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オッペンハイマーを見てみた。

勝手に映画評価:★★★☆☆(見てみてもいいかも)

物議を醸したオッペンハイマーを見てみた。日本は今年3月公開とか。

日本人ですから。日本で上映賛否が長くあったけど、見る前は難しい(心情的に)と思ってました。見るとは決めてたけど。

こちらはもう劇場ではなくストリーミングで見れるのでポチッと。映画館に行くと精神性おトイレ近い病になっちゃうんで、ビバストリーミング!3時間ですからね(やっぱりトイレ2回行ったけど)。

【映画自体の感想】

これがオッペンハイマーというタイトルでなく、原爆でなかったとしたらきっとこんなに物議を醸すことはなかっただろう、という題材で内容だった。つまり一言で言えば、普通の事実に基づいた映画、だった。

オッペンハイマーの半生と言うけど、半分もカバーしておらず、天才科学者ゆえの常識の無さと、甘えと傲慢さによって政治利用され挫折したとこに、たまたま原爆開発があった、という感じ。そこがテーマだから、直接的原爆後シーンがないのも納得。スパイク・リーが自分なら原爆後のシーンを入れただろうと言ったようだけど、そうしたら趣旨が変わってしまう。そういう意味では、広島長崎の組み入れ方は良い塩梅ではあったと思う。クリストファー・ノーラン作品は割と好きだけど、ダークナイトシリーズは特に興味なく、この作品もそっち系。つまり、特に好きでもない一作だった。

映画『オッペンハイマー』は、原発投下後に原爆水爆反対をしたことで政府側とその機関に不都合が生じ、彼を排除するために旧ソ連のスパイかもしれない、と疑いをでっちあげ職を追われた(2022年に冤罪だったと謝罪あり)、その事に関する始まり(共産党の集まりに参加していたがメンバーではない、共産党員の恋人?が居た、弟とその妻が共産党員だった、共産党員の友人とつるんでいた)から、それが原爆投下後、水爆開発反対のころにどう『使われて』しまったのか、というのがテーマ。まったくもって、原爆にはフォーカスしていない。

でもそれもそのはず。映画のタイトルはオッペンハイマーであり、オッペンハイマーの成功と挫折物語だから。

見たあとから言わせていただければ、まずこれもただの映画(エンタメ)であるということ、そして、まず、オッペンハイマーと原爆を離した視点で見ること、特に大事なのは、これは原爆に関する映画ではない、ということを(日本人として)先に理解しておいてほしい。

【映画内容の個人的感想】

オッペンハイマーは小さな頃から才に富み、学を求め国を渡り歩く。でもナイーブで、無知で、節操がない(ちなみに映画のHシーンはあまり上手いと思えず。ま、うますぎて目をそらしたくなるようでも困るけど。苦笑)。父親として夫としてこれでいいんか?みたいなシーンもあったし、人間として素晴らしいかというと、どっちかっていうと失格に近くない?と感じたキャラだった。

そして日本人的には気になる原爆投下後のシーンの薄さは、オッペンハイマーの、原爆を作ってしまった、落とさせてしまった、ということに対する罪悪感の薄さをよく表しているように思う。彼がその後の動画?を見るシーンがあり、瞬間の死傷者数、その後の死傷者数、黒い雨、などの言葉は流れるが、見ている(映画)画面は出てこない。彼が、投下の成功後のスピーチ内で見るちょっとして幻覚?に出てくるのも、ショッキングとは言い難い量。つまりは結局は『その程度』の罪悪感しか原爆投下に対してもっていない(所詮他人事というか、戦争を終わらせた、とどこかで信じてる、正しかったと思っているーこれは後のインタビューでも、原爆を作ったことに後悔はしていないと答えてることからも言える)ことをよく表していると思うし、水爆開発に反対したのも、その被害を目にしたからではないんだろうな(自分が有名になったということを他の人に奪われたくないだけじゃないか?と勘ぐりたくなる)、という薄さを感じる。ちょっとした罪悪感や正義感と、大いなる自己顕示欲による反対運動、という印象を受ける。

ある意味やっぱり人間的に欠けているのがよく現れてる映画だったと思う。それは天才科学者だったからなのか、それとも作った側、落とした側だったからなのか。この人の人間性の薄さ、人生の濃さ、が対比になっていて、それを映画としての薄さになってないとこが、クリストファー・ノーランなのかなーと思った。

世界が、どちらの側にも立たずとも、その悲惨さを人間として理解できないままでは、核戦争も戦争も終わりはしないんだろうという気持ちにさせられた(現にアメリカ人でもヒロシマ・ナガサキを訪れて、人間としてその悲惨さを理解してくれる人はたくさんいるし、日本人でもそれがわからない人はたくさんいる。○○人という立場がその理解を難しくさせるなら、それはやっぱりまだ人間レベルで核というものを理解していないのだと思う。正誤の話をしているわけではない、ことに気づけていない)。

【勝手に映画から学んだ教訓】
私は映画の中からThe moral of the story is… と教訓を勝手に学びたがるのだけど、今回の映画では

  •  『人とは勝手に期待して勝手に失望し勝手に見下げるものだが、逆に《じゃ、お前はどれだけ立派なんだ?》』

  •  『人間ってバカばっか』

この2点を挙げたい。

最初のポイントは、最近特に「一体この人に何を期待しているの?」と思うことが増えたことにも共通する。例えば、某プロアイススケーターの結婚離婚に関わる記事とか。記事やコメントを読んで、その人にアイススケーターとして素晴らしかった『以外』に、何を期待していたのか、と思うことがしばしばあった。私もご多分に漏れず失望したけれど。

でも、おとなになって思う。例えば何かの才能に突出した、天才頭脳がある、人達が、同時に素晴らしい人間であるという考えはただの妄想で、その人らが素晴らしい人間である義務はない。

逆に言えば凡人だって、素晴らしい人間ではない理由もないわけ。素晴らしい人間であることは、個々の決意だったり行動であって、才能や努力が保証もしなきゃ、より強い責任でそうあるべきというものでもないわけだ。

ただ、凡人は夢を見る。そしてより多大な責任を求める。意識的無意識的に。

政治の上にいる人、皇王室、何かを代表する人にはより正しく失敗のない強い責任を求めるし、また、それを損なったときは苛烈な批判を受けて然るべきではあると思う。でもそれは職というか、地位というか。そこにいることで享受しているものが大きければ大きいほど、その責任が大きいのは当然のこと。

同時に、それが才にも紐づくのか、という疑問もある。立場や役職などによって責任の重大さは変わるし、それによる批判も拡大するのは当然としても(それだけの給与だったり福利だったり何らかの得を多く得ているから)、持って生まれたものを努力によって伸ばしたことが、その人間を素晴らしくしているわけではないのに、他人は勝手に素晴らしい人と思い込み、失敗に大いに失望し勝手に大したことないやつだと見下げる、ことがある。でも、期待したのも勝手なら、失望も勝手で大きなお世話。その熱を自分に向け、自分を素晴らしい人間にさせる努力をまずしなきゃな~ということ。

次のポイントもブーメランなんだが、自分が思うより立派だとか賢いだとか、権力があるだとか思っていると、揚げ足も取られるし、失敗が怖くなるから臆病になるし、そもそも世界を勝手に小さくする。影で笑われるし、悪口も言われるし、いいことなんか何もない。ハリボテになり気味な自分に向かって大いに言いたくなる。私って割とバカ、で、いいんじゃないか。と。

クリストファー・ノーランも、オッペンハイマーも、私にそんなことを思われるために映画を作ったり題材になったわけじゃないけども、勝手に映画レビューしてみました!


や、映画レビュー面白いね。需要ないと思うけど(笑

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