鉛色のカーテン

 涙袋で水滴が弾け、思わず見上げた。今にも落ちてきそうな、重たい色をした雲が空一面に広がっていた。降りそうだな、という呟きに合わせて雨垂れが私の額で軽やかにステップを踏む。儀礼的に辺りを見回してみるが、この山間にあるのは田んぼと用水路ばかり。肩に提げた小さなカバンには読み終わった小説が一冊と目薬くらいで両手は自由だ。早くも周囲で木霊する、時雨の足音に対して抗う術はない。

 当分はこの人影のない下り坂を行かなければならない。幸い今日は、濡れて困るような電子機器は置いて出てきた。汚れて困るような服も、靴も身につけていない。この田舎道には、ずぶ濡れの大人を不審がる目だってなかった。薦められ、義務的に突っ込んできたカバンの中の小説は、あまり好みじゃない。雨は丁度いいのを見つけたとばかりに、前から勢いよく吹き付けはじめた。

 参っちゃうな、と口元が緩む。行く手にはもう水たまりがいくつか出来はじめていて、小さな流れが私と並走している。鎖骨の形が露わになるほど張り付いた白いシャツは私の肌色を透かし、前髪は濡れそぼって束になり、その先に透明に輝く雫を灯してふるふる震える。こんな有様になったって誰に見咎められることもない。すっかり水を吸った薄いカーディガンを肩から外し、袖を腰の前で結ぶ。軽くなった両腕を空に向けて広げると、大粒の雨が心地良く打ち、肌の上を滑って脇を撫でていく。その冷たい手が、私の身体にこびりついた澱を流し去るようで、少しの間されるがままにしていた。

 昔から台風だとか、大雨が来るとワクワクしていたな、と思い出す。小さい頃は、わざと傘を忘れて出かけたりもしていた。窓の外が暗くなると、それにそぐわぬ表情で見上げていた。身長が高くなり、空が近づくほどに、雨の方は遠ざかっていった。こんな風に、水たまりをそのまま自分の足跡にするような歩き方をするのは随分久しぶりだ。私があげた飛沫はすぐに無数の雨筋と交差して紛れてしまった。至るところから立ち昇る水煙の隙間から、様々な雨音が響き、私の身体を余すところなく濡らしていく。

 タップダンスが出来たなら映画のワンシーンを気取ってみせたのにな、とほぞを嚙む代わりに歌ってみる。口を開く度に水が入って歌えたものではなかったが、笑いが込みあげてきた。田園を覆ったその分厚い鉛色のカーテンの下に隠れて、童心を放っていられることが愉快でたまらない。やがて道は平坦になってきて、ここから先には住宅地が控えている。遠くで車のライトがこちらを向くのを見つけて、腰に巻いたカーディガンを頭上に広げ早足を装う。いつか、こんな雨の日を、スーツ姿でも同じように振舞えたらなと思いながら水たまりを避ける。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。