おひさま春

なぜ学校を創るの?②

第一部☟を読んでくださった方々、ありがとうございます。

第二部は、育休時代に初めて出逢った「オルタナティブスクール」のこと、現場に復帰してから、二度退職届を出したことなど、これまた盛りだくさんな内容になりそうですが……最後までお付き合いしてもらえると嬉しいです。

ななえ、母になる。

「働きたーい!」と後ろ髪引かれながらの産休・育休生活が始まった。今までたくさんの子どもたちと関わってきた私は、完全に出産と育児をなめていた(笑)。世のお母さんたち、ごめんなさい。産んでみて初めて、こんなにも出産も育児も大変なのか…とカルチャーショックだらけだった。とにかく、「生きるのに必死」の毎日だった。必死だけど、もちろん幸せな毎日。わが子がこんなにも可愛いものだということも自分の中で大きな発見だった。

二歳半差で次男も産まれ、次男が生後4カ月の時に夫の転勤で、豊後大野市に移住した。縁もゆかりもなく、知り合いも全くいなかった豊後大野市。その中での三歳前の長男と生後4カ月の次男の育児は大変で、二人を連れてとにかく毎日子育て支援センター(子どもルーム)をまわっていた。そこでの先生たちがとにかく優しくて…いつもわが子のように息子たちの面倒を見てくれたことに心からほっとしていた。「待機児童で長男を保育園に預けられない。」と先生に相談すると、「秋篠さんは、”おひさまのたまご”が合いそうだね!連絡とってみたら?」と勧められた。

”おひさまのたまご”との出会い。

「おひさまのたまご」ってなんだ?話を聞くと、どうやら無認可の保育園。山の中にあるとのことで、ネットで探しても何一つ情報がない(笑)。やっとこさ、数年前に誰かが書いたブログにヒットして、電話番号をゲット!すぐにかけてみると、優しそうな容子さんの声に安心した。さっそく次の日に見学に行き、まず園舎に一目ぼれ。「なんだここはーーー!!ジブリの世界かーーー!!」と大興奮(笑)。先生の容子さんもとっても優しくて、すぐに長男を通わせることに決めた。

おひさまのたまごについて書こうとすると、それだけで一つ記事が書けそうなので、ここでは泣く泣く割愛する…。あ、でも、これだけは書いておきたい!!おひさまのたまごには、「子どもたちの育ちを守る」という理念がある。それは、「大人が子どもたちの育ちを邪魔しない」という意味でもある。子どもたちは、生まれながらにして自ら育つ力をもっている。だから、それを大人の狭い価値観で縛ったり、可能性を狭めたりしてはいけない。子どもたちがそのまんま伸びるように、大人ができることは、その環境を整えることだけなのかもしれない。そんな考えに出逢ったのも容子さんや、おひさまのたまごに関わるユニークな大人たちとのおかげだ。「子どもは大人が教え導くもの」という考えとは、真逆の考え。ここで気づかされた価値観が今の学校づくりに繋がっている。

容子さんは、子どもたちが今、夢中になっていることにとことんできる環境をつくるため、保育園にほとんど行事をつくっていない。運動会はもちろん、発表会も一つもない。唯一あるのは、子どもたちが人形劇をするクリスマス会だった。はじめはそれが不思議で、少し残念でもあった。わが子が運動会で活躍する姿や発表会で何かを披露してくれるものだと思っていたからだ。でも、よくよく考えると、それは大人のエゴだったのかもしれない。もし、おひさまのたまごにたくさんの行事があったら、子どもたちは「あー今、泥だんごがいい感じで固まってきた…!!」とか「どうしても、あの虫を今、つかまえたい…!!」とか「今は走るよりも絵本を読みたい気分だわ。」とかとか、そんな「今めっちゃやりたいこと」に蓋をして、発表会や運動会の練習に励むのかもしれない。ゆったりとした時間の流れの中で、自然に触れながらすくすくと大きくなっていくわが子を見ながら、「自分も子どもに戻って、ここに通いたい」と心から羨ましく思うのであった。

バセドウ病で突然倒れる。入院。

元気印で、ほとんど風邪もひかない私。病院に行く習慣が全くなかった。次男を産んだ後から、なんか身体はきつかったし、どんどん体重が減っていた。動悸も激しかったし、おなかの調子もおかしかった。でも、全部「産後だから」「男の子ふたり育児だから」「30代になったから」ということで、無意識に自分を納得させ、まったく病院に行こうという発想にならなかった。夏になり、竹田の河川プールで一日中泳ぎ、スライダーも滑りまくった日の夜。急に9度6分の高熱が出た。「熱中症かな?」と思って様子を見ようと思うけど、動悸が激しすぎて眠れない。「なにかおかしい。」そう感じた私は、夜遅くに近くの病院に連れて行ってもらった。夜中の市民病院。先生がすぐに救急車を呼んで、私は訳も分からないまま救急車で県病に運ばれた。「このまま死ぬのかな…」初めて乗る救急車の中で、涙があふれてきた。上の子は3歳、下の子はまだ生後8カ月だった。

甲状腺の数値が高すぎて、一時は命が危ないかもしれないと言われていた。一夜明けて、数値が落ち着いてきた私に看護師さんが「よくこんな状態で二人の子どもをみてたね。きつかったでしょう?」と優しく声をかけてくれた。その言葉で「あぁ、無意識に頑張っていたんだなぁ。」と気づいた。生後8カ月で断乳しないといけないことが本当につらかったけど、命が助かったことに感謝した。食欲も戻り、日に日に元気が出てきて一般病棟に移り、同じ部屋のおばちゃんたちとめちゃくちゃ仲良くなった。3日後には子どもたちとの面会もできるようになり、一週間後には無事に退院することができた。家でてんやわんやで子どもたちを見てくれた父と母、夫に感謝の気持ちでいっぱいだった。退院のときには、「人間はいつどうなるか本当にわからない。自分がこの人生で本当にしたいことってなんだろう。」ぼんやりと、そんな風に思っていた。

「学校をつくらない?」

退院して徐々に元気になり、おひさまのたまごにも子どもを通わせるようになってきた。ある日、保育園が終わってブランコで子どもたちを遊ばせていた時のこと。一緒にいたお母さん友だちが不意に「ねぇ、ここで学校つくってくれない?」と言った。「…え?学校をつくるって???学校ってつくれるんですか?」と驚く私に、そのお母さんは「全国には、公立以外の色んな形の学校があること」「おひさまのたまごを卒園した子で、不登校になる子がいて、前からみんなで理想の学校を創りたいねと話していたこと」を教えてくれた。「いや~学校つくるなんて私には無理です!そもそも、そんな器じゃないし、いきなり校長先生なんて絶対むりです~(笑)」と笑っていた私。でも、なんだか気になって、そのあと家に帰ってからネットで全国のフリースクールを調べていた。そのとき、初めて「オルタナティブスクール」という言葉を知った。

半年間、オルタナティブスクールを巡る。

自分がこうしたいと思ったら、すぐにでも行動しないと気が済まない性格の私。じいじばあば、夫に子どもたちを見てもらい、東京、大阪、北九州、鹿児島のオルタナティブスクールを見学しに行った。学校見学を受け付けているのは、基本的に平日が多い。半年後に学校復帰を考えていた私は、行けるところはとにかく全部行こうと思っていた。半年間で行けた学校は、全部で5つ。大阪の「箕面子どもの森学園」、鹿児島のどんぐり自然学校、北九州の「北九州きのくに子どもの村学園」(ここだけは私立)、東京の「東京サドベリースクール」「自主学校~遊~」だった。オルタナティブスクールと一言で言っても、運営方法は様々で、NPO法人のところもあれば、一般財団法人もあり、学費が自己申告制という学校もあった。どの学校も私にとって、目からうろこ!で、驚きの連続だった。プロジェクトという体験型の学習をメインにしている学校、教科書を使わずに絵を描きながら学ぶシュタイナー教育、そもそもカリキュラムも授業も先生もいない学校…。知れば知るほど奥深く、おもしろい。そして、同じシュタイナー教育の学校でも、学校ができるまでの物語やそこにいるスタッフの個性、学校のある地域によって全然違う学校になっていた。

教育理念も教育方法も違う5つの学校。でも、ただ一つ共通点があった。それは、「子どもたちがとても生き生きと学んでいること」だった。子どもたちは、自分で自分の学びたいことを選ぶことができていた。ある学校では、本が好きな子は一日中本を読んでいた。料理が好きな子は、料理を極めていた。ピアノが好きな子、運動が好きな子、木工が好きな子、魚釣りが好きな子…。子どもたちが自分の「好きなこと」に没頭する時間がそこにはあった。そして、「好きなことから学びが始まっていた」のだ。学ばなきゃいけないから学ぶのではない。学びたいから学ぶんだ。ベクトルは、それが自然だ。こんな学校をつくったら、子どもたちも楽しく学べるのではないか。そんな小さな小さな夢が、私の中に生まれた。

……予定では、退職まで書くつもりでしたが…(笑)長くなったので、一旦ここで終わります!!(どんだけ)

最後まで読んでくださった方々ありがとうございました♡

《第二部 完》

第三部へと続く…。

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