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第10回ケア塾茶山『星の王子さま』を読む(2018年6月13日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
      アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
     『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表)

*** 

はじめに


西川:
 10回目です。しかし史上最高にゆっくりと進行してますねえ。

 今ココペリのAさんが、FM舞鶴に出ておられて、筋ジストロフィーのKさんっていう人とお話しされていました。それでちょっと思い出すことがありました。

 10年以上前、12、3年前でしょうけど、ココペリの利用者の人でALSの人が森ノ宮の駅近くの公団かなんかに住んでおりまして。長見さんが、「西川さん、ちょっと一緒に彼のとこ行ってくれへんか?」みたいなことになりました。

 僕が行っても何にもできないんです。看護師免許持ってるけど、別に看護師の仕事するわけでもないし。でもこれまでALSの人が横浜で個展を開くのに関わったりとか、ひょんなことがきっかけにはなってたので、誘われて、「あ、いいですよ」みたいな感じで行ったんです。

 で、ちょうどその頃、大阪大学のコミュニケーションデザインセンターで一緒に仕事してた久保田テツっていう映像作家がいるんですけど、彼もなんか僕のココペリとの活動にすごい関心を持ってて、「だったら、ちょっとついていきたい」といってきました。ほんで「ついていって何すんねん」って言ったら、「いや、映像撮る」とか言って。

 そのALSの人はもう人工呼吸器をつけていてしゃべれないんですよね。で、文字盤で若干のコミュニケーションを取るという人でした。僕が彼の家まで行って、まあ別にそんな話もできないけど、まあ奥さんの話聞いたりだとか。ちっちゃい娘さんがいたんで、その子がベッドの前で、遊んだり勉強したり、で時々お父ちゃんに声かけたりとかっていうような風景があって。

 で、そうこうしてるうちに、その彼に「いっぺんね、コミュニケーションデザインセンターに来てくれませんか」って声をかけました。もちろんココペリの人たちも全部手伝わなきゃいけないんです。ALSという病気について、その当事者と呼ばれるような人たちが、特に人工呼吸器つけて出演するなんていうことは、ほとんど不可能に思われてた時代でした。

 まあ、すごい苦労して来てくれたんですよ。当時のコミュニケーションデザインセンターは大阪大学の中にはなくて、万博記念機構ビルでした。万博記念公園があるんですけど、そのすぐ向かい。万博をやってた時の事務局みたいになってたところです。

 そこの会議室みたいなところに来てもらいました。ちょうど研究会だったので、ALSの当事者である彼に話してもらうことになりました。熊本から、天田城介[*1]さんも僕が呼びつけたりして。

 結構大掛かりでしたね。コミュニケーションデザインセンターの教員も全部集まってるし、それからココペリのメンバーも集まって、僕が司会とかやりました。天田さんには彼がしゃべってからコメントしてもらって、そのあと質疑応答を、と思ってたんです。全体で2時間ぐらいの予定だったかな? でもね、文字盤で彼の話を1個1個読み取るので時間が終わってしまいました。1時間半以上が終わってしまった。

[*1] 天田城介:あまだ じょうすけ、1972年埼玉県生まれ、中央大学文学部社会学専攻・教授。専門領域は社会学。

 その時はみんな結構辛抱強く、じーっと待ってました。でも、結局、内容は「わたくし、何々と申します。今日はここに呼んでいただいて、とても嬉しく思ってます」だったです。これで1時間半かかった。

一同:(どよめき)

西川:
 でも、僕は「それでいい」と思いました。途中、目が乾いてしまうから点眼やったり、人工呼吸器で喀痰吸引したり、間にいっぱい処置が入らざるを得ない。だからそういうのを見ながら、待ちました。

 なにより、本人が何をしゃべりたいかっていったら、ALSの病気の苦しみとか云々かんぬんっていうことよりも、まずは人として、自分の名前を自分で言って、「こんにちは。ありがとうございます」だったわけです。普通の会話だったらあっという間に終わることですけど、ここを自力でやっぱり伝えたいんや、って思いました。

 それを待つっていうことを通常はしないわけです。付いてる人もすぐに代わりに代弁してしまいます。「何々さんです」「病気でこうなって、僕たちヘルパーです」みたいな感じでわーっと説明しちゃうわけです。

 それで、いきなり、周りの人たちが関心を持っている「ALSになって、そのトータルロックトイン[*2]になった時にはどういうあれですか?」みたいなことを聞いてしまう。聞く側としてもすぐ聞きたがる。ものめずらしいっていうか、一番の関心がそういうとこにあるわけなんです。相手の名前とか、「呼んでくれてありがとうございます」なんて別に聞きたくも何ともないわけですよ。研究者っていうのはね。

[*2] トータルロックトイン: Total Locked-in State、眼球運動も含めた全随意筋麻痺による、完全な閉じ込め状態。

 でも、それをしんぼうづよくやりました。なんせコミュニケーションデザインセンターですからね。それでも途中でなんかもじもじしてたやつはいましたけど。「まあとにかく彼が終わりっていうまでは聞きますから、タイムスケジュールはもう無視です」みたいな感じで。

 「天田さん、ああ、ごめん。せっかく熊本から来てくれたけど、今日は君の発表はないわ」「出張費は出すから大丈夫」とか言ってね。結局その彼の挨拶だけで終わったんです。

 でもね、それはものすごい意味のあることだと思いました。そのあと、その時の様子も久保田テツが撮ってて、それで『眼のことば』っていうDVDを作ってくれました。

 ご本人にももちろん渡しました。それを授業に使わせてもらっていいか、っていうことで。最初のね、何年間かはそれでなんかコミュニケーションのね、授業をしたことがありました。

 そのもうちょっとあとかな、僕が理事やっていた日本ホスピス・在宅ケア研究会[*3]の大会が大阪でありました。ここには12、3年ぐらい関わってましたね。その時も、僕がプレイベントで、やっぱり脳性麻痺の人に発表してもらったんです。でも、こういう感じでなかなか分からなかった。そしたらその時はねえ、もうめちゃくちゃブーイングが出ました。

一同:(どよめき)

[*3] 日本ホスピス・在宅ケア研究会:1992年に発足。終末期の医療とケア・在宅福祉サービスと看護・医療の問題を医療従事者・社会福祉従事者・市民・患者が、同じ場で対等の立場で話し合い、そして互いに学ぶ場を目指している。

西川:
 大阪国際会議場の大ホールだったんで、人数はいっぱい来たんですよ。でも、医療だとか福祉だとかそういうことに関心持ってる人たちが来てるのに。ねえ。

 まあ今考えたら「そうかな」とも思う部分もあります。たとえばそれをこう要約筆記したりだとか工夫すべきだったのかもしれない。耳が聞こえない人はいなかったと思うから手話通訳はいらなかったかもしれませんが。

 とにかくね、そのまんまボンと出して、彼にしゃべってもらっただけなんです。そしたらもうめちゃくちゃいろんな文句が出てきて、それが全部僕のところに来るわけです。責任担当者だから。

 で、僕「嫌やったら出ていってもいいけど、あなたの真価が問われますよ」とか、「口先でいろいろええかっこ言うてたって、障害持ってる人がこれだけ必死になってしゃべってるのを聞けないのか」って途中で文句言ったんです。そしたらぴたっと、みんな出て行くのやめたんですけど。


傾聴の暴力性


西川:
 認知症の当事者がただ話せばいいっていうもんじゃないんですよね。

 長寿すこやかセンター[*4]で、前の国際アルツハイマーの大会があった時に、クリスティーン・ブライデン[*5]さんが当事者としての発表したりして、一気に「当事者が語れるんだ!」みたいな流れができたりしました。

 「みんなで語ろう!」みたいな感じで、京都の洛南病院の森先生[*6]だとか、ソウクリニックの宋さん[*7]とかいっぱい来て、僕はすこやかセンターの研究員やってたから、「ぜひとも当事者が発表するっていう大会をしよう!」って言われたんです。でも、その時にはね、僕は「うん」とは言えなかった。言えない。だって、もうなんかあらかじめ「こういうことを言ってほしい」っていうのがもう見え見えだったから。

 認知症の人も、しゃべれる認知症の人もいっぱいいるから、何て言えばいいかな、しゃべらされてしまうっていうか。「言いたいことあるでしょ?」みたいな感じで、「ぜひとも言ってください」みたいな感じでやられると、「みんなが聞きに来るから」っていうと、「私の名前は、えっと忘れた」みたいなことじゃないわけ。

 なんかやっぱり認知症患者としての、その不屈の、なんか根性みたいなことをしゃべらなあかんみたいな雰囲気出てきてしまう。だから「それはいかがなものか」って言ったら、もうほんとうにけんかになりました。

 ソウクリニックの宋院長とは罵り合いになってしまって、決裂してしまいましたね(笑)。森さんはあとで追いかけて来て、「いやいやいやいや、まあ西川さんの言うことも一理あると思うけど、やっぱり時代にね、時代を変える時にはそういうことも必要なんじゃないですか」って。ぼく「そんだらあなたたちがやったらいいじゃないですか」とか言っちゃって。もう、けんもほろろだったんですけど(笑)。

[*4] 長寿すこやかセンター:京都市長寿すこやかセンター(ひと・まち交流館 京都)。認知症についての正しい理解の普及・啓発、専門職への研修、社会参加の促進、高齢者にかかる虐待や権利侵害をはじめといった権利擁護事業の推進に取り組んでいる。
[*5] クリスティーン・ブライデン:Christine Bryden、オーストラリアの認知症当事者。著書に『私は誰になっていくの?』『私は私になっていく』などがある。
[*6] 森先生:森俊夫(もり としお)、京都府立洛南病院 副院長。認知症医療に携わる。
[*7] 宋さん:宋仁浩、北山通りソウクリニック(京都市)院長。

 そのあとしばらくしてから、日本質的心理学会[*8]で「傾聴の暴力性」っていう発表をしました。普通、傾聴するとか共感するとかっていうことが非常に大切だって思われてるわけです。質的心理学会なんてもうカウンセリングやってる人だとか臨床心理の人たちの学会みたいなとこなので、「傾聴の暴力性」っていうタイトルで発表するのは、もう殴り込みしてるようなもんです。

 傾聴は「アクティブリスニング」って英語では言いいます。要はアクションを相手にかけるわけです。そして、しゃべらせる。一切何にも言わずに、「で?」「で?」とかって、こう尋問のように、クエスチョン出さなくても聴く構えを徹底する。

 これ、やっぱり通常の人間関係とちがうわけです。その中で追い詰めていく。引き出したことをフォローできるかできないかっていうこともなしに、そうやって隠された苦しみとか悩みとかを引き出してどうするのかって思います。

 まあ、ある意味、暴力性のない治療関係っていうのはないのかもしれません。外科手術だってやっぱり相手の体、生身の体を切り裂くわけですから。だから、そういう意味で心理的な問題への治療についても一定の暴力性はあるでしょう。ただ、その暴力性が自覚されているかどうか? 

 僕は自覚してない人たちがあまりにも多いと思います。「傾聴っていうのは相手にとって素晴らしいことや」みたいになってる。だから「自分がいいことしてる」意識で、「傾聴するべきだ」みたいなことをいうわけです。

 もちろん、精神分析だとかそういうスーパーバイザー[*9]とかの専門家になってくると、そのあたりは多少分かっててやりますけどね。心理学というか、臨床心理とか、カウンセリングの一般化、通俗化が始まって、ケア現場の人たちが「やっぱり聴くっていうことはいいことなんや」みたいなかたちで<傾聴>するんですね。

 でも、痛みを持つ者にとってはそんなに簡単にしゃべれるものじゃないです。普段世話になってる人が<聴く構え>で来たら、なんか義理で無理にでもしゃべらないけないような気持ちになってしまう。

 だからやっぱり自分が意識してない、そういう暴力性みたいなものをもっともっと自覚しないといけない。傾聴っていうものをあまりに高くあげすぎるのもいかがなものか、みたいに思います。まあ、そんな発表をしました。

[*8]日本質的心理学会:2004年に創立された学会。新しい理論や方法論を開拓しながら新しい領域を切り開いていく斬新な研究をアクティブに行う。
[*9] スーパーバイザー:superviser 援助実践者(スーパーバイジー)に指導、助言する、援助実践者の上司。


尋ねずに聴く


西川:
 考えてみると、これ全然関係ないような話ですけど、王子は質問はするけど、質問されたことには答えないでしょ?これなんかもどういうことなのか?自分は質問したときにはあくまでも引き下がらないんだけど、これはこれで王子の一つの性格でしょうね。

 王子は尋ねられたことに関しては絶対に答えない。相手が気づくまで答えない、言わない。問わず語りに語ることはあるけれども、問われたからといって答えない。つまり、<問われたから答える>というかたちで人間関係の信頼を高めていくっていう通常のやり方は取らないわけです。

 聞かれても聞かれてもそっぽ向くみたいなことになります。そのくせ自分の知りたいことは次々聞いてきて、いい加減な返事を許さない。

 僕は、やっぱり普通だったら非常に変な、ディスコミニケーションと思えるような、王子の質問に対する態度も、やっぱり、ちょっと考えてみる必要があるんじゃないかなって思ってます。

 ここでもしゃべったかしれませんけど、星の王子みたいな人に対しては「尋ねずに聴く」っていうことをしなきゃいけいないわけですよ。尋ねたら絶対答えてくれないから。

 僕にこのヒントを与えてくれたのが、舞鶴で一緒に活動やってる、まあ今はもう彼は埼玉行ってしまいましたけど、豊平っていう文化人類学を志して、今はアートのほうでいろいろやってる人です。

 彼がフィジーを調査地にして、現地に人類学の調査に行くんです。そのときは、とにかく、向こうに受け入れてもらうことがまず大事になる。それで向こうの習慣にできるだけ即した振る舞いをしたりだとか。まあ向こうに名付け親ができたりしたらもう最高なんですけど。

 そうやってる中でも彼としては、研究者ですから、あるテーマがあって行ってるわけですよ。仲良くなるために行ってるわけじゃない。だから聞きたいことがちゃんとあるわけです。フィジーのなんか政治のことじゃなかったかな。忘れたけど。

 ところが、それを直接は聞かないんです。聞いたら「何でお前がそんなこと聞くねん?関係ないやろ、お前。なんかかわいいやつやな、素直なやつやなと思って相手にしてたけど、なんやそれ?」ってなっちゃうそうで。

 「この村の実力者は誰?」とか探りはじめたら、「お前、いったい何やねん?金でももろて、向こうからの回しもんか?」みたいなスパイ扱いされてしまって、もう一気に信頼関係がなくなってしまうんですよ。

 だからそういう意味では相手の暮らしの中にこう溶け込むようにして入りながら、でも相手の文化っていうものを研究しようと思ったときには<尋ねずに聞く>ことになります。

 質問は常に頭の中にあるんですって。常に、常にあるんですって。それでなんかべちゃべちゃべちゃべちゃしゃべってる時に、ちょっとでもそのへん関係があるなって思ったら、それ一生懸命覚えとく。

 それで、一人になった時にぶわーってメモを書くんです。そういうことを、いくつもいくつもやりながら、少しずつ分かってきたことをより合わせていくようなかたちで研究を進めていかざるをえないそうです。で、これが<尋ねずに聞く>っていうか、知るっていう方法なんです。

 特にこれはね、相手が言いたくないこと、直截に聞いてしまえば相手を傷つけてしまうかもしれないようなデリケートな問題に関しては、こういう方法をやっぱり取るべきだと思います。

 昔、これをワークショップでやってもらったことがあります。アサヒグループホールディングス[*10]ってあるじゃないですか?そこに研究員ばかりが集まってるところがあって、研究員どうしのコミュニケーションをもうちょっと良くするために、ワークショップみたいなのしてほしいって言われてたことがあって。CSCD(コミュニケーションデザインセンター)から何人もばさーっと行ったんです。そのうちの一人として僕が行った時、彼らにやってもらったのがそれです。

[*10] アサヒグループホールディングス:アサヒグループホールディングス株式会社、1947年設立(吸収分割を行ったアサヒビール株式会社が2011年に商号変更を行い、純粋持株会社のアサヒグループホールディングス株式会社になった)。事業内容は、酒類事業(アサヒビールなど)、食品事業、国際事業、その他事業。

 まず「二人ずつ組んでください、なるべく上司と部下で組んでください」って言っといて、「じゃあ部下の人はみな来てください」って部下だけを集めます。

 彼らに「上司の調査研究してきてほしい」って伝えました。「『もう歳をとったな、老けたなと思った時のこと』について聞いてきてください。でもそれをそのまま聞いたらあきませんよ、聞いたら人間関係、悪なりますよ」みたいな感じで。それでさっき言った<尋ねずに聞く>っていうのをやってもらいました。

 あとから理由は説明したんですけど、「まずやってみてください」みたいな感じでやりました。なかなかね、難しい感じでしたね。だから最初は、別にマニュアル化する気も全然なかったんですけど、少しやり方を説明しました。要は、自分の話をしてる時に向こうがふっと乗ってくるときをつくるわけです。

 「今日はちょっと二日酔いでねえ」とかっていってみる。「学生の時は何ともなかったんすけどね」って言ったら、「いやあ、そんなん俺なんかまだ全然大丈夫や。焼酎五合でも大丈夫や。でもまあ昔は一升ぐらい飲んだかな」みたいに続くわけです。それに「え、そうなんですか?」とかって乗っかる。まあ酒の飲む量がどうなったかとか、二日酔いがどれぐらい続くとかっていうような話になってきたりするわけです。

 でも、あんまりこれをしつこくしつこく聞きだすと、「なんやお前、おかしいな」ってなるんだけど、また話をぽーんと変えたりしているうちに、うまくいけば自分がもう歳やなと思った時のことがこう現れてきたりもする。そんな感じです。

 どう言ったらいいかな。これ別に誘導尋問じゃないんです。大事なことは、自分のことを話すっていうこと。自分は問われてる人じゃなくて、自分が訊く人やと思うほうが人はしゃべるんですよ。

 訊かれたことにはあんまり答えたくないんです。何でかと言ったら、人は自分が関心のあることをしゃべりたいんですよ。相手の関心じゃないんですよ。相手の関心に合わせてしゃべるということは、どちらかと言うと苦痛なんです。

 まあ、相手に気に入られようと思うから言うこともあるかもしれないけど、それは二の次、三の次です。そもそも、好かれたいっていっても、やっぱり結局自分のためなんですから。

 人が一番しゃべりたいことは何なのかって言ったら、<自分がしゃべりたいこと>なんですよ。それが一番また正直にしゃべるんです。

 こんなこと考えていくと、「王子が質問されたことには答えない」っていうのも気になってきます。それをもうちょっといろいろ深く考えていくと、<Q&Aでやり取りすること>が「相手をよく知るためのコミュニケーションになるか」って言ったら、「ほぼならないんじゃないか」っていうことなんです。うん。

 それのもっとひどいことになると、質問と答えで相手を追い込む。刑事事件だとかそういう時の取調室のコミュニケーションですよね。絶対に「もう訊かないでください」って言うことはできない。「お前、容疑者なんやから。取調べ中なんやから」って言われてしまう。

 答えられなくっても、どんどんどんどん「何で答えられへんねん」ってまた質問かぶせられるっていうかたちで、常に圧倒的に答える側に置かれてしまうっていうのが取調室における被疑者の状態です。時には下手をすると、自分がやってもいない犯罪について「私がやりました」って言ってしまわざるをえないようなことさえ起きるっていうのが、浜田寿美男[*11]さんなんかの研究であります。

[*11] 浜田寿美男:はまだ すみお、1947年香川県生まれ、発達心理学者、奈良女子大学名誉教授。発達心理学の分野で著作、翻訳書が多数ある。

 まあこんなふうに考えていくと、相手のことをよく知るために、どんなことを聞かなくてはいけないのか。結構、何て言うか、アナムネ[*12]っていうか看護師が患者さんのことよく知るためにいろんなこと訊くのもね、なんか質問ばっかりなんですよね。

 質問がもつ暴力性であったり、歪んだコミュニケーションであるということについて、相手が弱い立場の人に対する対人関係を職業にする人は、やっぱりもっともっとしっかりと考える必要があると思います。

 このことに関する教育っていうのは、ほとんどなされていない。「マナーの問題や」ぐらいにされてるわけだから。「あんまりずけずけ聞くんじゃないわよ」「失礼な聞き方するんじゃないわよ」という程度です。

 でもこれはそんなマナーの問題じゃない。もっと根深ーい事柄がやっぱりあります。自分からすごい勢いで相手に話しかけて質問して、相手もちゃんと答えてくれて、「私はあの人とコミュニケーション取れてるの」なんて思う馬鹿が山ほどいるわけです。

 そうじゃなくて、なんかしょうもないことをぺらぺらしゃべってくるおしゃべりな人に見えても、その人が<尋ねずに聞く>っていうスイッチをどっかにカチンッて入れてたら、「この人本当に困ってるの何やろ?今一番してほしいこと何なんやろ?」ってことを探る感覚をカチンと残しといたら、その人のほうがよっぽど、相手の本当は人に分かってもらいたいけど、まだ自分では言えないことに近づけるんじゃないかな。そんなことを思います。

[*12] アナムネ:患者の既往歴のことで、アナムネーゼの略語。ドイツ語のanamneseに由来。


「あげる」の二重性


西川:
 はい、では今日は54ページからです。僕が最初だけ読みます。あ、ちょっと待ってね、前やったところですけど、53ページ。

「…花の気持ちというのは、ちぐはぐなことばかりなんだ。でも、ぼくはまだ経験が足りなかったんだよ。だから、どうやって花を愛してあげたらいいか、分からなかったんだ」

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 昨日あらかじめ読んでおこうと思って読みかけたら、「どうやって花を愛してあげたらいいか」ってところがひっかかって。何で「愛してあげる」っていう言い方にするのかって思いました。

 僕フランス語読めないんでちょっと分かんないですけど、そんな言い方はフランス語にはないのかもしれない。普通に「愛する」っていうだけかもしれない。

 でも、「愛してあげる」っていうのはなんか、「どうして愛したらいいか分からなかったんだ」っていうのと、「愛してあげる」ってちょっと違うでしょう?

 相手をいかにも保護的にっていうか、こちら側が相手のまあ欠点には多少目をつぶって「愛してあげる」。要するに、こちらのほうが人間的に上っていうか、そういう表現に見えるんですね。ただ、そういうのって愛っていうのかなあ?そんなことをぐずぐずぐずぐず考えてたんです。

 最近、2,3年前かな、岩波から『語感の辞典』[*13]っていうのが出てます。「語感」って「語」の「感」じ。だから「あげる」と「やる」の違い、「与える」の違いみたいな、ほぼ同じようなこと言ってるんだけど、語感が違うことばについて、どう違うのかを書いている本です。それを中村明が一冊の辞書にまでしてるんですけど、結構おもしろいんです。彼は語感についても岩波新書でも出してますね。

 で、「あげる」は、「差しあげる」になると、下の立場の者が目上の人に対して「差しあげます」ってことになります。だから「あげる」は本来は上から下目線じゃなくって「やる」の方が上から下目線なんですよ。「やる」って「遣わす」っていう意味です。遣唐使の「遣」ですから、「やる」っていうのは上から下なんです。

 でも「あげる」っていうのは、本来はそのどちらかと言うと目下の者から目上の者なんです。だから「ポチに餌をあげなくっちゃ」って言うと犬より人間のほうが下になってまうから、昔は絶対に「犬に餌をやる」だったんです。「あげる」とは言わない。

 ところが最近は「あげる」は謙譲語というよりも丁寧語のイメージになってきて、丁寧に言う言い方として使われてますね。だから自分をへりくだらせるんじゃなくって、丁寧な言い方として「あげる」っていうふうに使ってるのかなあと。

[*13] 『語感の辞典』:『日本語 語感の辞典』、中村明著、岩波書店、2010年出版。

 昔、ケアワーカー(careworker)のことをケアギバー(caregiver)、「ケアを与える人」って言ってたんです。10年ちょっと前ぐらい。いや、もうちょっと前かな?今は、ケアテイカー(caretaker)ですよね。ギバーからテイカーに変わってるんです。

 ケア(care)は、英語では「面倒なこと、気苦労」とかっていう意味があるんですよ。語義的にはそちらのほうが古いんです。テイク・ケア(take care)って「世話をする」でしょ?その気苦労を取る、受け取ると相手が楽になるから、テイク・ケアっていうのは「世話する」になるんです。

 でも結局、ケアが「気苦労」とか「面倒」だったことが、「世話をする」っていう、どちらかと言うと逆さまの言葉、二重の言葉の意味を持つようになったんです。

 今はどちらかと言うと、ケアって言ったら「世話」のほうが言葉としては強いんで、「ケアしてあげる」っていうことでケアギバーっていう言い方したんですけど、「いやいや違うでしょ、やっぱあげるっておかしいでしょ、それ上から目線でしょ」みたいな話になった。

 さっきいったように、これでは言葉の意味がおかしいですよね。おかしいんだけど、まあ、そういうこともあって、ケアテイカーって今は言い換えたりしてます。どうなんでしょうね?

 ま、ともかく「どうやって花を愛してあげたらいいか、分からなかったんだ」って言ってる間は、まだ何も分かってないんじゃないんかなと思ってるんですけどね(笑)。「あげたらいいか」っていうのはどうなんやろ?って思いました。

 フランス語ではどうなってるか、実際のところ分からないんですけど、稲垣さんの翻訳がなぜわざわざ「どうやって花を愛して『あげたらいい』のか」って、「あげる」なんて言い方を使ってるのかよく分からないなあって気になりました。

 『星の王子さま』は原文で読めたらそら一番いいんでしょうけど、原文で読んだって理解するときには日本語に直す必要があるので、結局一緒かなと思います。


アレゴリーとメタファーとシンボル


西川:
 そういう言葉の見過ごしそうなところをじっくりと考えていくような読書はやっぱり邪道かもしれませんね。でも、重箱の隅つつくっていうことではなく、この本はやっぱりこういうところにいっぱい隠れてるタイプの本なんですよ。『星の王子さま』は、ほんとに寓話(アレゴリー)みたいな筋書きっていうか様相を示してますし、それでメタファーっていうか比喩もいっぱいありますし。

 メタファーっていうのは、何か別の形で、ある形のあるものを指すっていうのかな。「白髪」って目に見えるじゃないですか。でも、歳とってきたという意味で「頭に霜を置く」っていう言い方があるんですよね。実際は霜じゃない。でも頭の上の霜って言ったら、「あ、白髪か」っていう感じになる。これがメタファーなんです。「見えるものを見えるもので連想させる。別の形で連想させる」っていうか。

 それとアレゴリーですね。アレゴリーは「寓意」っていう意味なんです。このあとの星めぐりのところで、たとえば(まあいろんな意見がありますけどね)、王様のことを<権威欲>とか<老い>としてみる。それは見えないでしょ?見えないものをある具体的な、こういう頑固そうな歳いった王様で表すっていうのがアレゴリーっていうんですよ。「見えないものを見えるもので表す」みたいな。

B:象徴みたいなもんですか?

西川:象徴ではないよ。象徴は「目に見えないものを目に見えないもので表す」ことだから。

B:ああ、そっか。

西川:どちらかと言うと、象徴は「目に見えないものを目に見えないもので表す」んです。たとえば、「鳩は平和のシンボルです」っていうけど、鳩は平和のシンボルやけど、鳩がイコール平和じゃないでしょう?鳩の何か目に見えないものと、平和っていう目に見えないものが同じなんですよ。

B:ああ、なるほど。

西川:
 まあこういう理解は、めちゃくちゃ厳密に言ったらおかしいかもしれませんけど、そう考えると、『星の王子さま』の中には、メタファーとか、アレゴリーとか、シンボルとか全部使われてるんですよ。

 でおまけに絵もそうなっているから。この本は言語的な意味でのメタファー、アレゴリー、シンボルっていうものを絵の形でも表してるわけ。だからその解釈にはものすごい幅あるわけです。

 たとえば、「鳩は平和のシンボルだ」って言うけどね、「鳩は食欲のシンボルだ」とも言えるわけですよ。

 昔、中国からの留学生と一緒に釜ヶ崎の三角公園に行って炊き出しで並んでたことがあります。そしたら、鳩がポッポポッポ来た。僕が「平和な風景やな」言ったら、「美味しそうですね、先生」って返されて(笑)。「中国では美味しく食べますよ」って言われて、「はあー」ってなりました(笑)。

 いろんな文化とか社会とか時代とかによって、どちらがいいとか悪いとかじゃなく、もう様々に思えるわけです。だからメタファーも、アレゴリーも、シンボルもいわゆる「説明」ではないんですよね。

 だから説明しきってるようなものは、芸術じゃありません。読む側のイマジネーションを、人それぞれに様々な形で喚起する、それがどれだけ豊かなものをたくさんの人たちに掻き立てるかっていうところが芸術作品の偉大さなわけです。

 万人に対して、一つのイメージをガッとみせるのはプロパガンダ[*14]なわけです。そうではなくって、様々な人が様々な形でイマジネーションを喚起されていって、豊かな世界っていうものを見るっていうものが芸術作品で、それを言葉でやるのが文学だし、絵でやるのが絵画。もちろん、音楽もあるだろうし、いろいろあるでしょう。

 そういうふうに、これ読まなあかんのですよね。だから書かれている内容っていうか、論理的な内容とか、言葉の語義、普通の語義だけを読んでたら、説明文章を読んでるような読み方になります。そうではなくて、「これは僕にしか読めないだろうな」っていうようなイマジネーションを湧かせながらこの本と向き合う必要があります。

[*14] プロパガンダ:propaganda、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為。


星々の孤独に渡り鳥


西川:
 まあ最初に、「ゾウを飲み込んだボアっていうものが分からない」「誰も大人たちは分かってくれなかった」って書いてあるのも、「あなたたちはこれ分かる?」って問いかけがまずあるわけです。

 そして今日のとこですけど、一番最初のところにこうあります。

 自分の星から抜けだすのに、王子さまは渡り鳥の移動に便乗したとぼくは思うのです。

 「と思うのです」だから、聞いた話ではないわけです。分かります?これは確かなことじゃないんですよ。事実として誰かから聞いたわけでもないし、王子から聞いたわけでもないし、その場面を見たわけでもない。

 「と僕は思っている」っていうことですね。その絵がここにバーンッてあるんです。これはサン=テグジュペリというか、パイロットのイマジネーションですよね。これがどういう意味を持っているのかっていうことです。

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 だから『星の王子さま』というか、王子の言葉・言動・その背後にあるものを、誰にでも分かるような形じゃなしに「パイロットはこういうふうに思った」って書いている。なぜ思ったのかまではよく分かりませんよね。まあそういうところも考えてみてもいいかもしれません。

 前々回、話した滝川クリステルの『リトルプリンス・トリック』っていう本がありますよね。あれは「星の王子さまはハレー彗星や」っていう論なんです。めちゃくちゃ乱暴に言っちゃうと。

 「星の王子はきっとハレー彗星に乗って、惑星をめぐって地球に近づいて来たんだ」みたいなイマジネーションを持って、彼女はあの本をたぶん書いてるんですよね。まあ、別に「ここに書いてあるから、この通り」っていうふうでなくてもいいんですよ。まあ、これはこれですごい楽しいんですけど。

 それこそ前々回、星の上に立っている王子っていうのは、暗黒の世界に描かれていないけれども、光のあるときは光あるかもしれないけれども、空気がないから、黄昏とかそういうんじゃなくって、もうほんとに暗黒の世界の中に突き出てるようになってるんじゃないかって話ありましたよね。

 要するに、小惑星は太陽の光が当たってるところはめっちゃくちゃ明るい。だから地面だけは明るいことになります。でも空気がないために、光が乱反射しないからから、光があたっていたとしても、地面から上は即、暗黒なんです。

 地球上でぼやーっと明るいのは、空気があって乱反射してるからそう見えているだけで、なかったら光が当たって反射するところだけは明るいけど、あとは真っ暗になります。

 そういうふうに考えてみると宇宙の星と星っていうのは、暗黒の中で輝いていても何の繋がりもないわけです。むしろ暗黒で隔てられたような世界なのかもしれない。

 でもここに渡り鳥ってあるわけです。「空気もないのにどうやって渡り鳥が飛ぶんや?」って感じですけど、渡り鳥っていうイメージを入れたら、星と星とが繋がるようにも思えますね。

 そういうまあ科学的な、宇宙の星と星の孤独(引力があるとかっていうのは別として)に、渡り鳥のイメージを中に入れることによって、ほんとにバラバラであるかのように見えるその星々が、実は渡り鳥の移動によって結び付けられているんだっていう、もう一つ別の物語をこのパイロットは読み解いていくわけです。

 それ何で読み解くのかって言ったら、王子の話を聞いたからです。王子の話を聞いたから、この時にはやっぱり渡り鳥でないと、具合悪かったんじゃないでしょうか。

 だから、僕は「ハレー彗星でいいんかなあ?」とは思います。ハレー彗星はハレー彗星の軌道で回ってるわけです。でも、渡り鳥っていうのはあるところからあるところへ向かって、そしてまたあるところへ向かっていく。出発点とゴールは両方ともその渡り鳥にとって大切な土地なわけですから、単なるスタートとゴールみたいなもんじゃないわけです。


ふさいだ気分と泣き出したい気持ち


西川:

出発の朝、王子さまは自分の惑星をきちんと片づけました。まだ煙を噴いている火山は、念入りに煤払いをしました。二つの活火山が王子さまの星にはあったのです。朝食を暖めるのに、とても便利でした。

 「暖める」って、これでいいんですかね? 温度の「温」のほうがいいような気がするけど。と、なんかケチを入れときます(笑)。

煙を噴かなくなった火山も、王子さまの星には一つありました。煙を噴かなくなったといっても、王子さまも言うように、「先のことは分からない」のです。だから、王子さまはその煙を噴かない火山も煤払いしました。ちゃんと煤払いをしておけば、火山は穏やかに規則正しく燃えつづけ、噴火はしないものです。火山の噴火は、煤の溜った煙突が火を噴くようなものです。いうまでもなく、私たちの地球では、私たち人間は体があまりに小さすぎて、火山の煤払いはできっこありません。そのために、火山はいろいろと面倒ばかり起こして、私たちを困らせるのです。

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 ここに火山が描いてありますよね。何なんでしょう?これも何かのメタファーかシンボルなんでしょうけど。

 名前を忘れたけど、精神分析とかやる人がこういうの好きでね。火山って口からマグマが噴き出してくるんですね。普段目に見えない、中でとぐろを巻いてる無意識の欲動とかそういうものを表してる、みたいなことを言ってますね。三つあるのもなんか理由があるって書いてましたね。「そんなんどうでもええな」と思って忘れてしまいましたが。

 でもたとえば、自分だったらどう思うのか?って読んでみても面白いかもしれませんけどね。「火山の煤払いをするって大切なんだよ」って。「今現実に煙を吹いてないやつでも、大丈夫だと思えるようなものでも、実はそんなことないんだ」っていうように。

 まあ、じゃあ次のとこちょっと読んでください。

D:

 王子さまはまた、少しばかりふさいだ気分で、バオバブの芽をひとつ残らず摘みとりました。もう二度とこの星には戻らないにちがいありません。王子さまにはそんな気がしました。それだけに、かえって、いつもの、こうした作業の一つひとつが、その朝はむしょうにいとおしく思われたのです。そして、花に最後の水やりをし、ガラスの覆いを被せて守ってやろうとしました。と、そのとき、王子さまは今にも泣き出したい気持ちがこみあげてくるのを感じました。 

西川:
 まあ自分の星から抜け出すときに、最後まできちんとするんですね。でも「今にも泣き出したい気持ちがこみ上げてくる」のはなぜなのか?

 ここもうまいこと書いてあります。最初は「もうこの星を出よう」って決めてるわけですよ。だから「少しばかりふさいだ気分」なんですよ。まだ泣き出しそうじゃない。ふさいだ気分なんです。

 だから、バオバブの芽を一つ残らず摘みとるっていうこともできるわけ。「ああ、今まで面倒やなって思ってたけど、いやこれもなかなかやっぱりな、もう二度とないのかと思うと愛おしい」って。だからふさいだ気持ちからちょっとこう自分の未練っていうか、名残りというか、そういう気持ちに変わってるわけですよ。バオバブの芽をとるのは星のためだったかもしれませんけど。

そして、花に最後の水やりをし、ガラスの覆いを被せて守ってやろうとしました。

 ここは星のためにやってんじゃないです。花のためにやってるんです。この花が原因で自分は星を出ていくんですけども、こう花のために何かをしようとした途端に、今にも泣き出したい気持ちがこみ上げてきたってあります。

 さらっと書いてあるんですけど、その出発の日にこう最初っから泣きそうな気持ちでね、そのバオバブの芽を摘んでたわけじゃないんですよ。最初はちょっとふさいだ気分なんです。「なんでこんなことになったのかな」「まあでも、もう出て行くしかないわな」って。

 「まあでも最後まできちんとやろう」、「ああ、もうこれ最後や」と思ったら、ちょっとさっきのふさいだ気持ちとは違った未練みたいなね、そういう気持ちに変わってるわけです。

 そして最後の最後、花を守ってやろうとした途端に泣きそうになる。ここは、守れないからでしょう。守れないというか。そんなことは最初から分かってるわけですよ。星を抜け出るって決めた時から分かってるわけです。

 頭の中では二度と帰ってこないだろうとわかっているけれども、だからと言って、自分の星のことやバオバブの芽をほったらかしで、いきなり出て行くんじゃないんです。もう自分のためでもないですよね。その星に住んでる自分のためでもなく、自分がこれから出ようとしている星、自分が住んでいた星をバオバブで破裂させないように。

 そして置いて出て行こうと思った花に、水やりをしてガラスの覆いをして守ってやろうっていう気持ちはまだ残ってたわけです。心底嫌になってないわけですよ。心底嫌になってない。でも花を置いて出て行こうと決意したわけです。

 その決意と、まだ自分の中に残ってる気持ちとのずれがある。そこから今度はもう理屈じゃないです。もう今にも泣き出しそうな気持ちになってしまう。

 ここはほんとうに易しい文章で書いてありますけど、王子の別れが、心底バラに愛想をつかして、星にも愛想をつかして出ていくんだ、ではないということがはっきり分かるところです。

 はい、次行きましょうか。

咳払いと二度の「さようなら」


E:

「さようなら」と王子さまは花に言いました。
 けれども、花は答えませんでした。
「さようなら」ともう一度王子さまは言いました。
 花は咳をしました。もっとも、その咳は風邪の咳ではありませんでした。

西川:
 「さようなら」はフランス語で「アデュー」(Adieu)と「オルヴォワール」(Au revoir)っていう二つがあります。「オルヴォワール」っていうのは「また会いましょう」「シー・ユー・アゲイン」(See you again)みたいな言い方です。「アデュー」は、もうこの世の別れ、もう二度と会わない、もう永遠(とわ)の別れのときに使う言葉ですね。

 ここは後者で書かれてあります。だからこの「さようなら」は、「もう二度と会わない。あなたとはさようなら」。「バイバーイ」とかじゃないですよね。日本語でそんなきつい意味の言葉ってあるかなあ?ちょっと分かんないですね。

 竹内整一[*15]っていう東大の先生が、最近の日本語のいろんなことを元の言葉からいろいろ解釈してます。「さようなら」は「左様ならば」。左様って「そのような成り行きであるならば」ってことで、これは途中で終わってるんです。

 「さらば」もそうなんです。「そうであるならば」っていうことです。「さ」は「そのようである」。「らば」は「ならば」から。「さらば」っていうのは「さようなら」とほとんど一緒なんです。「左様ならば」なんです。

 それが「ば」が抜けて「さようなら」になって、「さらば」になってるんです。だから「そういうことで」と一緒ですね。日本語の別れの言葉って意味がわからないですね。「またお会いしましょう」でもないし、「ほんとにお別れだよ」っていうのでもないんです。

[*15] 竹内整一:たけうち せいいち、1946年長野県生まれ、倫理学者。鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授、日本倫理学会元会長。専門は倫理学、日本思想。

 ともかくヨーロッパの言葉では「ほんとにお別れだよ」と「また会いましょう」ははっきりしてるわけです。出会った人が一緒に居て離れるときに「また会うけどね」「また会うけど今はさよなら、今は別れましょう」と、「もう二度と会えないね、別れましょう」と、この二つをはっきりさせている。でも日本語のさようならって、さっぱり分かりません。「ああ時間やね、さよなら」ですから「え、次会うのか会えへんのか分かれへん」みたいになりますよね。

B:そういう曖昧な表現が日本語にはよくありますね。

西川:
 まあ僕たちは普通に「さよなら」とか「さようなら」を「左様ならば」っていうふうに、元の言葉の意味にまでいちいち遡って考えませんよね?

 「ありがとう」くらいは「有難い」って「存在することが稀な」とかって考えますかね。「すみません」も、返済が「済んでない」とか、なにか心がざわめいて「澄みません」とかいいますね。「水が澄むようには澄みません」「波立ってます」みたいな気持ちのことを言うときに「すみません」とかっていう解釈はよく耳にします。

 でも「さようなら」はなんで「さようなら」なの?っていう感じです。ほんとにね、日本語の「さようなら」ってどういうことなのか分かりにくいですね。竹内さんもいろいろ書いてましたけど、僕にはあんまり説得力ないんでしょう。何度も読んだのに覚えてない(笑)。

C:「そういうことで」っていうことで別れるっていうと、なんか始めから別れが前提で、な感じ。通り過ぎるだけで、始めから別れることが前提で、だから一緒にいるのはしばらくだけで、だから「さようなら」っていう感じですか。

西川:
 そうですね。もともとそういう儚さみたいなものっていうかな。日本人って、あまり「自分も変わらない、相手も変わらない、永遠の愛」とかってあんまり信じてない(笑)。

 「なんか出会ったけど、『出会いは別れの始まり』みたいなんじゃないけど、なんかとにかく変わっていくもんだよね」みたいな。だから、左様ならば、こうなったからには、あなたはそちら、僕はこちら。日本語の場合はそうなんでしょう。

 この王子の場合はこの「さようなら」は、二度と戻らない、二度と会わないことを自分の決意としても言うし、花に対しても突きつけてるような言葉なんです。

 だから、「けれども花は答えませんでした」って続く。「けれども」というか答えなかったのね。で「さようなら」ってもう一度言うわけです。だいたい一回こっきりしか言えない「アデュー」みたいなやつを、二回繰り返して言うわけです。

 で、今度はもう追い詰められた花は咳をするわけです。前にも花には自分に都合が悪いというか、苦しくなったら咳をするっていう癖が書かれてました。

 伝記作家によると、コンスエロっていうサン=テグジュペリの奥さんが喘息持ちだったので、この花が咳をするのは、コンスエロのことを書いてるんじゃないか、って言いますね。

 そうそう「咳払い」の民俗学的な意味もおもしろい。「おほんっ」という「咳払い」は、人というかなにかを「払う」んです。これには自分に寄ってくる邪悪なものを払うって言う意味があるんですよね。

 だから、何か「おほんっ」とかってやるだけでも、自分に都合の悪いものを咳でもって払いのけるっていう意味がある。これは誰だったか民俗学者が書いた本の中で書いてありましたね。

 風邪の咳じゃなかったら、単なる咳の嘘みたいですけど、実は「咳」を単なる医学的な原因で起こる身体の症状だと思うほうが馬鹿なんです。人間は文化の中で生きてるから、咳をするときには咳をする理由が別にあるときもあるんです。

 浜田先生がいつもよく言ってましたけど原因じゃなくて理由を考えなければいけない。咳をするときは上気道炎が原因になっているんですけど、そうじゃなくて「さようならを二度も言われてしまったときに咳をする」っていうのは、花に理由があるわけです。この本はその理由を考えてくださいって言ってるわけです。

 はい。次行きましょうか。

反省と謝罪と「幸せになってね」


F: 

「わたくしって、おばかさんだったわね」と、とうとう花は王子さまに言いました。「ごめんなさいね、幸せにおなりなさいな」
 花が非難がましい言葉はなに一つ口にしないことに、王子さまは驚きました。ガラスの覆いを手に持ったまま、王子さまはすっかりどぎまぎしていました。なんで花はこんなにしとやかで、やさしいのだろう。王子さまは皆目見当がつきませんでした。

西川:
 「わたくしって、おばかさんだったわね」と、気位の高いわがままに書かれてたその花が、いきなり自分のことを「おばかさんだったわね」って反省の弁を述べる。謝って、そして「あなた幸せになってね」って言うわけです。反省して謝罪して「あなたは幸せになってね」と言ってる。

 これも三つの台詞ですけど、ちゃんときちんと考え尽くされてると思います。「幸せになってね!」じゃないですから。最初にそれを言ったら皮肉っぽくなってしまう。

 「わたくしって、おばかさんだったわね」も、これだけで終わったら、ちょっと違うでしょう。「ごめんなさいね」という謝罪があって初めて「おっ」て思うわけですから。

 こういう花の言葉に王子は驚いた。何で驚くかって言ったら王子は思い込みがあって、これの逆さまのことを思い込んでたからです驚くわけです。この逆さまのことばかりしか自分は聞いたことがなかったから。つまり、王子は、この花が傲慢で、勝気で、人に謝ることを知らず、自分のことしか考えないやつだと思ってたわけです。

 花は自分のことを決してばかとは思ってないし、この世の中で一番美しい、気高い存在だと思ってるはずだ。「ごめんなさい」なんて全然思ってない、自分に悪いところは一つもないと思っていると。

 少し前、ガラスの覆いを取りに行こうとしたところで、「私が生まれた星ではね」と言って咳してごまかしたりしたじゃないですか?あれでも謝らないわけです。自分が悪いと思ってても謝らない花なんですよ。自分に非があっても謝らない。だから王子は、このときも決して謝らないし、「幸せにおなりなさいな」なんて言う花じゃないと思ってたわけです。

 「自分の面倒を見てほしい」「お水はないの?」「風がひどいわ」「自分の世話だけをしてくれ」「自分を幸せにしてくれ」。全部、逆さまのことしか王子は聞いてなかったし、そういう性格だけの花だと思ってたわけでしょ?ところがそれが全部ひっくり返される。

 こんなにしとやかで、やさしい、まったく自分の思い込みとはまるで正反対の言葉に対して、王子は「さようなら」「もう二度と会わない」って言葉を二度も突きつけるわけです。花は一度目は返事をしない、二度目は苦しそうに咳をする。

 そして、とうとう思いを決したようにして花から出てきた言葉が、反省と謝罪と「あなたに幸せになってほしいのよ」っていう、王子に対する優しい気持ちだったっていうことです。それが王子には皆目見当がつかなかった。

「もうどうだっていいんだわ」


C:

 「そう、そうなのよ。わたくし、あなたを愛している」と花は王子さまに言いました。「そのことに、あなたはまるで気づいてくれなかった。それも、わたくし自身のせいだけど。そんなこと、もうどうだっていいんだわ。でも、あなたも、わたくしと同じくらいおばかさんだったのよ。幸せにおなりなさいな……。そのガラスの覆いは放っておいていいの。もう、わたくしには要らないわ」

西川:ここもフランス語が読めないんで何とも言えませんが。「そう、そうなのよ」って、どうなってるのかな。ちょっと待ってくださいね。「メ、ウィ、ジュテーム」(Mais, oui je t’aime)か。「メ、ウィ」(Mais oui)[*16]。どういう意味かな。

[*16] Mais,oui:Maisがouiを強調して、「もちろん」、「まさに」

 まあここで「幸せにおなりなさいな」っていうその前に、一番最後に伝えたい言葉「あなたを愛している」って花は言うんですけれど、その次の台詞が来る。「そのことに、あなたはまるで気づいてくれなかった」って。そりゃ気づきませんわ、って思うんですけど(笑)。

 「それも、わたくし自身のせいだけど」ときますから、自分のせいであることは花にも分かってるわけですよ。でもね、続く「そんなこと、もうどうだっていいんだわ」っていうこの台詞。これどう思います? 

 これは結構考えるべきところじゃないかなと思います。フランス語だとimportanceって単語が使われています。「重要ではない」「もうどうだっていい」っていうような。英語と同じです。発音は知りませんが。

 で、「別れがやって来たのは、私のあなたに対する気持ちをあなたが気づいてくれなかった、それは私がまあ悪いんやけど。でもそんなことは大事なことじゃない」…。いや、普通大事なことだと思いませんかね? 

 「もうどうだっていいんだわ」って書いてるから、やけくそに言ってるような感じもします。「でも、あなたも、わたくしと同じくらいおばかさんだったのよ」って続くと、ほんとにどうだっていいのかなあって気もしてきます。ここの「どうだっていい」「大切じゃない」っていうのはどういうことなんでしょうね?

C:たとえいまさら反省したとしても、もう自分と王子の関係性が変わらないっていうことなのかなあ。

西川:でもそれだったら「幸せにおなりなさいな」なんて言うのは、なんか変じゃないですか?「もうどうせ私たち、ほんとにだめだったのよ。何にもいいことなかったの」「あなたは気づかないし、私も気づかせることできなかったし、もうどうでもいいけど、まあもともと二人とも愛し合ってなかったんじゃない?」となってしまったら「幸せにおなりなさい」とはならない。だから「もうどうだっていいの」っていうのは、たぶんそうじゃないんですよ。

G:今までは逆に(王子のことが)大事だったけれど、王子さまのそういうの(星を出たいという気持ち)が出てきてから、今まで大事だったそれ(バラの王子を思う気持ち)は、もうなくなってしまった?

西川:
 いや、僕は、バラの気持ちはここではやっぱり正直だったんだと思います。「わたし、おばかさんだったわね」って反省して謝ってる。「幸せになりなさい」「あなたの幸せを願ってるわ」「そう、私あなたを愛しているの」と続けるわけです。あくまで「愛している」であって、「愛してたの」とはなっていない。過去形ではないんです。

 「そう、そうなのよ。わたくし、あなたを愛している」って現在形なんですよ。「愛してたけど、もう分かってもらえないし、分かってもらえなかったし、その原因は私にもあるしあなたにもあるし、もう終わったことだし、もうお別れでしょ」「だからどうでもいいわ」じゃないんです。たぶん。

B:たとえばですけど、「私があなたを好きだ」って、「あなたもそれに気づかずに、私と同じぐらいおばかさんだった。あなたも私のことが好きだった」として、何て言うか、あの、両思いが「重要じゃない」んだとしたら、「自分が好きやっていう気持ちがあればそれでよかった」っていう話ではないんでしょうか?違いますかね。「好き」の共有が重要じゃなかったっていう意味なのかなと。

西川:確かにどうなんだろうね…。でも、そうかもしれない。


愛について大切なこと


西川:
 ここの「どうだっていいんだわ」で、僕たちが知りたいことは、じゃあバラは何を望んでたのかっていうことですよね?そしてここに「あなたはまるで気づいてくれなかった」とある。

 「あなたはちゃんと分かってくれてたわね、私もちゃんと言ったし」っていうことが大事でもないんですよ。「もうどうだっていいんだわ」だったら、その逆さまが大事なことになりますよね。気づいていようと気づかないでいようと、私が悪かろうと私が悪くなかろうと、もうそんなことはどうでもいいんです。

 「あなたも、わたくしと同じくらいおばかさんだったのよ」ともいっている。だから、おばかさんだったことも、おばかさんでなかったとしても、どうでもいいわけです。分かります? 

 お互いがお互いの気持ちを素直に言葉にして、それでバラもあんな王子を誤解させるような、ちょっと意地悪なそういう言動を取らずに、お互いがお互いに優しい言葉と慎しみ深いそういう態度で、お互いを大切にしてる、「あなた愛してるわよ」っていう、ちゃんと懸命さとしとやかさと優しさで持って愛したとしても、それは花にとってはどうでもいいんです。

 その逆さまの、「あなたもばかやし、私もばかやったし、私の気持ちあなたは気づかなかったし」っていうことも、今さらどうでもいいわけです。

 じゃあ、大切なことは何だったのか?

C:それまでは花が、自分の気持ちを王子が気づいてくれることだったり、関係性を持つっていうか、関係性を大事にしようとしてたけど、この別れに気づいて、愛してるっていうことに気づいた時に、王子を大切にしたいっていうか、王子に与えたいっていうことになったのかなと。もし自分とここの星にいても幸せじゃないだろうと、王子が。だからその、私の気持ちとは関係なく王子を解放してあげたいというか、王子を大切にしてあげたいみたいな感じでしょうか。

西川:
 「あなたは私には向いてないわ。私といたら傷つくだけでしょ。私と離れて幸せになりなさい」って、まあそういうタイプの女いますよね、いっぱいいますけど(笑)。「あなたはあなたのままでいいのよ。さよなら」「幸せになってね」って。でも僕はそうじゃないと思うわけです。

 これは、愛するっていうことが、お互いがお互いの気持ちに気づいて、お互いがお互いを思いやって、優しくしとやかにするっていうことでもないと思うんです。

 「アデュー」って言われるまで、時にはもうなんか嘘もつくし、咳払いでごまかしたりもする。王子も困り果てたような顔をして、「こいつわがままやな、お前」と思ったり、ポーッとなったり。あれでいいんですよ。あれがよかったんです。

 それなのに、あなたは、私の振る舞いから何かを探ろうとした。「こんなこと言って、花は本当は僕のことをどう思ってるんだろう?」「いや僕も、花は素敵だって思ったけど、いや違うかもしれない。とんでもない花かもしれない」って疑い始める。

 「いや、そんなことないのよ、ほんとは。そう、あなたがちょっと思ってたかもしれないけれども、私はあなたを愛してる」っていう真実を言ったけど、「もうでもそんなことはどうでもいいの」って「確かめ合うことなんかどうでもいいの」ってなったわけですよ。

 「確かめ合うことなんかどうでもいいの」って。お互いが、訳も分からない間にお互いが惹かれて、それでぎくしゃくもしたけども、その時もとにかく疑いとか、「相手はこうに違いない」とかっていう思い込みにまで達しない。

 それでも、王子は一生懸命水を汲んできて、バラって花に覆いをかけてあげてっていう、そういうことがあったじゃないですか。それが大事やったんですよ。だから気づかなくっても、してくれてたことが大事なんです。

 でも、王子はそこでは我慢できなくなるわけですね。そのことが以前に出てましたね。それを分かってないと、次が読めない。53ページのところ。

ある日、王子さまはぼくに本音を言いました。「花の言うことなんか聞いちゃいけないんだ。花は姿をながめて、匂いをかぐのがいいんだよ。ぼくの花はぼくの星を、かぐわしい匂いでいっぱいにしてくれた。でも、ぼくはそれをどうやって楽しんだらいいか分からなかった。あのトラの爪の話だって、ぼくはひどくいらいらしてしまったけれども、ほんとうは、かわいそうだと思わなければいけなかったんだ……」
 王子さまはぼくに、さらにこんな打ち明け話をしてくれました。
 「あのころ、ぼくはなにも分からなかったんだよ。花がぼくになにを言ったか、ではなくて、花がぼくになにをしてくれたか。それを考えて、花が大切かどうか、決めなければいけなかったんだ。花はぼくをかぐわしい匂いで包んでくれた。ぼくを明るく照らしてくれた。ぼくは逃げ出してはいけなかったんだ。」

 「花の言うことなんか聞いちゃいけないんだ」っていうことの背後にあるのは、花の気持ちがどんなんであるのかっていうことを考えることは大切じゃないということです。

 花の匂い、花の美しさ、で自分がまあ心惹かれて、で彼女のために何かしてあげたいってしてた、そのことだけが大事なんです。

 「花が僕のことを愛してくれる。だから僕も花を大切にしなきゃいけない」だとかじゃないんです。花が何かごまかしたり嘘ついたりするってことも、「ん?」とは思ってしまうのは「それはきっと花は意地悪だからに違いない」だとか、「花はごまかしてる、嘘つきだ」とかって自分で判断をいろいろしているからです。

 言葉を聞いたから、その言葉から花に近づいて行こうとしてる。でも、「そんなことじゃなかったんだ」「花の言うことなんか聞いちゃだめだったんだ」と本音をいっているわけです。

言葉なんかどうだっていい


西川:
 サン=テグジュペリは行動主義的な作家だと言われます。これだけものすごい文学する人ですが、要はね、実践っていうか行為、それを何よりも大切にしている作家なんです。

 言葉なんかどうでもいいんです。でもわれわれはついつい、言葉から相手の心だとか真意だとかをたぐりよせようとする。そうすると相手のことを気づかなかったりだとか、言葉に惑わされて誤解してしまったりだとかが起こる。

 たとえそれが「愛してるよ」「私もよ」という言葉どうしで愛したとしても、それを言ってるだけじゃ愛にならない。「彼女のために」って、花のためにその覆いを持ってくる、お水を汲んでくる。それで「えっ?」と思うようなことでも、彼女が言ったからやってみる。それこそが大事なんだっていうことですよ。

 この53ページに書いてあるのは「ある日、王子さまはぼくに本音を言いました」だから、これはもう地球に帰ってからの話です。ここは、もう花の星に戻ろうと思ってた頃に、やっと王子がたどり着いた結論なんですよ。

 だから、王子さまより先にバラは分かってることになります。「もうそんなことはどうだっていいの」って。そんな言葉でためし合うようなことっていうか、言葉で確認が取れなかったこと、もし取れたとしても取れなかったとしてもそんなことはどうだっていい、大切なことじゃないんだっていうことですね。

「もう、わたくしには要らないわ」
 「でも風が……」
 「わたくし、大した風邪をひいているわけじゃないの……。夜風はきっと体にいいわ。わたくしは花ですもの」

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 ここも、なぜ「もうわたくしには要らないわ」と言ってるのか? まだ王子はばかだから、「でも風が…」とかって言ってますすけど。

 「風が冷たいから覆いをしてちょうだい」って、言葉ではそう言いました。風は消えてるわけじゃない。だから「もう要らないわ」っていうのは、「風がやんだから要らないわ」じゃないですよ。

 なぜもう要らないのか?それは、<あなたがさよならするからよ。もうガラスの覆いをかけてくれるのがあなたじゃないから>です。ガラスの覆いそのものには何の価値もないんです。

 ガラスの覆いを花のために王子が持ってきてくれた。そのことが大事なんです。でも「さよなら」って、「もう出ていく」って言われたら、「もうそのガラスの覆いは私には何の値打ちもないのよ」って、「放っといて」っていうことになるわけですね。

 これも、いわゆる言葉で説明するんじゃなくて、あなたの行為がそのガラスの覆いの意味なんだって言っているわけです。あなたが持ってきて私に被せてくれるっていうことが意味なんだって。

 でもこの王子はまだ分かってない。「でも風が…」とかって言ってるんですから。で、「わたくし、大した風邪をひいているわけじゃないの…」とか、相手に合わせてしゃべってるんです。「夜風はきっと体にいいわ。わたくしは花ですもの」とかね。

次行きましょうか(笑)。

美しいらしいわね

B: 

 「だけど、虫や動物たちが来るでしょ……」
 「毛虫の二匹や三匹はがまんしなくちゃね、チョウチョウと仲よくするには。とても美しいらしいわね、チョウチョウって。チョウチョウと仲よくしなかったら、いったいだれがわたくしを訪ねてきてくれるの? あなたはもう遠くへ行ってしまっているし。体の大きな動物だって、わたくし、怖くはないわ。わたくしにも爪があるもの」
 そう言いながら、自分の四つのトゲを花は無邪気に見せました。そして、言い添えました。

西川:
 ここはなんかね、読んだらグッときます。王子は、ほんとにまだ分かってない。「だけど、虫や動物が来るでしょ…」って言ってますから。

 これまで、花は「夜風にも我慢できないのよ、私」ってぐらい、か弱さを出す一方で「私、トラなんか怖くありませんわ」「私、草じゃありませんよ」とか言って自負心みたいなものを見せてきました。

 でも、ここで、「チョウチョウと仲よくするには。とても美しいらしいわね」って言ってます。つまり正直に「知らない」って言ってるわけです。今までの花だったら考えられないことです。

 これまでなら「私が生まれた星ではチョウチョウに囲まれてましたのよ」とか言いそうですよね。でもここではそんなこと言わない。素直に「とっても美しいらしいわね、知らないけれど」と告白しているわけです。

 「美しいわ」っていっても、チョウチョウも毛虫のなれのはてなんです。でも、今度出会うとしたら「チョウチョウしかいないはずだ」と、今度は素直に「私は花だから」って認めてるわけです。

 「大きな動物だって怖くありませんことよ」とも言ってます。でも「私は花です」だから「私に寄ってくるのは、本来はチョウチョウしかいない」ことが理由になってます。だって花に寄ってくるのはチョウチョウしかいないんですから。

 チョウチョウも美しいらしいけど、でもそれは最初は毛虫なんです。だから「その毛虫我慢しないで、誰がいったい私のところに来てくれるの?」って続けています。これは「あなたみたいな人はもういないのよ」ってことですよ。

 だから「毛虫を我慢するわ」っていうこととかよりも、「いったい誰がわたくしを訪ねて来てくれるの?」ってことです。本来自分は花としてそのチョウチョウの訪れを、毛虫を我慢しながら待つしかない、弱い存在だっていうことです。

 花は根があるから、自分で動くわけにはいかないんです。誰かが来るのを待つしかない。でもその、誰が来てくれるっていったら、「チョウチョウしか来ないでしょ」と。「トラは草なんか食べないよ」って言うわけです。

 要するに「もうこの星には、花をきれいだなって思ってくれるような人はあなたしかいなかったのに、そのあなたがいなくなるのよ」と伝えているわけです。

 あとは、蜜を吸い、花粉を採るチョウチョウだけが、必要があるから来てくれるだけで、その時にそのチョウチョウは訪ねて来てくれるっていうよりも、まあ来るしかないわけですもんね。「それしかない」みたいに、花は自分のことを非常に、ちゃんと分かってるわけです。

 でもこうやってね、どんどんどんどんこう、「誰が来てくれる? 誰も来てくれないわ、私は単なる花ですもの」っていうふうに、どんどんどんどんいくんじゃなくって、ぱーんとまた変わるわけです。

 「体の大きな動物だって、わたくし、怖くはないわ」「わたくしにも爪があるもの」みたいな感じで、負け惜しみじゃないですけど、やっぱりもう一度、「別にそんなにへこんで倒れてないわよ」っていうところをみせる。これも単なる自負心がそうしているのかどうなのかは分からないですけど。

はい、次行きましょうか。

賢い花とわからなかった王子


H:

 「そんなにいつまでもぐずぐずしていないでよ。いらいらするわ。出ていくって、あなたは自分で決めたの。もう、行きなさい」
 花は、自分が泣くところを王子さまに見られたくはなかったのです。それほどまでにプライドの高い花でした……。

西川:
 「さみしいわ」「つらいわ」「どうして私を捨てていくの?」とかの恨みがましいっていうか非難がましいことは一切言わなかったけど、「あなたがいなくなって、もうチョウチョウしか来てくれない自分」「だからそのためには毛虫だって我慢しなきゃいけないし」とか、そういうつらいことばかりしゃべってたら、非難がましくなっちゃうじゃないですか。「あなたが出ていくことで、そういうふうになんのよ」みたいに。

 だからそこは言わないわけです。王子から「アデュー」って言われているのに、「そんなにいつまでもぐずぐずしていないでよ」って言うわけです。本当は花がずっといろいろしゃべってるから、いたわけですけど。「アデュー」に「アデュー」って返したら、スッともう王子は泣きながら出て行ったかもしれない。でも花は花として、やっぱりどうしても「私はあなたを愛してる」って言いたかったんでしょうか。

 「出ていくって、あなたは自分で決めたの。もう、行きなさい」「あなたは自分で決めたの」っていうのは、「もう、行きなさい」って命令してるわけですよ。ここらへんが微妙なところで、花を捨てたっていうふうに思わせないっていうかね。

 「僕がすがる花を、悲しそうな花を捨てて来た」と思わせないで、「もう、行きなさい」って私が背中を押したっていうふうにする。ここはそういうことなのかもしれません。でもここには、「花は、自分が泣くところを王子さまに見られたくはなかったのです。それほどまでにプライドの高い花でした……」書いてあります、まあ、これはサン=テグジュペリの考え方です(笑)。

 僕はこういう花の振る舞いは、もっと深いし、プライドではない。王子は別れのつらさの意味が全然分かってないわけですから。「もうそんなのどうだっていい」っていうところがね。

 今日もいろいろ議論したけど、「そんなこと、もうどうだっていいんだわ」っていうのが謎だったでしょう?王子にも謎だった。だから「でも風が」とか「でも動物や牛が」とか言ってしまったわけです。だから、いくらもう言っても分かんない。分かんない人でも幸せになってほしいし、彼も気づくかもしれないからっていうことで背中を押して、私が「出ていけ」って言うかたちをとってあげる。まあそれを言うっていうのがね、「すごいなあ」と思います。

 だからこれはやっぱりそういうふうにじっくり読んでいかないと、なぜ花のところに戻らなければいけないのかが分からない。「王子がモラハラで自殺に追い込まれた」みたいなこと書いてるアホがいますけど、でもこれは結局「花は、ほんとに自分勝手で、プライドだけ高くって」っていうふうに読んでるからですよ。

 それだと、王子はその女に振り回されて、自分のとこ飛び出してしまった哀れな人になってしまいますけど、分かってないのは王子なんです。王子が分かってない。全然分かってない。

 花はこの時点で分かってたんです。王子は違います。王子は1年経ってからようやく53ページにあるぐらいの後知恵を身につけるんですよ。うん。「あのころ、ぼくはなにも分からなかったんだよ」って。

 何が分かったらよかったのかが、その後に書いてあります。「花がぼくになにを言ったか、ではなくて、花がぼくになにをしてくれたか。それを考えて、花が大切かどうか、決めなければいけなかったんだ」。でもここでもまだ「愛する」だとかじゃなくて「花が大切かどうか」ってなってるんですよね。

 まあ、もっとも後ろのほうでは「どうやって花を愛してあげたらいいか」ともなってるんで、うーん、だからここは、日本語の翻訳の問題かもしれないですけど。うん、もう少しじっくりと読む必要があります。

 ともかく、こういう王子が、これから先、惑星めぐりをして地球に来て、まあ五千本のバラと会ったりだとか、キツネと会ったりだとか、パイロットと会って、でまた決意を決めてっていうふうにして、少しずつ変わっていくわけです。その変わった姿がこの53ページとかにあるんですよ。

 だからここに、どうやってこれから王子が変わっていくのか、それは何が変わるのかっていうところを、もうちょっとじっくりと読んでみたらどうかなと思います。やっぱり大抵ね、どの本を読んでもその、花について、「いや、花のほうが賢いんだ」っていうようなことを書いてる本にはお目にかかったことがない。

 「花は確かに魅力的だったかもしれないけど、わがままだ。それで王子は心傷ついてしまった」っていうのが大半です。まあ愛情っていうものを、振る舞いではなくて、言葉っていうか、やりとりだとか相手の気持ちみたいなものに呈してしまえば、人ってやっぱり傷つけ合わざるをえないみたいに思います。自分を振り返ってみてもそう思います。

おわりに


西川:はい、ではこんなもんでいったん終わりです。あとはまあみなさん感想を聞きましょうか。

J:僕、途中から入ったんですけど。先生が丁寧に言ってくれたので王子の気持ちも分かったし、花の気持ちも分かったし、何て言うか、前の…、なんか、誰にでも思い当たるような男女のもつれというか、恋愛を連想させるような内容で、「ああ、こういうことあったな」っていうのをなんか思い出されるような内容でした。

西川:ねえ、ありますよね。

J:みんな、あのなんか、すごい深刻に考えるけど、まあどんなに好きやいうても別れることはあるよねっていう(笑)。簡単に考えたら、オチつけたら、僕なりにつけたら、そうなのかなって思いました。はい。

西川:Iさん、どうですか?

I:
 そうですね。途中からで僕もすみません。えーと、ここで一番はっきりこう王子さまに、花は「あなたが好きよ」って言ってて。まあこれ英語版ですけど、「アイ ラブ ユー」(I love you)って言ってるとこなんですけど、王子さまが花に「アイ ラブ ユー」って言ってるってことありましたっけね? ないですよね、たぶんね。

 これは、そう思ったら、うん、結構なんかそれは大事なことなのかもしれないって。花もなんか結構遠回しなことをずっと言ってたりとか、気位の高いことを言ってるところで、確かにここだけ唯一「アイ ラブ ユー」とか言っててなんか、花のこと…いやチョウチョウのこともなんか知ったかぶりしないで、なんか「きれいらしいね」みたいなことを言ったりだとかして。確かにここちょっとなんか、なんかちょっとデレてるところですよね。

J:デレてる。

I:まあ今までのね、態度が軟化してるというのかな。そこ、うん、花もやっぱり短い登場シーンの中で確かにちゃんと変化があって、で王子さまもこうね、あとからこう変化をして、ね。、

西川:でもこの時点では王子は全然分かってないんですよ。

I:そうそう、ここは分かってなくて、あとで分かって、だんだん分かってきて。

西川:そう全然分かってない。一年かかってます。

I:この部分がずーっと他の部分の背景にありますよね。これ時間がこう軸がぶれてるから、一番初めはね、このあとの王子さまになってますけど。でそのあともなんかよく分からないけど、なんか花の話をちょっとずつしてて。で、やっとこれ、ここのこと詳しく話してくれてるところで。このあともやっぱりそれが、悟った王子さまがどうなるかみたいな構造になっていて。やっぱりこの部分ってこの話の全体が背景になってて。

西川:このあたりになってくると、自分の人生と重ねざるをえないでしょう。王子とは関係なく「いやそういえば、うーん」みたいな感じに。でもそういうふうに読めるのは、大人なんだよ。まだ子どもはそうは読めない。

I:なんか本の構成がよくできてるなあ、みたいなことばっか頭がいって。この部分が全体に、全部効いてるんですよね。

西川:(笑) まだ幸せな時代なんだよ。

J:はっきり言うてくれて、はっきりつながったら何でもいいんでしょうけど、まあ物語なんで、演出してかっこつけて書いてるんですけど。別に物語じゃなくても普通の日常でも、なんぼ言うても分かってくれない人もおるし(笑)。言おう思たけどどっかでプライドで突っかかって言えないっていうのは、まあよくあることで。

西川:
 今サン=テグジュペリの他の『城塞』だとか読んでます。それから今、僕、一生懸命聖書も読んでるんです。「読まないと分かんない」って稲垣さんが書いてましたけど、「ほんとだよな、分かんないなあ」と思いながら(笑)。まあ読んだからって聖書で解説できるわけじゃないですけど、見え方がやっぱり全然違ってきますね。

 さっきのようにメタファーとかアレゴリーとかも、新約聖書そのものがそうなってます。イエスは譬え話しかしゃべらない。説明しない。必ず譬え話なところとかまさにね。新約っていうか、その影響はほんとに全面を覆ってますね。

 ヨーロッパの読者っていうか、聖書に親しんだ人にとってはこの『星の王子さま』は、その関連を抜きにしては読めないでしょう。

 ちなみに僕はあの、本田哲郎神父の『小さくされた人々のための福音』[*17]っていうやつを読んでるから、ちょっと普通の新約とは違うんですけど。あれが初めて続けて読める。

[*17] 『小さくされた人々のための福音-四福音書および使徒言行録』:本田哲郎訳、新世社、2001年出版


G:何が普通のと違うんですか?

西川:新共同訳っていうのか、カトリックとプロテスタントが一緒になって訳した聖書があるんです。そうじゃなくて、釜ヶ崎で活動してる本田哲郎神父っていう方がいるんです。その人、フランシスコ会の聖書学者なんですけど全然違った訳をするんです。「神の国は近づいた、悔い改めよ」を「低みに立って見直せ」とかって訳してます。

B:読みやすい?

西川:読みやすいだけじゃなくて、全然意味が違ってきますね。まあまあ、それはまたいつかどこかで。

L:
 みなさん、座ってください。長見さんも。
 
 花束です。
 
 西川先生、今日お誕生日やったんちゃいます? 

西川:はい。

D:生まれたの午前中ですか? 夜ですか?

西川:
 昼らしいですけどね。

 そうそう、占星術っていうか、西洋に「人は星からやって来て、星に帰るんだ」っていう考え方って結構あるんですよ。占星術ってそういうのがないと、「あの星のもとに自分が生まれてきた」という考えね。

 この王子だって自分の星がちょうど真上に来るっていう、自分が地球にやってきた時ちょうど一年経った、だから同じ星空の時に帰るわけでしょ? その日でないとだめなんですよ、地球に来た日でないと帰れない。

 こういう設定も単純に天文学とか云々だけじゃなくって、西洋の古い考え方で言えば、「人っていうのは星からやって来て、それで星になるんだ」っていうところがあります。「お星様になったあの人」とかって言うじゃないですか。 

 日本には普通そういう考え方ないんですよ。どちらかと言うと黄泉の国とかね、「海の果てに」とかって、まあ天国地獄みたいなこともありますけど、もともとはそんな「星になる」なんて考え方全然ないんです。

 信仰とまで言えないんですけど、そういう世界観を持っているヨーロッパの世界の話だっていうふうに読むと、またそれはそれでね、ちょっと違う。だからまあ同じようには読めないですよ。フランス人のようにはね(笑)。

 僕たちの体は、全部その、何やったっけ、白色矮星[*18]が爆発した時に出てくる様々な元素っていうものだっていうのがありますよね。天文学者の佐治晴夫[*19]が、自分たちの体を構成してる元素っていうものを星の中に見つけるみたいな話あるじゃないですか。ね。あんなのも考えてみるとおもしろい。

B:『パワーズ・オブ・テン』[*20]っていう映画で、なんかこう、画面が最初ぐーっと近づいたところからずーっと引いていく。引いていって宇宙まで出て、最終的にはなんかその細胞にまで戻っていくんですけど、なんかそういう感覚っていうんですかね。結局そのちっちゃいのと、ミクロと、マクロが繫がっていくみたいな。

[*18] 白色矮星:white dwarf、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つ。質量は太陽と同程度から数分の1程度と大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小しており、非常に高密度の天体である。
[*19] 佐治晴夫:さじ はるお、1935年東京生まれ、理学博士、宇宙物理学者。東京大学物性研究所、NASA客員研究員などを経て、鈴鹿短期大学学長を歴任、現在同大学名誉学長、大阪音楽大学大学院客員教授。北海道・美瑛町の丘のまち・美宙(MISORA)天文台台長。
[*20] 『パワーズ・オブ・テン』:“POWERS OF TEN”、1968年に作られた短編科学映画、および書籍の名前。家具デザインで有名なチャールズ・イームズとその妻、レイによって脚本が書かれ監督された。Powerとは「力」のことではなく「べき乗」という意味で、POWERS OF TEN は「10のべき」。

西川:そうそう。いろんな自分が今までに持ってる様々な知識っていうか本読んだりとか経験とか考えたことあるじゃないですか。そういうものと、この『星の王子さま』の文学的な表現、絵画的な表現でこう自分がくすぐられた部分を、どうにかやって埋めていきながら読むっていうのが、僕はこういう本の読み方やと思う。

B:ふーん。そういう読み方をしなあかんと思ったら、なんかすごいめっちゃ混乱してしまって。今までの読み方じゃない読み方って何やろ? みたいな、そういう読み方をしたことがないから。

西川:自分がちゃんと理解しようと思ったって、そんな『星の王子さま』っていう本読んだ分しか豊かにならないよ。これを入り口にして、どこまでいけるか。

B:なんか謎かけみたいなこと、言われてしまった(笑)。

西川:そうやって思うとすごい、なかなかね、それを許してくれる読書体験ってないんですよ。これ哲学書じゃないもんね。哲学書だと、なんかそれなりにガツガツと理解しなくちゃ前に進めないんだけど。『星の王子さま』はなんか分かったところで仕方がないところがあるからね。

(第10回終了)

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