくが描いた、その子のいちばん出来のよい絵を見てください。

 これは14ページにある絵を指しています。サン=テグジュペリは自分のテキストと挿絵の配置だとか、その挿絵のうちどれをカラーでやってどれをモノクロでやるかとか、それからその挿絵の大きさをどれぐらいにするかとか、その挿絵にテキストをぐるっと回すようにするのかとか、細かなことまで編集者に注文を出してます。編集者がなかなか言うことを聞いてくれないので怒ってる手紙まで残っています。

 この訳文は原文のまんまの位置関係ではないと思います。初版を見てないから何とも言えませんが、「見てください」と言うからには、すぐ横に本当はあったのかもしれませんね。

 さて、前も言いましたけど、『星の王子さま』という本は、まず挿絵からできあがってるんです。もともと彼は作家ですし、文章を書くことが本業で、絵を描くことについては別にプロでも何でもないんです。でも、『星の王子さま』は、彼がいつも落書きのようにして描いてた少年を主人公にした子ども向けの本を作ってみないかって誘われたところから始まっています。

 それでまず絵をどんどんどんどん描いていくわけですね。その間にストーリーも考えていきます。いろんな伝記によると、本文もものすごい何回も何回も書き直してるんですが、絵はそれ以上らしいです。1枚の絵を描くのに500枚ぐらい捨てるみたいな感じです。もう紙の山の中でやってたみたいです。絵をしっかり見るっていうのもやってみたら面白いと思います。

 いちばん出来がよいといっても、実物のすてきなことに比べたら、むろん、月とすっぽん。でも、それもぼくのせいではないのです。なんといっても、六歳のころ、画家になろうと胸をふくらませた矢先に、おとなたちに出鼻をくじかれましたから。おかげで、ぼくは絵の描き方をまるで覚えませんでした。大蛇ボアの外しか見えない絵と、お腹の中が透けて見える絵以外にはね。
 びっくり仰天、目を真ん丸にして、ぼくはそこにいるその子をじっと見つめました。忘れないでください。ぼくがいたのは、人の住むどんな土地からも何千キロも離れたところでした。にもかかわらず、その子は、道に迷ったみたいでも、くたくたに疲れたみたいでもなく、お腹がペコペコで、喉が渇いて死にそうでも、怖くて死にそうでもありませんでした。人が住む土地から何千キロも離れた砂漠。そのど真ん中で迷子になった子どもなんてようすは微塵もありませんでした。やっと口が利けるようになって、ぼくはその子にたずねました。
「でも……、いったいぜんたい、こんなところでなにをしているんだい?」 

 ここのフランス語はちょっとよく分かりませんけど、「胸をふくらませ」とか「出鼻をくじかれる」とか、「目を真ん丸にして」とか、「びっくり仰天」とか。からだ言葉がばんばん入っているところが面白いですね。


ものすごく不思議なことが起こったとき


 よくよく考えてみたら、こんな砂漠でもし子どもが一人でいるにしてはありえないような様子です。人間離れしてる。だからここらへんで、単に風変わりな人間の男の子ではないという予兆が語られてるわけですね。

 「フェアリーエンカウンター」というかたちで、妖精との出会いはいろんな子ども向けの童話に出てきます。でも、明るい町中で妖精と出会ったりはしません。学校の教室で出会ったりすることはほとんどない。町はずれの森とか、普通の人間の暮らしと自然との狭間にあるようなマージナルな境界のところで、人のように見えるけれども人ではない妖精みたいなものと出会うわけです。

 だからここでもサハラ砂漠っていうのは、そういう場面として設定されてると考えてもいいかもしれません。ココペリ121(ワン・ツー・ワン)のココペリ[*7]も一応妖精みたいなものですが、あれはどこで出てくるのか僕はよく知りませんね。ともかく、そういう妖精との出会いというか、人と自然との狭間のあたりで何かと出会う物語というのは、人類のいろんな文化にある普遍的なストーリーの型といえます。

[*7] ココペリ:アメリカ・インディアン、ホピ族のカチナ(神・精霊)の1柱。豊穣の神(男神)。笛を吹くことで豊作・子宝・幸運などをもたらす。

「でも……、いったいぜんたい、こんなところでなにをしているんだい?」 

 「でも」の後の「……」。これはほんとに困惑しているっていうことでしょうか。まあ、「ヒツジの絵をかいて」って言われてますからね。だからそれに対して「いったいぜんたい、ここでなにをしてるんや」って返している。でも、男の子は「ヒツジの絵をかいて」ってすでに言ってるんです。これがもう大人の対応なわけですよ。

 「何をしてるんや」って。(帽子を指して)「怖いでしょ、これ」と言った人に対して「何が怖いねん、帽子の」と返すのと同じ対応をパイロットはしているわけです。大人としては当たり前の反応ですけどね。

 すると、その子は小声でまた同じことを繰り返しました。なにやら、とても大事なことみたいな口調で。
「すみません……。ヒツジの絵、かいてよ……」
 不思議なことが起こって、すっかり、あっけにとられているときには、人は知らず知らず言われるとおりにしてしまうものです。

 どうですか?これほんとうだと思います?不思議なことが起きたとき。自分の理解を超えたとき。自分の理性では到底理解できず、あっけに取られてしまって次の判断だとか思考が停止してしまう。ものすごい不思議っていうか人間の分別を超えたものといきなり出会ったときに、やっぱり聞いてしまうと書いています。

 これは、人の世界を超えたもの、超越的なものとの出会いのときに、人は分別知でそれをどうこうできない、思わずそれに従ってしまうだろうということですよね。

 これ当たり前って言ったら当たり前なんですよ。人間には行動の自由があるだとか、選択するために人は考える存在だと言うけれど、それは考えられる範囲内のことでしかないわけです。もうまったくの不思議、それであっけにとられてしまって、判断も何も、思考能力も奪われるぐらいの不思議との突然の出会いがあったら、もうそれはね、人はもうなすすべなしにそれに呑み込まれてしまうと言っているのかもしれません。

人間の住むところから何千キロも離れ、しかも、死ぬかもしれないというときに、どんなに愚かなことだったのかもしれません。 

 「死ぬかもしれない」はもう分別が働いてるんです。そういう生きるか死ぬかの分別さえなくすように、不思議なものとの出会いというのは時としてあるということです。「生きるべきか死ぬべきか」って、「これが最大の問題や」とかって言いますけど、それは人間的な分別知の悩みであって、そんなものふっ飛んでしまうことだってあるんだ、っていうことですね。

 それでも、ぼくはポケットから紙を一枚と万年筆を取りだしました。そうしながらも、思いだしたのですが、ぼくは地理とか歴史とか算数とか国語しか勉強したことがありませんでした。 

 普通なら「地理とか歴史とか算数とか国語を勉強しました」となるところを「しか」と言ってるところがおもしろいですね。

 「絵なんか習っていないんだよ」と(ちょっと不機嫌そうに)男の子に言いました。男の子はこう答えました。
「かまわないよ、そんなこと。ヒツジの絵、かいてよ」 

 「不機嫌そうに言った」っていうのはもともと絵描きになりたかったからです。でも、不本意だけど、大人たちがすすめる学問をした、勉強したということです。自分の望みを叶えなかったことを思い出させられた状況に対して、今は不機嫌になっています。

 ヒツジなど一度もかいたことのないぼくは、ぼくがかけるたった二枚の絵のうちの一枚をかいてあげました。 


 この人もしつこい人ですよね(笑)。六歳の時に描いた絵をずーっと持ってて、大人相手に見せることがあるわけです。今回のものすごい超越的なるものとの出会いのときでも、とりあえずそれを描く(笑)。


ヒツジの絵とヒツジと


 お腹の中が見えない大蛇ボアの絵でした。ところが、ぼくはアッと驚きました。その子がこんなふうに答えたものですから。
「違うよ、違うよ、ボアのお腹の中のゾウなんか、かいてもらわなくていいよ。ボアは危なくてしようがないし、ゾウなんか場所を取ってしようがない。うちはものすごく狭いんだ。ヒツジが要るんだよ。ヒツジをかいてよ」 

 さあ、ここです。「ヒツジが要るんだよ。ヒツジをかいてよ」と王子はいっているんです。ヒツジが要るんですよ? 象の絵を描いてるんですけど、象を呑み込んだボアのことを描いてるんですけど、「そらボア危ないわ」、「象も大きすぎるわ」といっています。絵のことを、まるでその実物が星に来るかのようにすでにここで語っています。そして、「ヒツジが要るんだよ」と言うわけです。王子にはヒツジが要るんです。だから、パイロットには「ヒツジの絵をかいてよ」って言っているというわけですが、「ヒツジの絵 =ヒツジ」ではないですよね。

 「絵に描いた餅は食べれない」って大人の世界では当たり前のことです。イメージと実体とうか本物、表象と実体みたいな区別をしないわけです。ここのあたりからしていません。この物語を馬鹿な話だなあと思ったら、もうこのあと読めなくなるんですよ。「そうじゃなくって、ヒツジが要るんだよ。だからヒツジの絵、かいて」って言ってるんです。

 絵を描くこと、表現することが創造するということになる。そしてその創造っていうのは単に表層的な、サインだとかシグナルだとかではなくて、それをリアリティを持って受け止めることも可能なんだ、可能な世界もあるんだということです。

 「それ、単なる絵に描いた餅でしょ」ではないわけです。「美味しそうなお餅だねえ」「今夜食べるわ」みたいな話をしたら、普通ならちょっとおかしなことになります。でもそれはイメージされたもの、表現されたものをどの次元で受け取るかなんです。下手をすると、演劇にしろ、様々な芸術作品にしろ、「それは作りものやろ」と言ってしまったらそこまでの話なんです。だから「愛してるよ」と言われても、「それ言葉でしょ」と返したら終わりになる。

 見えてるものや表現されたものに対して「背後に何か本物があるはずだ」っていう考え方があります。本質主義というか。プラトンなんかそうですね。「目に見えてるものは、そんなんイデアじゃない」と言ってるわけですから。西洋哲学ってのは長い歴史の中でそういう考え方があるわけです。「見かけと本質とは違う」みたいな。

 でもここでやり取りされてることというのは、「ヒツジが要るんだ。ヒツジの絵をかいて」ということなんです。単なるイメージに留まらせない表現ということです。リアリティを持って受け取る関係をここで提示しています。で、これを「そんなくだらない」としてしまったら、もうこのあとの話は一切読めなくなっちゃいます。


 そこでぼくは言われるとおりに絵をかきました。
 じっと絵を見て、そのあと、男の子は、
「こんなんじゃない。このヒツジ、ひどい病気にかかっている。もう一匹かいてちょうだい」 

 もうここでね、「このヒツジ」ってなってるわけです。「このヒツジの絵はだめだ」とは言っていない。「このヒツジ」って言ってるんです。

 ぼくはもう一枚こんな絵をかきました。
 その子は、やれやれ、しようがないなあ、という、あきれ顔でやさしく微笑んで、
「あのねえ……。これ、ぼくの言ってる、おとなしい種類のヒツジじゃないの。ヒツジはヒツジでも、別の荒っぽい種類のヒツジでしょう。だって、角があるもの……」 

 さっきやった「羊をかいてよ」は“dessine-moi un mouton !”(デシヌ・モア・アン・ムトン)。mouton(ムトン)って、日本語でマトンとも言いますよね?去勢した、食用にするために去勢した牡羊のことをmoutonって言うらしいです。去勢されてないから角生えてきてるんですよね。だからそうじゃないっていうことを言ってるだけのことだと思います。

 で、ぼくはもう一度、絵をかきなおしました。こんな絵です。けれども、その絵も、これまでの絵と同じで、男の子に気に入ってはもらえませんでした。
「これって、歳を取りすぎているよ。若くて長生きするヒツジがほしいんだ」 

 うーん。どんなヒツジがほしいんでしょうね?病気じゃだめ、荒っぽいとだめ、おとなしいのじゃないとだめ。で若くて長生きするやつ。いかにも、おとなしい従順なヒツジっていう感じします。


 ぼくはいらいらしてきました。なにしろ、早くエンジンの分解を始めなくては、と焦っていましたから。それで、こんな絵をかきなぐりました。
 そしてぼくはぶっきらぼうに言いました。
「ほら、箱だよ。君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」
 ところが、びっくりしたことに、あれこれ注文の多かった男の子の顔が、思わず輝いたのです。
「そうだよ、こんなヒツジなんだ、僕がほしかったのは。このヒツジ、たくさん草、食べるかなあ?」 

 描きなぐってぶっきらぼうに言って、渡したのがこの箱なんです。「ほら、箱だよ」って、「君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」。でもまあここで、パイロットはちゃんと「ヒツジ」って言っています。「ヒツジの絵をかいてよ」って言われたんですけど、いつの間にか王子にヒツジの絵からヒツジにすり替えられてるわけです。

 うまく描けないし「もう、こんなことやってる場合じゃない!」みたいな感じで「こん中にあるよ」と渡す。恐らくうまくいくとは思ってないんでしょう。受け入れてもらえるとは思っていない。もうとにかく相手を拒絶するぐらいのつもりで描いてるわけです。嫌味でやっている。「ところが、びっくりしたことに」と続くので、喜ばそうと思って描いた箱じゃないんです。態度もそうだし。だけど、そんなことにはお構いなしに王子は喜ぶわけです。おまけに「このヒツジ、たくさん草、食べるかなあ?」みたいな感じで、もうそのヒツジに対して想いをかけてる。「そうだ。これでいいんだ」とかじゃなくって、そのヒツジについて、こう想いを寄せて相談してる、ぐらいになっているわけです。

 「どうして?」
「だって、ぼくんち、とっても狭いもの……」
「きっと、だいじょうぶだよ。とても小さなヒツジを君にあげたから」
 絵のほうをのぞきこんで、
「そんなに小さくないよ……。おや、眠っちゃった……」 


 「きっと、だいじょうぶだよ」も、これ大人が「なんかせっかく上手いことだませたから、このままだまそう」みたいな感じがぷんぷんしてますね。「とても小さなヒツジを」というわけです。でも王子は「そんなに小さくないよ……。おや、眠っちゃった……」。もうここでヒツジは生きてるんです。

 こんな感じで、どんどんどんどんこのぶっきらぼうに渡された箱の絵の中でヒツジが生きてきます。ヒツジの絵ですらない。これ箱の絵です。でも箱の絵だけど、王子は「君がほしいって言ってるヒツジは、こん中にいるよ」って言ったメッセージをしっかり受け止めています。「君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」という言葉を信じている。

 「これ、ヒツジどこにも見えないじゃん。箱の絵じゃん」なんて言わないわけ。「君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」というその言葉を王子はそのまんま信じてるんです。

 通常われわれの社会ではありえないコミュニケーションがここで起きてるんです。信じているわけです。適当に返事をしていない。だって、パイロットはその前にちゃんと言ってるわけですから。「君のほしいヒツジは、この中に入っている」って。それをそのまんま正直に受け止めれば、「あ、ほんとだ。いるわ」ってことになるんですよね。

コミュニケーションの重層性

 こんなふうにして、ぼくは王子さまといろいろ話をするようになったのです。 

 最後のところで「王子さま」となってます。それまで「男の子」だったのが、ここで初めて「王子さま」に変わります。だから、これは『星の王子さま』“Le Petit Prince”(ル・プティ・プランス)であり、王子との出会いの話だったんですよということになるわけです。

 このあと、だんだん王子の背景が出てきます。いわゆる大人が喜びそうな「彼はどこに住んでるの」とか「どんな暮らしをしてたの」とか。大人が聞きたがるような話はこのあと出てくるんですけれども、王子っていうのはこういう男の子なんだ、こういうコミュニケーションをする人なんだ、っていうことがもうここに書かれてあるわけです。

 その際には何度も読者に対して注意を呼びかけています。「忘れないでくださいよ」、「見てください」って。僕がこれから話をする、書き綴っていく王子は、こういう男の子なんだ」って。「こういうかたちで登場してきて、僕とこんなやり取りをしたんだっていうことがまずはっきりあるわけです。

 やっぱり最初はここまでは読めないです。何度も読んでるうちに「ああ、そうやったんや」となります。最後まで読んでから最初の頃の話の意味が分かってくる。そんなに簡単に全部謎解きされるわけじゃないんですよ。何度も何度も、ぐるぐるぐるぐるこう、分からなくなってきたときにもう一度読み直すと、でも丹念に読まないとだめですけど、読んでいくと「あ、ここでこんなふうに出てくるんやー」となります。文学的になんか修飾語の多いダーッとしたようなもう名文口調で書かれてる文章じゃないから、線を引っぱろうと思ってもどこで線引っぱったらいいのか分からない本なんですけど。

 そりゃ無理やり引っぱったら、「大切なものは目には見えないんだ」とか、世の中で流行ってるやつに付けたくなりますけれども、実はそうじゃない。「声で登場する」ということ自体が大事だったりするわけです。「ほら、君のほしいヒツジはこの箱の中にいるよ」みたいな、「君がほしいって言うヒツジは、この中に入っている」っていう言葉。この言葉を王子がどう受け止めたか。これはちゃんと書かれていない。明示的には書かれててないんですよ。でもここが大事なんですよ。ここが大事。

 面白いのはね、このあともずっと出てきますけど、王子とパイロットは言語的にはディスコミュニケーションなんですよ。全然、もう会話が成り立ってない感じなんです。でも言葉の上でコミュニケーションが成り立っていない。なにせ、王子は質問したことに一切答えませんから。

 ケアの場面でもいっぱいあるじゃないですか。「この人は何考えてんのか分かれへん」というとき。「相手がほんとに望んでいることをこちらは提供しようと思ってるけど、言ってくれへん」って。うん。言ってもらわなきゃ分からない人は、言われてもたいてい分からんのですよ。と僕は思うんです。

 コミュニケーションには、言語的な位相[*8]と、そうではないところが、様々に重層的に成立しています。人と人っていうか、人以外でもそうかもしれませんけど、コミュニケーションの層というものがあるんです。僕たちはあまりにも平板に、理性的に、お互いが共通理解できるような言葉のコミュニケーションだとかにこだわってしまう。そうすると、本当に豊かな交歓の場面っていうのか、大事なことが抜け落ちてしまいます。

 ここでは半ば嫌味のように、パイロットはぽんとぶっきらぼうに投げ渡しましたが、その時の言葉を王子が違うかたちで受け止めた。だから破綻してないんです。普通ならば破綻するところが破綻しなかったんです。「ヒツジの絵って言ったじゃん。箱じゃん、これ」って言ったらアウトです。でもそうじゃないから、このあと二人は心を打ち明ける友人になるんですよ。

 一見ディスコミュニケーションに見えるんだけれども、それが奇跡的な、こう何と言うか絆を生むっていうのはどういうことがあるんだろうと。このあたりをこれからじっくりと考えて行きたいなあって思います。

[*8] 位相(言語学):性別、年齢、職業など、社会集団の違いや場面の相違に応じて言葉の違いが現れる現象。


おわりに


A:ココペリのAです。よろしくお願いします。今日初めて参加させてもらって、すごく感心したのは、やっぱり箱の絵でしたね。なんかほんとに、面白いなあと思いました。最近ちょっと、あの時々、少しだけ麻雀ゲームができる時間があって、するんですけど、ほんとに何て言うんですかね、自分がこうしたいな、こうなってほしいなとか、そういうことをまったく抜きにして、流れに沿ってこうやるとできあがったみたいなことに、ちょっと似てるなと思いました(笑)。

長見有人(ココペリ121代表、以下長見):(笑) 何かちょっと、分かりにくいな。

A:すみません、抽象的で申し訳ありません。

長見:抽象的ですけど、ここをやっぱりちゃんと「ああ、そうだね」って言うんだろうね?

西川:ていうかね、僕はこれね、僕やったらこれ「意図を超えたケア」って言うんですよ。

A:ああ、そうそうそう。

西川:ケアする側としてはね、箱の絵なんか描いたってたぶん相手が満足しないって思っている。だからぶっきらぼうにやってるわけです。「もう終わりにしてくれや!」って。「もう終わりだよ!」って言ってるんです。そのつもりで言ってるんです。
 ところが相手は喜んじゃうっていう。終わりにしようと思ってるのに、相手にね、失望させて終わりにしようと思ってんのに、向こうが「ええー!」って喜んでくれるっていう。だからこちらの意図を超えたようなことがらがケアの場面ではあるんですよ。
 別に親身になって聞く気ないのに、だからうわのそらで聞いてるんだけど、相手が「あの時聞いていただいたおかげで僕は生きのびれました!」とか何回も言われましたから。何言われたか覚えてません。もうポッケーと聞いてるんですよ。
 「手握ってくれてましたよね」って、「そら握れって言われたからや、先輩から」て思うねんけど。でも、それでも僕は諸葛孔明大先生なんですよ。一生忘れられない看護師なんですよ。だからそれはこちらの意図を超えてるでしょ。相手の中に生まれたものっていうのは超えてくる。
 だからケアっていうのは必ずしもね、エビデンスがあるとかね何とか言って、ケアする側が意図して計画してやれるもんじゃないんですよ。「ほら、こん中入ってるよ!」って、こんなんでも相手が「きゃ!」ってなることもあんねん。
 だからある意味ね、ひょっとすると向こうがすごく喜んでくれたからって、自分の手柄やと思ったらあかんわけです。向こうの感性なのかもしれないみたいなことは思います。だから自然とこうなった、みたいなことはあるんやけど、自ずからなる時があるんですよね。
 それはだから別に、その相手側の感性だけじゃなくてもいろんなもの、いろんなものが。だからね、される側の感受性でもする側の能力でもないね、何かえも言われぬ何かがある。だからね、「自分にはケアできない」とか「この人は無理だ」とかって、ケア関係の二者だけでね、ケアの可能性云々したらあかんわけですよ。
 どこでどう転ぶか分からへん。良くなるかもしれないし、悪くなることもあるかもしれないけれども。みたいなことを僕はいってしまいます。そんなこと言うとね、教育できないんですけど(笑)。「こんなふうにしたらいいよ」みたいにはできないんです。
 現場で大事なことはほんま、そうちゃうかなって。相手のせいにしたり、自分のせいにしてしまったり。どちらにしてもケア関係が中止せざるをえないじゃないですか。「僕には無理です」とか「この人はもう僕たちでは面倒見れません」っていうふうに、相手が悪いか自分たちができないか、みたいなかたちでケア関係を終わりにしましょう、っていうふうにどうしてもなっちゃう。
 でもケアっていうものは、ケアの関係が豊かになるかならないかっていうのは、そんなお互いの意図やとか能力を超えたところで成り立つ場合もあるんですよ。ただわれわれはそれを自分たちの分かりやすい言葉で校正しているだけなんです。後付けしてるだけなんです。
 本当は、何が豊かにしたのかなんてことは、もう人の知恵を超えてるのかもしれない。みたいなことを僕はいつも思ってるんです。

A:いや、あの、ちょっとすごく抽象的やったんですけれど、麻雀の話はその通りで。ほんとに「こういうふうになればいいな」って思うんじゃなしに、まったく、何て言うんですかね、その、何が来るか分からないから、要らんもんだけを切っていくと、なんかできあがったっていうようなところがすごく、ちょっと似てたなあと。

西川:そうですよねえ。いいですよねえ。「麻雀ケア」も、ええと思います。でもね、僕もあの修論で「ケアの弾性」って書きましたけど、結局「賭け」っていうこと書いてますよ。計算できないものに賭けれるかどうか。

長見:ああ、博打の賭けね。

西川:そう。まあ麻雀もそうじゃないですか。そういう自分の予測を超えるもの。まあ麻雀なんて牌は種類決まってますけど(笑)。

長見:Bさん、感想。

B:感想ですか? いや、難しい…。何かもう最初の刑務所のお話から、山科駅から降りてこうざーっと行ってて、だいたい場所知ってるので、ああ、もう目に浮かんで。中は知らないので、だから「その中で、そうなんだ」とか。「ひとり」と「独りぼっち」のこととか、もうなんかすごいいっぱいなんかこう、今頭の中に入りすぎて(笑)。感想というかなんか。うーん。でもその、このね、王子さまとパイロットさんの、なんかこの箱の場面、これすごいなあって。そうじゃなかったら次へ行けないんだって、うん。やっぱ何回読んでも、今日改めてまたすごいと思っちゃった、です。はい。

長見:はい。じゃあ、Cさん。

C:えっと、意図を超えることだらけなんですけど、仕事でも何でも。昨日、障害の施設で働いてるんですけど、夜勤だったんですけど、ある男性の方が寝る前にこう、服をかっこいい服に着替えたいって言われて。それでタンスの中いろいろ見ててもなかなかいい服が見つからなくって。でも「その赤い服がかっこいいから僕それ着る」っておっしゃるんですけど、半袖のすごい寒そうな服で。で、「あ、これ絶対夜寒いし、朝寒くなる」っていう話をしてたけど、やっぱそれ着たいっていうことで。でも考えながらこう、「あ、じゃあ重ね着をしよう」っていうことで。で着た服が、そのまま私分からなかったんですけど、あとで赤い服に緑のズボンに、クリスマスカラーになってたみたいで。その方すっごくこうお祭り好きというかイベント大好きな人で、あの、もうクリスマスに心奪われて、すごくこう喜んで休まれたみたいで。今日は朝からクリスマスソングを大音量でかけながら朝ごはんを食べました。

西川:へえー。

C:そんなこともあるし、あとはそうですね、箱の中身のことですけどね。結構お話できる方が少なくって、ほとんどいらっしゃらないんですけど。まああの、お布団に横になってて、例えば三人ぐらいこう女性と並んでて。ある時に、横たわりながらおんなじ方向を、天井を三人の人が見てて、視線をこうやって追ってるんですね。三人ともが同じ方向にこう何か見てて。すごくこう三人ともにこにこしてて。「あ、この人たちに何が見えてるんだろう?」って。他にもスタッフいたんですけど全然わけが分からなくって。でもたぶん、私に見えないものが見えてるんだろうな、っていうのはその時思ったんですけど。うん。この王子は本気で、ちゃんと見えてたんだと思いました。

西川:うん。クリスマスの話はね、あとにも、あとのほうで出てきますよね。あの、サン=テグジュペリにとってクリスマスってものすごくこう、大切なもんなんですよ。だからクリスマスの話出てきます。幸せの象徴みたいにして出てくるからね。

D:舞鶴からEさんと来ましたDです。ええと、いくつか感じたり驚いたり気づいたりっていうのがあったんですけど。あの、「すみません……。ヒツジの絵をかいてよ」っていうのがその、2回出てくるんですよね。で、もし、でもなんか、そのいろんな方の解釈で考えると、言葉遣いを変えたのが、その相手を見て変えたんだったら、

西川:そうだよね。

D:2回目はすいませんって言わないのではないのだろうか?とかって思って、もしかしたらだから、王子は地球の言葉に慣れていないのかなあ…。

西川:(笑) なるほど。

D:初めて地球の言葉を使ってみてる、ぐらいのことで、何かこういった不自然な使い回しをしてるのかな、ってなこともちょっと思いながら。ま、それはでもほんとに、先ほど話に出てきた人間離れした存在っていう。
 でもなんかその、声がまず、パイロットとの出会いの最初に声があったっていうのも、ある意味なんかこう、なんか天使が受胎告知だったり、なんかこう大切な啓示みたいな与えるときって、頭の中で違う人の声がする感じだと思うんですよ。だからパイロットにとってはほんとに、自分の中にその小さな声がパッて、自分の声のように、なんか頭の中で聞こえたんじゃないかなあって。すごく象徴的で強烈な出会いだったのかなあってことを、自分の中で想像しながら聞いていました。
 だからこそなんかこう、地球の言葉に慣れていないし、まるで地球においては生まれたての存在みたいな感じで。で、パイロットはある種どっちかっていうとまあ、年はどのぐらいの方なのか分かんないけど、どっちかっていうと死にそうな危険な状況になって、ちょっと死に向かってる人と、生まれたての人との出会いっていう意味でもなんかすごく対照的な感じがして、ああすごく、いろんな意味の含まれたシーンだなと、こう思いながらお話を聞いてました。
 で昨日、一昨日ぐらいからなんかその、こう、とりあえず相手のことを思っていろいろやるけれども、それが必ずしも歓迎されないことがすごくあって(笑)。特に子どもとか、「うるさい」とか「邪魔くさい」とかね、あまり喜ばれないことがあって、それって心を砕いてるっていうことかなとかって思って。心を砕くって何だろう?とかってずっと考えてて。なんか相手が本当に喜ぶ、こっちのままの心のあり方っていうのは、心を砕いちゃいけないんじゃないかなあって(笑)。

西川:そりゃそうだよね。

D:ねえ。うん。思ったんですよね、ふと。そういう意味ではヒツジは、最初は心を砕いて描いてあげてたかもしれないって思ったんです。相手が喜びそうだなあとかいろいろこっちの解釈で、相手のために心を砕いて描いてたから不評で。最後は心を砕かなかったっていうか手放したみたいな。全面、全部任した。で、なんか子どもとの付き合い方で、心砕かずに付き合うあり方を、この絵からちょっとヒントをもらえたらなって思って。はい。

西川:なるほどね。

D:まあちょっと今日はそんなことを思いながら聞いてました。

西川:ぼくもねえ、この「すみません…ヒツジの絵」、これ原文どうなってるかちょっと分かりませんけど、原文もたぶん“S'il vous plait”で始まってるんや思いますけど。そうすると、最初のやつは「すみません」で、「この人はどんな人だろう」って、まあ初対面の人に対する言葉遣いしてるけど、「いや、この人は分かってくれるはずだ」っていってtuって言ったとしたら2回目が説明つかなくなるんやけど。でも、これひょっとしたらね、誘いなのかもしれない。誘いなのよ。tuっていうのはお互いtuで呼び合おう、話し合おうっていうふうにしてからやるのが通常らしいですよ。だからいきなりtuって言ったら、なんかものすごい失礼な感じなんですけれども。でもvousでお互いを呼んでた、まあ男女じゃなくてもいいですけど親しかった人が、もう一歩、もう一歩親密になるときに、tuでこう話しかけてtuで応えるみたいなことがあるんで、そうかもしれません。なかなかね、「でも……、いったいぜんたい、こんなところで」っていうふうにして、「ねえ、ヒツジの絵、かいてよ」って言ってんのに乗ってけえへんかったから、もう一ぺん誘ってるのかもしれない。そんなふうに読んだほうが分かるかもしれんね。

 それとあと、何て言うんですか、相手のためを思うケアっていうのがね、なかなかうまくいかないっていう話ですけど、それは当たり前のことでね、相手のことなんか分からないからですよ。それで、これどこやったかな、坊さんがねどっかに書いてたんです。「ふーん」と思って感心したのは、それ料理をする坊さんで、まあいろんな人がご飯を食べに来るそうです。で、よう知ってる人やったら「あの人にはこんなん出してあげたら喜ぶ」とか、それはもうもてなしのつもりでいろいろやると。ところが初めて来る人、「いや、どんなもん出したらええんやろ」と思ってやっぱりいろいろ考える。で、それなりに想像したりだとか、「男の人でお酒飲むんやろか。もしお酒飲むんやったら、あっ大豆があるからあれをどうこうして、ちょっと酒のあてにいいんじゃないかな」とか、いろいろ考えて、ものすごいへとへとになるんですって。

それで最後に向こうは「ありがとうございました」って帰るけど、「ほんとに喜んでたんやろか」みたいに思うわけです。だからどっと疲れてしまう。それで、これ出したから、いろいろ考えたから、って相手が喜んでくれるとは限らない。そんでお愛想言ってるだけかもしれない。自分が相手に良かれと思ったことがほんとに相手に通じたかどうかっていうのは、基本分かんないんです。

だからもうあからさまに、「これはちょっと僕だめなんです」とかって言われると、がっくりくるわけよ。「こんだけ仕込んだのに」とかね、「あれこれこんだけ考えたのに」って。だから「相手のために」と思ってるけれども実は、「相手のことを考えてるこの自分の努力をちゃんと実らしてくれ」っていうことなわけです。分かります? だから自分の努力が報われなかったらがっくりくるわけですよ。だから報われるためにっていうか褒められるために、喜ばれるためにっていうか。

「自分が『あなたの作った料理は美味しい』って言われたいから、やってるんや」って思って、「もうやめた」って。で、やめてどうしたかっていうと、お互いの人の気持ちなんていうのはね、分からんものを相手にするのはやめて、この季節何が一番美味しいか。分かります? この季節何が美味しい、これ一人一人の慮り関係ないんですよ。「大地、自然の中で、今一番美味しいのはこの野菜や」って、「この野菜をどう食べるのが一番、野菜が喜ぶやろ?」って考えて料理をするようになったそうです。

「もう私の気持ちでもなければ、相手の気持ちでもない。この自然っていうのか、この季節、この野菜にとって、っていうことを考えてから楽になりました」といっている。これなかなかええこと言う坊さんやなあと思って、感心してるんですけど。だからそれを、ケアの場面で考えたらどうなるんでしょうね。子育てでもね。

D:そうですね。そうなんですよ。

西川:「子どものために」とかってね、そんなん、ほんと言ったらあかんねん、たぶん。そう思った途端あかんねん。

D:そう、重いみたい。

西川:子どものことを、「子どものために」、「分かってるのはお母さんよ」って、「お母ちゃんなんか分かってないわ!」ってなるんですよ。「私の気持ちなんか分かってないくせに、なんで私のためにって言うの!」みたいな感じです。ほんとにそれは分かってないですよ。だからそれやめたほうがいいですね。

D:そう、やめたいんですけどね。

西川:やめて、だからその料理僧の場合には、この季節何が美味しいか、この野菜はどうしたら一番美味しいかって、まあそういう自然っていうもの、自然というものの中に、料理そのものということに、こうピッとシフトする。
 福祉にしても、医療福祉にしてもそうですけど、相手、対象者、ケアの対象者をアセスメントして、相手に必要なものは何か、それを的確に提供する、みたいなことをしますよね。相手のことをちゃんと慮ってっていうかちゃんと分かって、ちゃんと理解して相手が望むものを提供する。もしくはそれはニーズで、相手が理解してないけれども必要なものをこちらがきちんと提供するんや、みたいなことです。さっきの話で言うと疲れちゃうタイプですよね。これが、ケアワーカーのバーンアウトっていうか、深い意味でのバーンアウトにつながるかもしれない。そんな仏さんちゃうんやからね、無理ですよ。うん。「すべてを投げ出して」って「無私の精神で」っていうことはできないわけ。でもじゃあそうじゃないところで、でもその料理を間に挟んで作った人もそれをいただく人も、それからその作られた料理もこう和やかになるような、ねえ。そういうところが何なのかって。

D:うん。

西川:それ一つ一つの場面で考えないといけない。で今までとはたぶん違うんだっていうことがあるんじゃないですか。

D:そうですよね、それが箱なんですね、なんか、言うたら。

西川:箱なのかどうなのか(笑)。はい。

E:ちょっと星の王子さまとは離れちゃうかもしれないんですけど、私の飼ってた猫が、亡くなったんです。

西川:ああ…、F(猫の名前)。

E:Fが。あの、まだ1歳なんですけど、急にこう元気がなくなって。そしたら重い腎臓病になってるって言って、中毒か何かで。それで、すぐ病院の先生は点滴をして腎臓の生検[*9]をしたいって言うんです、もう針を刺して。それぐらい危ないからって。でも私はもうそこまでしてもきっとより負担をかけるから、もう点滴ぐらいでやめてくださいって言って。「もう2、3日で死ぬ」って言わはってね、もう点滴をしな。もうそう言われたらもう点滴に行かな、こう「殺してしまう」みたいになってしまうしね。それで点滴に、まあ病院に5日ほど行ったんかな。でもあまりに毎日高いんですよ医療費が、猫は、こう保険…。それで「もう自宅で看ます」って言って、「自宅で点滴もやります」って言ったら、「看護師さんですか?」って、「違います。でもやります」って言って。そんで点滴セットを売ってもらって、で自宅で介護というかケアが始まって、猫の。でも、すごくこう猫的にはもう点滴なんかされたくないし、

 [*9] 生検:疑わしい病変の一部を切り取って、菌や腫瘍の存在を詳しく調べて病気の診断を行うもの。

西川:(笑)

E:猫はたぶん死に場所で…、外に出たいんですよ、たぶん。死に場所を見られたくないし。猫の自然なかたちを看取ってやるんやったら、勝手にもう外にも出さして、点滴もしなけりゃいいんやろうけど、もうまったくごはんも食べれへんし、ふらふらやのに、今出したらもう殺してしまうことになるんちゃうかなってまた思いだして、ものすごいこう揺れ動くんやね。こう無理やり寝たきりにさして点滴してるんちゃうやろかとかね。でも結局3週間もったんですよ、3日やって言う命が。ほんでその病院の先生にしたら、猫の3週間、ひと月は人間の1年ぐらいになるから、もうかなり良いことをしたみたいに言われるんやけど、私的にはすごい複雑で。ほんとのよぼよぼのよぼよぼになって最後、ばたんとこう家の中で死んだんは、猫的には本望じゃなかったんちゃうかなと思ってね。すごく野生に近い、外を自由に行ってた猫を家の中で縛り付けて、トイレも絶対家のトイレなんかでしなかったのに、もうしょうがないから家のトイレにふらふら行ってるみたいな。もうすごく人間と重ね合わしてしまうというか。

西川:化けて出てくるわ(笑)。

E:そう、なんか(笑)。でも周りの家族は、こう3週間看護をしたってことで気持ちの整理がついたって言うんですよ。猫に対して何もせず、3日でたぶん死んでたらもっと嘆き悲しんでたって。でも精一杯のことを、こうお金もつこたし、看てやったしっていう。「ああ、これも人間にこうつながるんだな」って。突然事故で亡くすと悲しいけど、1年ぐらいずっと寝たきりの人を一生懸命介護したり看護して看取ると、やり切った感があってさよならがすっとできるみたいな。

西川:まあそれはFの問題じゃなくって、自分が家族にどう看取られたいかっていうことで、考えたほうがええですね。

E:そう、すっごい感じました、Fを看ながら。うん…。

西川:まあでも、難しいことやけどなあ…。ていうか僕は基本延命って不可能やと思ってますからね。命を延ばすなんてことはできないと思てるから。「延命しますか」とかって言うけど、「できるのか、お前」と思うね。「ほんなわけないやろう」って(笑)。死んでからね、生き返らせてね命延ばすって言うんやったら別やけど、「生きてるやん、ほんな別に」って。それを「延命」って言うふうな、あれは医療者のレトリックなんですよ、だから「延命か、それとも死か」っていうふうなね、この本来二項対立でないものを、はっきりと二項対立のように見せかけるもうレトリックにみんな、人はね、もう、もうほんとに翻弄されてるって僕は思うんやけど。

E:猫でもこんだけ悩むのに、もし身内でそういうことを先生とかに言われると、きっとしかたなく…、「いいです」とは断れないんやろなって思いました。

西川:だから延命とか生とか死とかっていうのはね、医者の領分じゃないんですよ。医療の領分じゃないねん。それを医療者に求める私たちがどっかで間違えてんねん。で生と死を考えたいんやったら、『星の王子さま』を読んだほうがいいです。医者に相談するより。これをじっくり読んだほうがいいです。うん。いろんなターミナルケアの本なんか読んでも仕方がない。『星の王子さま』を読む。生きるか死ぬかの時に何をなすべきかって。王子が姿を消した時にどう思うのかって。これ生と死のこと全部書いてあるからね。うん。と僕は思いますけど。まあ大変でしたね、Fちゃん。

E:私、でも前は延命もいらないし、絶対自分自身もきっとね、点滴とか、家族であってもそういうことはしないって思ってたのに、なぜ猫でこんな揺れ動いて、猫に点滴してるのと思いながら。

西川:いや、でもそれもね僕思うけど、胃ろうをするかしないかとかってね。あれも、胃ろうは「延命処置」とかって。あのね、ああいう言葉づかいに惑わされたらだめだと思います。踏み絵みたいなもんにね。いろんな医療処置をやるでしょ? そんな医療処置は単なる医療処置やって。うん。延命かそうじゃないかを決めるような、そんな分岐のように、踏み絵のようにね、まるで「お前、神を捨てるのか捨てないのか」みたいなように「胃ろうをしますかしませんか」とかね、「人工呼吸器どうします?」とかっていうふうに突きつけるでしょ? あの突きつける、突きつけ方がおかしいねん。そんなふうに問題設定する医療が貧しいねん。

まあこれは言い出すとめちゃくちゃ時間かかるんですけど、あの、これはもう本当にね、ターミナルケア関連の医者でも僕しょっちゅうけんかしてますから。あの、おかしいって。うん。「そんな過剰な医療より安楽死を」とかって。「お前何や? その簡単な物の考え方」って思うもんね。うん。そんなもんじゃないと思いますよ、恐らくは。でも踏み絵的にすぐにその「延命か延命じゃないか」っていう構図っていうか、その議論ばっかりでしょ世の中。マスコミにしたって何にしたって、専門家の議論にしたって。もっとね、複雑なんですよ本当は。で複雑なことを単純化していい場合と、良くない場合がある。だから恐らくは、Fに対する様々な処置やとかみんなが揺れ動いたことだって、それ善か悪かスパッと切ったらだめです。そんなんで切ったらもう家族の中ぐちゃぐちゃになんねん、ほんまに。それなりの思いがあるんや。「あなたは延命派ね」って、「私はそうじゃないの」みたいなね、そういう議論の立て方すると、ろくなことないです。と僕は思います。今後の家庭内の平和のためにも。

E:うん…。

西川:だから結論ってそんなに簡単に出したらいかんのでね。その、悩んで、お互いが分からんっていうことをしながらでも、でも待ったなしに時は過ぎていったり、何か考えてることも「考えてしなかった」っていう事実にされてしまったりっていう。で、そういう中で僕たち生きざるをえないんですけど。あまりね、大きなこうなんか、あんな紅白歌合戦じゃないけど、赤か白か、黒か白か、みたいなかたちで議論はすると、本当にもう修復がつかなくなっちゃう。
 ここでもそうでしょ? だからね、位相を変えるんですよ。「ヒツジの絵、かいて」って言ってるのに、箱描かれても、「これいけてるやん」。こういうこう、こういうね、ディスコミュニケーションのように見えるけれども豊かになるって、そのあとの関係が。それを考えなあかんのですよ。「ヒツジの絵、かいて」って言って、「下手な絵ばっかりかいて、最後の最後は箱かよ!」ってなってないんやからこれ。うん。そうじゃない。どう見てもおかしいんやけれども、それが、ね、通常とは違う、その友情の物語にまで発展していくスタートなんですよ。と僕は思います。まあそうなって行くと思いますけど、Eさんとこの家やったら。

E:(笑) うん。

西川:はい。何ですか?

G:ああ、はい。何から、何言いましょうかね…。その何か、命の最後のつじつまを合わせる、口先で合わせる仕事を毎日してるので、ちょっと耳痛いなと思って(笑)。もうなんか、そうだよな、と思いながら聞いてましたけど。まあこれ『星の王子さま』は読みにくかった理由が今日ちょっと分かって、「お分かりでしょう」って出てきた、何かその、問いかけられてる、「そうか、これが何か分かれへんかったからすごい読みにくかったんやな」っていうのが、今日分かって良かったです。はい。ありがとうございました。

西川:いや僕ももう、そりゃ何百ぺんも読んでます。今日もね、だから、「お願い、ヒツジの絵、かいてよ」って2回出てる言うたら、「そら確かにそうやろなあ」って、「ちょっと分かれへんかったけど、ちょっとすっとばしたよなあ」とかって思ってね。考えてみるとやっぱりもうちょっと違う。だからほんとに、なんかね、いろんなものがいろんなふうに、容易にたどりつけへんねんけど、いろんなものがあるよなあって思いますよね。また次読んだらまた変わるかもしれへん。でも同じとこばっか読んでたらあかんのですよ、これ。あの、くるくる読まなあかんのです。そこだけを精読するっていうスタイルでは分かんないです。何度も何度も考え、迷いながら考えて、分からんままに考えて、みたいな。ていうのが大事なのかなと思うけどね、この本は。まあいい本っていう、いい本てのはみんなそうやと思うけど。

長見:ほんなら、Hさん行こか。

H:いやいや、私今日ちょっと、あまり聞いてなくてごめんなさい。でも、なんかほんとにいろんな立場の人がいらっしゃる中で、ねえ。いやごめんなさい、あまり聞けなかったんですけど…。いろんな立場の方の考えがなんかやっぱりそういうふうに分からはるところがあるんやったら今日は良かったんかなあと思いながら聞いてて。まああまり詳しくは言えませんけど。はい。ありがとうございました。

長見:うん。まあちょっと小休止にしましょうか。

(第3回終了)

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