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戸野琢磨先生の「遊園地としての豊島園」を読み解く2

 豊島園の「古城の塔」保全・活用キャンペーン発起人の岡田です!

 二つ前の記事、「戸野琢磨先生の「遊園地としての豊島園」を読み解く」では古城の塔と英国式庭園について紹介をさせていただきました。

 後編では戸野琢磨先生が設計し、今も残っている他の施設について紹介します。

睡蓮の池と大階段

 既にSNSでも多く指摘されていますが、開園時に城山の西側に配置された大階段の一部は閉園時のとしまえんのプール付近に一部を確認することができました。
 それがこちら。

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 そして在りし日の大階段とその上部の睡蓮の池の絵葉書がこちら。

睡蓮池と大階段

画像:昭和10年頃の練馬城址豊島園絵葉書(石神井ふるさと文化館 夢の黄金郷遊園地展冊子より)

 上部はほとんどノーティックジェットのプールによって失われていますが、下部は比較的形状が残されているように見えます。

 この睡蓮の池は英国式庭園の中央にあった噴水塔の水を導水するために設計されました。しかし地形的にかなり苦労したようで、以下「遊園地としての豊島園」から引用します。

 現在のプールがある處には小川が流れ、雑木が散植されて可成りの低地であったので、此の流れに噴水塔から流れる水を導いたのであった。
 此の噴水塔を東西に貫く大主軸を貫通せしめて睡蓮池に導かんとしたのであるが、地形はそれを許さなかった。主軸は途中何處かで屈曲させなければならなかった。これが操縦法には少なからず悩まされ、遂に伊太利イソベラの庭園設計法を思ひ出し、花壇を出た處に二半圓の植え込みを儲け此處で視覺を誤らしめ、恰も(あたかも)直通するかの如く装ふて、其の實可成軸は右方に曲げられたのである。

 開園時の練馬城址豊島園には競泳用プールが描かれておらず、元々は谷戸地形であったので小川が流れていたのが当時の園内マップでも確認することができます。

豊島園 地図

画像:大正15年 練馬城址豊島園全景(石神井ふるさと文化館 夢の黄金郷遊園地展冊子より)

 この小川に噴水から流れ出た水を合流させるにあたり、戸野先生は真っすぐな水路を作りたかったようですが、地形的にそれが難しく、植え込みを使って錯覚を利用したということです。

 それも只だ流すのは惜しい、何かと考案の末、遂に階段状の池、それに水遍には大階段を配置してみた。共に伊太利造園術に負う處大である。

 城山と古城の塔は英国式だったのですが、この睡蓮池と階段はイタリア式だったんですね。 

プール

 プールは改修はされているのでしょうが、流れるプールの中央にあった「競泳用プール」は元々戸野琢磨先生が設計されたものです。
 開園時のマップには描かれていないのですが、その後先述の小川が流れる谷だった場所に描かれるようになり、開園後すぐに追加されたものであることが分かります。
 プールは「體育的施設」である印象を受けますが、戸野琢磨先生は「園藝的施設」の中、「D、プール及び大瀧」の中でこう書いています。

 此のプールは始め體育の部に入れ設計図に示す如く此の部分に入れてなかったのを、風致に調和を取り且つ石神井の清流浴したい希望が盛んになつたので、遂に天下一品と云ふプールを設計した譯である。

 現代の人からするとこのプールが「石神井川の水を浴びたい」という目的で設置されたというのは少し驚くかもしれません。しかし、このプールの約8年ほど前に日本初の100mプールが同じく現在の練馬区内で石神井川水系の水を使って作られました。それが、現在の石神井公園の水辺植物園の場所にあった東京府立第四公衆水泳場、通称石神井水泳場です。こちらは三宝寺池の水を導水して運営されていました。
 昔はそれだけ石神井川の水は清流とされ、人々は水遊びを普通にしていたのです。

 なお、タイトルに並んで描かれている大瀧については、流れるプールが設置される際に撤去されたと思われます。

 正面にアルドブランデニの瀧を模した大瀧を作り、此の瀧の水は下のロヂア屋上から糸状になつて、更に下の徒渉池に落下する仕掛けである。

 徒渉(とかち)とは川や池を歩いて渡るという意味なので、滝の下に足首くらいの深さの池があったという事を意味します。

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画像:昭和10年頃の練馬城址豊島園絵葉書(石神井ふるさと文化館 夢の黄金郷遊園地展冊子より)


 「アルドブランデニの瀧」については、Villa Aldobrandiniで検索すると確かに似ている滝を見つけることができます。

現在の日本庭園は小形研三先生の作品

 「遊園地としての豊島園」についても「F、日本式庭園」という項目があるのですが、

 園内の何處かにやはり日本趣味も必要と云う處より、此處に日本庭園を造り、日本趣味の飲食店を出す豫定であるが、其の運びには未だ到らない。

とあり、当時はまだ構想段階であることが分かります。
 そして現在の「豊島園庭の湯」の「日本庭園」のページには、

「豊島園 庭の湯」の名前の由来ともなった、1,200坪もの敷地を誇る庭園は、日本を代表する造園家 小形研三氏によるものです。

 とあり、少なくとも現存する日本庭園は小形研三先生によるものである事が分かります。なお、豊島園庭の湯がオープンしたのは2003年、小形研三先生が亡くなられたのは1988年ですので、庭の湯がオープンした時に現在の日本庭園が作られたり、作り直されたりしたわけではないようです。

 豊島園の園内マップおよび絵葉書に「日本庭園」の文字が登場するのは昭和十年頃です。この頃には既にオーナーは藤田好三郎氏ではないので、当時のオーナー(この頃数度オーナーが変わっています)が戸野琢磨先生に必ずしも設計を依頼したとも限らず、しかし昭和10年は小形研三先生はまだ23歳ですので、担当するには少し若いようにも思われます。
 戸野琢磨先生が初期の豊島園の日本庭園を設計したのか、あるいは最初から小形研三先生の設計だったのかについては分かり次第、情報を追加していきます。

 以上、2回にわたって「遊園地としての豊島園」について紹介して参りました。引き続き資料収集を進めておりますので、新しい事が分かりましたらこちらにまとめていきます。

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