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感情的になりがちなすべての人へ、愛を生み出すために。ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』

文字数:約10,360

0: はじめに

イライラする自分を好きな人はいない。それは、ほんの些細なことで構わない。少しでも物事が自分の思い通りにならなかったとき、心の奥底から、邪悪な感情がほとばしるのである。まず、邪悪な気持ちは、反応を制御しようとして、彼らはしばしば成功する。表情はくすんでゆき、身体はこわばりはじめる。この作業は瞬時に、かつ正確に行われる。

次に、この悪魔は、言葉、あるいは行動、もしくはそのどちらをも操作しようとする。頭に浮かぶ言葉を他者や物事への批判や皮肉に変容させ、それを声に出して発するように命じる。自身の行動を他者や物事に攻撃的になるように仕向けさせ、実際に実行するように命じる。そのような悪魔的な言葉と行動を完全に遂行することができれば、人間は完全なる悪魔となってしまうが、現実世界では、その悪魔が完全に姿を表すことはごく稀であり、多くの場合には、その悪魔が多少、その醜い顔をのぞかせる程度である。

何とも情けない話である。ああ、何とも情けない話だ。僕は僕をコントロールしようとすればするほど、自我に支配されてゆくのを感じる。結局、僕は、いつも通りに、思いがけない出来事に一喜一憂し、しかも大抵の場合、喜びよりも憂うことの方が圧倒的に多いのだが、程度の差こそあれ、この神経を尖らせてしまうのである。

情けない話なのだが、これも事実なのだから、僕は反省しないといけない。いつの日か、もっとゆったりと世界と向き合うことができ、他者と物事への思いやりに溢れ、いつも自分の幸福よりも、他者の幸せを優先的に願うことのできるような、そんな勇気に満ちた人格になりたいなあ、と思いつつ、じっと反省しないといけない。

僕の考えでは、読書は人を反省に導くことができる貴重なきっかけの一つである。一つの箴言に出会う。そして妙に納得をする。ああ、そうだよなあ。ああ、そうだったよなあ、と頭の中でしきりにうなづきながら、付箋を貼り付ける。気がつけば、その一冊は、多くの付箋にまみれている。

カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』という箴言集があるが、この本も、そんな自省にはもってこいな書物のうちの一つだと僕は思う。そこで、今回はこの本から、いくつかの箴言を抜き出し、特に"感情"に関して思うことをつらつらと書き留めたいと思うのである。




1: 愛なき力は暴力であり、力なき愛は無力である

 たえずなにか有益な仕事をし、あせったり、心配したりしないこと。また、われわれが出会う事柄やわれわれの気分を、つねにみずから支配し、決してそれらに支配されないこと。これがいつも年のはじめにいだくべき正しい生活のプログラムである。しかしこのプログラムが実行できるのは、われわれが万物の主と親密に堅く結びつき、その導きに無条件に従おうと決心する場合にかぎる。そうでなければ、どんなに賢い強い人でも、周りの人間や状況にもてあそばれて、たえずそれに抵抗して身を護るだけが関の山となる。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「一月三日」より

この世界には、僕らにはコントロールできることとコントロールできないこととがある。自分の思惑というものが、毎度必ずしも、その思い通りに成されることはあまりに少ない。例えば、自分は石につまづいた。道端に落ちているその小石は、自分の意思には関係なく既にそこに存在していたのであり、自分の意思でそこに存在していたのではないのだから、その小石の存在そのものは、自分の意思でどうこうできるものではない。

逆に、その小石に関する自身の観念は、自身の意思で存在している。その小石に対する自身の反応は、小石のものではなく、自分自身のものである。自分自身のものであるものは、自分自身によってコントロールできる領域に存在しているからこそ、自分自身のものと言えるのである。

自分自身のものが一切なのであり、そうではないものは、いわばどうでもよいものなのである。故に、僕たちは、自分自身のものを悪ではなく善となるように志向し、それ以外のものは、それ以外のものであるとして、さっぱりと判断しなければならない。これは、ストア哲学的な考え方である。

"われわれが出会う事柄やわれわれの気分を、つねにみずから支配し、決してそれらに支配されないこと"

ヒルティは、ストア哲学のエピクテトスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスを愛読していたと岩波文庫版の解説に載っている。「われわれが出会う事柄」および「われわれの気分」というものは、自身の権限の外にあるものであり、それらは自身の意思には関係なく存在するが故に、僕たちにはどうしようもないものである。

そんな「どうしようもないもの」に支配されるということは、「どうしようもないもの」を「どうしようもないもの」と捉えるのではなしに、それを「どうしようもないもの」ではないもの、要するに、それを大事なものであると捉え違うということである。「どうしようもないもの」という実存は「どうしようもないもの」としての存在であり続けるが、その「どうしようもないもの」をどう捉えるかという自分自身の意識は、「どうしようもないもの」なんかではなく、自身の権限の内にあるものであり、そこに一切があるのである。

しかしながら、ストア哲学はそれ以上のことを僕たちに教えてくれない(とはいえ、僕がその哲学をまだ充分に読み取れていない可能性は大いに考えられる)。

"しかしこのプログラムが実行できるのは、われわれが万物の主と親密に堅く結びつき、その導きに無条件に従おうと決心する場合にかぎる。"

ヒルティは敬虔なキリスト教徒であり、基本的にこの書物は、一貫してキリスト教を弁証するものである。自分の権限の内にこそ、善は宿る。しかし、ではその善とは何か、という極めて重大な問いは疑問のままである。その闇に光を照らすのは何か。ヒルティの考えでは、それにもっとも近いものこそがキリスト教であると説く。

僕は、それに反論できない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。僕は無神論者なのかもしれないし、本当はそうではないのかもしれないが、ただ、なぜ善は悪ではなく善であるのか、なぜ自分は善を善だと思うのかということは、考えれば考えるほど、わからなくなってくるようだ。しかし、イマヌエル・カントが言うように、現実問題として、僕たちは自分自身のうちに道徳律を備えているのである。

それは神聖な感覚であるとしか言いようがないものだ。近大日本哲学の巨匠 西田幾多郎も、池に落ちそうな幼児を救うとき、人は可愛いという考えすら思い浮かべない、というようなことを述べていた。

"そうでなければ、どんなに賢い強い人でも、周りの人間や状況にもてあそばれて、たえずそれに抵抗して身を護るだけが関の山となる。"

これは愛の感覚である。そうやって書くと、こそばゆくなってしまうのだが、そうとしか言えないのだから仕方がない。全ては愛の問題なのである。だからこそ、もしその考えに愛がないのであれば、哲学や知識なるものは、人々の社会への抵抗力を強めることはできるものの、それ以上のことは成し得ない。むしろ、その高められた防御力は、他者への暴力にまで発展する可能性もあり得る。そのようにヒルティは説教しているのである。


2: 感情に支配される猛獣と、感情を蔑視する機械

 箴言十六の三二*。われわれは単純に自分の感情や気分のままに従ってはならない。感情や気分は、われわれが別に手をかさずとも、おのずから存在するもので、しかもわれわれの生活全体に影響を及ぼすものである。しかし、それはちょうど天候と同じく、われわれがこれを変えることはできなくとも、それに抵抗することはできる。こうすることによって、性格はしだいに堅固さをまして、ついに感情はただ副次的なものとなり、生活の単調を破る変化として役立つだけになる、例えば季節や天候の変化、または昼夜の交替と同じように。
 *「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「四月三日」より

このアフォリズムも、要するに上記に引用したものと同じであるが、ここでは、より理性の働きにその焦点が当てられている。感情や気分なるものと、自身の理性との差異について、である。

感情や気分というものは、僕たちがそれを意識をするよりも先に発生することが多い。嬉しいことが起これば、それを嬉しいことであると認識をして、その後に「嬉しい」という感情が起こるのではない。感情はいつも理性の先回りをしている。もしも、理性が感情よりも先に発動することができるのであれば、「嬉しい」ことを「嬉しい」こと以外のことに変換することができるはずだが、そもそもそれを「嬉しい」ことであると思うことについては、理性はなにも反論ができない。

感情とは、神聖なものであると言っても過言ではない。故に、理性がどうこうできるものではない。理性にできることといえば、例えば、怒りの感情が出てきたとして、その要因を観察し、それを出来得る限り表現しないようにし、あるいは別の感情にすり替えるように誤魔化すことによって、その感情をゆっくりとなだめることだけである。

"怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる"

これは、聖書の言葉だが、イエス・キリストとほとんど同じ時代に生きたストア哲学者のセネカも、怒りに対する最良の処方箋は遅延である、というようなことを述べていた。

"感情や気分は、われわれが別に手をかさずとも、おのずから存在するもので、しかもわれわれの生活全体に影響を及ぼすものである。しかし、それはちょうど天候と同じく、われわれがこれを変えることはできなくとも、それに抵抗することはできる。"

嬉しいことがあれば、素直に嬉しいと思うべきだし、苦しいことがあれば、素直に苦しいと思うべきである。もっとも、そう思うというのは理性の仕事であり、その仕事よりも先に感情は仕事を果たすのだから、理性にできることは、その感情の事前と事後にある。

だが、ここでもやはり、その原理のさらに先にある概念、つまりは神聖なる愛に関する感覚がなければ、僕たちはただ自分自身に抵抗することしかできないのである。

"こうすることによって、性格はしだいに堅固さをまして、ついに感情はただ副次的なものとなり、生活の単調を破る変化として役立つだけになる"

性格を強くしようとして、自分自身の感情を無理やりに押さえつけたり、感情そのものを蔑視しようとする行為は、自分が志向する方向性とは全くの逆の方向に進む危険性がある。感情とは聖なるものであり、聖なるものを軽蔑する気持ちそのものは、あまりにも悪魔的であると言わざるを得ない。それは理性の姿に模した、もう一つの邪悪な感情にすぎない。

ヒルティの「感情はただ副次的なもの」という表現も、少々過激であり、もっとマイルドに書いてもよかったのではないかなあと僕は思う。それでは、美しい空を見て、美しいと素直に思えるその素直さが、覆い隠されてしまうような気がするから。

善を志向する気持ちというものは、神聖なる素直さ無しには、堕落する危険性もあるのではないかと、僕は危惧しているのである。


3: 饒舌という悪魔の娯楽

 「沈黙で失敗する者はない。」このいささか風変わりな言葉は、さまざまな社会的地位にあって、成功を収め人に抜きんでた私の親友の一人が、いつも口にしていた文句であった。実際、きわめて多くの面倒で不愉快な人生のいざこざも、しばしばこのやり方で、たやすく切り抜けることができる。これに反して、多くの人が愛好する、いわゆる「自分の意見発表」は、たいてい、ただ双方の意見のくいちがいを一層きわだたせるだけで、時には事態を収拾のつかないものにしてしまうことがある。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「一月十日」より

聖だの、徳だの、義だのについてあまり多く語るべきではない。それらのものも、聖書が言っているように、一切を見抜く眼の前には、つねに「汚れた衣」(イザヤ書六四の六)にすぎない。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「十一月三日」より

饒舌とは、あまりにも感情的な自己表現であり、批判や皮肉というものは、それを発する側にとっては快楽の一種である。ワイドショーは、そのような群衆の感情を喚起する能力に長けている。また、SNSで誹謗中傷を繰り返す人々も、そこに暴力的な快楽を見出しているが故である。

ロジカルに人々を説き伏せる人々がいる。その本性は理性の皮を被った感情にすぎない。反対に、真の理性的な人々は、「人々を論破したい」という快楽を軽蔑する。また、自分の言葉で、他者の感情を喚起するような発言もできるだけ控えるように工夫をしようとする。さらに、相手の言葉が、自分の暴力的な感情を呼び起こそうとしたとき、そっと、その会話から距離を置こうとする。

これが理性的な人々の特徴であり、そうではない場合には、どんなに彼らの頭脳が明晰だろうが、それはただ饒舌に屈しているだけなのである。僕たちは、エンタメと日常生活を決して混同してはならない。メディアには強烈なキャラクターが大勢出演する。感情的かつロジカルに人々を論破する姿に、そのやりとりを見る人々は、快感を覚えるか、あるいは嫌悪を覚えるが、いずれにせよ、その演者は、人々の感情を呼び起こすことには成功したのである。

クソ真面目なメディアは売れない。だから、メディアはこぞって、直接的に群衆の感情的心理に働きかける。その方向性はできればプラスがよいのだが、プラスにならなければマイナスでもよい。いわゆる炎上も、メディアにとってみれば、失敗ではないのである。

キャラが立っていないと画面上では映えない。真面目で誠実なキャラクターは、ほかに際立った特徴がなければ、単なる無特徴な"良い人"として、見向きもされない。

彼らは、メディア上だからこそ、そのようにパフォーマンスをするだけであって、日常生活にまでそのような振る舞いを引っ張り出してしまうのは、単なるキチガイである。そんなことが許されるのは、せいぜい小学生くらいまでだろう。彼らはそうやって恥を学んでいる。微笑ましい成長の過程にすぎない。

"「沈黙で失敗する者はない。」"

まったくその通りだと思う。沈黙を破ろうとして発する言葉は、どうしてこうもぎこちないのだろうか。沈黙することが耐えられないことと、進んで沈黙することとの差異はあまりにも大きい。前者は、何らかの理由で、その場の空気に単に気まずさを感じているだけなのであり、後者は自分自身の暴力的で感情的な饒舌と勇敢にも戦っているからである。

気まずい空気というのは、割と仕方がないと僕は思う。気まずさを解消させる必要があれば、何かしら働きかければいいのだし、そうでなければ、別のことでも考えて、気を紛らわせておけばいいだろう。ただ、その程度のことである。しかし、自分が話したくて仕方がない、というような場合は、その程度のことでは済まない。自分自身の何気無い発言が、他者を傷つけてしまう可能性があるからである。

これは日常生活の実践であり、メディアの見世物ではない。実践である以上、傷の修復には、ある程度の時間がかかってしまう。下手をすれば、自分自身も傷ついてしまう。

"われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。(イザヤ書六四の六)"

「聖だの、徳だの、義だのについてあまり多く語るべきではない」、「一切を見抜く眼の前には、つねに「汚れた衣」にすぎない」、まさにその通りだと思う。もしも仮に、職場で道徳や倫理を垂れる人々がいたとして、そんな人々の言うことは聞かないほうがましだろう。そういうものは、自分自身に問いかけるものであって、他者に押し付けられる代物ではない。

ストア哲学のエピクテトスも、私生活において、その時が来るまでは哲学や原理を語るなかれ、というようなことを述べていた。正義を語りたい、というその気持ち自体が、「汚れた衣」だからである。従って、人前で「汚れた衣」を着るのも、それを洗うのも、よしたほうが賢明である。

しかしながら、ただ沈黙しているだけでは、僕たちは何もなし得ない。上述したことと同じだが、それではただ感情に抵抗しているだけであり、その感情と折り合えているわけではないからである。

二つヒルティの箴言を引用する。

 こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい。そして、いたるところで力のかぎり、すべて善きものをはげまし、かつ支持するようにし、卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。そうすれば、前よりも満足な生活に入ることができよう。実にしばしば、まさにこの一点に一切がかかっているのである。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「二月五日」より

 あまり批評めいたことはしない方がよい。批評することに熱心な人は、あり余るほどいる。しかし、善を認めてそれを力づける人や、真理をおだやかに、しかも完全に述べうる人は稀である。しかし、真理が有効にはたらくためには、ぜひそのように語られなければならない。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「五月六日」より

"すべて善きものをはげまし、かつ支持するようにし、卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい"

そのような志向性を抜きにして、感情論は語ることができない。それは、理性と感情の絶妙なハーモニーである。愛とは理性的であるとレフ・トルストイは言っていたが、そのような意識をしていれば、感情の発露の仕方も変わってくるのかもしれない。

なぜ、ある出来事がある人にとってはイラついたものと映り、また別の人にとっては他の印象を与えるのだろうか。それは、理性が感情の在り方に変化を与えている証拠ではないだろうか。

いくら頭が良くても、この感覚がなければ、その一切は悪の温床である。


4: 自らの自惚れに気がつけば、人は饒舌をやめる

 世間の人たちが最も多く相手を称賛したい気になるのは、彼らの称賛を求めもせず、しかしそれを軽蔑もしないような、虚栄心のない、落着いた、確固たる自覚をもった人に出会った場合である。称賛の催促も軽蔑も、彼らの反感を誘うか、少なくとも、賞賛を保留させることになる。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「四月十一日」より

 人との交わりにおいて、最も有害なものは、虚栄心である。だれでも、最も単純な人ですら、相手の虚栄心をかぎつける正確な本能を持っている。彼らは相手の虚栄心を認めない場合にのみ、よろこんで信服するのである。
 虚栄心はつねに見すかされる。その上、他の悪徳はまだしも讃美者を見出すのに、虚栄心ばかりはだれの気にもいらない。従って、虚栄心は決してその目的を達しえないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしいものである。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「五月十五日」より

虚栄心のある人は、必ずしも饒舌であるとは限らないが、饒舌である人は、十中八九、虚栄心の塊であるとみて間違いはないだろう。人は、自惚れを自分で意識している場合もあれば、意識していない場合もあるが、ほとんどの場合、彼らは自らの虚栄心には無自覚である。

自身の虚栄心に気がついていながら、そのような振る舞いをし続けるのは、悪魔か、あるいは道化師である。しかし、多くの人々は、自らの虚栄心に自らで気がついた途端に、そのような振る舞いをやめようとする。逆に言えば、自らの自惚れに気がついていないからこそ、彼らはそのような振る舞いをしてしまうのである。

"虚栄心はつねに見すかされる"

自分の虚栄心はこんなにも見えづらいのに、それが他人のものとなれば、こんなにも容易になるのは、なぜだろうか。自惚れている人の言動というものは、あまりにも分かりやすい。自惚れとは、自分のことを他よりも優れていると思うことである。自分は彼らよりも優れている、優越感が生み出すのは、他者への思いやりのかけらもない言動である。

また自惚れている人の後に着いていこうとする人たちも存在する。王様の行進を共に歩く奴隷は、群衆に対して我が物顔をする。あたかも、その名誉が自分のものであるかのように振る舞う彼らは、あまりにも滑稽である。

仮にとある若者が、超有名企業に入社することができ、そのことを自慢しているようであるのならば、そんなものは奴隷の些細な快楽と何の違いもない。優れているのは、その企業であって、その従業員ではない。そもそも、優れているからといって、それをあえて自らの口で発表することは、とても王様のすることとは思えない。

もしも彼らが、真の王様であるのならば、何も言わなくても、群衆は彼らのことを王様であると認めるのだろうし、自ら言わなければ王様ではないのだとすれば、それは偽物の王様にすぎないのである。

「俺ってすごいよね」。反吐が出るようなセリフだが、そのようなセリフを聞いたときに発生する自分自身の反応は極めて重要である。もしも仮に、彼らのそのような言動に対して、「ああ、くだらない」と即時的に判断してしまうのだとすれば、もしかすると、それはマウントに重ねられたマウントにすぎないのかもしれないからである。

自惚れとは、他者への優越性にその一切がある。「自惚れている人」を貶す人々は、そうすることによって、「自惚れている人」よりも自らの方が優れていることを示そうとする。誹謗中傷の深層心理は、以外とシンプルである。そこには、他者よりも優れていたいという自惚れた自分が隠されているだけである。

持てる者が持たざる者を貶し、持たざる者は持てる者を貶す。その原理は、ほとんど同じである。

だが、それ故に、その行為には、何の建設性があるのだろうか。自らの自惚れを自覚することが、まず第一歩である。そうすれば、人はその饒舌をやめようと努力する。

しかし、何度も繰り返すが、自分は自惚れていると自覚して無口になるだけでは、僕らはあまりにも無力である。それでは、まだエゴを抜け出せていない。エゴを乗り越えるためには、他者へのやさしさがすべてであると僕は思う。

人は、誰が何と言おうが、どこまでいっても平等であり対等だからである。


5: 小さいものへの愛情が、すべてを解決する

 私は生涯にいくどか人間軽蔑者になりそうな時期があった。そうならずにすんだのは、確かに人間社会の上層の人びとと知り合っていたためではなく、反対に、ささやかな人びととの生活や考え方を深く理解したおかげである。
 この世に小さなものに対する関心と特別の愛を持つようになると、現代の病気であるペシミズムに永久にかからなくなる。これに反して、高貴なものや、うわべだけ目立つものに対する、たとえ秘かにであっても、何らかの憧れが心の中に残っているかぎり(現代では教養ある、あるいは半ば教養ある階級では、ほとんど例外なくそうであるが)、「この世の君」はいぜんとしてその人びとに対して権限を失ったわけではなく、彼らはゆるぎない幸福に達することができない。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 草間平作・大和邦太郎 訳
「十一月十七日」より

"この世に小さなものに対する関心と特別の愛を持つようになると、現代の病気であるペシミズムに永久にかからなくなる"

アルフレッド・アドラーは、人間は何があっても平等である、ということを強く説いた。どんなに幼くても、どんなに年老いていても、どんなに身分が低くても、どんなに身分が高くても、どこまでいっても人間は平等であり、平等であるが故に、そこには優劣など存在し得ない。

ペシミズムというのは、批判的なひねくれた態度のことである。怒りっぽく、口を開けば皮肉ばかりという、そんな態度である。彼らは何がしたいのかといえば、そうすることによって、他者よりも上に立ちたいだけなのである。真の意味での平等というのは万人が達成するのは難しい課題であると言わざるを得ない。

今までそのような国家はなかったのだから、この先、そのような理想郷が建設される見込みもないだろう。しかし、だからといって、自分は何もしなくてもよいかと言えば、それは違うだろうとも思う。誰がはじめるか、ということはあまり問題ではなく、自分がはじめるか否かが、その問題のすべてであるからである。

と、そのように書けば、胡散臭い説教みたいに聞こえて、嫌なのだが、そのような意識をちょこっと心と頭の片隅に置いておくだけで、嫌な感情というものは、すーっと落ち着き、喜ばしい感情というものは、その彩りを増すはずであると、僕は信じている。

虚しい存在など、存在しない。そう思うことが、エゴを乗り越え、西田幾多郎が説くところの主客合一への第一歩なのである。すべての命は、あまりにもとうとい。

2024/07/16


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