「諮問会」の限界

学生が集まって何らかの議題について話し合う会合は、おそらく色んな所で行われているのだろう。だがその話し合いに意味はあるのか。単に意識が高くなる以上の何かを見出せるだろうか。今日は人が議論をする際の限界について書きます。

私が高校生だった時に、「諮問会」なるものに誘われて参加したことがある。定期的に会員(キチンとした登録は無かったが)が昼休みに集まり、高校の中で気になる問題が有ればそれを提起して話し合うというものだった。集まった人々の顔ぶれを見ると、生徒会役員をはじめとする、「意識の高い」人たちが多いように見えた。会合が始まるときの人々の配置を確認すると、前列に座るのは上級生・司会進行・生徒会役員であり、後列に「とりあえず来た」人や、前に行きづらい下級生が座る。

「二つある校歌(便宜的な紹介)のうちの一つに、戦争賛美の内容が含まれているが、これは適切か否か。また、不適切であるならばこの校歌は廃止するか否か。」という題で話し合いが行われた。司会から会員に意見を求められたが、手を挙げる者は少ない。題材が難しいんじゃないかな〜という懸念を他所に、何だかんだ挙手があり、議論は進む。
しかし、議論の進行と共に、「その発言は事実に基づくのか?」と疑問を持たざるを得ない発言が増えていった。そもそも議題に上がった校歌の歌詞である「健児一つに睦び合う」が戦争を想起させるかどうかなど、その場にフラッと来た人には分かるまい。それを「戦争賛美だ」「校歌の廃止はリスクが大きい」だの言っても意味があるのか。議論は踊る、されど進まず。この話し合いは「校歌は存続」という結論で終わったと記憶している。

この話し合いにおいて、主に発言していたのは前列に座る人々であったことは注目したい。彼らは他の活動を通しても知り合いであり、話す口調は友達同士の雑談のそれであったというのが私の印象である。「諮問会」と銘打っておきながら、その実態は仲良し人間の雑談の延長なのだ。後ろに座るオーディエンスに発言の余地はない。私は実に不毛な集まりに来てしまったと嘆き、後ろから二、三の発言をしたのちにその集まりには行かなくなった。

こうした「諮問会」のような集まりは、発言する人としない人、否、しやすい人としにくい人とか分かれやすい。「諮問会」を意義深く活用出来たのは恐らく前席で知り合いも多い中で発言をしやすかった人なのだ。ある人における話し合いの有用度は、話されている話題や議論の内容の密度が決めるのではなく、発言をしやすい環境に置かれているかどうかに掛かっている。

結論。議論会は知り合いと行け。



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