零戦の後継優秀機「烈風」
海軍は、当時としては世界的にも優秀な零戦を手に入れたことで喜んでいましたが、同時に、後継となる次期戦闘機(烈風)についても考えを巡らせていました。
後継機となる次期戦闘機(烈風)は開発に紆余曲折があり、結局、試作機が7機のみでした。
しかし最高速度627km/h、空戦性能も高く、操縦も比較的容易という当時の日本の航空機では卓越した高性能を発揮した機体でありました。
早期に実戦配備されていれば戦局にも大きな影響を与えたとも言われています。
今回はその烈風の実力についてご紹介いたします。
■「烈風」開発まで
1939年実用機試製4ヵ年計画に三菱十六試艦上戦闘機として初めて計画、1940年末に三菱に試作が内示されます。
しかし三菱は零戦の改造と十四試局戦(雷電)の開発で手一杯な上に適当な発動機がないことを理由に開発は見送ることとなりました。
その後、さらに構想を練り直し、1942年4月、十七試艦上戦闘機(A7M1)として計画が再開することとなります。
ところがこの17試艦上戦闘機に対する海軍内部での要求性能は、実は二分されるような状況となっていました。
ひとつは、先々を見越して欧米のライバル機のように速度性能を重視したヒット・アンド・アウェー式の空戦を見据えたもの、もうひとつは、相も変わらず零戦並みのドッグファイト式の空戦ができるという、現状の延長上のニーズであります。
結局、海軍の要望は空戦性能を最重視しつつもこの両方を満たすという欲張りなものとなり、1942年7月6日、十七試艦戦試製烈風の計画要求書が交付されました。
海軍からの開発要求は、概ね次の通りです。
・最高速度:高度6,000 mにおいて638.9 km/h以上
・上昇力:高度6,000 mまで6分以内
・航続力:全力30分+463.0 km/h巡航5.0時間(過荷重)
・武装:九九式20 mm二号機銃2挺
・三式13 mm機銃2挺格闘戦性能は零戦と同等以上
という厳しいものでありました。
堀越はまたしても難題に頭を悩ませることになります。
堀越技師は多少大型にはなるが、自社で試作中の「A20」(ハ43)(2200馬力)の使用を主張するも、4ヶ月以上に及ぶ議論の末に海軍はNK9を搭載するように三菱に通知するという、やや強引な手段で海軍は傑作エンジンである誉発動機(1850馬力)の採用を決定しました。
これがのちの烈風に暗い影を残すこととなります。
1944年4月19日、試製烈風1号機が完成します。
エンジンは誉22型(2000馬力)で空戦性能は高かったが、速度は最高でも574km/h程度までしか出ず、上昇力も6000mまで10分以上と機体の性能は速力、上昇力とも零戦を下回ってしまい、艦上戦闘機としての開発はそこで中止されました。
これに対して三菱はエンジンの性能不足に足を引っ張られたと不満を感じており、当初要望していた離昇出力2200馬力の自社製エンジン「A20」(ハ43)に換装した試作機の製作を希望します。
海軍も換装した機体をA7M2とするとして試作を認めました。
元々、発動機換装の可能性を考慮して製作された烈風は重心位置の調整のための部分を再設計した程度で全体の設計にはほとんど影響がなく、再設計も全長が11mm短縮された程度でありました。
1944年10月13日初飛行をした結果、最大速度は624km/h、6000mまでの上昇時間も6分5秒と驚異的な性能を示し、当時の米軍機に対抗できる可能性を秘めていることが明らかになりました。
その結果、1944年10月初旬、烈風6号機を改造したA7M2試作1号機が完成します。
空戦性能も自動空戦フラップを装備した結果良好であり、試験を担当した空技廠からの意見書には、上記の特徴に加え、操縦が容易である程度未熟な搭乗員でも充分活用できるとした上で、海軍も局地戦闘機「烈風」として制式化することを決め、1945年に入ってから三菱に量産を命じましたが、既に国内の航空機工場は「紫電」と「紫電改」の量産で手一杯な上、当初から「A20」(ハ43)を選考から外してしまったためエンジンの生産が行われていなかったことや空襲の影響も甚大であり、生産は遅々として進みませんでした。
烈風の生産数は終戦までにA7M1、A7M2合わせて7機の試作機 が完成し、量産機は1機が完成したのみで日本は敗戦を迎えてしまいます。
試作機のため各機で若干細部が異なっていました。烈風改は部品の一部が完成した程度、以降の型は計画のみで実現していません。
1945年6月、A7M2は烈風11型として制式採用されましたが、結局、試作機7機と量産機1機が完成寸前に日本は敗戦を迎えてしまいます。
■「烈風」の評価
烈風に関しては、現に空技廠でテストパイロットを担当した小福田中佐は、視界の良さ、操縦の容易さを絶賛しており、
「おそらく、終戦当時、世界各国の第一線機中ナンバー・ワンの傑作機といえる戦闘機であった。」
「烈風こそ戦勢挽回、救国の傑作機」
と語っています。これに対して同じく烈風の試験飛行を行った志賀淑雄少佐は全く逆の評価を下しています。
「烈風の乗り心地の良さは認めるものの、とにかく機体が大きく、キレがなくて大味、被弾面積が大きすぎて話にならない」
と酷評した上で、このような無茶な性能要求をした海軍を批判しています。さらには烈風は実戦に間に合わなくてよかったとまで言い切っています。
テストパイロット2人が真逆の意見となってしまった理由は、恐らく、志賀少佐が烈風に搭乗した日は、1944年5月31日とある。記録が正しければ、この烈風は前月に初飛行をした誉エンジン搭載の「低性能モデル」A7M1で、小福田中佐が搭乗した烈風はA7M2であった可能性が高い。
志賀少佐が仮にエンジンをMK9Aに換装した「高性能モデル」A7M2に登場していれば評価も変わったのかもしれません。
このような次第で烈風は実戦を経験していないが、性能面で見る限り、大戦末期のアメリカ機とも互角に渡り合える機体だったと思われます。
ですが当時の日本海軍航空隊では、経験を積んだ実力あるパイロットが激戦の中で次々に失われて払底していました。
そのため、いくら機体の性能がよくても未熟なパイロットが操れば結局は敵に勝てなかったのでは、という推察もなされています。
また「烈風」の開発が早く進めば戦局の展開も変わったいたとの見方もありますが、日本の工業力で量産にこぎつけるのは難しく、試作機数機を製造したのみで幻と消えました。
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