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【創作】彼女と彼の話をさせてくれ。

 10歳の頃に、突然頭の中に降ってきたのは、美少女とイケメン少年が恋に落ちる物語だった。と書いてみて当時の私があまりにも捻りがないのに苦笑いしたくなる。それでも二人とも未だ私の中に居座っているから大したものだ。一種の黒歴史暴露だがこれを逃したらいつこの二人が日の目を見るのかわからないので紹介しようか。
 美少女は中性的な名前をしていたが金髪と碧眼を持っていて(戸籍上はハーフ、生物学的にはクオーターだったか)、少年は当時の私の美意識では爽やかな名前、そして黒髪黒目のイケメンである。どちらも当時の私の理想を反映したものだ。クラス一のイケメンと自称普通の女の子のラブストーリーは当時少女漫画で散々見ていたから、キレイなもの同士が愛し合ってもいいじゃないか、と思ったのだ。あと、そういう話の普通のヒロインは大体私よりずっと可愛い。顔も心も。
 二人は互いのことをよく見ているから、目を合わせただけで互いの気持ちがわかりあえる。何か事件が起きたとき、こういう二人だけの以心伝心は心強い。そんな二人に周りの誰も割り込めない。まさに私の理想形。私にずっと見続けていたいほど好きな人なんていない。見ただけで以心伝心できるような相手なんていない。できるだけ自分からかけ離れた人物像にしたい。
 私が『名探偵コナン』にハマった11歳の夜に、美少女の方に『探偵』の称号がついた。ワトソン役は勿論少年、19世紀ロンドンのヒーローとその相棒のような関係が二人の間にできたのである。
 小学生の私にミステリーの知識はほとんどなく、仕方ないので平成のシャーロック・ホームズになりたい工藤新一に倣って推理小説を片っ端から読み始めた。小説の探偵は長め、もしくは奇抜な名字が多いなと思った私は美少女の名字を五文字にした。この頃の二人は恋人というより相棒で、したがって恋愛感情は薄れ、まあそれでもいいかな、と思い始めていた。喩えるなら東川篤也の『烏賊川市シリーズ』に出てくる鵜飼杜夫と二宮朱美みたいな距離感。ところがそれに不満の声が上がった。ラブコメには付き物のキャラクターこと恋敵たちである。彼らは二人に積極的な、あるいは遠回しなアプローチを始めた。
 かくして美少女と少年は焦りだす。美少女は少年ファーストだったし少年も美少女ファーストで生きてきたからだ。何をするにも優先順位一番の相手。二人も、私も二人の間に他の誰も入れたくなかった。二人は慌てて距離を詰め、ぎこちなく肩をくっつける。二人は周りの友人たちみたいに上手に気持ちが伝えられない。ハグは雰囲気に手伝ってもらうし、キスの仕方なんて知らない。お互い初恋で、初めての相手だから緊張するのだ。ファースト、とはそういう意味でもある。
 異変が先に起きたのは美少女の方だった。自分のアイデンティティを疑いだしたのだ。周りと違う外見を恥じるようになり、碧眼を眼帯で隠す。隠さない方の瞳は皆と同じ焦げ茶色。そう、美少女に「オッドアイ」という厨二が憧れそうな属性が加わった。仕方ない、当時の私が多感な中学二年生だったのだから。
 少年も少しずつ変わっていく。美少女の隣にふさわしい人となるべく、痛みに鈍い人間になってしまった。少し経てばまったくの無痛症になってしまった。自分の限界を知らず、瀕死になっても戦い続ける。なんて不健康、と呆れつつそんなバグみたいなやり方で限界突破する存在が羨ましかった。痛みを忘れた少年は、恋の痛みにすら鈍くなった。遠い昔の初恋を、恋だと自覚できないまま図体だけ大きくなった。185センチと152センチの身長差カップル。ああまったく、これでは美少女のくすぶらせている思いが届かない。
 いいんだ、ワトソンに恋するホームズは解釈違いだ。美少女はそんなことを思いながら私の中で寂しく笑っている。ぎこちない笑み。私は昔クラスメイトに言われた言葉を思い出した。なんか〇〇(私のニックネーム)の笑い方って作り笑いみたいなんだよね。「ははは」って笑ってるその声がさ。当時は「そう?」とあしらったものだが今でも鮮明に思い出せるから、かなり引き摺っているのかもしれない。本当は痛いのに、痛くない振りして。嫌だな、変なところで二人とも私と似ている。自分とは違う世界で生きる「理想形」の二人だったはずなのに。当時の私はまったく自覚していなかったが、今思い返せば共通項が多すぎて笑えてくる。
 美少女よ、どうかその愛で少年にかけられた「鈍感」の呪いを解いてくれ。誰にでもほぼ等しく訪れる自分の痛みや疲れや迷いから逃げたくて、私が彼をこんなにも鈍感にしてしまったんだ。

 最近は二次創作に熱を上げているせいで彼らのことはとんとご無沙汰だが、書き出してみるとこんなにも愛おしい存在だったか。自分とは違う、自分とは違うと言い聞かせながらも最後にはどうしても自分に近い存在になってしまう。あの二人、行く末はどうなるだろうか。三十代、四十代になったすがたを見てみたい。見てみたい、と書くのは自分の三十代、四十代がまったく想像できないから。小さい頃、母親を見ながら「もしも自分の意識がが生まれる前までお母さんのもので、生まれた瞬間記憶をすべて捨ててこの体に乗り移ったとしたらどうだろう」と悪趣味なことを考えていた。何度でも子どもをやり直せたらそれはそれで面白いけど、きっと世界は閉じたままなのだろう。うつくしいものたちが老いるのは怖いけど、それも含めて楽しからずや、なんつって。
 とりあえず書きたいことはこんなところだ。彼女と彼が生きた証を書き留めておきたかった。ではまたいつか、その時まで二人ともお元気で。



 



 

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