見出し画像

小説「うつくしい世界を写して Ver.2.1」

 目を開けると、気味の悪いピンク色の景色が瞳から流れ込んで、私の脳をずぶずぶと浸した。視界がピンクに染まっている。体を動かすと、衣服の内側と皮膚の間がねちゃねちゃと粘着質な水気を挟んで、体は冷たいのに暑さで気怠いような感覚に、立ち上がるのを諦めてしまった。身を捩って起きる理由を探しても、瞼と同じピンク色が続くばかりだったから、寝ていても変わりはないよと言われているようだった。奇妙な光景への驚きと、その熱を奪うようなピンク色の泥が、私の呼吸を邪魔してくる。
 動けずにじっとしていると、突然、耳元にゴミを詰め込まれたようなノイズがばりばりと響いて、焦った心臓がばくばくと騒ぎ立てる。あんまり五月蠅いからって耳を塞ぐと、その両手を外側からガリガリと引っ掻かれる。恐ろしくて、ひたすらに縮こまって耐えていた。ノイズが止んだ時に、初めて誰かが何かを言っていたことに気がついたけれど、もう何も聞こえなかった。
 どれだけの時間が経ったかわからない。何をする気が起きるわけでもなく、ただ落ちる砂が空になるのを見届けようと、両手を合わせるばかりであった。そんな私が立ち上がることが出来たのは、胃が痛むほどの空腹と、このまま部屋を汚すのは良くないかなという本能的な意思が、身を這うような不快感に僅かながら優ったからだ。
 台所にあった、やはりピンク色の米を口に含むと、舌に擦れる粒が虫の卵のように気味悪く思えて、全て吐き出してしまった。もう一度寝ようかと思ったけれど、このまま朽ちていく不安と、どこにいても変わらないという諦めが、私に玄関をくぐらせた。
 外に出たら青い空が出迎えてくれるかもしれないという、涙ほどの希望は一面のピンク色にかき消された。ピンク色の空が、家が、地面が、良く噛んだガムのように体に張り付いて、脚を持ち上げるのが苦しい。感覚が麻痺して、どこの筋肉が自分のかわからない。脈動する舗装路が、私をバカにするみたいにどくんどくんと震えて、ついに立てなくなってしゃがみ込んだ。気持ち悪いピンク色に染まってしまった手のひらをじっと見つめて、夜が来るのを待つことにした。
 
「僕の声が聞こえる?」

 久々に人の声を聴いた気がした。声を出そうとしたけれど上手くいかなかったので、首を縦に小さく振った。
 
「うんうん良かった、外に出てこられて偉いね、頑張った」

 綺麗な声だ、そう感じたのは、雑音以外を耳に入れるのが久々だったからかもしれない。しかし、顔を上げると、立っていたのは全身が気味の悪いピンクに塗れた人だった。表情も読み取れないほどに、纏わりついたピンクをものともせずに歩く様が風景に馴染んでグロテスクだった。

「怖がらないで、もう大丈夫だから……すぐに元の世界に帰してあげるよ」

 そう言って差し伸べられた手を掴むのは、少し勇気が必要だったけれど、ピンク色でべたべたしていた手のひらからは、ここに来て初めての、温かさを感じた。



「ここはね、辛かったりとか、人を信じるのが怖くなったりして、世界のうつくしさが分からなくなっちゃった人が迷い込んでしまう場所なんだ。」

 歩くのを手伝ってもらいながら辿り着いた公園の、ピンクに染まったベンチに横並びで座る。

「これを見て」

 そう言いながら彼が取り出したのは、丸くて少し平べったい錠剤のようなものだった。

「カラフルチョコだよ、まぁ、同じ色にしか見えないと思うけど……僕はずっと見てきたから、違いが分かるようになったんだ。これが赤、これは黄色」

 指されたものは、全てピンク色にしか見えない。ピンク色でべたべたとした気持ちの悪い塊。

「意識して、これは赤色、輪郭を指でなぞってみて。世界にこれしかないってくらい、このチョコ以外の事は考えないで。色はりんごとかイチゴみたいな真っ赤で、表面はつやつやしているんだ」

 言われた通りにしていると、チョコレートは段々と鮮やかな赤みを帯びていって、輪郭がはっきりと見えてくる。気がつくと粘着質なピンク色の着いていない、カラフルなチョコレートの一粒になっていた。

「もう大丈夫みたいだね、食べていいよ、おいしいから」

 恐る恐る口にすると、カリッとした糖衣が弾けた後に、優しい甘さが舌先で転がった。ひどく久々にモノを食べた気がする。長らく忘れていた唾液が口の中に湧き始めて、自分が生きていることを思い出した。なんだか初めて、生きていることを許された気がして、鼻の奥がツンとした後に、私の止まっていた感情が瞼から溢れ出した。
 なんなんだろうここ、怖いな、どうしてこんなところにいるんだろう。気持ち悪い、寒い、重い、狭い、うるさいよ。帰りたいな、あたたかいお味噌汁がのみたい、好きな音楽をきいたり、本をよんだりしたいよ。ここにいたくないな、お風呂にはいりたい、このべたべたを全部あらいながしたい。
 ピンクの人は、私が落ち着くまで待ってくれていた。しゃくりあげる私の背中を撫でようか迷って、結局撫でなかったのが目の端で見えて、なんだか人間味を感じた。

「残りも同じようにやろうか、お腹もすいてるだろうし、練習になるから」

 言われた通りにカラフルチョコを一つずつ食べた。これまで何も食べていなかったからか、凄くおいしく感じる。全部のチョコを食べ終わる頃には、私はうっすらと色がわかるようになっていた。

「上手に出来たね、じゃあ元の世界に帰ろっか」

 そう言ってピンクの人が取り出したのは、あまり目にした事のない形のカメラだった。

「インスタントカメラだよ、撮った景色をすぐに印刷できる」

 カチッっと音がした後、カメラの下側から一枚の写真が出てきた。

「世界ってのは、つい忘れてしまうけれど、元々うつくしいものなんだ。カメラはね、なんでもない風景のうつくしさに気が付かせてくれる」

 渡された写真には、公園の風景が写っている。汚らしいピンク色に塗られた公園の写真。

「写真を見て、他の所を見てはいけないよ、ひとつひとつ意識しよう。ブランコの座る部分は青色、学校のプールと同じ色だよ。その下は? 雑草は緑色、たんぽぽが咲いているね、これは鮮やかな黄色。このパイプは赤色をしている、最初に食べたチョコレートと同じ色……」

 意識する度に、少しずつ写真が色づいてくる。いつも見ていた公園の景色が、こんなにも鮮やかに彩られていたことを初めて知った。それは、紛れもない、うつくしい景色だった。

「段々と元の景色が見えてきたかな、なんでもないけど、綺麗でしょ」

 ピンクの人が嬉しそうに言った。きっと、この人は世界のことが好きなんだなと思った。けれど、それなら、どうしてこんなところにいるんだろう。

「そろそろ写真が完成したかな、そしたら、じっくり見て、この景色を覚えるんだ。ゆっくりでいいよ……そして、覚えたら目を瞑って、ゆっくり前を見て、目を開けるんだ」

 最初は、気持ち悪い姿だと思ったし、怖いとも思ったけど、今は、もう、そうは思えなかったのだ。きっと、この人も人間で、誰かに助けて貰わなくちゃいけない一人なのではないか。

「このカメラは君にあげる、世界のうつくしさが分からなくなったら、これを使って思い出して、絶対に戻ってこられるから」
「あっ、あっあの!」

 思ったより大きな声が出て、自分で驚いてしまっし、ピンクの人も驚いているようだった。

「喋ってくれて嬉しいよ、どうしたの?」
「あ、あなたは、帰らないんですか」

 どろどろとしたピンク色で表情は伺えなかったけれど、私には、少し困っているように見えた。

「僕は……世界のうつくしさは知っているけれど、僕自身はそうじゃないんだ。だから、ここから出るわけにはいかない」
「で、でも! ダメだと、思います、助けてくれたし、残していけません」
「僕は、外に出ていいような人間じゃないんだ」
「ダメです、一緒に来てください」
「うーん……じゃあ、君が帰った後、僕も帰るよ、だから安心して」
「約束です」
「うん、約束ね」

 もう一度視線を落として、写真の景色を目に焼き付ける。青い空を、土の色を、ブランコの鎖のひとつひとつを。私は一つ深呼吸をしてから、目を瞑って前を向いた。
 目を開ける直前、よくできました、と、優しい声が聞こえた気がした。



 目を開けると、ごーっと、空から飛行機の音がした。
 私の視界には、色が戻ってきていた。
 風が涼しい、自分の服装を見ると、部屋着のまま外に出てきてしまったようだった。
 立ち上がろうとして、手にカメラを持っていることに気がついた。使い古したような四角いインスタントカメラが、水色をしていたことに初めて気が付いた。
 座っている公園のベンチの隣には誰もいない。
 
 私はカメラを手にとって、ベンチを写す。
 そこには誰も写っていないけれど、意識する、私を助けてくれた、あの人のことを。姿、形を、鮮明に意識する、記憶から消えてしまう前に。
 そうして、ギュッと目を瞑る。
 きっと、あの人は、自分を責めるために、あの世界にいるんだろう。
 もしかしたら、凄く悪いことをしたのかもしれない。
 でも、それで、誰もいない場所で償い続けるのだろうか。
 あの人のことは、誰かが許してあげなきゃいけない。
 
 バッと目を見開くと、そこには、ピンク色の剥がれた姿をした、あの人がいた。

「……! 呼んだ、のかい?」

 ピンク色のしていない、はっきりとした表情で、困惑している。
 初めて見る顔だったけれど、結構長い間、見ていた気もする。

「いいかい? 僕は、この世界と違って、うつくしくはないんだ。この世界に居てもいいような人間じゃないんだよ」
「あなたが昔に何をしたかとか、知りません」

 同じように、君にも気付かせてあげるんだ。

「私の声が聞こえますか?」 

 私は、君にカメラを向けて、シャッターを切った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?