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必死に生きるか、必死に死ぬか

これは「ショーシャンクの空に」という映画で主人公のデュフレーンが脱獄の計画を実行する前にレッドへ放った有名なセリフです。
何を持って「私は生きている」と感じるのか、そして何を持って「私は死に向かっている」と感じるのか、最近このことをすごく考えるようになったんです。だって、生きるも死ぬも紙一重。ただそれと同時に全く異なることであり、対をなす存在でもあると感じるんです。ただ一つ思うのは、後ろめたい感覚に陥るほど、この二つの性質は二極化するんじゃないかと、私は勝手に思っています。先ほど紹介したデュフレーンもレッドも殺人の罪で(デュフレーンは無実)ショーシャンク刑務所に入れられた囚人でどちらも終身刑を言い渡されている。ただ、2人の間で違うのは未来を見据えているのか、未来を捨てたのか。コツコツと脱獄の計画を立て、地道に苦労し、刑務所の中で自分のやりたいことまで探したデュフレーンと、それとは別に刑務所で一生を終えることを既に身構えており、どこか悟ったような態度を取るレッド。どちらも絶望的な状況に置かれているのにも関わらず、こんなにも考えていることが違う。デュフレーンには反骨心というか、マイナスであるからこそプラスになりたいという強い意志を感じる。逆にレッドはマイナスにいるなら、なるべくマシなマイナスになっておこうというか、自分の今置かれている状況は仕方ないことであり、そしてその枠の中でどうにかやりくりすればそれでいい、と思っているように見える。そしてこれは「必死に生きる」人物と「必死に死ぬ」人物の違いなんじゃないかなと。生きることを見据える人と、死ぬことを見据える人。私は大人になったらどっちの人になるんだろうか。

ちなみに鬱ですが、だいぶ良くなりました。予想通り大学が始まってから状況が一変。ここで特に大切だと思ったのは「大変」であることだと思った。私が鬱になった時期は春休みだった。授業もない、課題もない、好きなところに好きなだけ行けて、時間も好きなだけかけられる。春休み入りたての開放感は何にも変え難かった。ただ、それとは打って変わって、時が過ぎて行くにつれてどんどんその与えられた「自由」が私を苦しめていった。平和で自由な人間であるからこそ、生きる意味も死ぬ意味もなくしてしまったように感じてたんです。やはり人間って「問題」が好きなんですね。問題って問題視するから問題になると思うんですよ。「問題だー!」って誰も言わなければ問題にならないのになぁっていっつも思うんですが、ただそうでもしないと「命の対価」が失われていくような感覚になるんでしょうね。春休みは本当に自由で最高だったのに、こんなにも自由が後ろめたい存在だったとは思いもしませんでした。自由は程々にしたほうがいいですね。自由を「求める」くらいの姿勢が丁度いいのではないんでしょうか。

ちなみに最近サークルがとても楽しいです。この前大喜利をしたのでその時の回答を共有しておきます。(エゴイスト)

Q.このエレベーター怖い。なぜ?
A.言わないと、出てこない。

Q.誕生日会くらい盛り上がってるお葬式。どんなの?
A.通夜のことを「オール」と呼んでいる。

Q.このオペラなんかダサい。なぜ?
A.歌う前に分析採点マスターを予約した。

大喜利強くなりたい。

追記:
リールを見ていたらゴルゴさんの動画が流れてきた。「難」が「有る」と書いて、「有難い(ありがたい)」ですって。うわ。日本語ってよくできてる。

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