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言葉で人の言葉を奪う人

 匿名アカウントによる誹謗中傷が話題になっている。今に始まった話ではない。一昔前の匿名掲示板は、この比ではなかった。それが今になってこれほどまでに人々の注目を集める理由は、もちろんSNSの構造上の問題など色々あるだろうが、一番大きいのはおそらく数の問題で、多くの人間がインターネットの中に生きるようになった世界になったということに尽きるだろう。

 去年、神戸市の小学校教諭が同僚をいじめていた事件が話題になった。報道の次の日、偶然私は朝礼放送で訓話をする当番にあたっていた。確か(別に好きでもない)落合陽一の言葉を引用しながら、「まず手を動かすことの大切さ」のような話をする予定だった。それが報道を知って、なぜか気持ちが変わった。朝礼ではニュースに触れた後、大体次のようなことを言った。
 「教員の私が言うのはおかしいのはわかっている。ただどうか、学校の先生もいじめをするんだという好奇の視線でこの悲劇を消費しないでほしい。人は誰もが暴力性を内に潜めている。それを自覚して、いかに抑制するかが大事なのだ。私は大丈夫だと思ってはいけない。自分の暴力性と向き合って、次に加害者になるのは私かもしれないと思って、いじめというものを捉えてほしい。」
 勢いとはいえ、こんなスキャンダラスな話題を放送で取り上げて訓話をしてしまったことを後悔したのだが、その後で同僚の教員たちが「よく言った、とても良かった」と言ってくれて安心したのを覚えている。
 あれだけ日本中が注目したニュースも、もうみんな忘れてしまったようだ。

 いじめは線引きが曖昧なことが問題とされているが、この特徴は誹謗中傷にも当てはまる。受け手が傷つくかどうかという曖昧な線引きは、難しい。

 誹謗中傷はもちろん、匿名アカウントの中には、高圧的な言葉で圧迫することで、他者の言葉を奪う人間もいる。連中は常に他人の粗探しをしている。対話をするつもりなど鼻からない。それにも関わらず、人の発した言葉の弱点を探して、「論理」や「議論」の名の下に、受け手をただ否定するためだけの言葉を投げつけてくる。それは、字面の上では暴力的ではないかもしれない。その人のバックグラウンドを否定するわけでも、人権を犯す直接的な言葉の暴力を使うわけではない。でも受け手にははっきりとその「敵意」と「悪意」が伝わる。これは言葉のずるい使い方だ。挑発に乗って言い返すと、土俵に乗ってしまうことになる。相手の思うつぼだ。

 なんだか、路上で不良に「絡まれる」のに似ている。中には自分も不良になって、殴り合いの喧嘩を始めてしまう人もいる。しかしほとんどの受け手は、「不良」が興味を失くすのをまって、じっと無視するしかない。本当は誰も相手をしないだけなのだが、当人は同じような仲間と群れて、言葉の弾幕で自己防衛をしたつもりになっている。
 現実の不良は自分が不良であることを自覚しているが、「ネット不良」の場合は自覚がないぶん、もっとたちが悪い。言葉を巧みに使うから、慕う人間が多かったりする。それは数の暴力につながる。ここでやはり私は「いじめ」の仕組みを思い起こさずにいられない。

 誰が見ても称賛できる100点満点の考えを140字で発信するなど不可能だ。それが人間の考えであれば当然だ。
 明確な悪意で人を傷つけようとする人ばかりではない。つい不用意な言葉で、たまたま見た人を不快にしてしまう可能性は誰にでもある。現実世界では、これはある程度許容される。しかしなぜかネットだとそうはいかない。
 なぜか。それは非難する側が愉快でやっているからだ。それも安全な立ち位置から。

 人の発言の不完全性に対して「言葉を発信する人間は受け手への想像力を持っていなければならない」という責任論がある。だがこれは発信者に対して容赦ない非難を浴びせることを正当化したりなどしない。しかも悲しいことに、そうした言葉を発信者にぶつける「新たな発信者」となるその時点で、先の責任論に自ら背いていることに無自覚なのだ。「ネット不良」はしばしば自己矛盾する。それも、言葉で人を圧迫する連中の特徴だ。彼らの発する言葉に意味などない、ただ空虚な「論理」で人をやり込めるのが愉快なだけだ。ちょっと観察すれば、すぐわかる。

 誰もが完璧に言葉を扱えるわけではない。それは批判する側も同じはずなのに、常に戦闘態勢で他者を牽制し続けることでしか自分の立ち位置を守ることができない弱い人間に、多くの人の言葉が奪われていくのを、SNSでたくさん見てきた。

 みんな辞めていった。次は私の番かもしれない。

 この文章を読んだネット不良が、今もほくそ笑んでいる気がして。

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