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北沢志保という神話とアイマスの語らい

注意:ネタバレというほどではないが、触れている作品
・『オペラセリア・煌輝座』(ドラマCD)
・『アイドルマスター ミリオンライブ! Blooming Clover 2』(漫画)
・『ミリシタ メインコミュ78話(絵本)』(ゲーム内コミュ)
・『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』(映画)
・『シャニマス 【鱗・鱗・謹・賀】幽谷霧子』(ゲーム内コミュ)

※特に注釈がなければ画像は下記©になります。
ゲーム「アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ(ミリシタ)」
©窪岡俊之 ©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.


2年と半年ほど前からアイドルマスターというコンテンツにお世話になっている。情動的に惹きつけられるキャラクターというのは何人かいるのだけど、中でも好きだけど嫌い、嫌いだけど好きというアンビヴァレントな感情で気になってしまうアイドルがいる。なぜ彼女に惹きつけられるのだろうか。

北沢志保

ミリシタのゲームを始めた時、一人だけ明らかに出るゲームを間違えたのでは?と思えるほど空気感の違うアイドルがいた。それが「北沢志保」というアイドルだった。

シルエットは女性らしいロングのフレア。私服はオフホワイトを基調としたモノクロのボーダーというシンプルかつ最小限の柄で、一見落ち着いた大人の印象を受けるが、対峙するとその印象は一蹴される。
肌にピリピリと感じる、獲物を狩る猛禽類のような鋭い眼光と態度。気を張り合わないと負けてしまいそうな空気感。一匹狼という言葉が似合う。

しかしながら、しばらく追ってみると、どこか中学生らしい余裕のなさ、幼さも伝わってくる。
志保の家庭は母子家庭で、下に弟がいる。彼女にとって「私が所属している全体」は家族であって、家族を支えるため、”私が”一人前にならなければならない。そんな必死さが彼女の行動原理になっている。

「私がやらなければいけない」「私がやらなければ誰がやる」
このような強迫的な感覚を強く背負うことになる女性は多くない。志保は明らかに男性の方に多いタイプの心的傾向をもった女性だった。


強迫神経気質とヒステリー気質

「一は全、全は一」という言葉がある。
私たちは私自身を「個人としての自分」という捉え方もできれば、「ある全体の中での自分」(例えば、人類の一員として自分、ある組織の中での自分など)という視点からも捉えることができる。どちらの視点での考え方が強いか、またどのような全体を想定しているかが個人ごとに異なる。

ラカン派精神分析入門 第八章 神経症

この気質をそれぞれ
・「強迫神経気質」(個人としての自分)
・「ヒステリー気質」(ある全体の中での自分)
と呼ぶ。
※「ヒステリー」という言葉は日常では「ヒステリックな」「発狂的」という意味合いで使われているが、「ヒステリー気質」はあくまで専門的な病名由来のため、そのような意味合いはない。ここでは全体の中の部分として自己を見出す傾向、ぐらいの意味で良い。

この図式で世の中を見てみると、
・男性に「強迫神経気質」(個人としての自分)の傾向が強い人が多く、
・女性には「ヒステリー気質」(ある全体の中での自分)の傾向が強い人が多い。
※あくまで”多い”だけであり、男性的・女性的という意味はない。
※備考1

「ヒステリー気質」の実体として、例えば水商売関連の金言になるが「男は女を手に入れるために金を払い、女は自分の男を立てるために金を払う」という言葉がある。この場合、女性は「ある男と自分」で全体を作っている。
また「ヒステリー気質」の極致としては、デレマスの藤原肇さんは『あらかねの器』という作品において「自然という全体」の中に自己を見出している。(世界合一体験。ラカンの「<その他>の享楽」と言ってよいだろう。)
彼女はなぜ歌うのかと問われれば、山や川が歌うからと答えるだろう。


逆に「強迫神経気質」(個人としての自分)が強い例としては、福沢諭吉『学問のすすめ』、アニメの『スクライド』などが挙げられる。
『学問のすすめ』は当時のエリート層に向けた本であり(当時は学生という身分自体がもはやエリート)、海外に脅かされる時代背景の中で「誰がこの国を背負うのか、導くのか(お前だろ)」と叱咤激励している。一度立ち読みしてみると雰囲気はよくわかると思う。

志保は、家族という「全体の中の一員」であるという傾向も持ちつつも、「私がやらなければ誰がやる」という「強迫神経気質」がとても強く、男性に多いタイプの心的傾向にあると言える。
女性でこの「強迫神経気質」を強く持つ方はあまり多くないが、似た傾向を持つ女性の夢分析の記録がある。その夢によると彼女らの自己像は「花であると同時に武士である」。
なんと志保らしいのだろう。

では、なぜ志保は典型的な女性に多いタイプではなく、男性に多いタイプになったのだろうか。それは志保の児童期の体験で説明される。


志保の過去 ――エディパルな構造

志保の過去は漫画を参考にする。別バージョンはあるかもしれないが、大きく構造は変わらないだろう。

お父さんっ子だった志保は8歳まで円満な家庭生活を送っており、志保自身の言葉によると「守られるだけだった小さなつぼみのような」私であった。

しかし父親が蒸発し、家庭環境が一変する。
母は仕事を始めて家にいなくなり、弟は保育園に入る。一家団欒の場は消え去り、志保は家事や弟の世話を積極的に自分で行うようになる。
弟の手を取りながら志保は思う。

「守られる私ではなく、大事な物を守れる私に変わるためにがんばらないと…」

アイドルマスター ミリオンライブ! Blooming Clover 2

この言葉が志保のソロ曲で言及される「嘘」「間違い」であり、フロイトが『エディプス・コンプレクス』という名で旗を立てた箇所である。

志保が「守られる私」を本当に捨てたかったわけがない。状況がそうさせたのである。一家団欒を壊したカタストロフィ。神様の怒りによる災害を鎮めるためには生贄を捧げる必要がある。「守られる私」は供犠となり、状況を改善する「大事な物を守れる私」が生まれる。

ここに1つの発想転換がある。
一家団欒の崩壊は完全に外部からの攻撃であり、志保は受動的に「守られる私」を捧げる羽目になった。しかし、考え方は変えることができる。私が状況を収めるために自ら捧げたのだ、と。受動的な存在から能動的な存在への転換地点。
そのうえで志保は「母ー弟ー自分」の三者関係から、責任を背負う主体である父親の位置に自らの位置を見出す。
※「弟ー自分」の二者関係から同時に母親の位置にも見出してはいる。

このような能動的で責任ある位置に自己を見出している志保は「せねばならむ」に強迫される主体となる。嘘を隠し続けるために。

『オペラセリア・煌輝座』

志保のドラマCDである『オペラセリア・煌輝座』は、この出来事の反復であり、志保の夢といっても過言ではない。あらすじは以下である。

アシュリー(志保)は貴族の娘として満足のいく生活を営んでいたが、ある日父親が借金を背負い、一族の崩壊の危機に陥る。アシュリー(志保)は借金の証文を取り返すべく、男装して士官学校に潜入し、借金取りの息子に近づく。

そして、士官学校にてアシュリー(志保)は3名の役者と出会う。
・志保と相反する性格を持つハーヴェイ(琴葉)
 ※おそらく家族(父・母・弟)の位置
・「守られる私」(姫)のような庇護を受けているアリエル(まつり)
・災厄を引き起こした借金取り(権威者)の息子であるオスカー(歌織)

この三者に対してアシュリー(志保)はどのように対峙していくのか。
『オペラセリア・煌輝座』は、志保のことが大なり小なり気になっている方はぜひ手に取っていただきたい。後悔はしない。

『少女革命ウテナ』

このような神話的な構造は繰り返し作品にされる。例えば『少女革命ウテナ』の冒頭では、王子へと同一化している。

それは昔々のお話です。
あるところにお父様とお母様を亡くし、深い悲しみに暮れる幼いお姫様がいました。
そんなお姫様の前に白馬に乗った旅の王子様が現れます。
凛々しい姿。優しい微笑み。王子様はお姫様をバラの香りで包み込むとそっと涙をぬぐってくれたのでした。

「たった一人で深い悲しみに耐える小さな君。その強さ、気高さをどうか大人になっても失わないで。今日の思い出にこれを」
「私たちまた会えるわよね」
「その指輪が君を僕のところへ導くだろう」
王子様がくれた指輪はやはりエンゲージリングだったのでしょうか。

それはいいとして、お姫様は王子様にあこがれるあまり、自分も王子様になる決意をしてしまったのです。
でもいいの? ほんとにそれで。

『少女革命ウテナ』https://www.youtube.com/watch?v=bYIeiV6LDs0

志保の嘘、間違い

「嘘」についてはソロ曲が雄弁に語っている。
※歌詞の解釈はあくまで解釈の一例としてお考えください。

『ライアー・ルージュ』

「守られる私」(のちに「絵本の中のお姫様(=笑顔)」)と呼ばれる存在を抑圧(無意識的に心の奥に閉じ込めて意識に上がってこないようにすること)しているが、母親に何らかの点で似た相手を目の前にして、抑圧が剝がれそうになる。(漫画の説明では母ではなく父の可能性もあり)

どうしてなのよ、「見つめて」なんて
言いたい、言えない、隣にいたい
強気の裏の本音がこんな
誰かを求めてたなんて…ありえないわ

『ライアー・ルージュ』
https://www.uta-net.com/song/150156/

「ありえないわ」が滅茶苦茶志保っぽい。強迫神経気質が強い人の言い回し。

『絵本』

「絵本の中のお姫様」へ回帰するソロ曲。一部抑圧されており、漫画での説明以上の内容を行間に含んでいる。

信じていたの 小さな頃に
絵本の中にいたお姫様は強いもの

『絵本』
https://www.uta-net.com/song/170682/

「お姫様は強いもの」についての解釈には精神分析的な見地が必要。
そもそもなぜ志保は「絵本の中のお姫様」に自己を見出していたのかという点からの話になる。それは母から求められる形の具象として、たまたま志保が「これだ!」と絵本の中のお姫様を見出したと想定される(ラカンの「想像的ファルス」と言って差し支えない)。
幼い志保の認識の上では、自分自身が母親が求める「お姫様」になることによって円満な家庭を作り上げていると思い込んでいるため、「お姫様は強いもの」と信じていた、と思われる。志保の内省、

「(お姫様ではなく)大きく強く咲き誇る花のような私だったら 
 お父さんはいなくならなかったのかな……」

アイドルマスター ミリオンライブ! Blooming Clover 2

はこの文脈での発言と考えられる。

そして「お姫様」を否定されたタイミングで、発想の転換がくる。

『絵本』 北沢志保

『絵本』のカードは母親が仕事で家を離れたタイミングがチョイスされており、このタイミングこそが真に「お姫様」を否定されたタイミングである。「お姫様」のままでいても団欒は確保できないと思い知らされる。「去勢された」タイミングといっても差し支えない。

守られること 守りたいこと
夢なんて見るだけじゃいつまで経っても叶わない

『絵本』
https://www.uta-net.com/song/170682/

「お姫様」の否定が抑圧されている(作詞として意図的な飛ばしかと)。
実際的には下記だろう。

「守られること 守(ら)れなかったこと 守りたいこと」
・守られること=お姫様であること、引いて円満な家庭状態
・守(ら)れなかったこと=お姫様であることの否定、家庭崩壊
・守りたいこと=お姫様であること、引いて円満な家庭状態

意図的に「誰が何を」が省かれ、間に去勢を挟んだ受動・能動の転換が隠されている。「守りたいこと・守るべきもの」=弟はもう1つの同一化(母)の位置からすると正しいが、本当に隠したいことを隠すための方便でもある。
いうまでもなく「私はどこで間違えたの?」の答えはこの去勢のタイミングである。
(と回答しても回避方法なんてなかったのでどうしようもないけど)

守るべきものがあって 私は強くなりたいから
笑うことをやめたの すべてが叶うその日まで

『絵本』
https://www.uta-net.com/song/170682/

嘘。指摘するのがちょっと心苦しくなってくるが、「笑うことをやめさせられた」が実際的には正しい。自分を誤魔化している。

そして、私が守られる存在から守る存在に切り替わった瞬間、私は一人(独り)しかいないために、守られる私は消えてしまう。
以降の歌詞は各自で。

蛇足だけど、ミリシタのメインコミュ78話(絵本)は、『絵本』のMVが前半まで(嘘をつくまで)だったので、曲の後半部分(お姫様への回帰)をコミュとして実装してますね。母側の気持ちもわかるけど、志保側の供犠したのに何も役に立ってない扱いというのも辛い……。


志保が嫌い、好き

人が責任ある立場になる際に、この受動・能動の転換の構造が呼び出される。例えば、親元から独り立ちするとき、親になるとき、仕事上の責任ある重要なポストにつくときなど。
女性に少ないタイプであるということは、逆を言えば男性に多いタイプである。ラカンによれば、女性だけでなく、男性も一度このような「お姫様」の位置を経過して、エディパルな層を通過するという。この経路は(精神分析理論の中で)人生の幹線道路と呼ばれていた時期もある。

ただし、男性の全員が志保のようにど真ん中を通るわけではない。わき道にそれながら通ったり、そもそもたどり着くことさえない人もいる。

私自身自己分析からエディパルな道を通った男性に”最後に”なり損ねたと思っていて、志保の持つ父性に途中までどこか似た点も感じつつ、最後の一点でまばゆく感じていた。このあたり志保に情動的に惹きつけられたのだろう。先にミリシタで志保のことは知った状態で劇場版を視聴していたが、はっきりいって志保と自分を同一視して見てて、伊織が本当に良い先輩でよく志保の面倒を見てくれるのがとても嬉しかった覚えがある。あれこれ内省して考察した後、負の情動は消え去り、今はあたたかい気持ちで、どこか志保を過去の自分のように見ている気がする。

ここまでが志保個人のお話。
そしてここからは志保が舞台であるアイマスとどう関係していくのかのお話。


アイマスの語らい

志保が所属するアイドルマスターというコンテンツだが、ここ2年半ほど触れて感じることは、全体とその個全てを大事にする「ヒステリー気質」がとても強いコンテンツだということ。組織の色というのはリーダーに左右されがちだが、天海春香というアイマスの顔がこの空気感を作っていて、それが継承されている。

『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』

映画での春香の言葉が、この空気を象徴している。

私たちは今ここにいて、それぞれ目標も考え方も違ってて、それでもこのライブのためにみんな集まったの。それが、今なんだよ。誰か一人でも欠けちゃったら次のステージには行けない。ううん…もしかしたらもっといい方法があるのかもだけど、でも、私は天海春香だから。私は今このメンバーのリーダーだけど、その前にやっぱり私だから。全員で走り抜きたい。今の、全部でこのライブを成功させたいの!

https://www.setandset.com/archives/25571402.html

背景としては、メンバーの一人がライブの練習に来なくなり、本番当日はいない前提で進めるのか、それとも来るのを待つのかという選択をリーダーとして迫られていたときだった。春香の言葉は一言で言うと「誰も見捨てない」という理念。

対比として浮かぶのは外資系企業の話で、例えば会議で「同じ意見が二人いるならば、一人はいらない」という合理的な考え方。背後にあるのは人はバリューを残してなんぼであって、何も残せないなら、いないも同然という考え。

春香のいて欲しいには、そのような有益性に関する条件はない。ただ「〇〇だから」「志保だから」いて欲しい。それ以上の条件はなく、相手にとって無条件とほぼ同義。特筆すべきは春香のそれは欲望の声が薄いこと。こうあってほしい、あのようになってほしいという声が聞こえてこない。ただいてほしい。ただ認めるだけ。

全体の一部であり大事にされているという感覚。
そういう感覚があって初めて、個人が全体のために何ができるかという発想が生まれてくるということ。
必ずしも実を結ぶとは限らないけれど、春香はその種を撒き続ける。春香なら言うだろう。「大丈夫、待ってるから」

またこの思想がゲーム内に限定されるのではなくて、コンテンツ全体に渡って広く行き渡っているのが特徴的で、琴葉の声優である種田さんが病気療養中、他の作品では声優交代などしていく一方で根気よく待ち続けたり、ミリシタMVの開発において、観客も含めて1つのものを一緒に作っていくというコンセプトのもと、実際のライブを元に観客側を複数回更新していたりする。


無条件的に確保される居場所の中で

春香の呼びかけに対して、もし新たな全体の中で自分を位置づけるようになったら、新たな全体のために何ができるかと考えるようになったら、どのようになるのだろう。
新たな全体を仮定すれば、私は立ち位置を変えざるを得ない。
そのとき、嫌々「お姫様」を捧げるようなことはなく、全体のために前向きに前の自分と決別できるようになるということ。異世界転生しなくとも、全体の枠を変えれば人は生まれ変われる。

志保については、個々のグループで全体の視点を持つようになる話はちょくちょく見られるが、主題として大きく取り扱ったコミュはまだ実装されていないと思う(もしあったら教えてくれたらうれしいです)。

代わりに、近いことを扱ったシャニマスのコミュがあるので、簡単に紹介しておく。

【鱗・鱗・謹・賀】幽谷霧子
©2018 BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

水に落ちるは、出産、引いては生まれ変わりの象徴表現であり、
衣装の柄の魚はユニットの他メンバーを隠喩している。
”私”を見つけられない霧子はその着物を着て(メンバーの間に)自分を位置づける。

志保とアイマス

コミュより先に、ソロ曲は変化を取り扱っている。
前ソロ2曲は志保の家族関係内での話であり、後2曲はアイマスでの志保の立ち位置の曲。2曲の対比で変化を描いている。
(正直『CAT CROSSING』が出た際は『絵本』から見ると逆行しているようにしか見えず奇妙だったが、『Purple Sky』の発表から『CAT CROSSING』→『Purple Sky』の変化を見せたかったのだと思う。いきなり『Purple Sky』は確かに志保として違和感がある)

『CAT CROSSING』

発表順としては『絵本』より後だが、志保の心境的には『絵本』より前だと思う。嘘を貫き通そうとしている。劇場版あたりの志保像が近い。

自己像として脳裏に浮かぶのは群れることなどできない野良の子猫。不幸を自ら撒いているとなんとなくわかっていても、それを変えられない。
不可能を禁止に見立て、決してたどり着けないものを目指している。
(正直この曲はあまり読めていない)

『Purple Sky』

交差点を抜けて それぞれのカラフル かき集めて
違いの中で わたしの持つ色が
鮮やかになる感じがいい

『Purple Sky』
https://www.uta-net.com/song/308476/

周りとの調和の中で、私が一番鮮やかに見える色へ。明らかに一匹狼では持てない視点を獲得している。

路地裏をこえて 地図にないルートを 選びたいの
迷いの中で 自分だけ信じて
新しい色Picking color

『Purple Sky』
https://www.uta-net.com/song/308476/

今までの志保の欲望は家族内で作られたと言っても過言ではない。アイマスという全体に抱かれ、家庭内での自己像から抜け出し、新たな欲望を見出していく。資本主義ではなく、もっと温かい、春香の声によっての「アンチ・オイディプス」と言っていいだろう。
このとき、春香の声の小ささが自由度を制限しない、方向性を規定しないという大きな意味をもっているように思う。

まとめ

  • 志保は男性に多い心的構造を持っている。その背後のエディパルな神話構造から来る特徴から、人に良い意味でも悪い意味でも情動的な繋がりを呼び起こすと思われる。

  • アイマスは一匹狼気質の志保を根気強く優しく受け入れる土台がある

  • 人は新たな全体の中で自己を見出すことで生まれ変わる。志保がアイマスの中での自分というものを見出した時、彼女は生まれ変わる。(アイマスによる志保のアンチ・オイディプス)

さいごに

取って付けた感が強くなってしまうが、人類の課題として、例えば「宇宙船地球号」のような、全員で一体という感覚をどう養うのかという問題がある。方法論としては攻撃性を芸術に昇華するなどのツールは発見されているが、アイマスの春香の声はその回答の1つではないかと思える。今の時代が到達できていない、どこか先進的で未来的な雰囲気を感じる。主張を持たない小さな《他者》。
未来はこういう空気(《他者》)が普遍的になると良いなと思う。

志保さん、お誕生日おめでとう。(2022/1/19 間に合わなかった……)


※備考1 なぜ男性と女性で強迫神経気質とヒステリー気質の傾向の違いがあるのかと言われれば、フロイト的に男女の身体の違いから、ラカン的に文化的な側面(大文字の他者)から、あれこれ並び立てることはできそうだが、釈然とはしなさそうだ。だが、内在論理はおいといて、個人的な観察事実からこの捉え方はとても有用で、実態として男女の傾向性は間違いないと思っている。

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