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やさしさこそ、最強の武器である。カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』

文字数:約7,000

カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために 第一部』を読んで、「人へのやさしさ」に関して、思いを馳せてみました。

人を笑顔にするって、素敵なことだなあと、僕は思います。そのヒントを書けていればいいなあ、と。




1: お金ってなんだろうね?

最近のテレビは、プロ野球の話題を取り上げる代わりに、大谷翔平ばかりをクローズアップしているような気がしていますが、みなさんはどう思いますか?

と、そのように聞けば、恐らくは、みんな同じような印象を抱くのだろうと思う。

「そういえば昔はもっとプロ野球のニュースをやっていなかったけ?」
「オオタニサン以外の選手も、もっと取り上げてほしいなあ」
「ねえ、これって、野球って言うより、大谷翔平個人のニュースだよね」

Forbesの2024 World's Highest-Paid Athletes List(下記リンク参照)によれば、大谷翔平の2024年の年収は、全アスリートの中で10位、$85.3Mとある(=Mはミリオン[100万]を意味しますので、8,530万ドル)。足元の為替157円/ドルをかけると、ざっと日本円換算で、134億円。いち一般庶民からしてみれば、ちょっとと言うか、まったく意味がわからない数字である。

ちなみに2024年の全アスリート中の一位はクリスティアーノ・ロナウドで、$260M(2億6,000万ドル=408億円*157円/ドル換算)だそう。もはや、羨ましいだとか、そんなちっぽけな一個人の感情が入り込む隙間すら当然のことのようになく、ただただ、「ふ〜ん」である。

なお、ForbesのReal-Time Billionaires list(下記リンク参照)によれば、2024/07/19 9:49時点で、世界でもっともお金を持っている人は、イーロン・マスクで、NET WORTHが$250.3B(=Bはビリオン[10億]を意味しますので、2,503億ドル。NET WORTH=純資産)とある。足元の為替157円/ドルをかけると、39兆2,971億円。2位はジェフ・ベゾスで、$201.3B(2,013億ドル=31兆6,041億円*157円/ドル換算)。

日本人でもっとも稼いでいるのは、柳井正で全世界38位、$38.5B(385億ドル=6兆445億円*157円/ドル換算)。日本人で二番目に稼いでいるのは、孫正義で全世界49位、$34.9B(349億ドル=5兆4,793億円*157円/ドル換算)。三番目は、滝崎 武光(キーエンス創業者)で全世界92位、$21.5B(215億ドル=3兆3,755億円*157円/ドル換算)だそうです。

「お金って何だろうね!」
「へえ〜!」
「すごいねえ〜!」

そんな陳腐な感想しか湧いてこないほどには、意味不明な数字である。


2: ところで、僕たちは大谷翔平には嫉妬しない

人間は、自分が到達できそうな、近い存在に対してのみ、羨ましいという感情、つまりは妬みを抱くのである。僕らは、オオタニサンを羨ましいとは思わないし、イーロン・マスクを羨ましいとも思わない。そうではなく、僕たちは、例えば年収が1,000万円だとか2,000万円だとかいう人たちに対して、妬みを覚えるのである。

ああ、そんなことわかりきっている!!!わかりきっているのに、事実として、カネが欲しいのだから、しょうがない。少しでも贅沢がしたい、海外旅行がしたい、生活にもっとゆとりが欲しい。

妬みの感情は、時間の無駄なのでやめましょう、というアドバイスは、わかっちゃいるけどやめられない属性の人々にとっては、残念ながら、ほとんど効果をあげない。妬みの感情が、悪いものであることなど、自明の理だからである。同じように、承認欲求がいけないものだとも、僕たちにはわかっているからである。

だから、わかりきったことを聞いてくれるな!!!それでも、カネが欲しいのだよ、嫉妬してしまうのだよ。聖人君子みたいなことを垂れる、説教くさくてうるさい人たちよりも、こちらの方が、よっぽど人間くさくて、僕は好きです。

ところで、妬みはなぜ悪いのか、承認欲求はなぜ悪いのか、という疑問は冗長になりそうだが、ここで少しだけ考えてみたい。妬むというのは、他人が幸福そうに見えるということであり、要するに今の自分を不幸だと認識する行為である。承認欲求とは、他人に認められることで幸福を得たいということであり、要するに今の自分は認められていないからこそ不幸だと思う行為である。

どちらも今の自分を不幸であると思い込むことに、その共通項がある。自分は不幸、だから幸福になりたい。しごく、当たり前な道理である。かつてアリストテレスが、すべての人間は善に向かう、というようなことを説いたように。

何を善だと思い、何を悪だと思うのか、という疑問も果てしない問いかけだとは思うものの、少なくとも自分が悪いと思うものは、現時点では、悪いものであるのでしょう。幸福とは良いものであり、不幸とは悪いものである。幸福とは悪いものであり、不幸とは良いものである、その主語は自分ではない。そのような印象は、他者の不幸を喜ぶ邪悪さにすぎないのであって、そう思う自分自身の不幸を志向しているわけではないのである。

妬むことも、羨ましいと思うことも、承認欲求も、今の自分が足りていない、つまりは今の自分は不幸なのだという思い込みにすぎない。自分のことを自分で不幸だと思うことは、良いことだろうか、悪いことだろうか。不幸を悪いものであると思うのであれば、それは悪いことなのでしょう。

もっとも、不幸とは良いものでもなく、悪いものでもない、という罰当たりなロジックでこの問いを華麗にかわすこともできなくはないでしょう。そうすると、妬むことも、羨ましいと思うことも、承認欲求も、少なくとも悪いものではなくなる。

だが、僕らに必要なことは、言葉遊びではなく、それらの感情を乗り越えための確かな手応えのある実感なのである。

現状を変えたいという気持ちが、僕たちの心の奥底に潜んでいるからこそ、僕たちは持てるものを妬み、羨むのである。そのような意味では、妬んだり、羨んだりすることは、良い意味でもあり得るわけだ。そのような情念は、自己変革への道程である可能性があるからである。

だが、繰り返すが、僕らに必要なことは、人間の心理分析などではなく、実際に変えたいと思うこの気持ちに誠心誠意、応えることなのである。


3: あなたは、この生存競争を生き抜くだけの覚悟があるか?

ところが、不思議なことに、あるいは残酷なことに、現状を変えたいと人々が思えば思うほど、そのイバラのようなツタは絡まっていくのである。現状を変えたいとますます思うほど、今ここにいる僕たちの存在の虚しさは増してゆくのである。

僕たちが解消したいのは、まさに、この感覚である。なんとなーく、嫌だなあ、心地悪いなあと感じる、この感覚である。

結局、このようなことに悩む僕たちは、なんとなーく、お金が欲しいだけなのであり、いわば、漠然たる曖昧なイメージに支配されているだけなのである。

そうすると、僕らがすべきことは、なんらかの方法で、このイメージを克服することである。それには、大きく二つの方法があると僕は思う。

一つ目は、自分のいわゆる戦闘能力を向上させて、この世界を生存競争のサバイバル社会と認識して、生き抜くこと、である。

このようなジャングルで生き抜くために必要なことは、各自の特有なスキル、豊富な武器や財産、人脈など、である。これは非常にわかりやすい。この生き抜くためのいわば”ハウツー”は、”ハウツー”そのものが金になる。だから、この手のサービスは世に溢れかえっているのである。

具体的な目標を立てて、行動を起こす。人生のロードマップを作成し、長期・中期・短期と、いくつかの目標を立て、具体的な数字も意識してゆく。それらの目標を達成するべく、どのようなスキルが必要なのかをあぶり出し、自己を研磨してゆく。

「これこれをすることで、年商○○円を達成!」
「あれこれ考えるよりも、まずは行動しよう!」
「成功するための、○○個の秘訣!」

具体的に目標を立てて行動することは、まったく悪いことではありませんし、むしろ、そうできることは素晴らしいことです。世の中のほとんどの人は、僕もその内の一人なのですが、漠然とそのようなイメージを膨らませては、ただその風景にうっとりとするだけなのですから(と思いますが、実際のところは、その人でなければ知り得ないのだろう)。

また、そのために、自己啓発的に自分自身を鼓舞することも、悪いことではない。その自己啓発的な行動自体が、新しい自分への第一歩に違いないと僕は思う。

だが、現実問題として、この道はイバラの道だと言わざるを得ない。それは、万人が達成できる道ではない。だからこそ、希少性があるのであるが、自らがその市場の中で希少になれる可能性は、もはや神頼みと言っても過言ではない。

「いやいや、リスクを取ろうぜ!」
「結局、やったもん勝ちだから!」
「成功するには、図々しさが必要だよ!」

この手の話題は、みんながみんな、僕たちの背中を押してくれる。そういう風に僕たちは誘導されてゆく。そして、僕たちは気がつけば、彼らに課金をしている。勝てば官軍、負ければ賊軍。

現実問題として、賊軍になっているのだとしても、世間は僕らからの搾取をやめようとしない。彼らは、再度、君ならできる!と僕らを勇気付けるふりをしては、僕らのなけなしのお金を吸い取ってゆくのである。

なんとなーく、お金が欲しい、という漠然としたイメージを克服するための一つ目の方法は、もしかすると、僕たち全員を救ってはくれないのかもしれない。


4: だが、すべての人間は、どこまでいっても対等である

自身のスキルを磨くことは素敵なことだし、何か目標に向かって生きることは美しいことだと僕は思う。だが、実際問題として、僕は一人のサラリーマンとして、この社会を生きているわけだが、普通の会社員として働いている人が、そのようなモチベーションを爆発させて夢を追いかけることはあまりにも稀である。

普段の業務で、疲労が蓄積している人にとって、それはあまりにも遠い世界のように見える。近いようで、遠い、そんなイメージである。インスタやYoutubeなどのSNSを開けば、その道で成功した人がいっぱい画面上に現れる。僕もいつの日か!と夢を妄想しては、実際に夢の中に眠りこけている日々。

「なんとなーく、お金が欲しい」
「将来に漠然とした不安を感じている」
「実感として、そのような現状を乗り越えたいと思っている」

さて、僕が考える、この漠然としたモヤモヤとしたイメージから抜け出すための方法の二つ目は、非常にシンプルである。こう言葉に出すと身体がムズムズと痒くなりそうではあるが、それは、他者への思いやりを持つこと、である。他者の幸せを優先し、彼らにやさしさを振りまき、彼らの存在を尊重し、思いやりを持つこと、である。

そのために必要なことは、全人類を何の区別もなく、平等であると認識することである。すべての人は、どこまでいっても平等である。すべての人は、どこまでいっても人間である。これは、アルフレッド・アドラーが志したユートピアの思想である。すべての人の価値は、あまりにも等しい。

それは、あまりにも明白な事実であり、あまりにも明らかであるが故に、人々はその最も大事な事実を後回しにしがちなのではないだろうか。椅子に腰掛け、ボーっとお茶をすすりながら大谷翔平の報道を眺める人々も、公園で遊ぶ子供たちも、オフィスで叱られている新人たちも、一人一人の価値というものは、まったく同じである。

彼らがいくらお金を持っていようが、いくら社会的地位があろうが、いくら容姿に恵まれていようが、そんなものは僕たちそのものの価値に対して、何らの変化をも与えない。だが、仕事という厳しさは、僕らから、そのような視点を奪いがちである。目の前の仕事に一生懸命になる、気がつけば、他人へのやさしさなど、忘却している。

「人がゴミのようだ!」

かのムスカ(天空の城ラピュタより)の言葉である。

小さきものへの愛情は、僕らをずっと遠くに連れていってくれるはずである。羨ましいという感情は、この時点で、華麗に消え去る。この生存競争に勝たなければ、できるだけ成功を収めなければ、官軍にならなければ、というその生存競争自体が、実際には生存競争などではなかったのだと知る。

『嫌われる勇気』みたいなセリフであるが(まあ実際、そうなのですが笑)、すべての人は、どこまでいっても人間としては対等である。このセリフを、持てる者を貶すために使用するのであれば、それはやっていることはムスカと同じではないか。このセリフは、持てる者の饒舌を控えさせ、持てない者の存在感を増加させる。

もっとも、やさしさだけでは、単なる世間から見向きもされない「いい人」とカテゴライズされてしまうのだろう。だが、それは僕らが「いい人」にはならない言い訳とはならないのである。「やさしいだけじゃダメだよね」というのは、僕たちが「やさしさ」を持たない理由にはならない。

やさしさだけあれば良い、というのはあまりにも胡散臭いのだが、やさしさがない力というものは、僕にとってはあまりにも弱く見えるのである。そして、彼らが弱い者であるが故に、僕たちは、彼らまでをも愛さなければならないのである(ああ、何だか、僕自身も胡散臭くなってきそうなので、これ以上は書くことをやめよう笑)。

だから、まずは、目の前の大事な人を、笑顔にすることから始めよう。


5: したがって、僕たちは相手の幸福に無関心であってはならない

ずいぶんと冗長になってしまったが、このnoteは一応カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために 第一部』の備忘録である。

最後に、他者へのやさしさ、について、いくつか彼の箴言を引用したい。

 あなたが(今おそらくそうであるように)「どうしたらすばらしい、愉快なことが楽しめるか」を問うかわりに、「今どんな善いこと、正しいことをなし得るか」をたずね、あるいは、この究局の目的のためにどのように自分の状態を改めたらよいかを絶えず問うことに、あなたの全思考力を向けているならば——あなたが住むこの世界について、全く違った、より満足すべき観念が得られるであろう。そして、およそ「生きる」とはどういうことであるかが、初めて本当にわかるであろう。
 そうなると、さしあたり、善を行う機会さえあれば(この機会がないことはまれだ)、あなたの生活がいくぶん苦しかろうと楽であろうと、また、あなたが健康であろうと病気であろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでもよくなるだろう。ところが、これとちがった人生観をいだくなら、不満、心労、恐怖、総じて不和が、内にも外にも全く避けがたくなるであろう。これは特別によい身分の人でもそうであり、ましてそれ以外の者にあってはいうまでもない。
 この二つの人生観こそ、宗教と階級にかかわりなく、すべての現代人を分かつ真実の大きな区別である。これにくらべれば、あらゆる他の区別はほとんど意味がない。
 初めに述べた正しい考えの人びとの味方になりなさい。その人びとがどんな宗教、どんな哲学を持つか、またどんな階級に属するかは、どうでもよい。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「一月四日」より

 人はいつもただ善い事をしようと心がけるべきである。考えがその方へ向けられていれば、つねにその機会は見つかる。このようにすれば人生はたいへん楽になる、とくに逆境にある時にそうである。また順境においても、それに守られて軽はずみや浅薄に陥らないですむ。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「八月十五日」より

 どんな種類の人間とも正しく交わる唯一つの道は、相手のために本当によい事をし、相手からもそれを受けようと志すことにある。とりわけ、まるで動物や無生物を所有するように、人間を自分の娯楽や労役のために「雇う」とか所有するとかしてはいけない。同様に、その人びとと何らかの関係があるかぎり、相手の幸福について無関心であってはならない。
 もしそれができそうもないと思われる場合は、むしろ関係を結ばない方がよろしい。

 多くの人びとから害を受けることなく交わるために、また、有害な影響を与える人たちとの交わりをすぐさま適当に断つためにも、多くの沈着と自信とが必要である。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「八月十六日」より

正しい活動をするには、より完全な人になるよりほかなく、より完全な人になるには、善事に習熟するよりほかはない。単なる知識や思索だけでは、だめである。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「十月二日」より



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2024/07/21


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