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「デザインが1番好きじゃない」と気づいたあとのこと

重大なことに気づいてしまった
「私は、デザインが1番好きじゃない」

どんな事があっても諦めなかった
何があっても続けてきたデザインが1番好きでも、
1番やりたかったことでもなかったなんて。

大いなる衝撃
アイデンティティクライシス

そんな怒涛の2020年度末

昔からの夢

まずは、先に、ずっと前のことから

18歳の私は、美大に四大に行きたかったけどダメだった

高校3年生の三者面談の時、
いつも学校へ来る母ではなく、
父が出向き、担任の先生と私とで進路を話し合う場

その場で、私と父と大喧嘩
担任の先生からしてみたら
『事前に家で家族会議で話し合ってこいや』
だったに違いない

学校という公の場であってもお互い怒り収まらず、話合いも決着付かず、三者面談終了

なんて無駄な時間

でも結局、折れたのは私だった

親に言われたまま流された私は浪人生へ
四大へ行って、国家資格取得して、安泰な道がイイよね、親の言う通りに。

なんて思ったけれど…虚無

予備校に通い、勉強漬けになりつつ、
仲良くなった人は、「(当時の)ジャニーズJr.大好き!東京の大学へ行って、一人暮らしして、バイトして、コンサート行くのー!」と目をキラキラさせながら語る姿が羨ましかった

頑張ってるけど、頑張れない感じの日々

なんだかんだで友達も増え、なんだかんだで彼氏も出来て、楽しくなりかけた予備校生活

でも、心の中にある(虚無)
このままでいいのかな、大学へ行きたいのかな
なんて思いながら勉強する日々
(漬からなくなってる)

予備校時代、息抜きは読書で小説を読むことが1番の楽しみだった
本屋へ行き、文庫本の棚から次は何を読もうか、宝探しの気分で本を探す

ふと目にした本があった

いつもなら読まないジャンルの本だ
発刊したばかりだったのか平積みになっていた
でも、その日はスルーして帰宅した

いつの日からか、大学受験に興味がなくなっていた

正しくは、受験しようと思っている学科には興味がななり(そりゃそうだ虚無だもの)、
どうやったらグラフィックデザインの道に進めるかばかり考えていた

『一番角が立たないのは、四大を卒業してから親に
「あなた達の言った通りに四大を卒業したので、あとは私の好きなように生きさせてください」
って言うことだな』

そうなると5年後

『でも…あと5年、元気に生きている保証って、どこにあるんだろう?
もし、明日、交通事故にあったり、3年後に病気になったりしたら、グラフィックデザインの道に進む事が叶わないまま終わってしまう』

そんな事を考えながら、また本屋で次に読む小説を探していた

またあの本が目に留る

何故か今日は、その本を手に取って、パラパラとページをめくって見た

衝撃だった

頭をカナヅチで殴られたような気分になった

岡本太郎著「自分の中に毒を持て」青春文庫を手に取りレジへ向かった。
この本を読み、心は決まった。

予備校は辞めよう。
と勝手に決めて辞めた。
(学校ではないので、辞めるもなにもないんだけれど、予備校の事務窓口へ言いにいった)

あの時、この本を手に取って読んでいなければ、もしかしたらきっと、
デザインの道には進んで…進めてはいない。

なぜなら

4年待っていたら、母が大病に罹り、2年後の生存率50%・社会復帰不可能と宣告されて、東京へデザインを学びに行く余裕など無くなってしまったからだ。

物事にはタイミングがある。

決断しなければいけない時がある。
まさに、この時、決断しなければ、一生「デザインを学びたかった人」で終わっていたのだ。

母が抗がん剤治療に入るに当たって、母が入院する病院近くの仕事に就いた時も毎週日曜日の終日を社会人のデザインスクールへ通学し、ある時は宣伝会議の講座に通ったり、デザインの勉強は続けていた。
その内、仕事場の厚生事業のチラシ作成や社内掲示のポスターのデザインをするようにもなった。

一生、どんなに小さくても良いからデザインに関わって生きていきたい。そう思っていた。

アイデンティティクライシスを起こす前の話

そして昨年、前田デザイン室「ぬけだ荘」プロジェクトに参加して、「自分にウソをつくことからぬけだしたい」と言うnoteを書いた。

そのnoteを書いた頃、悲しみのドン底にいた

https://note.com/kokemusume/n/ncf14e1820c58

悲しみのドン底にいたそもそもの理由は、自分にウソをついていたからだ。

「自分の中の好き」に対して、素直になれず、表現できず、感情を押し殺していたから。

なぜ、そうしてしまったか、というと幼少期に受けた「心の傷」が原因と分かってきた。

その心の傷と向き合うことが出来ないまま大人になり、大人になっても似たような状況や感情に出会うと昔の傷が痛みだし、幼かった頃の私が現れ悲しみだす(これが、自己憐憫の原因)

大人の私は、「ひとり」でも生きていけるし、「ひとり」でも楽しむことが出来る。

でも、昔の私が、今の私に語りかける『また、寂しくなるから、目の前にいる人の気を惹かなくちゃ。

悲しそうにしていたら、許してくれる、話しかけてくれる、注目してくれる』昔の私を断ち切るには、どうしたら良いのだろう?

長年の繰り返して来たルーティンになってしまっている感情のループからぬけ出すには、そうしたら良いのだろう?

こんな長い間、一緒いた感情のループから一朝一夕ではぬけ出せない。

3歩進んでは2歩さがる「365歩のマーチ戦法」でも良し、自分を褒める。
と思っても、『だって悲しいんだもん、仕方ないよ』と昔の私が語りかけて、今の私がそんな自分を責め続ける日々。同じ所をグルグル回っている…エンドレス状態。

全然ぬけだせない…

そう思っていた昨年末、とあるクローズドグループの中で、自分の過去の一部について書く機会があった。

私の話は、基本的に重すぎる話だと自分自身でも思っていたので、人に進んで話すことはなかった。

また、似たような境遇の人にも話すことはなかった。
なぜなら、同じような境遇であっても受容の度合いが異なることを感じていたから。
表面は乾いていて大丈夫そうな傷でも、中は今この瞬間に傷ついたような傷口の人も中にはいる。
私自身、傷が癒えてなかったから余計に話せなかったのかもしれない。

ただ、そのグループの中では、話すことができたのだ。
その時、心の中にある黒い塊が消えた感覚があった。
塊が消えても、長い間、置かれていた塊の残像は、直ぐには消えなかった。

この頃、少しぬけ出すきっかけが見えてきていた。

アイデンティティクライシスを起こした話

ぬけ出す兆しが見えてきていて、でも、まだある塊の影

幼い頃に抱えた『また拒絶されたら…』『また見捨てられたら…』
昔の感情の記憶、もう目の前にない感情が今あるかのように蘇ってくる…まるでゾンビ

そんなゾンビ化した感情が蘇る中、
以前なら、ただただ悲しく、ただただ不安で、クヨクヨして、落ち込んでいた事が、
『あれ?もしや、これは…ゾンビ化した感情では…?』
と回復してから気づく事が出てきたのだ

そして、
・悲しい
・不安
・クヨクヨ
・落ち込み
は、そのうち治る!
とゾンビ化している真っただ中でも『治ってきたし、大丈夫だった。』と気づけるようになってきた。
ある時、『この感情は、まぼろしぃ〜!』と心の中にIKKOさんが現れてきて、もう少しでぬけ出せそうと思っていた矢先に…

夢と思っていたこと、叶えたいと強く願っていたことが、全てウソだったと気づいた

ある日、テレビ番組で「身長150cm、プロダンサーになり、倖田來未さんのバックダンサーとなり11cmのハイヒールを履きステージに立っていた」という女性が紹介されているのを見た時、遠い遠い昔の記憶が蘇ったのだ

私はダンサーになりたかった。

3歳のころ、ちゃぶ台の上に乗り、ピンクレディ真似をしてダンスを踊っていた記憶。

中学生で米米CLUBを好きになり、シュークリームッシュの真似をして踊り狂っていた記憶。

高校生のころ、放課後、教室に残り、みんなで踊っていた記憶。

その時、ダンサーになりたいと薄ら思っていた記憶。

でも、どうせ無理と気持ちを押し込めてしまった。成れるはずないと思っていた、背も低いし。
背が低いと諦めるくらいの人には才能もないから挑戦しても仕方ない、そう思って諦めた記憶。

でも、全然諦めきれてなかった。

ダンサーになりたかった。
絵を描いて生きていきたかった。
グラフィックデザイナーになりたかった。

この順番だった。

あんなに夢と思って追いかけて、叶えたいと強く願い、時間もかけて、お金もかけて、努力を重ねてきたつもりのグラフィックデザインが1番好きではなかったなんて…

1番好きだと思ってきた。私が思っていた1番って…

全てが崩れていった

でも、心の奥に何故か爽快感があった

ふりだしに戻る

もし、高校3年生の三者面談の時「ダンサーになりたい」と言えるくらい強い気持ちがあったなら、自分にウソをつかない人生だったのだろうか

どんなに考えた所で、もう一つの人生を経験することは出来ないけれど、
ずっと気づけなかった気持ちが「表」に出た事で、頑なに抱えていたグラフィックデザインに対する思いも軽くなった

今なら声を大にしていえる
「私は、グラフィックデザインが好きです」

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