それで、0点(4)
(実在の成功者達をモデルにし、ひとりの人物「先生」として描く小説です)
仕事が終わって友達と夕食を済ませてから、田中君は21時過ぎにうちへやって来た。それで、私と食事する気分じゃなかったんだなと思った。
ちょうどいい。私も、もやもやしたまま食事を作り、一緒に食べる景色は想像できなかった。
田中君専用のマグカップにコーヒーをいれて「はい」と渡すと、彼は少しかたい表情で受け取った。
「あ、いい香りだね」
それは本当にそう思ったんだろう。一瞬、頬の緊張が緩んだように見えた。
私も自分のコーヒーを用意すると、1人がけのソファに腰を下ろした。田中君はベッドの下にあぐらをかいて座った。彼の定位置だ。
彼はいつもベッドを背もたれにして床に座る。私は小さなテーブルをはさんで向かいに置いた1人がけのソファを背もたれにして座るか、彼の隣に並ぶのが常。
でも、今日は違う。
いつもと違って床ではなく、ソファにきちんと腰を下ろした私を彼は一瞬、違和感を覚えたような表情で見上げた。
「今日どうだった?」
私が聞くと、彼はいつもと同じ返事をした。
「うん、今日も忙しかった」
「そっかそっか」
そう答えた言葉とは裏腹に、彼の言葉がなんだかひっかかる。まずは当たり障りのない話をして場を温めようと思っていたのに・・・。
今日「も」、忙しかった?
あなたの毎日は、楽しくなさそうだね。
前は気にならなかったのに、今はそんな風に思ったりする。
もう、私と彼はこんな些細なことまで当たり障る関係になってるんだ。いつの間にかそうなってたんだ。多分、私が変わったから。
じゃあいっか。もう避けて来たことを話そう。逃げていても私たちの関係は深まらない。
私が思い切って口を開こうとしたその時、彼の方が言った。
「智子ちゃんと今日会ってたんだって?」
一瞬、イラっとした。
智子、私と会ってたこと、田中君にもう話してるんだ。
「田中君、智子に私のこと色々言ってたらしいね」と絡みたくなる気持ちをおさえて、私はただうんとうなずいた。
感情的になってきちんとした話ができるわけもない。落ち着け、私。
今夜は大切な話をするんだ。
「智子から、田中君が私の服装が派手で嫌がってるって聞いたよ」
私はなるべく穏やかな声でそう言った。
「うん」
気まずそうに田中君は頷いた。
「アンジェリーナ・ジョリーみたいでかっこいいって言ってくれたのは、お世辞だったの? ほんとは嫌だったの?」
「いや、それはほんとに思ったことだよ。マジでかっこよかった。・・・でも、僕、アンジェリーナ・ジョリーはスクリーンの中でだけ見れたらいい。自分の彼女にしたいとは思ってない」
「今みたいな格好の方が好きなんだね?」
私は家に帰って、白の無地の長袖のセーターと茶色のパンツに着替えていた。本当は「家でどんな服装でいるか」も先生に教わり、コーディネートもしてもらい、あの日、高橋さんに買ってもらっている。だけど、田中君が来るので、あえてそれを着ないでこれまでの服を選んでいた。
「その方がみくりんらしいよ。メイクもそういう薄いのがいい」
「これは、時間経って落ちただけだよ。・・・でも、私、ミニのワンピースとかこれからもっともっと着たいし、髪の毛ももっと伸ばしてクルクル巻きたいし、パーティーとかワイン会とかもどんどん出たいんだ」
それを聞くと、田中君の表情は一気に曇った。
「僕は普通の子がいい。最近のみくりんは、なんかきつい印象だよ。メイクも濃いし、服装も派手だし『私、勝負してる!』って感じがなんか、安らげない。気を張るっていうか、僕も頑張ってないといけないような気になるんだよ」
「きつい? 私、田中君に文句を言ったことも、怒ったこともないよね?」
「・・・・・・確かに、なかったね。でも、今はそうだよね?」
「えぇ? 怒ってないし、文句も言ってないよ? ただ私がこれからどうしたいかってことをきちんと田中君に伝えるべきだと思ったんだよ」
「それが、オッサンに服買ってもらったり、派手なメイクと格好でセレブごっこすること? お前、どうしちゃったんだよ・・・」
田中君の言葉を聞くと、確かに私はどうかしちゃった人みたいに聞こえるな。お母さんが聞いたら、ものすごく心配しそう。彼でもない人に服を買ってもらったり、派手な格好をしたりしてはいけないと、そう教えてきた人だもの。
田中君も同じようなご両親に育てられたのかな。
一体、どう言えば、彼に伝わるだろう。
私は彼に私に合わせて無理をして欲しいとか、先生と知り合って欲しいとか、そんなことは望んでいない。
いや、本当は望んでる。それがきっと彼のためにもなると思うもの。だけど、人の生き方はそれぞれ。彼が望まないなら無理強いはしない。
同じように彼にも、私が好きなように楽しく生きることを認めて欲しいのに・・・。
無言でいる私をどう思ったのか、田中君はやや強い口調で言った。
「目を覚ませって。ほんと、どうしちゃったんだよ?!」
「私、今まで死んでたの」
ぽろっと出た言葉だったけれど、それを聞いて私は自分ですごく納得した。一方で、田中君はあまりに想定外の展開だったのだろう。ぽかんと間の抜けた顔をした。
そう、私、死んでたんだ。
なるべく争わず。なるべくみんなに合わせて。他人に嫌われないように、いい感じに見えるように。そしてなんでも、平均のちょっと上のあたりにいられたらよかった。大きな達成感を得ることはないけれど、ひどい失敗もしない。真ん中のちょっと上であれば、そこそこいい気分でもいられる。
先生と高橋さんと一緒に乗ったヨットのことを思い出した。
初めて乗せてもらったディンギーヨットだったけれど、あの日は風がほとんど吹かず、私たちはただただ海にのんびり浮かんでいた。
私は気持ち良かった。先生と高橋さんは「つまらない」を連呼していたけれど。太陽のあたたかい光と、その光を反射する深い青の海。素敵なジェントルマンおふたりと、海の上。いい時間だった。
でも、風が吹いて、船を走らせたらどうだっただろう?
きっと怖かった。怖かったけど、覚えることもやるべきこともたくさんあっただろう。のんびり船の上で日光浴をして、ちょっといい気分になった以上の、何かがその先にあったに違いない。
先生と高橋さんは「御厨がいるから、風が吹かない」って笑ってたっけ。
あの時は意味がわからなかったけれど、今ならわかる気がする。
ほんと、そう。私が、失敗も成功もない毎日を望んでいたから。そこそこいい気分を望んでいたから。だからあの日、ディンギーヨットは風を得られず、ただそこに浮かんでいたんだ。
「・・・田中君、心電図って、心臓が止まったら波がなくなるじゃんね。ピーッって一本線」
「え? 急になんだよ、心電図?!」
「私の人生はこれまで、そういう感じだったの。ほとんど波のない一本線。変化のない毎日。それ、生きてたようで、死んでたんだよね。でも、私、覚醒したんだよね。目を覚ましたんだよ! 人間としてどう生きるかを考え始めたところなの」
「なになに、どうしたよ? 覚醒って何? 智子ちゃんの言ってた通り、マジで洗脳された??」
「洗脳されたかもね」
「おいおいおい、しっかりしろよ」
「でも、洗脳って悪いことかな? 世の中にも洗脳ってあふれてると思うよ。普通でいなさい、平凡でいなさい、そういうメッセージも洗脳じゃないの?」
「洗脳じゃないだろ。洗脳っていうのは、宗教団体が悪意をもって自分に都合いいように信者を丸め込むことを言うんだよ」
「じゃあ、先生のは洗脳じゃないよ。いつも私に素敵なものを見せてくれたり、体験させてたりしてくれるだけ。私が質問すると色々教えてくれるだけ。その内容が、私にはとても素敵に感じられる」
「それはさ、下心があるんだって」
「どんな下心?」
「いや、だから、男はさ・・・っ」
田中君はその先を言い淀んだ。
「田中君、煩悩ってどう思う?」
「はあ?」
さらに想定外の質問だったんだろう。田中君は一瞬思考が止まったような顔をした。
彼が答えを持っていなさそうなので、私はかまわず先を続けた。
「私、欲が少なかったの。いや、きっとたくさんあったんだけど、抑えて生きて来たの。そうするべきだと『洗脳』されてきたから」
私は「教わった」ではなくあえて「洗脳」という言葉を使った。
「田中君だってそうじゃない? そう洗脳されてない? 欲深くあってはいけない、慎ましくありなさい、謙虚でいなさい、質素倹約は美徳って。でも、欲がなければ世界は発展しなかったと思わない? もっと速く移動したい、もっと便利に遠くの誰かと話したい、空も飛びたい、そういう欲が世界をこうしたんだよね。とても便利だし、楽しいことも増えてる。もちろん、欲が犯罪や戦争につながってしまうこともあるのだけど、それは、欲を持つことが悪いんじゃなく、その達成方法が間違ってるだけよね。だから、私は清く正しく欲深く生きたいの。世界をもっと楽しいところにしたい、っていう欲を持ってもいいと思わない?」
「・・・お前、マジで、どこいこうとしてんだよ・・・。政治家にでもなんの?」
「どうかな。それが一番だと思ったらなろうとするかも。でも、今は、先生からもっともっと学びたいんだよね」
「それってつまり、アンジェリーナ・ジョリーみたいな格好をまだまだするってこと? 他の男に服買ってもらうってこと?」
「服は・・・田中君が嫌なら、買ってもらわない」
「ていうか、その先生とか高橋っていうのとかと、会うのやめてほしいんだ」
彼の語気がやや強くなった。
「それは無理だよ」
私は自分で思っていた以上に、あっさりはっきり断言していた。
もし、田中君が先生と遊ぶのをやめてって言っても、それはできないって断ると決めていた。でも、彼を目の前にしたら決心が揺らぐような気もしていた。ちゃんとノーと言うにしても、もっと歯切れが悪いか時間がかかるんじゃないかと思っていた。
田中君の方も、こんなに即答で断られるとは思っていなかったみたいだ。
「え?」
一瞬きょとんとした表情を見せた後、一気に不愉快そうな顔になった。
「無理って、どういうこと? まだ、オッサンと会い続けるのかよ?」
「だって、先生やそのお友達と会うことが悪いことだとは思わないもの。なんでそんなに嫌がるの?」
「お前が悪影響受けてるからだよ」
「悪影響って何?」
「分不相応に派手に着飾って、何がしたいんだよ? そいつらと遊んでて、その先はどうなんの?」
「派手に着飾って見えるのは仕方ない。まだ、中身が追いついてないもの。でも、私はもっと素敵になりたいだけなの。中身も外見も全部。それって、田中君にとっても嬉しいことじゃないの?」
「言っただろ? アンジェリーナ・ジョリーはスクリーンの向こう側の人だからいいんだよ。一緒に遊んだりなんて無理」
「どうして無理なの? アンジーと田中君が友達になれる可能性はものすごく低いかもしれないけど、ゼロじゃない」
「ゼロだよ! 出会うチャンスなんてないし、会っても相手にもされないし、されたいとも思わない。分相応に生きようよ?!」
「分相応って何? その分って誰が決めてるの? 先生は私にも可能性があることを示してくれた。 平凡で死んでるように生きてて、なのにそれにすら気づかなかった私に、あっちの世界へ続くドアを開けて見せてくれてた」
「あっちの世界って何だよ? じゃあ仮に、僕も、その先生に紹介してって言ったらそれはアリなわけ?」
「アリだと思うよ。彼はどんな人って聞かれたことあるよ」
「そしたら、なんだって?」
「御厨と一緒で上を目指す人だったらいいね、って」
それを聞いて田中君は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「上? 上ってなんだよ? 上流階級? 僕、そんなの望んでないよ? 普通に仕事して、普通に飯食って、普通に楽しく過ごせたらいい。アンジェリーナ・ジョリーと遊ぶ人生なんて望んでない」
「本当に、そう思ってる?」
私には、田中君の言っていることが理解できなかった。
普通がいい? 普通って何?
単純に「今よりももっといい暮らし」と「このままの暮らし」だったら、絶対に前者でしょ?!
「僕、みくりんの普通なとこが好きだったんだ。普通にかわいくて、普通にOLで、バカでも利口すぎでもなく」
「そんなの・・・誰でもいいって言われてるみたい」
「そんなことは言ってないだろ? でも、あったかい家庭料理か、高級レストランのフレンチディナーかで言ったら、僕はあったかい家庭料理が好きで、みくりんは家庭料理だった」
「なに、その例え。全然わかんないよ。あったかい家庭料理も高級レストランの料理もまずいものはまずいし。なんでそこで分けるかな? 最高に美味しい家庭料理と最高に美味しい高級レストランのディナーを食べればよくない? まずいか、美味しいか、でしょ? 私はまずかったけど、美味しくなろうとしてるの!」
「お前、そんな、口の減らないやつだった?」
「そうね、自分でも驚いてる」
「その、先生とかの影響なんだろ? だから悪影響だって言ってる」
「悪影響じゃないよ。私はこんなにも色んなことを思えるし、熱いものを持ってたんだって嬉しいくらい。先生のおかげだよ」
「結局、金持ちの男がいいのかよ」
「ちが・・・」
言いかけて私は黙った。
本当に、違うだろうか?
お金を持っているだけの男は嫌だ。でも、お金も大した欲も持っていない人はもっと嫌だ。今よりも良くなりたいと、もっと素敵でありたいと、そういう欲がない人間は、私には物足りない。
「お金じゃなくても、田中君は何を持ってるの?」
それは、彼にとって痛い質問だったに違いない。
「・・・お前、そういうこと言うやつじゃなかったのに・・・」
彼は横に置いてあった自分のカバンに手を伸ばすと立ち上がった。
「悪いけど、僕の荷物とか全部捨てといて」
そう言って玄関まで向かい、途中で思い出したようにカバンの中に手を入れ、ごそごそやってから、この部屋の合鍵を差し出した。
さすがに受け取る手が出せない私を見て、彼はふうっとため息をつくと、近くの食器棚に鍵を置いた。
「さよなら」
ドアがばたんと閉まった。
田中君、一緒に、素敵な欲を持って生きることはできないのかな。今のは勢いで言っちゃっただけで、一晩考えたら、また違う考えになっていたりしないのかな。
私はもっと上手に話すことはできなかったのかな。あんな風に田中君を傷つけずに、話すことはできなかったのかな。
しばらく、玄関の鍵をかけることができず、私はその場に立ち尽くしていた。
その後も、スマホをものすごく意識しながら夜を過ごした。彼から何かメッセージが入るのではないかと期待して。
でも、リラックマのキラキラのケースに収まったスマホは、高橋さんからのお茶のお誘いと、智子の「あんたはもう!!バカ!!!」というメッセージを着信しただけで、田中君からの言葉が届くことはなかった。
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