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第14回ケア塾茶山『星の王子さま』を読む(2018年10月10日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
      『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 


読者に要求してくる本

西川:
 じゃあぼちぼち始めますか? みなさんは僕がしゃべってる間、どうぞご自由に食べてください(笑)。耳と口とは別やから。

 初めての方もおられますので、初めまして西川勝と言います。ココペリとは随分長い付き合いで、『星の王子さま』の勉強会の前にも、尾崎放哉の勉強会をさせてもらったりしてます。僕のやりたいことをさせてくれるんですよ。

 「星の王子さま勉強会」は、これは今まで他にもいっぱいやっているんです。大阪でも十何回やったりだとか、それから僕しばらく大学に勤めてた時もあったので大学でもやったり、非常勤で大谷大学で二年間ぐらいやったりだとか、それから舞鶴のほうの特別養護老人ホームでやったり。

 だからもう何十回もやってるんですけど。ここでは、とにかくゆっくり、ゆっくり読んでいいということになってます。大学だったら半年以内に終わらなくちゃいけないんで。他のところでも、二年も三年もかけて本を読むというプログラムに参加者来ないですよ。誰もね、まあここでは「じっくりやってもらって構わない」ということにしてくれているんです。

 ちょうどこないだで一年過ぎて、今日は14回目ですね。14回で75ページまでしかいってません。だから1回だいたい二時間ぐらいしゃべってますから、もう二十時間以上しゃべってるんですよ。

 ほんまに「この間に何回読めんねん」という感じですね。これだいたい一時間半もあったら一回朗読できるようになってます。プロだったら一時間十分ぐらいで朗読する分量だと思いますけどね。

 まあただ、パスカルの『パンセ』で「本当のことは速く読み過ぎても、ゆっくり読み過ぎても分からない」書いてあるのをこないだ見つけまして。

 「ゆっくり読めば何とか分かるんちゃうの?」と思っていたのに、「ゆっくり読み過ぎても分からないって書いてあるわー」と思って。まあ少なくとも僕たちが日常、本と付き合うときっていうのは、結構まあ慌ただしく読んでて、やっぱ速すぎるところには問題あると思うんですよ。ただ、ゆっくり読めば分かるっていうもんでもないそうです。その辺がちょっとよく分かりませんね。

 『星の王子さま』は読んですぐ分かる本ではないです。僕も、何回も読み返してますけど、読み返すたびになんか新しい発見というか、もしくは新しい疑問が湧いてきます。こういう本は、やっぱり読み応えっていうか考え応えのあるなと。

 取扱説明書じゃありませんから、いっぺん読んで分かって用済みというものではなしに、やっぱり哲学とか文学とかはその人を変えるぐらいの力がないといけません。で、変えるといっても、何か新しい知識を与えることじゃないんですよ。ものを考える人間に変えるということです。

 「これはいったいどういうことだろう?」と考えさせるような、今まで当たり前と思って見過ごしていたことだとか今まで簡単に読んでいた言葉について、何と言うか、「流し読みできない」とぐっと止まってしまうような、そういう経験を読書の中でする。そうすると、今まで自分がこう人生の中で様々な経験したことをちょっと立ち止まって考えた出したりだとか、今までとは違う方向から考えたりだとか。

 知識を与えられるわけじゃないですけども、読む人間が読む経験の中で自分の生き方、姿勢を変えるってことがあるんですね。そういう読書こそがすごい大切な読書なのかなと思います。そういう書物は、これだけたくさん本出てますけどやっぱりそんなに多くないなあと思うし、それからやっぱり出会える時期もあると思います。

 すごくいい本でも、それを理解するために、あらかじめのいろんな知識がないと読めないような本もやっぱりあるわけですよ。

 僕は、鷲田清一さんと、二十歳ぐらいから僕は勝手に弟子やと思ってますけど、鷲田さんの本をいくら読もうと思ったってやっぱり読めなかったです。彼が二十七歳、京都大学の博士課程の時に発表した論文あるんですけど、今も『現象学の視線』[*1]――もともと『分散する理性』という最初の本なんですけど――、にあるウィリアム・ジェームズ[*2]の『ワークショップと存在場』(→『存在の作業場(ワークショップ)-ウィリアム・ジェイムズの「経験」論』)という論文があるんです。

 あれ、鷲田先生が修士課程で書いているんですよ。彼が哲学志したの京都大学入ってからです。「最初は仏文に行こうか社会学に行こうかと思ってた」言ってましたからね。最初は哲学やろうと思って入っていないわけですよ。

 途中から、京大の途中から哲学を志したんだから、せいぜい哲学の勉強して四年か五年ぐらいのころです。ところが、それに追いつくのに僕は、何とまあ三十年以上、哲学やっていてもなかなか追いつかない。でも、それでも少しずつ分かってくる、みたいなことがあって。

[*1] 『現象学の視線-分散する理性』:鷲田清一著、1997年出版、講談社学術文庫(単行本:『分散する理性-現象学の視線』、1989年出版、勁草書房)
[*2] ウィリアム・ジェームズ:William James、1842-1910、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者。意識の流れの理論を提唱した。

 僕は四十過ぎてから、鷲田さんの始まったころの「臨床哲学」にもぐりで行きました。そのうち社会人になってから修士に入れてもらいましたけど。その時、まだ僕が二十歳ぐらいの時に、鷲田先生のその論文を読みました。修士で書いた論文だし、自分とそれほど歳も変わらない(六歳くらいしか変わらないんです)。だから必死になって勉強したら分かるはずだって思ったんです。

 ところが分からないんです。どれだけ頑張っても分からない。それで、何て言うかな、「この恨みはらさでおくべきか」みたいな感じで、臨床哲学では僕「ウィリアム・ジェームズで修論書く」って大見得を切ったんです。

 大見得切ったんですけど、二年経っても一行も書けなかった(笑)。それで鷲田先生に「うーん、ウィリアム・ジェームズもええけどなあ、英語難しいしなあ。まあちょっとそこの上にあるウィスキーおろせへんか?」とか言われましたね。それで結局、九鬼周造という日本の哲学者にテーマを変えました。まあそれはそれで僕にとってはすごくいい勉強になったんですけど。

 だから、僕にとっては鷲田先生の本なんかが、やっぱり歳とともにやっぱり少しずつ読めてくる本です。やっぱりこう読むときに相手に要求する本ってあります。

 僕たちは、通常、「この本おもしろい」とか、本に注文つけます。でも本当は、同時に本から僕たちが何やかんやって要求されているわけです。で、そのことをしっかりと受け止められるぐらい、本と向き合おうと思えたら、それはもう大事な友人と一緒ですよ。

 でも、「この本はなんか子ども向けやろ?」と思ってポンッてやったりだとか、「これしょせん翻訳やろ?」とか、「これちょっと気取ったやつしか読めへんのちゃう?」とか、こっちが本になんか注文つけている間は、その本との本当の出会いはないわけです。

 そういう意味で、サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、僕にいろんなことを問いかけてくれていて大事な本だなと思っています。


はじめに

西川:どうぞ食べてくださいよ。僕別にそんなめちゃくちゃ準備してパワーポイントでっていうタイプじゃないですから、全然構いません。『星の王子さま』読まれたことあります?これじゃなくても内藤濯さんのやつでも。などうですか? 

B:ない。

西川:
 さあ困ったぞ。では、ざっくり話しときますね。

 ある星に住んでいた王子さまが、あることがあって、美しいバラとちょっと仲違いして、星を飛び出してしまうわけですね。もう家出しちゃう。それでちっちゃな星をめぐって、最後地球に来て、またもう一度この自分の星に戻っていく。旅の記録みたいな、おとぎ話みたいなやつなんですけど。

 今日読むところはちっちゃな惑星をいくつかめぐっている途中の話です。四番目の星っていうんですけど。七番目が地球ですね。一番目から六番目はみんな小惑星で、ちっちゃいイトカワみたいなやつです。そこにはだいたい住人が一人しかいてない。

 一番目は王様。「おお、家来がやって来た」とか言うんですね。それでものすごいえらそうにするんですけど、実際は一人っぼっちなんです。年老いた王様が一人ぼっち。

 二番目がうぬぼれ男で、「おお! ファンがやって来た!」って。それで「拍手しろ」って、拍手したら帽子をぱって上げる。王子がしまいに「そんなんが何がおもしろいの?」って言ったら、「頼むから、頼むから僕をほめてくれ」なんて言うやつです。

 それで王子は、「大人って変やな」とか言って一番目も二番目もバカにしながら、次のところ行こうとするわけです。

 三番目が前回のところ。大酒飲み、酔っ払いです。ここ僕好きなんですけどね。めちゃくちゃ短いところなんですけど、長く話しましたね。

 ここもう一度読んでみましょうか。

 つぎの星には酒飲みが住んでいました。王子さまはその星には短い時間しかいませんでしたが、それでも、たいそう気分がふさいでしまいました。
 「そこで、なにをしているんだい?」と王子さまは酒飲みにききました。見れば、山のような空の酒瓶と、山のような新しい酒瓶を前に、酒飲みはじっと黙って座っていました。
 「酒を飲んでいるのさ」と暗い顔で、酒飲みは答えました。
 「なんでお酒を飲むの?」と王子さまはたずねました。
 「忘れるためさ」と酒飲みは答えました。
 「なにを忘れるためなの?」と王子さまは重ねてききました。もう酒飲みのことが気の毒になってきていました。
 「恥ずかしい思いを忘れるためさ」と、首(こうべ)をたれながら、酒飲みは正直に答えました。
 「いったい、なにが恥ずかしいの?」男を救ってやりたいと思って、王子さまは突っ込んだことをききました。
 「酒を飲んでいることが恥ずかしいのさ」と言うなり、酒飲みは黙りこくり、そのあとはもう一言も口を利かなくなりました。
 どうしたらよいか分からずに、王子さまはその星をあとにしました。
 「おとなたちというのはやっぱり、とてもとても変だなあ」ともっぱら心の中で言いながら、王子さまは旅をつづけました。

写真1酒飲み


 ものすごい印象的な星なんですけど。これについては前回いろいろしゃべりました。ここは各々また考えといてください。


実業家の星

西川:さて、今日は結構長いんですよ。これもいっぺんざっと読みましょうか。

 四つ目の星は実業家の星でした。実業家は大忙しだったので、王子さまがやって来ても、顔をあげることさえしませんでした。

写真2実業家

 「こんにちは」と王子さまは実業家に言いました。「タバコの火が消えていますよ」
 「三足す二は五。五足す七は十二。十二足す三は十五。こんにちは。十五足す七は二十二。二十二足す六は二十八。タバコに火をつけなおす時間もない。二十六足す五は三十一。やれやれ! ということは、合計で、五億一六二万二七三一になる」
 「五億、なにがあるの?」
 「はあ? まだそこにいたのか? 五億百万の……。分からなくなってしまった……。仕事が山のようにあるんだ! わたしはまじめな人間だからな。油を売ってなんかいられない! 二足す五は七……」
 「五億百万、なにがあるの?」と王子さまは質問を繰り返しました。一度質問を発したら、答えてもらうまで決して諦めたことがないのが王子さまでした。
 実業家は顔をあげました。
 「五十四年前から、わたしはこの惑星に住んでいるが、三度しか仕事のじゃまをされたことがない。最初は、二十二年前だ。どこからともなくコガネムシが落ちてきて、そのためだ。コガネムシがひどくうるさい音を立てて飛び回って、わたしは四つも足し算の間違いをしでかしてしまった。二度目は十一年前だ。リューマチがひどく痛んでな。運動をしておらんのだ。散歩する時間がない。わたしはまじめな人間だからな、このわたしは。三度目は……今度だ! それで、と、五億百万……」
 「何億も、なにがあるの?」
 静かにしてはもらえない、と実業家は観念しました。
 「何億も、空に見えたりする、あの小さいものがある」
 「ハエなの?」
 「とんでもない。きらきら光る小さいものだ」
 「ミツバチなの?」
 「いや、とんでもない。怠け者たちを空想にさそう、金色の小さいものだ。だが、このわたしは、まじめな人間だからな。空想にふけっている暇なんぞありはしない」
 「ああ! 星なの?」
 「そのとおりだ。星だ」
 「で、五億個の星をいったいどうするの?」
 「五億一六二万二七三一個だ。このわたしは、まじめな人間だからな、数字にうるさいのだ」
 「で、その星たちをどうするの?」
 「星をわたしがどうするって?」
 「そう」
 「どうもせん。わたしは星を所有している」
 「あなたは星を所有しているんだって?」
 「そうだ」
 「でも、ぼくはもう王様に会ったけど、その王様は……」
 「王様たちは所有はせんのだ。王様たちは『支配する』のだ。水と油ほどの違いだ」
 「でも、星を所有すると、いったいなんの役に立つの?」
 「金持ちになる役に立つ」
 「お金持ちになることが、いったいなんの役に立つの?」
 「ほかの星を買う役に立つのだ、もしだれかが新しい星を見つけたりしたらな」
 「この人は」と王子さまは胸の内で思いました。「この前出会った酔っぱらいに、なんだか似た考え方をするなあ」
 そう思いながらも、王子さまはさらにいくつか質問をしました。
 「いったいどうやって星を所有できるの?」
 「星はいったいだれのものかな?」と実業家は気むずかしい顔をして言い返しました。
 「知らないよ。だれのものでもない」
 「そうだろ、だったら、星たちはわたしのものだ。なにしろ、このわたしが最初に所有することを思いついたのだからな」
 「思いつくだけでいいの?」
 「当たり前だ。だれのものでもないダイヤモンドを君が見つけたとしよう。そうしたら、そのダイヤモンドは君のものだ。だれのものでもない島を君が見つけたとしよう。そうしたら、その島は君のものだ。あるアイデアを最初に君が考えだしたとしよう。そうしたら、そのアイデアを特許にすればいいのだ。そうしたら、そのアイデアは君のものだ。そんなふうにして、このわたしは星たちを所有している。なにせ、わたしよりも先に星たちを所有することを思いついた者はいないのだからな」
 「それは、そうだけど」と王子さまは言いました。「それで、星たちをどうするの?」
 「管理するのだ。星たちの数をまず数えておいて、それから何度でも数えなおすのだ」と実業家は言いました。「大変な苦労だ。だがな、このわたしはまじめな人間だからなあ!」
 王子さまはまだ得心がいきませんでした。
「このぼくがマフラーを所有しているとするよ。自分の首のまわりに巻いて、ぼくはそのマフラーをどこへでも持っていける。このぼくが花を所有しているとするよ。ぼくはその花を摘んで、どこへでも持っていける。それにひきかえ、あなたが星を摘むことはできっこないよ」
 「そうだ、そのとおりだ。だがな、星を銀行に預けることはできるのだ」
 「それって、どういうことなの?」
 「小さな紙切れに、わたしが自分の所有する星の数を記入するっていうことだ。そして、それから、その紙切れをな、引き出しに収めて、鍵をかけるのだ」
 「たった、それだけなの?」
 「それで十分だ」
 「おもしろいなあ」と王子さまは思いました。「なかなか詩的じゃないか。でも、とても、真っ当とは思えないな」
 真っ当ということについて、王子さまはおとなたちとは似ても似つかぬ考えを持っていたのです。
 「このぼくは」と王子さまは言葉をつぎました。「花を所有している。その花に、ぼくは毎日水をやる。ぼくは火山を三つ所有している。その火山にぼくは毎週、煤払いをしてやる。もう煙を噴いていない火山にも、ぼくは煤払いをしてやる、先のことは分からないものね。ぼくの火山には役に立つこと、ぼくの花には役に立つことなんだよ、ぼくが火山や花を所有しているってことは。けれども、あなたは星たちの役に立ってはいないでしょ」
 実業家は口を開くには開きましたが、なにも答える言葉が見つかりませんでした。そこで、王子さまはその星をあとにしました。
 「おとなたちというのは、やっぱり、まったく得体の知れないものだなあ」と王子さまはもっぱら心の中で言いながら、旅をつづけました。



実業家とキノコ

西川:
 今日のところはかなり長いですね。

 『星の王子さま』の小さな星めぐりのところは、非常に純真な子どもの心を持った王子さまが、醜いというかアホというか、愚かな大人たちが住む星をめぐって、「大人たちってバカだなあ」みたいに、大人たちの様々な愚かさみたいなものを擬人化して――カリカチュアして――、それをやっつけるみたいに読まれるのが普通になっています。

 ただ僕は、もうここまで何回も「そういう読み方しても仕方ないんじゃない?」って言ってきました。たとえば、まったく力がないのに権威を重んずるお年寄りの王様。この王様は、要するに老いの尊厳っていうか、そういうことにかけては、ちゃんと正しいこと言ってるわけです。ところが王子には分からなかった。ここでは王子がバカなんです。『星の王子さま』というのは、王子さまが成長していく。旅の中で変わっていくんですよ。

 ところが、この一番人気のあるところ。つまり、純真な王子がね、大人たちを徹底的にこうバカにする。最近アメリカで映画になった『ザ・リトルプリンス(The Little Prince)』(邦題『リトルプリンス 星の王子さまと私』[*3])も基本はそうです。

 この映画の中で一番悪者になってるのがこの実業家、ビジネスマンです。やっぱり読んでみても分かると思うんですけど、この実業家が、一番何かね、絵見てもものすごい憎たらしい顔をしてるじゃないですか。

[*3] 『リトルプリンス 星の王子さまと私』: “The Little Prince(Le Petit Prince)”、2015年にフランスで製作されたアニメーション映画。マーク・オズボーン監督。

写真2実業家


 王子が「そんなのは人間じゃないんだ、キノコだ」って言ってめちゃくちゃ怒るところがありましたね。えーと、最初の方、43ページ。この本は、砂漠に墜落したパイロットと、この星から地球にやって来た王子とが出会うところからはじまるのですが、そのパイロットと喧嘩するんです。

 「君はなにもかも、ごっちゃにする……。なんでもかんでも、いっしょくたにする!」
 王子さまはほんとうにかんかんになって怒っていました。きれいな金髪を風になびかせて、
 「赤ら顔の男がいる星を知っている。その赤ら顔は花の匂いをかいだことは一度もないんだ。星を見つめたことも一度もない。人を愛したことも一度もない。明けても暮れてもお金の勘定ばっかりだ。朝から晩まで、君と同じことをのべつ幕なしに言っている。『ぼくはまじめな人間だ! まじめな人間だ!』ってね。そんなことばっかり言っているものだから、ふくれ上がって自尊心のかたまりになっちゃったんだよ。もうそうなると、人間じゃない。キノコだよ」 

 怒っていましたね(笑)。この星が今回の実業家のところですね。ここもやっぱりサン=テグジュペリのすごくうまいところだと思いますけど、ここで実業家についていろいろ書いてありますけれども、星めぐりのときには「赤ら顔」と一言も書いていないですよね。

 でもこれ絵を見たら赤ら顔なんです。それから「花の匂いを嗅いだことは一度もない」ってあります。そんなことも別に書いていないけど、より豊かになってきてるわけです。これは、この星に行ってから一年ぐらい経っての王子の言葉なんです。

 だから一年経ったら、彼のことをこう言うようになったわけです。「大人たちっていうのは、まったく得体の知れないものだなあ」という言い方から「キノコだ」に変わってきます。

 ここに「星を見つめたことが一度もない」って書いてありますね。これおもしろくないですか。だって実業家は星数えてるんですよ。四六時中星数えているわけです。「星を見つめたことも一度もない」って言われてますけど、星を数えるためにしょっちゅう見ているわけです。

 でもそれは「見つめていない」と王子は言っているんです。「星を見つめたことは一度もない」って断言しています。

 実業家は、ただ星を自分の所有物にするために、管理するためにずっと数えているわけですよ。五十何年間ずっとやってるわけです。ところが「星を見つめたことは一度もない」と、王子はここで言ってのけるわけです。

星をみつめる

西川:
 ここでもわかるように、『星の王子さま』は何度か読まないと絶対分からないように書かれています。いきなりこれを初めて読んで、ここまで読んで、「星を見つめたことは一度もない」って目に入ってきたら、「ふーん、じゃ星なんかぜんぜん見らんと地べたばっかり見てたんかな?」と思ってしまいます。違いますよね。実際は星をずっと数えてた男の話なんです。でも星を数えることと、星を見つめる、たった一度でもいいから見つめるということはどれぐらい違うことなのかって問いかけている。

 この「星を見つめる」ことの意味は、もっと後ろのほうになって、また出てきます。「星を見上げてごらん」「その星が五億の鈴になる」ってところがあるんですけど。この五億っていうのは、この実業家が数えた五億なんですよね。だからちゃんと、ものすごく構成がカチッとしているんですよ。さらさらっと読み飛ばたら分からないんですけど、必ずきちんきちんと合うようにできているんです。

 サン=テグジュペリはもともと飛行機乗りです。彼はいわゆる詩人の感性を持った人です。でもね、パイロットなんですよ。飛行機がまだ出たばかりの頃の冒険的なパイロットでもあり、エンジニアでもあるわけです。で、高度に関することなんかで様々な飛行機の計器類の特許も取ってるんです。暇な時には高等数学を趣味で解いていたそうです。

 だから、ものすごく論理的な幾何学の精神、数学的・工学的な知識もものすごいある人なんですよ。だから、メルヘンチックにパーッと書かれてるように見えて、いろんなところで部品がきちっと合うように、ものすごい構成がされているんです。

 これは、読めば読むほどすごい。天才的だと思いますよ。一度読んだだけでは分からない。二度読んでも分からない。何度目かで「へ?」と思って気がついて見ると、「あ、これ、これのことやんな、あのキノコっていうのはな」みたいな感じで分かってきます。

 そうなると、こんなふうに書かれてある、あれこれを分かるためには、やっぱり今のところが分からないといけない。最後にパイロットと王子が別れる時がありますね。

 「僕は君に笑顔をあげるよ」「僕は僕の星に帰るからね」「僕の星はちっちゃいからどの星か分からないんだ」「だから君は見上げたら、全部の星が僕の星に見えるだろう」「そしたら、星を見上げるたんびに僕の笑顔があるよ」「そしたら君は夜空を見上げてニコニコ笑い出して、周りの人はちょっとこいつ頭おかしなったんちゃうかなって思う」と、「そういういたずらを僕は仕掛けたんだよ」みたいな話するんですけど。

 この本には、いわゆる星を見つめる、星を見上げる、星に何かを見つめて、そこに何かを見届けるっていうことの意味がいっぱい書かれてあるわけです。でもそれを、今の僕みたいにまとめて言ってはくれないんです。ふっ、ふっ、ふっと出てくるだけ。だから読み飛ばしてると、ほとんど何にも出てこない。

 そういうところを、大事に大事に読んでいく。だから、「ゆっくり読んでも分からない」のはそうかもしれませんけど、やっぱり何度も何度も繰り返して読まないといけないと思います。

 『星の王子さま』はいろんな物語の構成があるんですけど、これも入れ子構造になっています。入れ物があってその中に入れ物があってというか、ものすごく、複雑な形になってるんです。時間の順序通りに進んではいけないんです。

 そういう意味で、自分でもういっぺん組み立て直しながら読み返すような、結構複雑なことをしないといけません。要するに、それをこの本が要求しているわけです。「こういうふうに読めよ」と。

 「僕はこの本を寝そべって読んでほしくないんだ」「ちゃんと読んでほしいんだ」「僕にとってすごい大事なことが書かれてあるから」みたいなことが書いてありましたよね。「ほんとは子どもたち向けに、おとぎ話のように、昔々あるところにって始めたかったけど、そうじゃないようにしてるけれども、でもそこをちゃんと読み取ってほしい」みたいな。

 それで、この帽子のような絵が、「実はゾウを飲み込んだ大蛇ボアやって読めない人は、この本を読めませんよ」という試験からいきなり始まって、

写真3帽子大蛇

最後は「この絵に何が見えますか?」と、また問いかけで終わるような本なんですね。

写真4最後の絵


 これはすごく有名な問いかけですけれど、あいだにいろんなかたちで、サン=テグジュペリはいろんな仕掛けを仕掛けて、ちゃんと分かれば分かるみたいな、分かった時に「ああ!」みたいな喜びをちゃんと隠してあるんです。

 この「隠してある」ことが、またこの『星の王子さま』ではキーワードにもなっています。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠してるからだよ」という有名な言葉ありますよね。「大切なものは目には見えないんだ、心で見ないとね」みたいな台詞。これもものすごい有名ですね。

 隠されてあるところに本当の宝物がある。隠されてるから、「載ってないやん、そんなこと」と言ったってだめなんです。隠されてるところを自分が探していかなくちゃいけない。少なくとも今見つからなくても、必ずあるんだと思いながら読んでいくっていうことを、このサン=テグジュペリという人はね、この本に関しては徹底的に要求してきます。まだいろんなところ、たくさん見つければ見つけるほどおもしろい本かなあと思いますね。


サン=テグジュペリとアメリカ

西川:
 まず、1939年、ドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦ははじまります。それから1940年にナチスドイツがフランスにやって来るわけです。それで、フランスは圧倒的に負けます。

 その時に「もうみな殺しにされるぐらいやったら」ということでドイツと休戦協定を結びます。ナチスの傀儡といわれるヴィシー政権ができるんです。それに対して「いや徹底的に、もう最後まで徹底抗戦するべきや」と言ったのがド・ゴールです。この人はロンドンに行って、それからアルジェリアに行って、要するにフランス国外にいったん逃亡してたんですが、とにかく「最後の最後までドイツと戦うべきや」「そんなヴィシー政権みたいに休戦協定とかそんなことしたらいかん!」と言ったわけです。つまり、ドイツによってフランスが占領された時に、二つの陣営に別れてしまったんです。

 そんな時にサン=テグジュペリはアメリカに亡命します。亡命するんですけれど、献辞にあるレオン・ヴェルトという彼より随分年上のユダヤ人の友人は反戦主義者でドイツのナチスから身を隠してフランスで暮らしてるわけですね。『星の王子さま』はその友人を慰めるために書かれています。

 彼はこの本をニューヨークで書き上げます。で、出版がもうほぼ決まった時、まだ本屋には並ぶ前に、出版社がサン=テグジュペリのために一冊本を製本してくれました。それを持って彼はもう一度フランスに戻ります。フランスといっても北アフリカのほうですね。

 そして、アメリカが第二次世界大戦に参戦することになって、ドイツ軍を押し返そうとします。その時にサン=テグジュペリはもう一度戦闘機に乗るんです。そして帰ってきませんでした。行方不明になった。

 その前、彼は「自分がもう一度戻るのは、戦争が好きだから戻るわけでもないし」みたいなことをいろいろ言っていました。アメリカに逃げて「自分は安全や」と言ってのほほんとしてたわけじゃないんです。「どうしてもやっぱりフランスに帰りたい」っていう思いをずっと抱きながら、でもまだ帰れなかった。

 当時、アメリカでもサン=テグジュペリは非常に著名な作家でした。その時のアメリカは「不干渉主義」、つまり「アメリカの国のことだけしか考えない」「ヨーロッパで戦争しようと何しようとしらない」と言っていたわけです。

 ところが、日本が真珠湾攻撃をアメリカに仕掛けてきます。それで「許さん!」と怒り始めるわけです。アメリカもとうとう第二次世界大戦に参戦してきます。圧倒的な物量でもって、アメリカがもう戦争をどんどんどん主体化していきます。

 でも、サン=テグジュペリはアメリカをほんとは好きじゃないんですよ。英語もしゃべれないし。もともとサン=テグジュペリっていうのはフランスの由緒正しい貴族の出です。1900年生まれだから19世紀末なんで、もう没落貴族ではあります。だから、伝統とか文化とかを重んじる出自の人で、アメリカみたいな、物質文明で、プラスチックの文明みたいなところにはまあなじめない。だから帰りたくて仕方がないわけですね。

 『星の王子さま』はまず最初にアメリカで出版されました。“The Little Prince”(ザ・リトル・プリンス)はアメリカでもすごい人気になりました。でも、このビジネスマンのところは「まるでアメリカを揶揄してるようや」とアメリカ人からものすごい反感を食らっています。そう、それはその通りなんですよ。

 「実業家」はビジネスマンのことです。だからほんとにアメリカの資本主義的な価値観を体現した人物になっているんです。たとえば「ビジネスマン」(businessman)は、「ビジー」(busy)って「忙しい」ということばが入っている。忙しいことが価値なんです。「俺なんかもうタバコ吸うてる暇もない」みたいなね。めちゃくちゃ大忙しでしょ。

 「忙しいことがまあ人間としての価値」「常にすることがある、どんどんどんどん金を儲けるっていうことが人間の価値や」という価値観を体現したのがこの実業家なんですよね。

 ただ、実業家を単なる資本主義批判として、アメリカの物質文明に対する批判としてしまうと、どうなんでしょう?もちろんそれもあるんですけど、それだけで読むとおもしろくないんじゃないかなと僕は思ってます。でもまあちょっとずつやっていきましょう。


数を数える

西川:
 この実業家の部分は、彼がアメリカにいながら、そのアメリカをこてんぱんにこき下ろすような内容のことをある意味書いてるわけですね。そこらへんを考えるとおもしろいですよ。

 前回、最後に、実業家のところを1ページほど読んで、「なんかおかしいとこないですか?」言ったら、Cくんが見つけてくれましたよね。「三足す二は五、五足す七は十二」とありますけど、これおかしいんですよ。わかります?二行目は「二十二足す六は二十八」、で「タバコに火をつけ直す時間もない。二十六足す五は三十一」。「二十八」って言ってたのに「二十六」になってるわけです。もう間違えているわけです。「二十年前は四つも足し算の間違いをしでかしてしまった」って言うけど、この時もやっぱりまちがっているわけです。

 でもこんなことを、サン=テグジュペリは、地の文に「こんな間違いをした」とは書いてくれません。こんなところは退屈ですよね。だから読み手は「三足す二は五、五足す七は十二」って分かったつもりでさっと読み飛ばしてしまう。「ほら間違えた、実業家」というところが分からないまんまになってしまうんです。

 これぐらいの仕掛けはもう山ほど散りばめられています。うん。だからそういう意味で、ある意味パズルを解くような興味を持って読むのもおもしろい。まあ、それだけじゃつまらなくなるかもしれませんが。

 あとは、「五億の何があるの?」の「五億」という数字ですけど。これも、さっきから何べんも言ってますけど、160ページのところにまた出てきます。

 ぼくはじっと黙っていました。
「そうなると、ほんとうにおもしろいね! 君には五億個の鈴があり、ぼくには五億の泉があることになるからね……」

 五億の鈴とか五億の泉というのは、星がそう見えるということなんです。だから、ここもそういうふうにして繋がってるっていうことですね。

 さて、これまで通り、挨拶もみてみましょう。この星では王子さまから挨拶してます。「タバコの火が消えてますよ」って。王子が自分から挨拶するかしないかは、星によって一つ一つ違うんですよ。そのことの意味についてはまたじっくりと後で考えましょう。

 それから、その星を去る時にどんな言葉を出したのか、どんな振る舞いをしたのかというのも星によって違います。そのことの意味もじっくり考えたら必ず何かあると思うんで、そこもまたゆっくり。

 で、「はあ? まだそこにいたのか?」ということで、実業家が人にまったく興味がないことがここらへんでぽんと書いてあります。そして「私はまじめな人間だからな」というのが、何度も何度も繰り返されます。

 「まじめ」とはいったいどういうことなのか?後ろで「真っ当ということについて、王子は大人たちとは全然違う考えを持ってたんだ」と書いてありますね。

 このビジネスマン、王子が「五億、なにがあるの?」と尋ねても、すっと「星や」とは答えませんよね。ここおもしろいですよ。「何億も、空に見えたりする、あの小さなものがある」っていう感じですよ。星という言葉がすっと出てこない。もう数えることに無我夢中なんです。

 「数える」とはどういうことでしょうか?「数える」とは、「数(すう)にする」ということです。「ここに茶碗が一、二、三、四、五、六、七」と言ったら、これは数が一番問題になります。「どんな形の」「どんな色の」じゃないんです。個性はなくなっていきます。個性がなくなったら、しまいには名前までなくなっていきます。つまり数に還元されてしまう。

 でも「星を見つめる」っていうことは「星」なんです。個性と名前がある「星」を見つめてるんです。「今日何人来ました」みたいな話をするんだったら、もうそれは「数」なんですよ。そうなると「どんな人が来た」というのではないですよね。

 「大人たちは数が好きだよね」というのは、この前でもいろんなところで出てきます。もう終わったところですけれども、ちょっとだけ紹介しますね。26ページの2行目ぐらい。


おとなたちは数字が好きですから。君たちが新しい友だちのことを、おとなたちに話すとしましょう。そんなとき、おとなたちは君たちに、大切なことはなに一つきいたりしません。「その子はどんな声でしゃべるの? どんな遊びが好きなの? チョウチョウの標本を集めているの?」なんていうことは決してきかないものですよ。おとなたちが君たちにきくのは、「その子の歳はいくつなの? 兄弟は何人いるの? 体重は何キロなの? お父さんの給料はいくらなの?」なんていうことだけ。そんな質問をして初めて、おとなたちはそのお友だちのことが分かった気になるのです。

 「数では決して表せないものがあるでしょう」とあります。「その子がいくつ?」ということよりも、「その子の声はどんな声?」のほうが大事だって言っているわけです。


交換のまえにあるもの

西川:
 数字がものすごい支配してるような、まあ金融経済なんてもうそれの最たるものですよね。金融経済って要するに実質経済じゃないですから、ほんとうの物のやりとりはしていないわけですよ。投機とかをやるということは実際には貨幣すらも動かしていません。パソコン上で数が動いてるだけです。

 一気に高騰したりだとか何とかして、ものすごく金が動いてる、というかお金が動いてるように見えるんです。それが今の金融経済の社会。昔みたいにもう貨幣経済じゃないですよね。それに、貨幣だって要するに交換価値はあるけど使用価値はない。

 一万円札で何かを買うことはできます。でも「一万円札」自体に何ができるかといったら、大したことはできません。火つけてみたってわずかな間しか燃えないし、鼻かもうと思っても、ひどい風邪なんて引いてたらもうはみ出てしまうしね。でも「使用価値がなくて交換価値だけや」と言っても、貨幣はまだ物なんです。

 今の金融経済はディスプレイ上のっていうか、コンピューター上での「数字」なんです。さらにもっと実体性がなくなっている。にもかかわらず、私たちの社会の根っこの経済では、みんなの人々の暮らしとかその国の運命にまで関わるようなものが、そういうまるで実体のない数字になっている。要するに個性をなくてしているわけなんです。

 この実業家は、「あれだよ、あれだよ、空に光ってるあれだよ」と、星をあれだけ数えてたくせに、その名前すら忘れてしまっています。だから富を追いかけている、金融経済のただ中で生きてる今の人間は、本当の富、豊かさが何なのか、もう分からなくなっている。

 この王子もおもしろいのが、「空に見えたりする、あの小さなもの」と実業家が言ったら、「ハエなの?」って返すわけです。ハエは空に見える小っちゃいやつだからね。「いや、とんでもない。きらきら光る小さなものだよ」と言ったら、今度は「ミツバチなの?」って。ミツバチきらきら光るのかな? まあハエより光るかな。

 で、次に「とんでもない。怠け者たちを空想にさそう、金色の小さなものだ」ときた途端に、「ああ! 星なの?」って分かる。だからここらへんも、ものの理解の仕方が随分違うことがものすごく上手に書いてある気がしますね。

 ここで、一番議論されるのは「所有」です。立岩先生[*4]がいらっしゃったら『私的所有論』[*4]についてお話ししてもらいたいところですね。鷲田先生も「所有」について何冊も本を書かれています。僕もそのあたりの論文は随分読みましたけど、それをまとめるだけの力がありません。

 でも、哲学史の中でジョン・ロック[*5]などが「これは私のものだと言える根拠は何なのか?」と、いろんな人がいろんなことを議論してます。ここの場合だったら、最初に「これは俺のもんや」、つまり「プロフェス」(profess)、宣言したものの問題です。

 まあそうなんですよ。アメリカインディアンは別に「ここは自分たちの土地や」とかいう私的所有感がないわけです。「ここは自分たちの故郷(ふるさと)や」「住んでるとこや」みたいなことがあったとしても、定住っていうよりもある種ぼやーっとした感じで生きていた。そこに「マンハッタン島を何ドルで売れ」という白人がやって来るわけです。

[*4] 『私的所有論』:立岩真也著、1997年出版、勁草書房

[*5] ジョン・ロック
:John Locke、1632-1704、イギリスの哲学者。イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』において経験論的認識論を体系化した。また政治哲学者としての側面も非常に有名である。

 まず「お金を払う」ということは「買う」ということです。「買う」というと物々交換。交換して自分のものになるということは、自分が差し出すものが自分のものじゃないとだめですよね?

 だから「所有」は「交換」より、交換経済より前にないといけません。交換というのはそもそも「これ僕のもん。それあんたのもん。これよかったら交換しようや」ということだから、「これ僕のもん。それあなたのもん」という所有がそれぞれにあるという理屈がまず最初なんです。だからそういう個別の所有がないところでは、交換ではないんです。

 「みんなのものをみんなで使う」という、「みんなのものをみんなで」「あなたのものは僕のもの。僕のものはあなたのもの」。「僕のもの」とか「あなたのもの」とかという、そういう区別がありません。交換が始まるということは、いわゆる所有っていう「これは私のものだ」という観念が出てきたときに始まるわけです。


所有の前提にあるもの

西川:
 その「所有」がいったいどこから始まるかという議論。

 ロックだけではなく、マルクス[*6]なんかでもそうなんですけど、要するに自分が働いて何かを製作するとそれが自分のものになるところに「所有」の考えがあります。でもね、これも考えてみたら、何か作ろうと思ったら、必ず原材料が要るから、そんなに簡単ではないですね。

 だから労働の対価として「自分が働いたものやから、それは自分のものや」と言っても、「その元の原料っていうのはどうなのか?」っていう議論がまずあるんです。

 でも「この体、私の体は私のものや」は前提なんです。分かりますか?「労働したら自分のものや」とは、これ「自分の体は自分のものや」が認められない限り、無理なんですよ。奴隷の立場ではだめなんです。奴隷が作ったものは奴隷のものにならない。自分の所有である自分の身体が認められてはじめて、労働した結果できたものが自分のものになるんです。とにかく、その根っこには、「自分の体は自分のものだ」から始まらないと、労働したものが自分のものとは言えないわけです。

[*6] マルクス:カール・マルクス、Karl Marx、1818-1883、ドイツ・プロイセン王国の哲学者、思想家、経済学者、革命家。フリードリヒ・エンゲルスの協力を得ながら科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産社会が到来する必然性を説いた。

 でも「自分の体が自分のものだ」と言えるかどうか。どう思います?「自分のものは」っていうけど、自分の中に原因ないじゃないですか?

 昔は「身体髪膚(しんたいはっぷ)これ両親に受く(身体髪膚これを父母に受く)」[*7]とかいいました。要するに「両親がいて、この体がある。だからそれを傷つけないのが親孝行の始まりや」という諺です。

 貝原益軒の『養生訓』でもそうですけど、「自分の体を養生するというのは、自分のわがことのためにするんじゃないんだ。自分の体というのは父母(ちちはは)、その父母も要するに天地の恵みがあって初めて生まれてきた」というわけです。

 彼は儒教ですから、「天」をすごい大事にするんです。「自分の体、自分の健康を守る、養生するというのは、長生きするというのは、何も自分の我欲のためにするんじゃない。自分の体を与えてくれた両親、その両親の体を与えてくれた天地、要はそういう大いなるものから連綿として受け継がれ、与えられてきた、贈られてきたその命を大事にすることだ」。「自分のために自分の体を大事にするんじゃない」ということが、『養生訓』の一番最初に書いてある。こうなると「自分の身体は自分のものや」も変わってきますよね。

[*7] 「身体髪膚これを父母に受く」:「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから、傷つけないようにするのが孝行の始めである。出典は『孝経』(中国の経書の一つで、曽子の門人のが孔子の言動を記した)。

 結局「所有の一番の根っこは何なのか?」については、僕にはよく分かりません。とにかくいろんなことを言う人がいるわけです。

 マルクスは、要するに「労働者が自分で労働したものを自分のものにできない。労働と労働して作ったものが、商品として自分のものにならずに離れてしまう」ことを「労働による自己疎外」と言いました。「本当は労働したら自分ものになるはずのものを、資本家が途中で搾取して単なる労働力という商品にされてしまう」ということで「人間疎外が起きるんや」と。「資本主義での生産のなかでは」みたいに批判したわけですね。でも、それも「労働が所有の源にある」という考えに基づいています。

 でも、「労働が所有の源になる」は、さっき言ったように、「自分の体は自分のものや」が出発点にならないとだめなんです。とはいえ、「自分の体は自分ものなのか?」と言い出したら、これはほんとうにじっくり考えないと答えは出ないですよね。

 でも、よくよく考えたら、やっぱりそうじゃないはずです。僕たちは自らの中にほんとは根拠を持っていない。そう考えると、近代的な所有論が前提としてるそのものが崩れます。

 そうなってくると、所有とか交換とか、物々交換が始まってから以降の人間社会の経済の考え方が、どっかでいびつな前提から始まったと考えることもできるわけです。

 哲学は、言ってみたら、新しい理屈を出すんじゃなくて、みんなが当たり前だと思っていることに「それ、違うんじゃない?」「さらに一緒に考えよう」みたいな感じですから、考えた後のことは僕は知らないわけですが(笑)


失っても平然としていなければならない

西川:
 さて、所有について考えるところで、王子が言ってるのは所有の可処分権です。これは自分で思いのままに処分することができるっていうことです。「このぼくがマフラーを所有しているとするよ」「そうしたら自分の首に巻いて…」。所有権とは可処分権であると。

 持って行こうと思ったら持っていける。誰かにやろうと思ったらやれる。潰そうと思ったら潰せる。自分のものだったら怒られません。他人のものだったら怒られます。盗ったら刑務所にも入れられる。そういうかたちで、所有は可処分権に結びついています。王子は「でもあなたは星を持っていけないでしょ」というかたちで批判しています。これは僕が今言ったような、根っこに繫がる批判にはなっていません。

大事なのはそこではなくて、次の「ぼくが花を所有してるっていうことは、花の役に立つことだよ」と言ってるところです。つまり相手に奉仕すること、相手に自らを差し出すことが相手を所有してるというわけです。訳分からん状態ですね。まるで逆さまなんです。まるで逆さま。

 「所有=(イコール)可処分権」、つまり「自分が所有物を自由にしていい」という所有の観念と、「所有してるということは、所有する相手に役に立つように自分が振る舞うことだ」というのは、完全に真反対じゃないですか。

 そういう中にもいろんな議論がありますけど、所有ということをもう一度考え直してみるとどんなふうになるでしょうか。

 僕がですね、師匠の鷲田先生から、修士論文書いた時に一つだけほめられたんです。何回も言ってるのでここにいるみなさんはご存じかもしれません。「所有とは、本当に自分の財産になるものは何か?失って平然としていられるものだけが自分の財産になる」です。僕が考えたら立派なんですけどね。僕のもう一人の師匠の植島啓司さんが書いていたのを引用したわけですが、その引用したことをほめてもらいました。

一同:(笑)

西川:
 「本当の自分の財産は、それを失って自分が平然としていられるもの」。たとえば、ヘーゲルの「主(しゅ)と奴(ど)」っていう話があるんです。所有されているものと所有してるもの。だから所有してるやつのほうが上だと思っているわけです。

 主人が奴隷を「所有」しているわけです。だから好きなように使います。「働け!」とか、「畑やってこい!終わったら料理しろ。料理持ってこい!」とか、「肩もめ!」とか。何やかにややっているわけですよ。

 そんななかたちでやっていたら、奴隷を所有して、奴隷をもう使い放題自由に使っているように見えます。けれど、奴隷がいなくなったら、すべてのことを奴隷に頼っていたこの主人はもう生きていけなくなります。

 「めし! めし! …誰もおれへんのかい」「畑あるのに、使い方知らんがな」みたいな感じで、すべての生きる術をそんなかたちでやっていたら、全部依存していたら、いつか逆転してしまう。「奴隷がいないと自分は生きていけないんだ」となります。

 だから本来、奴隷がいなければ王様は生きられないということを、プロレタリア革命[*8]で、暴力を使ってでもちゃんとしたかたちに戻そうと言ったのがマルクス、エンゲルス[*9]。共産主義の運動ですね。

[*8] プロレタリア革命:プロレタリアート(資本主義社会における賃金労働者階級のこと)がブルジョワジー(中産階級)の国家を打倒し、プロレタリアート独裁を樹立し、ブルジョワシーの所有を公的所有に移すことにより、資本主義社会から社会主義社会への道を切り開くことを目的とした革命。

[*9] エンゲルス
:フリードリヒ・エンゲルス、Friedrich Engels、1820-1895、ドイツの社会思想家、政治思想家、共産主義者、国際的な労働運動の指導者など。盟友であるカール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築し、労働者階級の歴史的使命を明らかにした。

 そうやって所有しているものとその所有者の関係はすぐに反転してしまうものです。だから、反転させられないとしたら、失っても平然としていなくてはいけないわけです。

 たとえば一生懸命やって学校の先生になったとします。「試験に受かってやっと学校の先生なった」「ああよかった!これから奨学金返そうかな」というときに、「先生やったらもうちょっと髪切ってもらわなあかん」「先生がそんなだめ。セクハラよ。学生にそんななれなれしくしたらだめよ」とかいろいろいわれるわけです。

 髪型は一つの個性だと思っているし、髪型で人の良し悪しなんか決まらないと思っているのに、生徒にもそう教えようと思っているのに、「先生やったらちゃんとやってもらわないと」「ジャージで来るのやめてください」とか決まりがいっぱいあるんです。

 そうこうしている内に、いつの間にか――いつの間にかですよ――、自分が苦労して手に入れた先生の職だと思ってるのに、先生という職業を失わないがために、自分のこれまでの生き方をどんどん変えていかなくちゃいけなくなります。。いつの間にか、自分が肩書きを所有したのではなくて、肩書きにいいようにされるような人間になってしまうわけです。

 お金にしてもそうだし、ひょっとしたら健康もそうかもしれない。すべてのものを「自分のものや」と思っているけれど、それを失ったとき平然としていられないものになっている場合、いとも簡単に、それは自分が所有してるんじゃなくって、それの奴隷になりかねないということです。


サン=テグジュペリはそういう人です

西川:
 そう考えていくと、人間にとって何が一番大事なんでしょうか。

 いろんな考え方があるんですけど、一つには、命は大事だと思いますよね。誰でも命は大切、「誰でも」とは言いませんけど、命は大切なもんだと思っている。でも、自分の命が本当の自分の命、自分が所有している命だとしたら、命を失って平然としていられるような命だけが私の命と言える。

 サン=テグジュペリはそういう人です。他の様々な小説とか『人間の大地』とか、著作にはそういう例がいくらでも出てきますし、この『星の王子さま』もそうです。要するに星の王子は、自分の命を失っても平然としたいと思っているわけです。で、毒蛇に噛まれて自分の星に戻っていくという結末になる――だからこれは本当に子どもに読ませるような本じゃないんですけどね――。

 所有について「失って平然としていられるものだけが自分の本当の財産だ」っていうふうなところでものを考えるとですね、やっぱりこの命に対する見方も随分変わってくる。

 でも「失って平然」というのは「何のために失うか」なんです。「何のために失えるのか?」「何のために自分の命を平然と投げ出すことができるのか?」ということ。平然と投げ出したときにそれこそ「あ、彼の命だったんだ」みたいな。

 こんなことを言っていると特攻隊礼賛みたいな議論に聞こえなくもない。だからこれはものすごい危ないんです。サン=テグジュペリをそういうふうに読もうと思ったら読めなくもないんです。でも、でもそれが違うというところをたぶん、たぶんね、言わないといけないんだとは思います。それが難しい。

 もちろん、これが正しいわけじゃないですからね。でも、どこかの『星の王子さま』の解説本をそのまましゃべったりはしてません。僕なりに一生懸命考え続けています。

 はい、今日はこれぐらいで僕の話はおしまい。あとはみなさんでいろいろ考えたりとかやっていきましょう。

 

金があればなんとかなるか

A:僕この会に参加するようになって、どっちか言うたら悪者とされてきた人をこう応援したくなる気持ちが強くなってしまって。

西川:ああ、そうなんや!それはいいことですね。

A:僕はなんか思い当たる節が多すぎますよ、自分とか。なんかこう仕事とか、この話、この章を読んで思ったんですけど、仕事とお金と所有に関して考えたことがあって。まず仕事に関してはもうめちゃめちゃ思い当たる節があるんですけど、何かをしてる気分っていうの、何て言うんかな、「仕事をしてる風」っていうか、そのほうが安心する自分がちょっといるんですよ。

西川:「忙しい」ってことやね。

A:そう、何かやってる気がして。何もしてない手持ち無沙汰って意外と不安で。だからなんか気持ちは分からなくはない。だから、なんかもっとコンパクトに仕事を早く終わらせて帰りゃいいのに。

西川:いや、それも効率性やからね。

A:だけど、まあ本来そうやってできる仕事、すごく多いと思うんですけど。なんかこう残業じゃないですけど、ちょっと残ってやった風にしようかな、みたいな気持ちがちょっとありますね。

西川:
 僕は、今、別に勤めてないし、稼ぐっていう生活からほど遠いところにいてるので、「大丈夫?」とか「それでいいんですか?」とか言われるんです。「それでどうやって暮らしてるんですか?」とかね。それだけじゃなくて「そんなんで自分は満足なんですか?」みたいなことも言われます。

 満足も不満も別に、違う生き方をしたいと思ってたんで(笑)。まあ稼ぎの現場にずっといることが素敵とも思えないんでね。でも、しばらくというか長いこと「いた」から、稼がない生活って恐ろしいとは思います。

 仕事がなくなって肩書きがなくなって。肩書きがなくなるだけじゃなくて、いわゆるお金の収入はなくなる。ガクンと減る。そのことで自分がどれぐらいダメージ受けるかと思うと、もう想像するだけで恐ろしいところがありましたけど。

 まあ実際やってみたらできるわけです。もちろん普段お金がないけど、なんかね。それまでタクシー乗ってたとこをを電車に乗る、それこそ電車に乗ってたのをバスにするとか、バイクにするとか、下手したら歩くとか。いくらでも生き様(よう)あるわけです。それを惨めやと思ったらどんどん惨めになっていくけどね。

 まあそういうふうにして生きてる人たちと、釜ヶ崎でいっぱい友だちになったから、ああいう生きてる先生、見本がたくさんいるから、「ちょっと金がないぐらいで、そんな世の中の灯が全部消えたような顔するのね、情けないなあ」と思えているのかもしれない。

A:お金がない不安ってありますよね、絶対的に。何でしょうね?これは。

西川:いや、ありますよ。その点、釜のおっちゃんはすごいよ。50円玉1個で横浜まで行きますから。

A:えっ?50円玉?50円玉なくても行けるんじゃないですか? 

西川:
 なくても行けると思うけど、「いや、50円持ってるよ」って言ってましたねえ。

 ココルームというNPOが電車賃とか宿代とかを出してくれてて。でも本人は50円しか持ってない。最初は「嫌や。金がないから嫌や」って言ってましたけど、「いやいや、電車賃もあるし」って言ったら、「ほなら行こか」と言うわけです。でも、ちょっとでも離れたら、もう彼は困るわけじゃないですか。

 ところが、切符とか買ってるあいだに彼は好き勝手なところに行くわけです。それで「みんなそろいました?」「あ、おれへん! あいつがおれへん!」となった。彼は50円しか持ってませんよね。だから普通だったら、金を持ってないから、「この人たちと一緒にいとかな自分は取り残される」とかって心配になるのが普通だと思うんですけど、彼はもう全然平気。

 まあだから、まわりからはもちろん「迷惑な人や」と言われてます。でも僕は「すごいなあ」って。こう毅然とした態度がすばらしいなあって。

A:
 そういうのがつまり所有することなんですか?何となく僕、お金が欲しいって思ってた時って、すっげぇお金欲しいなと思って。けど世の中の大金持ちっていうのは、お金を常に持ってるわけじゃなくって、大半はもう銀行に預けてるわけじゃないですか。

 銀行に預けてるってことは、まあ使ってないお金ですよね。つまり僕も宝くじが当たったという仮定を立てて、そういう妄想をして、「実は俺はめちゃめちゃ1億円ぐらい銀行にあるけど、とりあえず手元には持たへんし」みたいな気持ちにもしなれたら、もうそれはお金持ちなんじゃないかと思ったり。

一同:(笑)

西川:
 そうですよ。基本ね、お金っていうのは日本銀行発行の券なんですよ。あれは日本銀行の物。それを借りてるだけです。だから、貨幣とか潰したり、勝手な絵を落書きとかしたら、つかまるんです。一時的に回って来てるだけなんですから。要するに金は全部日本銀行券なんです。だから「金は全部日本銀行にあるよ」というのは間違いじゃないね(笑)。

 でも、生活のすべてが交換経済で成り立ってたら、交換するための金、もしくは物々交換する物(ぶつ)がなければ、もしくは労働力もそうですけど、それがなければ生きていけない。一人では生きていけない。お金を持っていても、何かを売っているところがなかったら生きていけないんです。

 これはもう四国遍路で嫌というほど思いましたけど、財布の中には何万と入れている。ところが山の中に入ったら自動販売機がない。水持ってくるのを忘れて、喉乾いてもうどうしようもない。お金がいくらあっても仕方がないんです。自動販売機のあるとこまで行かなくちゃいけない。しかも、一万円札しか持ってなかったら買えないんです。本当に生きるために必要なものとお金とがマッチしてるかどうかです。

 都会は「金があれば何とかなる」って、金が主役の人々が集住し生活している場所なんです。言ってみたらあんな狭いところにあれだけの人間がいるわけですから、自分たちの飲み食いできる分を供給できるわけがありません。常に他で働かせているし、自分たちのゴミを他に捨てに行っている。そういったことを全部「地獄の沙汰も金次第」とやっているのが都会なんですよ。

 だから、金がなかったら都会では生きられない。となると、金がなくても生きられるようなコミュニティがあるのか、もしくは作るのか。それとも、「金がなしで」では結構ユートピアっぽいけども、金の引力と人の引力のどちらに自分の道を決めるような暮らし方をするのか?

 小豆島の隣に豊島(てしま)の民泊に泊めてもらったことがあります。島に店は一軒しかないんですよ。そこの民泊のおっちゃんが言うんですけど、「いやあ、金は使えへんで」って(笑)。「ここにあるのそれ、全部そこの畑のやつやしな。それはあそこのやつが持って来てくれたやつやし」みたいな感じで、お金を使わない。

 まあ使わないと言ったって使ってるんですけど、でもいわゆる「今日、金使ってないな」という日が何日もある。都会やったら食うものを買わなくちゃいけません。お金なかったら即座に自分の命を脅かすわけですが、本当は金がないことで命を脅かしているんじゃない。金がないと生きられないところにいるからですよね。そして、そこから離れられないということ。

 どんどん、どんどん、金がなければ生きられないところが、どんどん、どんどん、大きくなって、金がなくても住めるところに人はだんだんだんだんいなくなってきているわけです。 

D:僕に畑とかを教えてくれた人は、やっぱり「一年分の米が穫れるのと、一か月ずつ給料もらうの、まるで気分が違うんだ」と言ってましたね。もうそもそも心持ちが違うんだなあって思いました。

西川:
 そうだね。毎月の給料で生活していると「来月なかったらどうしよう?」と思うけど、一年分の米があると、「とりあえず一年食えるわ」みたいなこともありますよね。でも米はもともとあれ乾燥食品にできるから、貯め込むことができる食料なんですよ。だから、あれが昔はお金の代わりだった。お金と同じぐらい保存性が高いし、まあお金よりは重いから問題はありますが、保存性が高いっていうこと。それが富の蓄積に変わってくる。

 全部生(なま)ものだったら、「これ俺のもんや!」と言ってもしょうがないわけで。腐るだけだから。それがやっぱりそうやって蓄積できるような技術っていうものを、われわれはいろんな食品に対しての開発してきたし、それから貨幣というこれも発明ですけど、絶対腐らない。とはいえ、貨幣も壊れたり破れたりもします。ところが、今度、システムの中の数字になったら、なんかもうそんなこともなくなる。

 だから、「星の数を紙切れに書いて銀行に預ける」、「詩的だな、ポエティックだな」って書いてありますけど、要するに、僕たちがやってるのは実用とはまったく違うイマジネーションの世界なんです。本当は食ったり寝たりっていうような、ものすごく生理に密着した人の暮らしを支えるものが、まったく実態のないものに今結びついてるっていう。これは「詩的とも言えるけれども、真っ当じゃないな」というのが王子の感想なんですね。


「私」は生もの

B:これ、ちょっとしゃべっていいですか?

西川:ええ、どうぞ。

B:
 私、介助してもらわないと、ちょっとあれ、帰れへんので。今日来たのは、ヘルパーを使ういうときに、ケアに日日悩んでたなと思って来たんです。まあこれは置いといて。

 あの、私、障害を持つなかで、なんか自分からの発信っていうのを前にも聞きました。でも、受け取ってもらえなかったことが多いんですよ。それで、さっき「自分は自分のものかどうか分からへん」っていう話があって、まあそういう意味でいけば、そうなのかなあと思う場合もありますが、私の発想は「えー、そうなんなら、明日から私はどうやって、どう生きていったらいいんか」となって。

 それとあと交換する話やけども。交換ってなんか、こっちは何か渡さなあかんやんか。でも受け取るばっかりの私はどうしたらいいのか。

西川:
 僕は「交換」は、そもそも間違っていると思っているわけです。現実には交換経済やけど、これはなんかもともと歪んだ前提から始まってると思ってる。それと、やっぱり「自分というものを分かってもらいたい」、人生なり何なり自分の生き方を、つまり自分にこう出発点を置くというのも間違っているとほんとは思っているんですよ。

 「自分なんてどうでもいいじゃん」って思っています。自分というものをほぐすような関係。でも、お互いがね。自分っていうものを持たないと…、社会の中で、今の交換経済みたいなかたちは成り立たない。個々個別のものがいっぱいいてこその契約社会ですから。だから、アイデンティティがなかったら今の現代社会では生きていくことはできません。

 でもアイデンティティを何が求めてるか言うたら、今の契約社会が求めているんです。社会の側が「君は、君の自己決定で自己実現しなさい、自分個人で出発しなさい」と言ってるわけです。でもこれは社会がそうしている。でも、本来の人間というのは、そんなふうに自分から出発してるかなっていうのが、まあ僕の考えなんですよ。

 これもね、いきなりそんなこと言われても困ると思いますけど、ケアも、ケアされる人間、ケアする人間がいて、この間で成り立つのがケアっていうふうに通常思われます。でも「そうじゃないでしょ」と思っているわけです。

一同:(笑)

西川:
 これを哲学の言葉で言うと、関係主義[*10]という言い方もできます。「私がこれを見る」。主観・客観。普通そう思っているでしょう?「私がこれを見てんねん」。だから「私が目を閉じたら見えない」とか。これは主観と客観というものがあると思っているからそうなるんですけど、「そんなんないんや」という立場の哲学もあるんです。

 「主観・客観っていうのは、ある経験を反省的に見たときに二つに別れてくるねん」って。これはなかなか説明しにくいですけど、でも、私というもの、自我意識ですね。「私は私だ」。アイデンティティは「私は私だ」ですよね。

 「『私は私だ』ということを分かってください」「あなたが言うような私ではない」、「『私が私だ』と思っていることをあなたにも理解してもらいたい」。でも、その「私が私だ」っていう意識は、私の身体よりずっとあとに来ます。ずっとあとに出てくるんですよ。

 浜田寿美男さんは「私の誕生は常に遅れてやって来る」、「そして私は私の身体よりも先に死ぬ」「私は『なった』ものであり、ほぐれていくものだ」と言っています。だから身体のほうが圧倒的に古いですよ。要するに自意識は新参者。その新参者のところに出発点を置くとやっぱり、無茶、無理が起きます。

[*10] 関係主義:relationalism、存在を関係性の結節点(ノード)として捉える発想・主張のこと。存在が独立的・自立的に存在していると捉える実体論、素朴実在論と対照を成す。

 では「身体というものがいったい何なのか?」と考えると、またむずかしい。「心と体は違うのか?」とか、またいろんなことが出てきます。この『星の王子さま』の中にも出てきますよね。「体っていったい何なのか?」って。

 「体って抜け殻だろ」という言い方があります。セミが、セミになったときの抜け殻をみても悲しくないわけですよね。そして王子は「僕が死んだ時、僕は死んだように見えるかもしんないよ。でも泣かないでね、その体は抜け殻だから」と言うわけです。まあそういう死生観、身体に対する考え方を僕はよいと言っているわけではないですけど、様々な考え方あるということです。

 だから、別に僕は「こうなれ」と言うことはないです。でも、「自分らしく生きるっていうことが何よりも大切や」とか、「特に障害を持ったりだとか、社会的にいろんな偏見・差別をされてる人間はそれができない」みたいなことに従って、一生懸命、競争社会の中で自分らしさを追い求める、そういう「能力ある生き方」が素晴らしいかのように言われてるけれども、本当にそうかなとは思うんです。

 そんな「自分らしさ」を必死になって追いかければ、さっきの話じゃないけど、「あれもやった、これもやった」「これでこそ俺は俺らしい俺だ!」となった途端に、もうそれを手放せないようになります。自由じゃなくなるんです。

 自分が自分に対して描いたイメージ、社会が自分に対して求めたイメージにガチガチになって、そこから離れることができなくなる。認知症に対する恐怖でもそうです。「私が私でなくなるというこんな恐ろしい病気」となるわけです。

 「私は私になったんやから、生ものやから崩れますよ」、「自然のことなんやから」と思えないんです。「これだけ積み上げてきた私の人生、これは私の生き方や」「私は私だ」と思っている今の現代人にとって、「私の意識」が壊れることぐらい怖いことはないんです。でもほんとにそうでしょうか。それを最後まで大事にできるでしょうか。

 そもそもですよ。僕たちは自分の自己決定でもって生まれてきたんでしょうか。芥川龍之介の『河童』じゃないけど、生まれる前に「お前こんな親で」「あなたはこういう体で」「だから生まれますって来たんか?」ということです。

 「気がついたらここに放り込まれてたんや」という人生との出会い方をしてるのに、なぜいつの間にか「自分で自分の生き方を決める」とか「自分らしさとは何か」とか、自分を何かものすごいかけがえのない宝物として生きるのか。

 これはやっぱり、社会が、社会とか歴史が、われわれに要求している生き方の一つのスタイルなんですよ。人格のアトム化。人格のアトム化って「私は私だ。他の人たちに絶対立ち入らせない」。アトム(原子)ですからね、これ以上不可分なんです。

 『騒音とアトム化の世界』っていうピカート[*11]の本がありますけど、要するに近代社会の中で何が大事かって言ったら、「何者も侵入させない、アトムとしての自分という人格を持つ」だと。それは、他との繋がりのないアトム化された人格なんです。そのアトム化された人格がいったい何をもたらすのか? ちょっとまたいろいろ考えなくちゃいけない。

[*11] ピカート:マックス・ピカート、Max Picard、1888-1963、スイスの医師、著述家。著書『騒音とアトム化の世界』(佐野利勝訳)は、1959年創文社より出版。


アンチではない問いかけ

西川:
 今回「ケア論」「ケアを学ぶ」ということで『星の王子さま』を読んでいるわけですが、これは王子が誰かと関わる関わり方で悩む話なんです。王子は、一人で生きている時は何も悩んでなかったわけです。バラの種がやって来て、バラが開いて、そいつと上手くやれなくなるわけですよ。

 それであちこち回って「変だなこいつら」とか思いながら他人と出会う。で、キツネと会ったりとか、さまざまな出会いと別れをくり返すわけです。そして、出会いと別れの意味について学んでいく。自足したたった一人の生活を守ってるところから、他者と出会い、他者といがみ合い、出会いの後に別れが来、ということをくり返していくわけです。人というのは、恐らく、そういうかたちでしか自分の人生を語れない。

 僕いつも言うんですけど、自分の人生を振り返ってみた時に、自分の姿なんかどこにもありません。「自分の人生を振り返ったら、自分を眼差した人、自分にそっぽ向いた人、要するに自分以外の人たちの顔しか出てこないでしょ」って。人が撮ったビデオやとか写真で自分を見ているわけではないんです。それにそれは自分の見た風景ではありません。

 自分が見たものは、常に自分にやって来る、誰か他者の顔なんですよ。自分の人生、ぜーんぶ他者の思い出で重なり合ってる。だから「自分」みたいなのが消えたってどうってことないですよ。「他者が消えたら自分の人生がなくなる」ぐらいに思ってもいいかもしれない。まあだから、僕は自己とか個人とかというところに出発点を置く考えとは違うところからケアを考えたい、と思います。

 社会から与えられてるイメージに対して、ノーと言っていくかたちで始まることもあるんでしょうけど、でもそれはアンチでやってる限り常に相手の土俵なんです。その土俵をひっくりかえ…、ちゃぶ台返しするぐらいの理屈でやらないと、僕はやっぱりね、根源的な問題に対する向き合い方とは思えない。

 そうでないと、下手をすると、ノーマライゼーションといいながら、障害者とかいわゆる差別されている人間のなかに、弱者のなかにまたヒエラルキーを作ってしまうみたいことになりかねないって僕は思ってます。で、こんなこと言うとすっごい嫌がられるんですけど(笑)。

B:難しいー。

A:けど、お金に対する不安とか、自分に対する不安っていうか自我に対する不安、それを取り払ったところに安心はあるんでしょうか。どこに向かうのかな。

西川:何なんでしょうね。さっきみたいに「金はみんな俺んとこに今、来てない。預けてるだけや」みたいのは気の持ちようという感じですよ。でも、そんなね、インチキはやっぱり。

一同:(笑)

西川:
 腹減ったら腹減るしね。だから、やっぱり具体的な経験のなかでなんとかしなければいけないわけです。それにある意味で、自分の想念よりも世界は広いんですよ。

 人は、やはり弱くても、パスカルじゃないけど、一本の考える葦なんですよ。めちゃくちゃ矛盾してるわけです。実際にはどんな人間もめちゃくちゃ弱いんですよ。どんな大金持ちであろうが、どんな政治的権力を持ってる人間であろうが、二つの人生を持ってるやつはいません。みんな同じ。同時に一か所しかその場所を占めることはできないんです。

 どんなでかいところに住んでいたって、そいつの体はその身の丈しかない。その意味で、そんなに変わりはないわけです。無限大に比べたら、われわれは無限小なんですけど、でも、パスカルなんかに言わしたら、「考える」ことで沈黙する宇宙を考えることさえできます。そんなかたちで、また反転します。

 人間はずっと苦しみ悩み考えるしかなくて、悟った神ではないわけです。虫のように悩まずに生きるのもいいかもしれませんが、本当は虫だって悩んでるかもしれませんねぇ。アリだって「こっち行こうかな、こっち行こうかな、こっちかな」みたいに。行ってから「やっぱ間違えた」とかあるかもしれません。

 ま、ともかく、悩んだり苦しんだり、答えがないと思ったり不安になったりするのはやっぱりマイナスではないと思うんです。よくわかりませんけど。


行動する作家

西川:
 でも、サン=テグジュペリってほんとにおもしろいと思いませんか?仕掛けがあるから、それを見つけ出した時に頭が動き始めます。もうこの快感っていったらないですね。

 サン=テグジュペリはものすごい手品が得意やったみたいで、人をハッとさせるのが好きだったみたいですね。キャップ・ジュビー[*12]にいた時に、飛行機を墜落させたりとかする部族たちと、手品で仲良くなったりとかしていたみたいです。

[*12] キャップ・ジュビー:Cap Juby、サン=テグジュペリが1927年秋から18ヵ月駐在していた飛行場で、サハラ砂漠の西端あたり、砂漠に取り囲まれた荒地にあった(現在のモロッコ・タルファヤ)。キャップ・ジュビー駐在中での体験をもとに『南方郵便機』を書いた。

A:この時代にはもう映画とかがあったんですか?

西川:映画やってますよ。彼の『夜間飛行』が1933年に映画化されています。あと、ジャン・ルノワール[*13]っていう有名なフランスの映画監督がいるんですけど、アメリカに亡命する時に船で一緒になったみたいで。ルノワールが『人間の土地』を読んで「映画化したい」って盛り上がったみたいです。でも、映画会社がつかなかったのかな。結局おじゃんになったんです。脚本がちょっとだけ本に出てます。

[*13] ジャン・ルノワール : Jean Renoir、1894-1979、フランスの映画監督、脚本家、俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男。

A:仕掛けが多いっていうのは、「映画作りたい」って思わせるような、脚本的な才能もあるのかなって思ったりして。

西川:
 脚本も書いていました。ほんとにサン=テグジュペリは不思議なやつなんです。飛行機乗りですよ。でも小っちゃい時から、『帽子の冒険』とか訳の分かんないような物語をいっぱい書いてみたいです。書き上がったら、こう寝てるおかんでも誰でも叩き起こして、「聞いて、聞いて!」みたいな感じでだったみたいです。

 実生活ではかなり面倒くさい。かわいいと言えばかわいいけど、かなわんと言えばかなわん人間だったんじゃないでしょうか。僕も昔はね、書き上げると、とにかく側にいてる人起こして、「読んで!」「ほめて!」みたいな感じでした(笑)。それでほめてくれなかったら、すぐ機嫌悪くなる。

 『星の王子さま』読むだけでもいっぱいいっぱいですけど、他の作品にもおもしろいのがいっぱいあります。

 文章がほんとにうまい。見事です。たとえば、飛行機が離陸する時とか、「機体がプロペラに吸い込まれて」って書いたり。そんなわけない(笑)。でもそういうふうに書いています。ピュッと離陸した時の感じとか、それから、空気が、だんだんだんだん、液体状のところから固体のように空によじ昇っていくとか、実際に体験してる砂漠での遭難のことだとか。ギヨメという友だちがアンデス山中で遭難した時の話だとか。わくわくしてくる話がいっぱいあります。

 そういった、ものすごくリアルなドキュメンタリー、ノンフィクションのかけらたちが、月の光に照らされて、柔らかーくなったのが『星の王子さま』、“Le Petit Prince(ル・プティ・プランス)”の中にパパーッ、パパーッって散りばめてあります。

 井戸を探しに行くシーンでも、実際に彼はリビア砂漠に墜落して、プレヴォっていう機関士と一緒に四日ぐらいずっと歩きたおしてるんです。最後はベドウィンの部族に見つけられて助かるんですけど、それまで何度も何度も蜃気楼見たりとか。そんな文章もあるんです。
 
 だから、彼は行動する作家と言われますが、要するに絵空事が書けなかった人間なんですよ。自分の経験を書くんです。だからそういう意味では『星の王子さま』と『城砦』は、そうでない作品のように見えるけれども、ちゃんと自分の経験したことがたっぷりと入ってる。そう言うのを知っていくとおもしろいね。

 あとがきで稲垣さんも、読むために、どれだけいろんなことが分かったらどれだけおもしろいかって書いてますね。でもね、無茶な話ですよ。

 そんなこと言い出したら、169ページの内容について、押さえておかなければならない背景は枚挙にいとまがないわけです。

 リビア砂漠での遭難。妻コンスエロの性格とサン=テグジュペリとの微妙な関係。サン=モーリス・ド・レマンスの城で過ごした至福の少年時代。『星の王子さま』執筆当時のヨーロッパの政治情勢。サン=テグジュペリのアメリカでの亡命生活。反ナチズムの言論活動。様々な伝記群。それから「未完の大作『城塞』」。

 主要なテーマについてもいろいろ知る必要がありますよね。「星」とか「バラ、ヘビ、キツネなどのキリスト教における象徴的意味など。「キリスト教知っとけ」と言うわれても、どうすればいいんでしょうか。

 でもやっぱり新約聖書とか旧約聖書と繫がるような話は、もちろん山ほど出てきます。それらについて、僕はカトリックでもないし、そもそもクリスチャンではないからなかなかピンと来ないところあります。

 彼にはフランスのカトリックの背景がありますから。まあ彼はカトリックの信者とは自ら書いてはいないですけど、そんな膨大な流れがシンボリックに書きこまれている。だから、日本人がこれ日本語に訳した『星の王子さま』を読んで全部分かるということは無理だと思います。

 でも、全部分からなくてもいいじゃないですか。われわれに響くものが何なのかを考えるのが大事なんだと思います。日本人の書いたものだって、鎌倉時代に書かれたもの、明治時代に書かれたもの、やっぱり、分かりませんよね。下手したら平成の若者が書いた文章が、僕に響いてこないときもあります。「何でこれがええの」となる。うん。

 たぶん僕の視野というか、感覚が狭くなってるから、「けっ」って思ってしまうわけです。『きみの膵臓を食べたい』[*14]という題名だけで敬遠してしまう。「これは泣けますよ」と言われてもピンとこない。

[*14]『きみの膵臓をたべたい』:住野(すみの)よる著、2015年出版、双葉社。

一同:(笑)


王子ちゃん

西川:
 最近『星の王子さま』という訳でいいのかなって考えるようになりました。ぼくはこの講演で本を書けといわれているわけですが、そのタイトルは「『星の王子さま』を臨床哲学で読む」にするか、「『星の王子さま』からケア論を考える」とするか、「『星の王子さま』と考える」とかなんかするかもしれません。でも、『星の王子さま』という内藤濯の訳がほんとに適切なのかなって、だんだん考え始めてきてるんです。

 原題は“Le Petit Prince(ル・プティ・プランス)”。直訳だと「小さな王子」。たしかに、日本では何十年も内藤濯という人が翻訳した『星の王子さま』になっているんです。でも「星の」なんてことは一個も書いていない。たぶん「王子ちゃん」くらいな感じなんです。話自体も「小さい」に力点があるようにも思います。

 たとえば、『赤ずきんちゃん』は“Le Petit Chaperon Rouge”(ル・プティ・シャプロン・ルージュ)です。Rouge(ルージュ)は「赤い」。Chaperon(シャプロン)は「ずきん」。

 そうなってくると、"Le Petit Prince"は「王子ちゃん」って訳してもいいんです。だから、petit(プティ)は「小っちゃな」と訳してもいいし、もっといえば、そっちが普通なんですよ。最近は“The Little Prince”(ザ・リトル・プリンス)って書くのも流行ってます。

 岩波にみんな気を遣って、「『星の王子さま』って素晴らしい! あの素晴らしい題名で日本では600万部売れました」っていいますけど、そんなことないと思うんです。「小っちゃな王子」でも売れてたんじゃないなかあ。だって、この本は挿絵がいっぱいあるから、星の話なのはすぐわかるわけ。わざわざ「星の」ってつけちゃうのは「馬から落馬」みたいなもんですよ。

C:原文では、この「王子さま」「王子さま」って、本文中出てくるのも全部、Little Prince(リトル・プリンス)になってますもんね。だからそれをほんとに対応して、いちいち「星の王子さま」って書かなきゃいけないことになるんだけど(笑)。

西川:そうそう。

C:そしたらもう読みにくくてしょうがないですよね。タイトルだから、まあいいのかもしれませんけど。

西川:星にいたことは、別にそれほどの重要事項ではない。

E:うんうん、どこでもいいと思う。

西川:
 精神分析的な解釈だと――解釈してもしょうがないんですけどね――、「永遠の少年」とかいっぱい考え方があるんですけど、「イマジナリーフレンド」、想像上の友だちっていう考え方もあります。

 僕は今奈良女子大へ哲学の勉強会に通っているんですが、そこに麻生(あさお)先生[*15]という発達心理学の専門家がいるんです。お聞きすると、やっぱりイマジナリーフレンド、要するにね、想像上の友だちは普通にいるみたいです。大人たちには見えないけど、「ハーイ!」「ねぇ!」っていう感じで。なかには高校生時代までいる子もいる。

 で、「王子さまはサン=テグジュペリにとってのイマジナリーフレンドなのかもしれない」みたいな読み方を山崎庸一郎がしてます。山崎庸一郎は、仏文学者で、サン=テグジュペリ全集を全部、個人で訳してる人なんですよ。それを僕は今まで見てなかったんです。それがまさかの『小さな王子さま』っていうタイトル。

[*15] 麻生先生:麻生武(あさお たけし)、1949年生まれ、心理学者、奈良女子大学理系女性教育開発共同機構特任教授

C:そういう翻訳があるんですか?

西川:2005年に出してるんですよ。今日アマゾンで注文しました。山崎さんはどんな翻訳をしているんでしょうかねえ。

C:サン=テグジュペリ、パイロットにとってのイマジナリーフレンドっていうね、読み方もあると思いますけどね。

西川:
 説明されて「あ、そうか」と思ったら、もうそれ以上見えない。たとえば「バオバブの三本の木は、日独伊の三大帝国主義の象徴だ」と思ったらもうそうしか読めなくなる。

 だから解説じゃなくて問いを見つけなくちゃいけないんだと思います。そう簡単には解けない問い。一生かけて考えてもこう値打ちがあるぐらいの問い。答えはなくてよいんです。答えはないのに考えるだけの値打ちのある問いがここにどれだけあって、「あ、それ僕も一緒か」と思ったりする。

 自分のさまざまに描いてる問いに対する「あ、そうなんや、愛ってこういうことなんや」と答えを求める読み方はつまんないと思います。だからあくまでも王子を、精神的指導者にするんじゃなくて、共に探求する仲間にしないといけない。

 僕もうちょっとだけ言わせてもらうと、今日の話のビジネスマンは、ものすごい悪役の代表のように、ま、サン=テグジュペリが一番忌み嫌った物質文明のアメリカ資本主義の権化のよう描かれています。僕の今日の説明もそれに近かったですけど。でもね、彼は黙りこんだんですよ。

 実業家は口を開くには開きましたが、なにも答える言葉が見つかりませんでした。

 文句も言っていないし、言い返してもいない。何かに気づいてるんですよ。前の星の飲んべえもそうです。黙ってしまう。「だからだめだ」じゃないんですよ。これで変わるかもしれない。「いや、まだ君、そこにいたのかい」とは言ってない。実業家はここで明らかに変わっているんです。飲んべえも明らかに変わっている。なのに王子はその変化に気づかない。この時の王子は未熟だからです。

 相手がすぐに反省できないからと言って「ばかだ」って決めつけてしまう方がばかなんです。実業家は口は開くには開いたけど「そんなとこ、おったんか」とか「俺はまじめな人間だ」とかもう言っていません。彼は確実に変わっているわけです。そして王子はこれを見落としている。

 そう読み直すと、王子がこれから先どうやって変わっていくのかが、結構おもしろいです。点灯夫のところでは、もう相手をばかにしてないですね。それで地理学者のところも、よく言われる「机上の空論」「批判の対象」と言われてるけど、批判めいた言葉はほとんど書いていないんです。

 それこそはかなさについて教えてくれて、一番大切な花を置いてきたっていうことに気づかせてもらっている。「次には、どこに行けばいいですか」って相談まで持ちかけているんです。だから地理学者は単純にばかにされる相手じゃないんです。

 こんな具合に、サン=テグジュペリはきちっと書き分けています。徐々に王子がそういう奇妙な大人たちと思われるような人たちとの対応で、少しずつ変わっていっていることを書き分けていっているんです。それを画一的に読んだやつが「王子はこうやって大人たちの愚かさを徹底的に批判して」っていうようなこと書いてるんですよ。そういうことを書くやつのほうが愚かなんじゃいないかと思うわけです。

一同:(笑)

西川:
 でもね、人を批判するっていうよりも黙り込んでしまって、今すぐに飲むことをやめられない人間の、内なる煩悶とか、内なる何かを信じなければ、ケアは続けられないです。「こいつはこんなもんだ」みたいに「こんなもんだ」って立ち去ったら、ケアはできない。だからこの小惑星をめぐっていた王子にはケアはできないんです。

 どこから人とともに生きるような王子になっていくのかのが、後半の話なんです。だから「できなかった」と読まないといけない。「王子はこのときまだ若かった」と読まないといけない。なのに、ほとんどの『星の王子さま』についての本っていうのは、ここで愚かな大人たちに対して極めて純粋無垢な王子という二項対立的に、「大人と子ども」「子どもが素晴らしい」みたいに読んでしまっているんです。


自分の輪郭

C:
 なんかこううまくいかなくて、生きづらい時のほうが、「私」とか「自分」ていう枠がすごくはっきり自分のなかに現れてくる。自転車とかでも泳いでるとかでも、うまくスイスイ動いてる時って意識しないんですよね、こう「自分が動いてる」とかかね。泳ぎにくいときとかに意識したりするんですよ、自分の体とかってね。

 僕は常時生きにくいので、すごく自分と人の輪郭線をいつもはっきり感じている気がする。この動けてる時にね、急にほら、ベタベタしたとこに入り込んだりとかして動けなくなった時に、からだの輪郭線て感じるじゃないですか。どこまで体だ、みたいな。

 そこでですね、「自分なんてないんだよ」とかって言われたら、「じゃあいったい、今までのこの生きにくさは何だったんだ?」みたいな話で、全部足元から取り去られたみたいな気分がするので。そうするとそこから、じゃあ次の瞬間、「これからどうしたらいいの?」ってなるみたいな感じがあって。

 西田幾多郎とかもそういうことを言ってます。うまく歩けてるとか泳げてる時は自分なんて意識しないもんなんですよ。うまくいってたらその先のこと、見てるじゃないですか。だから「いつもなんか失敗ばかりしてる」とか「やりにくい」とか「常時しんどい」みたいな人は自分のことばっか考えてるっていう。だから僕は自分のことばかり考えてるんです。

 幸せだったら自分のことばっかり考えないですよ。行く先のこと見てますよ。

西川:なるほど。俺も自分のことしか考えてないなあ。

C:長見さんにこうね、介護福祉士の試験にね、一年過ぎ目処ぐらいで取らないとだめだみたいなこと言われてですね、支援もしてくれてる。嬉しいんですけど、

西川:スタッフだからね。

C:うん。サポートもしてもらっているんで。ただですね、ちょっと僕がね、まあこう試験をすごく失敗してたもので。

西川:そうかあ?

C:そうなんです、いろいろとあって。

西川:でも高校も出たんですよね?

C:高校も出て、大学も出て。

西川:僕よりえらい。

C:まあそれはともかくとして、とにかく自分のなかで失敗経験になってるんですよ。

西川:僕は高校出るのに四年もかかってるよ。

C:僕は大学入るのに二年かかった。で、大学院で四年かかりましたよ。

西川:僕は大学なんか八年いて出れなかったしさ(笑)。

A:何をもって失敗とするかって話ですかね。

C:そうなんですけど。それがですね、その失敗経験を自分が逃避するために、試験の制度を否定するみたいな思考回路をかなり長い間してきているんですね。

G:甘やかしてんねん、自分を(笑)。

C:そう。そのループにずっとしがみついてるから、試験を受けるたびに、その自分をずっと守ってきた理屈を引き離さなきゃいけない、

西川:だから「アンチ」なんだと思います。「アンチ」でいても、やっぱり相手の土俵なんです。だから「試験?まあ試験なら受けたるよ。受かったことないから」って感じでやってみれば。

G:通ろうと思っている?また受けたらええねん(笑)。何回も受けて、死ぬまで受け続けられるしね。

C:そう思えばそうなんですけど。

西川:「アンチ」でいるかぎりは、敵がいないと自分が見えないんだから。

C:いろんな理屈がね、こう。よく考えたらたぶんそういうふうに初めからこうね、自分の可能性を信じられない人間にとっては、だから試験っていうものは全然こう選択肢としてあるように見えてこないわけで。

西川:可能性なんて信じなくても、ちゃんと生きていますよ。あなたは何十年も。

C:一応生きてるけど、なんだかんだ運だけがよかったりと思ったり。

西川:生きているってほんと奇跡的だよね。

C:ほとんど奇跡なんですけど。まともに生きようとしてなかったから。なんだかんだ言って、今生きてるのほとんど奇跡ですから。

西川:「まともに」というのは「俺はまじめな人間だ」って自信を持って言えるような人間になりたかったんですか?キノコになりたかったの?「俺はまじめな人間だ」とか言って。

C:それでこうアトム化するとね。アトムってね、英語でindividual(インディヴィジュアル)もほとんど同じ意味ですよね。

西川:一緒です。

C:個人だけど、individualって「分割できない」って意味だから、語源的にね。今は確かに言われるとおりだけど、子どもの頃からこうなってると、自分自体の当たり前とか人格をそういうその枠で作っちゃってるところがあるから、そうなるともうどっちが、後先の問題はね、また別のものが出てきますよね。たしかに自分という概念は体よりも後かもしれないけど、それはなんか外から見てるときの話であって、本人にとってみたらもうね、自我のほうが出発点だってもうしみ込んで育ってる人にとっては、もうそっちが先かもしれないですしね。

西川:そうか。

C:やっぱりデカルトの影響ってあれ、知らないうちに、デカルトの名前なんか知らなくても結構影響受けてたりとか。自我なんてあれね、誰かの影響を受けたんじゃなきゃ絶対思わないような気もするけど、ものすごく素朴な出発点にしてる人もいたりとかするし。おもしろいですね。

西川:いやいや、それは考えましょうよ。そう簡単に答えは見つからないけど。

C:そうなんですよね。


サン=テグジュペリの孤独

A:なんか読んでて、読んでてじゃないですけど説明を聞いてて思ったんですけど、サン=テグジュペリは飛行機が飛ぶようになった時代に、まあ言うたら墜落事故めっちゃ多い時代の飛行機に乗ってるわけですね。

西川:四回か五回ぐらい墜落してるね。

A:そういう人の考えっていうのって、かなり特殊な気もしてて。

西川:そりゃそうですね。だって、1903年にライト兄弟が飛行機飛ばすまで、空から地球を見るなんて言う経験はなかったわけだよ。サン=テグジュペリは十何歳の時に初めて飛行機乗ってるんですけど、当時の飛行機っていうのは、飛ばしたら落ちるっていうやつです。エンジンがいつ壊れてもおかしくないみたいなやつですね。

A:死と直結してますよね。

西川:
 直結している。だから、最初の婚約相手には「そんな飛行機乗りなんかと結婚させられません」といわれています。結婚するためにタイル工場とか、トラックを売るセールスマンになってるんですよ。ルイーズだったかな?でも、全然売れないわけです。一年に一台しか売れなかった。だからセールスマンとしては無能を極めた男です。だからそれでもういっぺん飛行機乗りになるんですけど、婚約は破談になっています。

 それくらい飛行機乗りっていうのはもうやくざな商売でした。『紅の豚』やっよりもうちょっと古いぐらいの飛行機の時代。

 彼が死んだのは、アメリカの最新型の「酸素マスク着けないとだめ」みたいな飛行機に乗ってです。単なる偵察機だから、機関銃も何もない。攻撃要員も積んでない。機関士も積んでない。一人で行って写真撮るだけの役割。

 それでドイツのメッサーシュミット[*16]に撃ち落とされたわけです。最近、機体が発見されています。彼はもう何回も事故起こしてるから、肩が上がらなかった。パラシュートで逃げられない。

 何かあっても逃げれないから、もう「絶対乗せない」ってアメリカ軍とかに禁止されていたんですけど、もうわがままばっかり言って出て行くわけです。だから半分、自殺に近いような感じですね。

[*16] メッサーシュミット:Messerschmitt AG、ドイツのアウクスブルクに本社を置く航空機、自動車メーカー。

A:そういう人の書く本にどう共感していけばいい…、共感じゃないかもしれないですけど、なんか簡単には共感できひんはずやなって。

西川:
 だからと言って、アンチナチスで徹底抗戦を呼びかける、あの勇ましいド・ゴールともこうあまりうまくいかない。だからド・ゴールはサン=テグジュペリのことが大嫌いだったそうです、「サン=テグジュペリ? あんなやつはトランプでもしてたらええんや」とかって。サン=テグジュペリはトランプ、手品が得意だったからね。

 ヴィシー政権下でも『アラスへの飛行』[*17]が発禁処分なってます。この政権はナチスのご機嫌取りやからわかりますけど、ド・ゴールのほうでも発禁処分にされています。両方から発禁処分を受けています。

 アメリカに行ってもド・ゴール派とヴィシー派からやんややんや、ぼろくそに言われてる。ものすごく世間的な名声は得たわけですけど、「祖国のために」って死を覚悟して戻っても、誰もサン=テグジュペリの気持ちを分かってくれる人はいなかった。手紙でも、そういう自分の孤独について書いてある文章がたくさんあります。

[*17]『アラスへの飛行』:『戦う操縦士』(サン=テグジュペリ著、1942年)の英語版タイトル。ヒトラーの『わが闘争』に対するデモクラシー側の回答と評された作品。

C:第Ⅰ章の大人向けの会話のところのね、中にテーマの一つで「政治向きの話題」とかっていうのもあるけど、これもなんかね、初期の版だとなんか「社交界のこと」とかってタイトルもあったみたいですね。どっちにつくか悩んでたのかもしれなくて。

西川:
 戦時下のいろんな発言をみると、スペインの市民戦争のルポタージュとか、いろいろやってます。まだちゃんと全部読めていませんが、何て言うかな、分かりやすい。反戦派でもないですし、どちらかと言うとヴィシー政権寄り。だから「フランス人がみな殺しにされるよりは、傀儡政権と言われてても、まあとりあえず休戦協定結んだほうがいいんじゃないの」みたいなところがサン=テグジュペリにはあったんです。

 だから政治的にとんがった主張を持っている人間から見ると、サン=テグジュペリってもう保守的で嫌なやつ。「貴族のなれのはて」みたいなね。

 まあ僕は別にサン=テグジュペリをすごいえらい人に持ち上げなくてもいいと思います。「いろいろ悩んでたんやな」でいいと思いますね。

C:だからあんまり作者のこと意識しなくても、テキストはテキストで読んでもいいんじゃないですか。

A:うーん、まあだけどいろいろ知ってしまったからな(笑)、なんかいろいろ考えてしまう。

西川:でもレオン・ヴェルトとか自分のこと知ってる人に捧げている本です。僕は「何でこれが慰めの本になるのか考えましょう」って最初に言いましたよね。


恋と愛

C:小説書いてる時はアメリカに亡命してる時期ですよね。他は書いてるのと並行して飛行機乗りやってる。っていうこともあるかということですかね。小説を書く余裕があったんでしょうか?

西川:わかりませんねえ。この人は「書く時には鬼のように書く」みたいな人だったそうなので。

C:ディクタフォンで。

西川:そうそう。

C:そこらへんもものすごく新しいですよね。ディクタフォンのそういう技術も初期ですよね。。

西川:彼は物質文明をぼろくそに言ってるわりには、アメリカに行ったらトランジスタラジオとか、要するにアメリカでしか売ってないようなもの片っ端から買い集めたそうです。ディクタフォンは今で言うICレコーダーみたいなもんやけど、そんなもんほとんどの作家なんか使ってない時にガンガン使っていたんですね。

A:戦争の時に開発されたようなものですか?

西川:そういうわけじゃなかったみたい。エジソンのレコードのもうちょっと簡単な、円筒盤みたいなやつで。結構な値段したんだと思います。

E:何て言うのかな、サン=テグジュペリはすごくいろんなことが分かるから、平和的にいろんな人のことも大事にしてるような書き方ですよね。政治家のこもをなんとか取り扱おうとしたんだと思うし。いろんな人の気持ちが分かるんでしょうね。

西川:そうだね。『星の王子さま』に関しては、あんまりこう主張するような言葉づかいはないんですけど。

E:でもいろんなこと知ってはるじゃないですか。

西川:
 サン=テグジュペリのことを嫌っていた人間も、一度サン=テグジュペリと会うともう大好きになっちゃうらしいです。そういう言い伝えはいっぱいあります。にこっと笑ってね、話もおもしろいし、夢中になってしゃべるし、それでなんか急に手品したりとか。要するにもう人たらしなんです。コンスエロみたいなきれいな人もね、一発でしとめちゃうし。結構浮気もしてるんですよ。

 まあでもやっぱり、僕はゆっくり読んでも分からない。「だから結局これいったい何が大事なのかな?」って、いっつも思っているんです。「『星の王子さま』、何が大事なのかな?」って。まだ分かりませんけど。

 王子は一人でいた時悩みも何もないわけ。ちゃんと朝、顔を洗ったら、自分の星の世話もしています。「バオバブが生えてないか?」とかね、火山の煤払いもして。カチカチカチッと習慣にして、自分の星のことをちゃんとやる、そういうやつなんです。ところがそれがものすごく生意気なバラに恋をしてしまう。

 たぶん王子は恋したんですよ。そして恋は必ず破れます。必ず破れる。うん。
美輪明宏[*18]が朝日か何かの人生相談書いてて、どんな相談か忘れたけど、「あなた、それは恋してるだけよ」って答えてましたね。

[*18] 美輪明宏:みわ あきひろ、1935年長崎県生まれ、歌手、俳優、演出家、タレント。本名は丸山明宏(まるやま あきひろ)。

 たとえば「11時に待ち合わせよう」っていったときに、11時に来ない。「何してんねん、来ぇへんやんけ」ってイライラする。これって恋なんです。「自分がこれだけ早く来てるのに、会いたいのに、早く会いたいのに、もう僕はもう必死になってやってるのに、何で来ない? 彼女」と怒る。

 ところが恋じゃなくて愛してたら、「どうしたんだろう、何かあったのかな?」「相手の身に何かあったのかな?」と心配するわけ。「これが恋と愛との違いなんだ」みたいなこと書いてあって。

 だから「恋なんてどうでもいいんです」って書いてるんですよ(笑)。僕は「おおー、そうだなあ」と思って。

 王子はバラに気に入られようと思って一生懸命頑張るわけです。バラが「寒いわ」と言ったら覆いをあてて、「夜は…」って言ったらガラスの覆いをかぶせてやって。

 だんだんだんだん「花のくせに」とか思い始める。「こいつ、あまり謙遜じゃないなあ」とかって相手を疑い始めるわけ。だから「自分の理想じゃないな」と思ってるわけです。「美しくって、たしかに美しくって僕は心を奪われたけど、でも性質はかなり意地悪いし、こいつ」「僕、振り回されてる」「嘘もつくし」「ごまかして咳するし」って、だんだん「自分の理想じゃない」と思って、彼はつらくなってしまうわけです。

 これ恋してるんです。そのあと、「バラの言うことなんかに耳を貸してはいけなかったんだ」「あんなずるい言い方してても、まあ彼女はきれいだったし、それでいい匂いで僕を包んでくれた」「彼女が言ったことじゃなくて、僕にしてくれたことをありがたいと思うべきだった。でも僕は幼かったから、彼女とどう付き合っていいか分からなかったんだ」っていう言い方になっていきます。

 たぶん恋と愛とか違うんです。ある意味、自分の理想を追い求めるっていうか、相手のなかに自分の本当に大切な人を見ようとするのが恋愛なんです。「この人だ」と思う。ところがやっぱり現実は違うわけですよ(笑)。ゴチャゴチャゴチャゴチャ。そうすると恋は破れてしまう。

 でも愛はそうじゃないんです。愛は自分の理想じゃない。自分の理想がそこに実現してて、その人が自分をやってくれるって、自分にとって喜びじゃないですか。でもそうじゃないんです。自分の思いが通じない人。「11時」って言ってるのに来ない時に、「何で来ないんだ」じゃなくて、「何かあったんじゃないか」って考える。「何かつらいことがあったんじゃないか」って心配になる。自分の思いじゃなくて、相手のことを思うような気持ちになることが愛なのかもしれない。そうすると、「一人で置いてきてしまった」っていうことが気になり始めるわけです。これ美輪さんが言ってることですよ。

一同:(笑)

西川:
 「いや、たしかにそうだよな」と、「でも僕はやっぱ恋しかしてないな」と思いましたね。気に食わんかったら「ふん」とかなるし、「はい、恋は終わり」みたいなね。

 どう思います?恋と愛と。いや、やっぱり恋は自分の欲望をかき立てるから、すごく燃え上がります。でも愛情って、自分を抑えないといけない。で、本来無理な相手の立場になってものを考えるという、自分を超えるような出来事なんですよ。ある意味、自分を知らなあかんねん。

 でも、釜ヶ崎の本田神父によると「愛も難しい」「別に愛してなくてもいい」「目の前にいる人を大切にするだけでいい」だそうです。どうしても愛せないやつと出会ってしまうことがある。神父の立場で釜ヶ崎に行って、ただで路上生活者の支援をやっているんだけど、時には、もうどうしようもないのもいるわけです。

 借金しまくって、嫁さんも子どもも血まみれにして、みたいなね。誰かちょっと手かけて、刑務所へ入って。で帰ってきても酒飲んで。それでもう路上生活。自業自得だと思うわけですが、本田神父は「愛することはできないけど、でも目の前にいる人は大切だ」という。

 僕はそれを聞いた時に「すごーい」と思いましたね。「好きにはなれない。自分は神父やから、すべての人に愛を持たなあかん」「でもどうしても愛せなかった。愛せなかったらできないのかって言ったらそうじゃない。でも目の前にいる人を大切にするっていう、そのことが大事」と。

 たぶんケアもそうなんだと思います。「けっ」と思うときもあるんだけど、でも大事にする。好きにならなくていい。好きでケアするんだったら、それはもう恋愛と一緒。「バラが好きだから、バラが言うちょっとしたことでも自分が我慢してやらないかん」は恋だから、いつか必ず破たんするんです。

 やっぱり恋の原理で語り始めると、ケア従事者は「とんでもない、私は向いてない」ってなってしまいます。「好きになれないけど、まあ仕事として目の前にいる人は大事にする」。これを職業倫理にすればいいんじゃないかな。愛するのは無理ですよ。「大事にする」っていうことを自分の職業倫理にする。

 だからケアのなかで自己実現しようと思ったらだめです。ケアは必ず反転します。だからケアというのは単純に与えるだけじゃなくて、ケアという関係のなかからケアする者がもらうもの。こういう言い方するとなんですが、嫌なやつはいます。だからそういう好き嫌いとか、偶然的なものじゃないんです。

 でも、大事に、大切にするってどういうことなのでしょうか。これもまた分かりませんね。「愛してる」とか「相手のためを思って」とかってよく聞くけど、大切にするってことは何なのか?これはまた別の重要な問題なので、そう簡単に答えは出ませんけど。

A:今、四歳と一歳の子供がいるんですが、すごくそれ思う。自分が「こういう人間になってほしい」って気持ちが少なからずあって、けどほったらかしにしたらいいってもんでもないし、「どこからどこまでが何なんだろう?」っていうのすごい突きつけられますね。

G:子どもが言いますよ。「お母さんがそう思って、そうなってほしいだけやろ」とか言われますよ(笑)。

A:ねえ、言われますよね。

西川:俺の息子ね、一年ぐらい部屋から出てこない。もう、「僕の」息子という、「僕の」をもうやめました。「僕の」と思った途端に、もうDV親父。「これだけやってんのに、ちゃんと聞け!」になってしまうからね。「こいつはこいつ」。さっきの話とちょっと矛盾するけど、違うんだってこと。僕が全部引き受ける必要はないんだと思います。

A:最近、有名人の息子が悪いことしたときに、親が出てきて謝ったりするじゃないですか。で、どこまでが親の責任なのか。たとえば年齢的なものも。

西川:そんなこと言ったら、自分の親まで呼び出さなあかん。

一同:(笑)

西川:
 「私の育て方が悪かったのは、実は私の親父が。その親父も。もう先祖みんな呼んできますわ。そしたらおたくらんとこ親戚じゅう、たぶんみんなで謝らなしゃあないですねえ」みたいになりますよね。

 僕は何回も謹慎処分をくらってますけど、親は絶対に謝りませんでした。「私、看護婦です。息子、煮るなり焼くなり退学、好きにしてください。あなたの学校の生徒です。知りません。生徒の処分について私は関与しません」って。

A:つまり、「学校にいる間は、学校が見てください」っていう感じになるわけですか?僕が全然その立場にならないとちょっと分かんないですけど。

(第14回終了)


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