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小説「カシコミカシコミ、境内ホ別0.005」

 体温計の数字が、僕に終身刑を宣告する。積み重ねてきたものを、うっかり肘先で崩してしまったような焦燥感。背骨から熱が抜けて、顔の形が定まらない。ああ、何もわからないや。ショックというのは衝撃という意味なんだ、脳が揺れている。落ち着いた心の端から燃えていく、ひどい後悔、ひどい後悔。ああ、拳を机に打ち付けたい、喉が枯れるほど叫びたい、ふざけるな、どちらも出来るわけないだろ!
 いつ貰ったんだ、同窓会か映画館か、この憤りをどこにぶつければ良いんだ。スマホに爪を立てるようにして、SNSのタイムラインをびゅんと巡る。黒い画面に反射する僕の表情が、あんまりにも情けなくて、高校時代の同級生を纏めたリストに「喉痛い」の三文字を見つける頃には、惨めな憤怒は冷え固まっていた。恐る恐る口を開いて声を出すと、両手を合わせるように掠れた音が出た。画面端には”新型ウイルスにご注意ください”の文字が映っている。
 ぐちゃぐちゃだ、と思った。僕は上着だけ羽織って、外へ飛び出して走った。手や喉に当たれないなら、足に当たれば良いと思った。
 もう十二月になる、夜の冷気が喉を刺す、午前二時くらいだろうか。皆が、布団の中で寝ていないことを知ったら怒るだろうか。じっとしていられないのは、僕が弱いからだ。一歩駆ける度にガンガンと脳が揺れて、蹲りたい程に痛いけれど、無視して走る。ボロボロになりたい、可哀想になりたい、こうなってしまったのは、どうしようもなかったんだと思いたい。バラバラになってしまいたい。
 苦しい、横隔膜が喉を通っているみたい、今なら血が吐けそうだ。僕は街灯の陰によろよろと倒れ込んだ。蛾の気持ちが今ならわかる気がした。地面が冷たい、暖かいのは橙の光だけ。ああ、僕は何をやっているんだ。早く連絡しないと、皆に迷惑なのに。スマホを取り出そうと、上着のポケットを探ったが、出てきたのは五円玉とレシートだった。やはりというか、家に置いてきたらしい。
 しかし、そこそこ遠くまで来てしまった。ここは神社の前だな、最低限の設備だけの、都内特有の小さな神社。少なくとも、初詣にここを訪れる人はいないだろう。ここから帰るのには十五分くらいは歩く。呼吸が落ち着いたので立とうとすると、思ったより足に力が入らなくて驚いた。そりゃあ、あれだけ走ったら疲れるか。あー、惨めだ。いつか、笑い話に出来るだろうか。今笑ったら、喉が痛そうだ。
 参拝してみようか、ふと思い立った。賽銭に丁度良い小銭はあるし、藁にも縋りたいような状況だ。出来る事はしておいた方が良い気がするし、正直に言うなら、神に見放されてみたかったのだ。特別なことをするみたいで、少しだけ浮足立ちながら、小さな鳥居をくぐった。

 結論として、僕の願いは叶った。神に見放されてみたいという願いが。
 神社にも営業時間があるということを初めて知った。拝殿の扉は閉まっており、ガラス越しにしか拝めないようだった。僕はなんとなく、神様は寝ない気がしていたのだけれど、そんなことは無かったのだ。終わりだ、なんだかホッとした。もう出来る事は何もない気がする。足掻く必要は無い、神にも僕は救えないのだから。カミサマは、人間の僕でさえ起きている時間に寝ているんだ。早く家に帰って、しゃりん?

「おきてるよ」

 僕は断じて驚いたわけではなかった。感覚としては、受け入れさせられたといったところだろうか、”それ”が存在することを、認めさせられたといった感覚があった。重ねるが、断じて驚いたわけではなかった。ただ、その存在の意外さと納得感が同時に襲ってきたので、声も出せなかったのだ。
 少女の形をしていた。美人というか、顔立ちが整い過ぎている。あまりにも、瞳が深すぎる。制服……だろうか。ボタンを閉じていないブレザーと、前が大きなスリットになったスカートが、その細い肢体と、下着の一切を隠せていないことから、衣服としての機能を果していないのは明らかだった。宝石、ピアス……いくつ開けているんだ? それに、有り得ない髪色だ、サイドテールに纏められた髪は、一定しない、CDの記録面が近い、毒々しい彩光を宿している。見ていたら狂ってしまいそうだ。それとも、見つけた時点で狂ってしまっていたのだろうか。

 しゃりん?

「君は敬意が足りてないね」
「ぼ、僕」
「君以外に誰がいるんだい? 畏れが足りないね、現代っ子ちゃん」

 危険だ、こんなにも、危険を感じたのは初めてだ。恐怖とか、緊張とかの先にある感覚、畏れ、脳が轟いている。ナイフに頬擦りした方がマシだ。ごくりと唾を飲むと、喉がピリピリと痛んだ。あ、近い。

「作法がなっていない、鳥居のくぐり方くらい調べれば良いのに……ああ、スマホ持ってないの?」
「すみません」
「赦そう」

 しゃりん?

「はは、あのね、神様が寝るわけないだろう? 夜遊びするのさ、だから戸締まりしてるの。今から出かけるところだったんだよ」
「そう、なんですね」
「意外だったかな?」

 しゃりん?

「へえ……ねぇ、参拝しに来たんだろう。いいよ、拝みなさい」
「はい」

 二礼二拍手一礼だ、二礼二拍手一礼、知っていてよかった、絶対に間違えちゃだめだ。深く頭を下げると、サンダルから垣間見える、煌びやかなネイルが目に入る。二回手を打ち、最後の一礼は目を瞑って、思いっきり頭を下げた。

 しゃりん?

「良いね、心がこもっている。拍手の時は右手を少し引くと良いよ」
「ありがとうございます」

 良かった、安堵で泣きそうだった。おかしいと思うけれど、それ以上に切実だった。自分より小さい少女の姿をしているものに、何度も頭を下げる様は、客観的にはおかしな光景だろう。

「おい」

 あ。

「あのな、この姿は体の一部だよ、分社って知らないのか? 本体じゃないんだよ莫迦、確かに私は小柄な方……だが」

 あ、あ。

「おーっとっと、戻っておいで」

 あ、ああ。み、見えた。

「おいおい、しっかりしなよ」

 音、まだある。しゃりん。

「あはは、ちょい、そんなことより、神社に来たからには目的があったんだろう? 不信心者め、賽銭の一つでも投げて祈るんだね」

 ポケットの中に五円玉があることを思い出した。急いで取り出して、差し出す。これしかない、今の僕の全財産だ。

「ご縁がありますようにって? たったこれっぽっちでねぇ」
「すみません」
「本当にこれだけでいいのかい」
「こ、これしかないので」

 しゃりん?

「全てくれたら、今日の夜遊びの相手は君にしてあげるよ?」

 何を?

「どうだい?」

 しゃりん?

 てろんと出された舌先に付けられたピアスに、見られている。どくんどくんと、耳を通る血の音が聞こえる。毒だ、毒を吸わされている。僕がおかしい。美しいとは、こんなにも身体に悪いのか。終わる、何も考えられない。臓器が自由になってしまった、強烈な浮遊感。目玉に釘を打たれた、吸い付いて離れない、溶けているんだ。かゆい、痒い、助けてほしい。誰に?

「ごほっげほっ!」
「わぁ」

 刺すような喉の痛みで我に返った。初めて身体が自分のものになったような感覚、唾が苦い。街灯がちかちかと点滅する。

「けっ、え、遠慮しておきます」
「あら残念、すごいことしてあげたのにね」

 いたずらっぽく笑った後に、ピアスの付いた舌先が引っ込められると、どっとした安心感で地に足が付いた。
 完全に呑まれていた。風で体が冷やされて、自分がひどく汗をかいていたことに気が付いた。……にこやかに笑っている、心なしか嬉しそうだった。

「でも五円だけじゃあ大したことはしてあげられないな、おいで」
「は、はい」
「こら、頭が高い、下げて」
「すみません」

 ちゅっと口付けをされた、ように感じただけで、実際は指先で唇に触れられただけだったが、そう感じるほどに優しくて、愛おしかった。先程まで妖艶な大蛇のようにも思えた姿は、ぬいぐるみを抱く幼子のように暖かく見えた。緊張が嘘だったみたいに、体が軽く感じる。飼い猫とはこんな気持ちだったのだろうか。

「うむ、良い畏れになった」
「あ、ありがとうございます」
「ほらほら寒いんだから早く帰りなよ、明日は大事なライブがあるんだろ!」
「まあ一応、でも」

「もし、風邪なんてひいたら大変だから……ね?」

「え?」

 しゃりん。

 嘘みたいに跡形もなかった。聞こえるのは街路樹の揺れる音と、室外機の稼働音くらいだった。反射的にポケットに手を突っ込むと、レシートが一枚だけ出てきた、他には何もなかった。頭の痛みも、喉の痛みも、何もなかった。空は少しだけ明るんでいて、この夜ごと、なかったことになったみたいだった。鳥居を見ても、依然として扉は閉まっていて、ガラス越しにしか拝めない。
 あーっと声を出してみると、両手を合わせたように力強い声が出た。あっはは、なんだこれ。決めた、走って帰ろう、早く帰って寝よう。
 鳥居をくぐる前に、もう一度振り返る。
 神様、有難う御座います。二礼二拍手一礼、拍手は、少し右手を引いて。

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