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必要なものはすべて既に持っている

なぜ物を欲しがるのだろうか。
本当に必要なものは何だろうか。
それを自問している。

今週は、iPad miniが欲しいという感情に支配されていた1週間だった。
Youtubeでレビュー動画を何度も調べてみたり、最安値で買う方法を模索してみたり、買った後に使うシチュエーションを妄想したりしていた。
最終的に、公式で整備品を買うのが一番いいだろうという選択肢にたどり着き、カートに入れて購入寸前まできた。
パートナーに、あと1日経って、本当に欲しいのであれば買えばいい。それまで待て、と言われた。1日待つなんてひどいことをいう・・そう思った。

だが、1日後、あんなに欲しくていろいろ調べていたiPad mini を買うことをやめた。

私にとって決して安くない金額を払うことに躊躇したわけではない。
「なぜ」iPadが欲しいのかを何となく前日1日かけて考えていた結果そうなった。

私がiPadを購入するのをやめた思考プロセス。

iPadが欲しい。
そう思うのはなぜだろうか。
代替できないだろうか。
iPadで絵を描きたいのであれば、
紙とペンがあれば済むことだし、
iPadで動画編集がしたいのであれば、
既に持っているPCに動画編集ソフトをダウンロードすれば済む。
どこにでも持ち運んで、必要な時に動画や読書をしたい。
そうであれば、既に持っているスマホでも代替可能だし、本だって紙で読めばいい(所有するのが嫌なら、図書館で借りればいい)
・・・あれ、もう既に、私はiPadでやってみたいと思っている機能を十分すぎるぐらいに満たせるモノやサービスを私は知っていて、持っている。

持っているものに目を向けることを避けてただ「欲しい」
という感情に支配されていただけではないか。


そして私はそこから飛躍した。
私を取り巻くすべてのモノやサービスのありがたみや価値をもう一度よく考えるべきだと。

持っている衣類、靴、カバンなどのモノ
関わってくれる人、環境
つまらないと思っている日常のすべて

これらのありがたみに気づき、価値を見出し満たされたとき、
究極のシンプリストになる日も近いのかもしれない。


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