ツール・ド・フランスに見る個人と共同体の関係性

目の奥に鮮烈なイエローの残像を残しつつ、美しい街並みを走る自転車の集合。
ドローンが映し出す集合は滑らかに道なりを移動していく。無言で進行する塊と相反するように、周囲からは賑やかな歓声が響く。
自転車レース ツール・ド・フランス。
わたしも例にもれず、毎日のレース実況に胸を熱くさせています。

特に印象的なのはゴール間近の接戦です。一人の選手が突然速度を早める。残された体力とゴールまでの距離、そして周囲の選手たちの状況を読んで、今だと思うタイミングで勝負をかけます。それに呼応するように次々と選手たちのペダルが回り始めます。その張り詰めた筋肉と空気が画面を飛び越えて伝播し、こちらも息を呑んで釘付けになります。

ツール・ド・フランスは毎年7月にフランス近辺で開催される自転車競技です。選手は23日間ほぼ休みなく毎日走り続け、走行距離は合計約3500km前後にも達します。北極から赤道までは10,000kmなので、その約3分の1を人力で移動していると考えると感嘆の声がもれます。

きっかけはNETFLIXでドキュメンタリードラマを見たことが始まりでした。複数話で構成されたドラマは2022年のレースを日ごとに振り返りながら、名選手のインタビューやレース期間中のチームのリアルな日常が映っていました。
それを観ながら、わたしは自転車レースにまるで小さな資本主義社会の構図を投じていました。

どうしてそう思ったのか、自分でも整理するため“マルクス資本主義”の考え方によってツール・ド・フランスのフレームを考えてみようと思います。

まず不思議に思ったのは、20近くに分かれたチームです。
選手たちのピッタリとしたチームウェアは各スポンサーの色鮮やかなマークやカラーが全身にデザインされています。
加えて走行中はヘルメットとサングラスを着用し、有名な選手を除いて映像から一人一人を一瞥で判断することは難しく、自然と鑑賞側は「誰なのか」よりもチームウェアから「どこのチームなのか」を把握して進行状況を読んでいきます。
名もなき選手たちは背中に仰々しくスポンサー名を背負い、その重責とは対照的に明るく力強い色の塊が画面を華やかに映し出しています。

チームウェアやレースの映像から他のスポーツに比べスポンサーの存在感を強く感じました。
まるでスポンサーという'資本家'がいて、選手という'労働者'が、レースという'市場'で活動する。そして'消費者'であるわたしが鑑賞している。
この構図を頭に思い浮かべ、'資本主義的な'役者を揃えていきました。もう少し定義してみようと思います。

レースでの'価値'はチームで一位を取る、つまりチームのエースを一位でゴールさせることとすると、取り扱われる'商品'はエースの選手です。'労働'はエースを出発点から到着点まで運ぶこととなります。エースの選手は自分自身という'商品'を自分自身が運ぶ'労働者'という双方の役割を担っています。
逆に、ある選手が一位でゴールすること、それを多くの鑑賞者が認識することでその人はエースとなり、そして'商品'となるとも捉えられます。

レースでは「一位を取る」ことが重要です。たとえ僅差でも一位と二位の名声の差は歴然です。当然なのですが一位は1つしかありませんので、二位以下の需要は極めて低いことになります。
ツール・ド・フランスでは、初めの選手がゴールした時間を基点に決められた時間内にゴール地点へ辿り着けなかった選手はリタイアとなります。
需要が低い'商品'及び'労働'は淘汰されうる、とも捉えられます。
実際にNetflixのドラマでは、何年も目ぼしい成果がないチームが来年もスポンサーに支援してもらうため必ず一位を取らなければならない、と宣言する瀬戸際の場面も映っていました。



自転車は、自ら自転車に跨り、自らの足でペダルを回すことで初めて動き出します。
目的の距離に届くまでひたすらペダルを回す。回転数×時間=距離という、シンプルな計算式が浮かび上がってきます。

しかし自転車レースはチーム戦です。全員が同じ動作をしているように見えた巨大な塊は、長い距離を効率よく走る切るために役割を分担をします。
たとえば、前を走る人は風の影響を強く受けるため、サポート役の選手が先陣を切り、エースの選手はゴール間近まで体力を温存させます。先の長い道を走り続けるために、誰かが支え、誰かが先導し、誰かがゴール前で勝負をかける。それは一度スタートするとゴールまで緩やかに繋がれた運命共同体です。
自転車レースはマラソンレースのように個人の身体能力でタイムを競うのでもなく、剣道試合のように個人と団体の境界線がはっきりとしてるわけでもありません。

わたしはこの自転車レース特有の、レース中に継続される個人の役割と共同体の変化の関係性が面白いと思いました。

サッカーと比較してみます。サッカーは球をゴールに運ぶという目的のため選手たちが協力します。自転車もエースをゴールに運ぶという目的で協力します。ここで違うのは運ぶ対象が「球」か「人」かです。球に意志はなく、蹴られるがままにベクトルと速度を持って移動します。
けれど人には意志があり、多くの選手たちは一位を取ることを切望し、エースであることを望んでいます(と、わたしは勝手に解釈していますが違うかもしれません)。全ての選手が運ぶ対象であり、エースという運ばれる対象にもなり得ます。

しかし選手たちは個人的な野望で単独行動をせず(たまには起きるようですが、それもまたドラマチックです)、チームの優勝のために与えられた役割によって戦略をたて、駆け引きをし、勝負をかけます。
この欲望と理性のバランスを選手たちは一体どのように飲み込んでいるのでしょうか。




自転車レースの選手とスポンサーの関係は、現代社会の会社のフレームに似ていると感じました。
一度起業した会社は生産を続け、利益を出し続けるためにペダルを回し続けます。そして次々と需要を生む企業は存続し続けます。
そこにはエースである代表がいて、選手である社員たちがいて、スポンサーである株主がいます。
消費者であるわたしは、開かれている商品や代表にばかり目を取られますが、縁の下には「個人」の支える人々が存在します。

ツール・ド・フランスは3週間で幕を閉じますが、会社のゴールはどこにあるのでしょうか。
現代の'資本主義'道を走り続けるためには、常に進化し成長し需要のある生産活動を続けなければなりません。

勝負をするということは、普段の生活から少し離れ、時間と資本が先導する領域へと足を踏み入れてます。
ツール・ド・フランスでは、長い過酷なレースの途中でリタイアする選手も少なくありません。しかしそれは勝負を諦めることではなく、非日常から日常に戻ることだと思います。レースでは一度その境界線をまたげば戻ることはできませんが、非日常の勝負の世界は日常にありふれて存在します。わたしたちは誰もがそこを行ったり来たりしてながら、この社会を生き抜いているのかもしれません。




先にスポンサーの存在感が強いこと、スポンサーが'資本家'であると定義しましたが、実際にはスポンサーの収益はほとんどないことがいくつかの記事を見てわかりました。ロードレースは公道で開催されるため、観客動員による収益ができないのです。映像配信を見ていたわたしもどこにも契約せずお金を払っていません。
スポンサーは人件費や旅費など多額の資金提供をする代わりに、チームによる宣伝効果と伝統的スポーツに貢献する社会的名声を手に入れることができます。これは資本主義のフレームに当てはまらないのではないかと思いました。
スポンサーには、ロードレースを愛する想いと長期的に支える強い意志と資金力を感じました。

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