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小説「空と幻肢痛」


 残酷なまでに晴れていて、馬鹿みたいに暑い夏の日だった。空の中に君がいた。
 六階建てビルの屋上、扉を開けた先、一歩踏み出せば、天に手が届く場所だった。
 はじめ、僕は分からなかった。君が風を連れていたから、どこかに行こうとしているんだと思った。だって、下ではなくて、上を見ていたから。わざわざ一番高い塀の上で、見上げていたから。
 だから僕が声を出したのは……案外、君と仲良くなりたかっただけなのかもしれない。
 君は僕に背を向けているから、顔も、名前も、靡く黒髪が長い理由も知らないけれど、心臓が聞いたこともない音を出していて、嬉しいのかも悲しいのかも分からなかった。僕の頭はそんなことでいっぱいで、口から出たのが「早まるな」なのか「はじめまして」なのかも分からなかった。
 君はゆっくりと振り向いて、少し驚いたようにして……不意に、にやりと笑った。僕を襲ったのは、非常に悪い予感。

「じゃあ、全部あなたのせいね」

 彼女は小さくジャンプして、飛び降りた────

 ……。

 こちら側に!

「うぎゃっ」

 そうなれば、縁を蹴る予備動作を見て、咄嗟に駆け寄っていた僕と激突するのは当然の摂理だった。
 細身の少女とはいえ、全体重を乗せた強烈なヒップアタックを顔面に受ける。
 すごく痛い、微かに血の味がする気がする。

「あっごめん、大丈夫?」
「い、いや全然、それより、はぁ……びっくりした、本当に落ちたのかと……」

 そう言うと君は、よく分からないといった顔をした。予想外の表情だったから、僕は困った。

「落ちたりなんかしないわ」
「でも、あんなギリギリの場所に立ってたじゃんか!」

 依然として青い空。
 あー。
 君はまた、少し驚いた顔をして、にやりと笑った。

「ひとっ飛びしようとしていただけよ」

   空と幻肢痛


 少し強い風が吹いて、窮屈そうにわさわさと、木の葉が擦れる音がする。夕陽に焼けた木の葉はそれでも尚、お互いに無関心で、散りゆく葉に手を伸ばしたりはしない。無論、散る葉の方も。僕は目をずらす──どこかの家の、めっちゃ美味しそうな晩ご飯の香り。お腹が空いたなぁ……黒アリが、大物に群がっている。セミの死骸だった。たった一週間でパートナーを見つけなきゃいけないんだから、死に方は選べないのだろう。無残なものだった。巣穴まではそこそこ距離がありそうだけれど、小さな体でご苦労なことだ。そうでもしないと生きていけないんだろう、哀れ憐れ。でも、これだけの大物があれば、二週間は食べていけるのかな……うわ、それって凄い。仮に僕がアリのサイズだったとして……セミがローストチキンだとして……お腹が空いたなぁ……僕は目をずらす──石畳、電灯、羽虫、胡椒の焼ける香り、茶色のドア……これは僕の家だ。

「ただいま」
「ん、おかえり端(はした)! 今日の晩御飯もスクランブルエッグだよ」

 端というのは僕の名前で、目の前にいる可愛いエプロンの──スクランブルエッグの為にわざわざエプロンをつけている女の子は猫ちゃんという。猫ちゃんはいつもこうやって僕を迎えてくれる。ルームシェアを始めるときに決めたルールで、どちらかが料理をしたら、もう片方が明日の洗濯と掃除をするってのがあるんだけれど、猫ちゃんはコインランドリーに行くのが嫌いみたいで、いつも早めに帰って料理をしている。猫ちゃんが作る料理の七割はスクランブルエッグなのだけれど、僕は好きだし、猫ちゃんも好きだから、誰も文句を言わなかった。

「じゃあ、今日はケチャップで食べよう」
「わかった」

 僕のすることと言えば、責任を取ることだけであった。不味かったら、ケチャップと僕のせいにするのだ。
 といっても、猫ちゃんも料理の腕が上がってきたし……スクランブルエッグだけだけど。それ以外にも、猫ちゃんがアフロって名付けた安いサラダや、豆腐とか、お味噌汁と、お米があるから、意外と楽しいものだった。
 至って満足であった。生活は幸せに溢れている。
 猫ちゃんは俗に言う幼馴染ってやつだ。幼稚園と小学校は一緒だったけれど、中学と高校は僕が遠くの学校に通っていて……スマホも持っていなかったし、関りがなかった。でも、偶然にも大学が同じで、再会することが出来たんだ。猫ちゃんの学力にしてはやや低いレベルの大学で、僕からすれば高めのレベルだった。猫ちゃんは、僕を見つけた時には手を振って喜んでくれたし、当たり前みたいに仲良くしてくれた。僕は、それがどうにもこうにも嬉しくて、それに答えたくて、実家から通学していた猫ちゃんに、こちらからルームシェアの提案をした。
 猫ちゃんの親御さんが許すか不安だったけれど、親御さんは猫ちゃんの、その、将来というか、行く末を酷く心配していたらしくて、貰い手がいて嬉しいだとかなんとか、最終的には泣きながら猫ちゃんを頼むと言われてしまった。そこまでのつもりではなかったけれど、これで引くのも申し訳なくって、それでも勇気がなかったから、なんだか曖昧にしてしまった。
 やや広々とした部屋も、二人で使えば狭いものだった。その狭さを、僕も猫ちゃんも良しとしたので……だから何だと言ったところなのだけれど、それが僕と猫ちゃんの接触に対する言い訳として機能していた。要するに、この部屋にベッドは一つだった。敷布団はあるけれど、どちらで寝ていても、猫ちゃんは僕の寝ている方にわざわざ来てから寝るので、あまり意味はなかった。
 猫ちゃんはよく、「空気が重たいよぉ」と言って、僕へもたれかかった。空気に重さなんてあるわけないじゃんか、と言ったら、空気力学がどうとか、流体がなんとか、よく分からない話をしながら叱られた。猫ちゃんは時折よくわからないことを言うけれど、目つきは真剣で、まるで僕なら分かると思っているみたいで、そんなところが好きだった。僕は、よく目を逸らされてきたから、嬉しかった。

「ねぇ端、こんどさ、山行こうよ」
「山?」
「うん、たぶん、空気軽いよ」

 猫ちゃんはベッドの上でくつろいでいた僕にくっついて、ほんの少しだけ話をして、すぐに眠ってしまった。僕が離れると、猫ちゃんはすぐに目を覚ましてしまうから。そばにあったリモコンをつかって電気を消した。エアコンの設定が強いままだったけれど、リモコンが遠くにあったので、タオルを多めにかぶって寝た。

 夢を見た。小学生のころの……僕も猫ちゃんもよく、近所の公園で遊んでいた。遊具はたいしてないけど、花畑が広かった公園で。猫ちゃんは僕が作った花のかんむりをしていて、すごくよろこんでいたから、もうひとつ作ったら、一つでいいよって……そのかんむりは……


 ごうんごうんと回り出す。三百円でよく働くもんだ。回る衣服を尻目に、僕はビルの屋上へと向かう。バカと煙は高いところが好きって言うけれど、コインランドリーの丸椅子に座ってボケっとしている方がバカっぽい気がするし、古来よりバカと言う方がバカらしいから、きっと高いところにいるバカは、まだマシなバカなんだ。
 言い訳をしながら、階段を足で叩いていく。額から汗が滴る、コンクリートの屋内は、外より暑い。それでも上る。特に、屋上へ繋がる最後の十数段は、ドアの小窓から日が差し込んで、熱された空気が溜まるように、焼けるように、特別暑い。
 ドアノブは熱くて重たい。開けようとすると空気が水のように押し返してくる。猫ちゃんの言っていたのはこういうことだなって思った。
 ごうっと風がぶつかってくる、汗がまるごと吹き飛ばされるような、気持ちの良い風。その先で、彼女は屋上の縁に座っていた。

「そろそろ常連ね、貴方」
「コインランドリー自体には三ヶ月前から通ってるけどね」
「そうじゃなくて、屋上自殺クラブの常連」

 ひどいネーミングだ。

「まぁ、私は死ぬ気なんて更々ないのだけれど、あの時も、本当に飛びたかっただけ」
「そっちの方がヤバいじゃん」
「そう? 子供だってよく歌っているじゃない」

 このおおーぞらーに……彼女は子供みたいに歌いながら屋上を旋回する。変人だった。
 なんて思いつつも、ランドリーの待ち時間を潰すついでに、付き合ってしまっている。僕は変人が好きなのかもしれない。猫ちゃんも……ちょっと変なところあるしな、好きだけど。ともあれ、エアコンの効いた丸椅子の上より、この屋上の方が好きだった。
 彼女についても少しずつ分かってきていた。といっても、名前が瑞産(みずうみ) 可角(かすみ)ということと、ミカンが好きということくらいだけれど。名前を教えてくれたのが結構最近で、嬉しかったのを憶えている……名前を呼ぶのは許してくれなかったけれど。最初の方は内緒にされていたんだ、何故か。多分理由は無くって。そういう人だということも分かってきていた。
 少しして、彼女は屋上を一周して戻ってきていた。

「すごく疲れたわ」
「弱っ!」

 彼女は重度の運動不足だった。
 日陰になっている場所に隣り合って座った、屋上の塀に背を預けて。日の当たらない場所から見上げる青空は、なんだか涼しくて、泳げそうだなって思った。
 彼女が何も喋らないので、僕も黙っていた。ただ、傍にいるだけってことを、許されているみたいで、心地よかった。
 風が気持ちよかったので目を瞑った。風は呼吸のようだった、僕は風に合わせて息をした。彼女も息をしていた、微かな汗の香りを纏って。
 不意に彼女を見た。目が合った。睫の距離が思ったよりも近くって、僕はすぐに目を逸らしてしまった。じりじりと夏の音がして、空は依然、青かった。

「空を見ていると、背中が痛むの」

 そんなとき、彼女がひとりごとのように、ポツリと落としたので、僕はそれを受け止めないといけなかった。いつもと違う雰囲気に、ドキドキしたりしながら。

「ないのよ、記憶。むかしの全部」
「え……」

 彼女はすました顔をして、口を開いた。
 なんでもないように。
 冗談でもなんでも。

「半年くらい前……目が覚めたら……病院にいたわ、自分のことも周りのことも何もわからない状態で。大人の人にいろいろ質問されたけれど、何も答えられなかった。みんな困っていたのを覚えてる、一番困っているのは私なのにね……それから私が着ていた服に書いてあった、四文字の漢字を名前ってことにして……調べたけど、瑞産なんて苗字の人、いないらしいわよ。何なのかしらね、これ。意外と服の制作会社だったりしない?」

 彼女は首をかしげて、困ったように笑う。普段、面白いことを言うときの癖だった。
 僕は、どんな顔をすればいいのか分からなくって……

「空を見ていると背中が痛い……けれど、ほんの少し、ほんの少しだけ、懐かしい気がして」

 彼女が立ち上がって眩しそうに空を見上げたから、僕も真似して上を見た。お天道様は僕たちを親のような目で見守っていて、見守るばかりで、今の彼女に手を差し伸べないのは、ネグレクトのようにも思えた。
 流れてきた雲に隠されるまでの、少しの間。僕たちは太陽を見上げていた。
 どうして、この話をしてくれたのか、わからないけれど。
 きっと、彼女は変わろうとしていて、僕も、変わらないといけないんだと思った。

「僕は……」

ピピピ、ピピピ、ピピピ。
 洗濯の終わりを知らせる、四十分のアラームだった。

「ごめん、今日はもう行かなきゃ」

 なんだか、つらくて、僕は急ぎ足でドアの方へ向かった。
僕はいつも、勇気がなかった。

「ねぇ端くん」

 彼女が僕を呼び止めたのは、これが初めてだった。声色が、ほんの少しだけ縋るようで、寂しそうで……
ふと、彼女にとってはこれが、初めての夏であることを思い出した。

「もし、良ければなんだけど」

 僕が振り返らなかったから、彼女の表情は見えなかったし、彼女も僕の表情は見えなかったと思う。

「……いや、やっぱり何でもないわ。またね」

 ドアを開けると、やっぱり風が吹いた。汗が冷やされて、涼しかった。
 夏の暑さは、マシになりつつある。


 僕が帰ってきてドアを開けるのと、猫ちゃんがシャワーを終えたのは同じタイミングだった。
 いつもと帰る時間が違ったからだ。僕は少し後悔した。

「お、おかえり」
「ただいま」

 猫ちゃんはタオルで体の前を隠していて……いや、僕は……見なかった。
猫ちゃんは少し恥ずかしそうにシャワー室へ戻って、僕はなんでもないように、出来るだけなんでもないように。荷物を置いた。
 なんでもない、なんでもなかった。
 ただ、僕は、猫ちゃんが好きで。猫ちゃんは僕が好きで。
 それだけだった。


 相も変わらず飽きもせず、よく晴れた日だった。屋上で、彼女は寝ていた、仰向けで。
 掃除がされているわけでもないだろうから、あまり綺麗ではないと思うし、スカートだしはしたないんじゃ……

「来てくれると信じていたわ……」

 彼女は僕に気が付くと、首を傾けて、こちらを見た。彼女の纏う雰囲気と、ポーズの滑稽さがあべこべだ。大雑把に露わにされた、白いふくらはぎが眩しかった。
 確かに、空を見るなら仰向けで寝るのが一番良いのか。効率的ではあるな。僕が感心していると、少し困ったように、彼女にしては申し訳なさそうに言った。

「立てないの、お腹、痛すぎて……」

 事態は思ったより深刻なようだった。僕は反省した。

「ちょ、大丈夫?」
「全然、大丈夫じゃないわ、手伝って」

 彼女の背中に手を回して、上体を起こす。彼女は恐ろしく軽くて、細かった。彼女の体はひどく熱くって、不安になるほどだった。

「あついよ……熱、あるんじゃないの」
「それは照れているだけよ」

 ──彼女は冗談を言った。手のひらに触れる、しっとりとした汗の感覚が、身体の形が妙に気になった。……暑い。なんとか塀の陰にもたれかからせる。彼女は凄く軽かったけれど、僕も力が無かった。

「最近、あんまり調子が良くなかったの……私が忘れているだけで、重い病気だったりしてね」
「そんなこと言わないでよ……」
「端くん、私、火葬がいいわ」
「あまりにデリケートだよ……」

 余裕があるのかないのか、分からなかった。

「もし、私が死んだら、悲しんでくれる?」

 ただ、余裕が無いのは僕の方かもしれなくって。

「あたり前じゃないか……」
「そう、じゃあ、死んでもいいわ」

 心臓の音が、痛い。
 彼女は僕を見つめていて、僕も彼女を見ていて、やっぱり、僕が先に目を逸らした。

「……なんか、飲み物とか買ってくるね」
「……ちょっとまって端くん」
「オレンジジュースだよね、わかってる」
「まって!」

 彼女は大きな声を出しなれていなかったのか、けほけほと咳き込んだ。少し涙目になりながら、こちらを……いや、僕の先にあるドアを見た。

「誰か来る」

 僕もドアを振り返る。思えば、屋上に通い始めてから、彼女以外の誰かに遭遇したことはなかった。屋上の真ん中にあるドアを、二人で注視する。
 耳を澄ますと、足音が近づいてきているのがわかった……あれ、これって──
 ガチャリとドアが開いて、聞き慣れた声がする。

「端、やっぱりここだったんだ。高いところ好きだもんね」

 開いたドアから出てきたのは猫ちゃんだった。手には僕の財布を持っていた。
 僕は呑気に、あぁ、これで飲み物とか買いに行こうとしていたのか、とか思った。

「端くん……知り合い?」
「あれ、端、その方は?」

 呑気な場合ではなかった。あれ、これは。なんかやましい気がする。いや別に、なんでもないのだけれど。こういうときってほら、なんだっけ。

「違うんだよ」
「「何が?」」

 違うんだよ……
 と、僕が二回目の言い訳をしようとした時だった。

「あぐっ……」

 彼女は苦しそうな声を上げて、蹲った。
 僕は駆け寄ろうとして──迷った。こういうとき、僕は昔からてんでダメだった。勇気も何もなくて、ぐしゃぐしゃで、挙句、猫ちゃんの方を振り向いた。
 猫ちゃんは、難しいことを話すときの、真剣な顔をしていた。僕が好きな、猫ちゃんの顔だった。

「行ってあげてよ端、あの人、空気が重たそう」

 駆け出した──僕は……なんて情けないんだ!
 近寄ると、彼女は苦しそうにして僕の肩を掴んだ。僕も彼女を支える。息が荒い。

「端く……ん、私……」
「可角さん、ゆっくり、呼吸をして。僕ならいるから」

 彼女は僕の肩を、痛いぐらいに強く握った。彼女の苦しみが伝わってくるようだった。汗か涙か分からないものが滴り落ちていて、ひどく辛そうだった。僕は声をかける他に何もできない。

「今……どさくさに……ぅ名前……呼んだわね……」
「ご、ごめん、でも」
「ま……って、なに、あ、ぁ……ぁ……ぁぁあーーっ!」

 ごろん。

何かが転がり落ちるような音。
 同時に、彼女から力がフッと抜けた。
 倒れないように背中を支える。

「はぁ……はぁ……はぁ…………はぁ……」

 彼女だけが、荒い呼吸を落ち着かせようとしていて。僕と猫ちゃんは言葉を失っていた。
 視線の先は、彼女の少し横にあるもの。
 白く、楕円形で、見慣れた形。
 手のひらを広げたほどの大きさの。
──卵だった。

「は、端、これって……」

 猫ちゃんが先に喋りだしたけれど、言葉に詰まったようだった。僕も、どうすればいいのか、わからなかった。
 結局、僕と猫ちゃんは、彼女の呼吸が落ち着くのを待っていた。待たざるを得なかった。
 すごく長い時間が経った気がした。実際には一分もなかっただろうけれど。
 風が何度か吹いて、彼女は口を開いた。

「思い出した」

 彼女は状態が良くなったのか、一人で立ち上がって。近くに転がっていた……卵を、愛おしそうに拾い上げながら。

「ねぇ端くん」
「な、なに?」

 彼女は困ったように笑った。なにか吹っ切れたようで、笑顔だったけれど、理由を知るのが恐ろしくて、聞き返したことを後悔するほどだった。

「背中が痛いって言ったじゃない、私」
「うん」
「違ったわ、痛いのは背中じゃなかった」

 卵を抱きかかえた彼女は、凄く遠いようで、懐かしいようで、一言で表すならば、神話的だった。

「昔、捥がれた、翼が痛かったんだ」

 なんでもないように、彼女は言った。
 冗談でもなんでも。

「私、人間じゃなかったみたい」

 ……。

 僕は、引き留めたかったんだと思う。
 でも、彼女が綺麗だったから。
 名前が間違っているかもしれないから。
 後ろに猫ちゃんがいたから。
 出来なかった。

「卵、お願いしていい?」

 彼女は、まるで、どこかに行こうとしているかのように。
 当然のように、僕には断れなくて。

「よろしくね」

 彼女が背中を向ける。

「まって!」

 僕は叫んだけれど、両手が卵でふさがっていて、君を掴むことはできなかった。
 分からなかった、すべてが突然だから、感情が、ぐしゃぐしゃで。何を言いたいのかも、何を言えていないのかも。

「本当に悲しんでくれるのね」

 そんな彼女は、ゆっくりと振り返って、指先で僕の胸に軽く触れながら。

「嬉しい」

 初心な少女みたいに、恥ずかしそうに、顔を赤らめた。

「でも、そんな顔しないで」

 ああ、君は。
 あの時と同じ、ギリギリに立っていて。
 そんな風に、にやりと笑った。

「ひとっ飛び、するだけなんだから」

 そうして彼女は、六階建て屋上から、小さくジャンプして──
 僕は縁へと駆け寄った。勢い余って落ちそうになった、猫ちゃんに服を引っ張られていなければ、危なかったかもしれない。

 夢だったんじゃないかって思った。
 だってそうだ、ここは六階建ての屋上で、一番高い場所で。
 僕は縁から、世界を見下ろしたのに。
 君は、世界のどこにもいなかった。
 夏にぽっかり穴をあけるように。

 もし、君が落ちていないのだとしたら。
 落ちたのは、やっぱり僕だけだったんだろう。


 あのことに対して、猫ちゃんは多くを聞いてこなかった。猫ちゃんでも、分からなかったんだと思う。それでも一言、「私がいるよ」とだけ言って、いつも通りに過ごし始めた。猫ちゃんは僕よりずっと強かった。そんな猫ちゃんがそばにいたからか、僕も、夏が終わり始めるのと共に、日常に戻っていった。
 コインランドリーには通い続けたけれど、屋上には行かなかった。丸椅子に座って、ボケっと……僕らしく、バカらしく、座っていた。
 丸い窓のなかで回る衣服を見ながら、きっと、大丈夫だって、理由も、根拠も、信頼もない自信をみつめて思う。
 この出来事も、段々と忘れていくんだろう。
 ただ、部屋の隅に、毛布の上に、大きな卵を一つ残して。
 数日が経ったとき。
 それは家に入ってすぐだった。
 猫ちゃんはキッチン前の床にへたり込んで、涙を流していた。

「猫ちゃんっ……!」

 一瞬にして、どうしようもないほどの怒りが湧いてきた。僕は、猫ちゃんが泣いているところを初めて見たから。いつも笑っていて、悲しいことがあっても、困り笑いを浮かべるばかりだった、猫ちゃんが。誰が、何があって、どうして。そんな考えが去来しては、後悔と怒りを胸に積もらせた。
 猫ちゃんはこちらに顔を上げると、ぶわっと涙を溢れさせた。

「ごめんっ……端……ご、ごめんね……私……」
「猫ちゃん、大丈夫だから、ゆっくりでいいよ、猫ちゃん」

 猫ちゃんを胸に抱いて、背中を撫でる。ふと、地面についた膝に冷たい感覚があった。濡れたような、妙な、馴染みのある粘り気だった。
 きっと、べしゃりとか、ぐしゃ、とか、そういった音だったのだろうと思う。
 地面に埋まるようにして、卵が割れていた。

「ごめんっ……ねぇ、卵、悲しくて……なんだかね……すごく悲しくって、ぇ……落としちゃった……ごめん……端……」

 ひたすらに、情けなくて、申し訳なかった。これは、全部僕のせいじゃないか!
 猫ちゃんを強く抱きしめて、抱きしめることしか、できやしなかった。

「ごめんね、猫ちゃん……ごめん、僕が悪いんだ……ごめんね……」
「嫌いにならないで……私……端……うえええん……」
「ごめんね……」

 猫ちゃんと僕は一通り泣いて。疲れて寝てしまった猫ちゃんを、僕がベッドに運んだ。この日は僕が離れても起きなかった。猫ちゃんの心労を鑑みなかった自分を呪った。猫ちゃんだって……女の子だってことに、目を逸らしていた。それがどうしてかといえば、やはり僕に勇気がないからで、重ねて自分を呪った。
 呪われた僕に出来ることと言えば、卵を片付ける事くらいだった。卵の下半分はぐしゃぐしゃで、白身のような液体が漏れ出ている。きっと、上半分の、一番大きな殻を取るのは、僕の人生最大のトラウマになるんだろうな……なんて思った。ただ、僕がやらないといけないから、逃げることも出来ないし、僕もそこまで落ちぶれていない。
 卵の上半分を手に取る──当然ながら、ものすごく軽い、ただの殻に過ぎなかった。
 蓋を取られた卵は、本来とは違う形で、内側をさらした。

 卵の中は──空だった。

 この話は、ここでおしまい。 
 僕たちはおかしなものを信じていただけで、何も残すことも叶わないで。ただ、これに、青春と名を付けて蓋をした。
 ただ……ただね。不思議にまみれて、何も分からなかったけれど。一つだけ引っかかることがあったんだ。
 その予想が、もし当たっていたら。能無しで、勇気も無くて、力の無い僕にも。まだ、少しだけ続く人生があって。
きっと、もう一仕事しないといけないんだって、薄々、感じてる。
 そんな解釈も、ひとりよがりで、都合が良くて。
 きっと蛇足だ。


 僕は屋上にいた。風に流される煙を目で追っていた。思えば、なんとなく避けていたんだと思う、屋上という存在を。それでも、僕はまた、屋上にいた。かっこいい理由があるわけでも、成長があったわけでもなくて。どうもなんらか運動がどうとか、なんとからしくって、日に日に、喫煙所は少なくなっていって……時代に追いやられる形だった。
 足が竦むんじゃないかと思ったりしたけれど、いざ来てみれば、どうということもなかった。あれから何年だったか……このビルは四階建てだから、あの時よりは少し低くなる。空に行くには、やや遠い高さだ。
 なんだかんだ、社会の義務に飲まれた後も、幸せに生きて居られている。僕なんかが生きていられるのは、正直良く分からなくなるけれど、なんだかんだ。誰かのおかげだとするのならば、やはり猫ちゃんのおかげだった。
 僕と猫ちゃんは正式に付き合うことになった。恥ずかしいけれど、恋愛的な意味だった。それで、大きく何かが変わったわけではないけれど……僕から言い出した時の猫ちゃんは嬉しそうだったから、それだけでもいいかと思った。思えば、猫ちゃんはずっと、ずっと待ってくれていたように思う。こんな僕の事を。そして、僕は猫ちゃんのそんなところが好きだ……あの頃の猫ちゃんはもう少し、マイルドだったなぁ。今となっては、まぁ、変わらずふわふわとしているけれど、たまにキツいことを言うようになった。特に、タバコに対しては苦しい。最近は「一緒に洗濯しないで」なんて、年頃の娘みたいな文句を言われ、僕は年頃の娘を持つ父親みたいに傷ついた。猫ちゃんはいつも正直だから、以前より遠慮が無くなったと捉えれば、ひたすら可愛いものだけれど。変わったことと言えば、あの日から猫ちゃんはスクランブルエッグを作らなくなった。おかげで……というのは違うかもしれないけれど、料理のレパートリーが増えて、食事がより楽しくなった。スクランブルエッグばかり作っていたから気が付かなかったが、猫ちゃんは思ったより料理が上手かったのだ。
 ……どうして昔のことを考えているのかというと、やはり今のこと、現在を見たくないから、逃避しているからになるのだろう。
 僕は、見て見ぬふりを続けてる。先ほどから、屋上にいる、中学生くらいの子供から。
 嫌でも目に付くのは、背中から生えている、身長の半分ほどの翼だった。白い、白い、雲のような翼だった。
 そして、なにより、似ていた。一瞬だけ目が合って、僕はすぐに、バッと視線を逸らしたけれど。やけに長い、黒い髪も。すました顔も。「彼女」に似ていた。
 僕は……上手く言えないけれど、ひどくやましい気持ちになった。

「端さん、ですよね」

 ああ、話しかけられてしまった……

「どうしたのかな? ちなみにここは喫煙所として、使って、僕が勝手に使っているから子供がいるのはよくないし、大体私有地だし、屋上は危ないし、学校はどうしたの? ちなみに僕は確かに端だけれど、以前とは精神性も全く異なるニュー端だから、昔のことについて聞かれても困ったりするなぁ特に卵のことは」

 僕は舌が回った。口も滑った。
 トリプルアクセルだった。

「私は瑞産可角の娘です」

 オーマイガッシュ。

「あなたを迎えに来ました」

 オーマイ……
 娘さんは変わらず澄ました顔をしている。

「僕はさ……薄々思っていたんだけど、それでも聞くんだけど、君は、そのさ……空に行ったの? やっぱりというか……」
「はい、落としてくれてありがとうございます。おかげで母に会えました。そして、今は私が迎える番です」

 娘さんは、屋上の縁に立って、手をこちらに差し出した。いろいろ聞きたいことがあるのだけれど……
 見下ろす。
 四階建ての屋上。ギリギリ、いけるかどうかってところだろう。
 案外、すごく痛いだけかもしれない……漫画とかでも、読んだことあるから。ぐるっとまわって、着地するやつ。

「際どくないかな──凄く痛いだけな感じもするよ、この高さだと」
「といっても、ここら辺はどこも低いですし……」
「それに、僕にだってね、生活やらなんやら」
「もう! いいじゃないですか」

 娘さんは……彼女は、少し怒った顔をして、それから、にやりと笑った。
 空は、あの日と同じ青色だった。

「全部、あなたのせいなんですから!」

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