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「外はサクサク、なかはジューシー」なんて言わないよぜったい

「他人の舌で味わったひとの言葉は弱い」

っていう平野紗季子さんの言葉は、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」っていう茨木のり子さんの詩くらい、ガッツーン!!とくるのであった。

なにしろ、さいきんじゃ多くの現代人が食べる前に食べログやらぐるなびやらでその店のレビューを見て、「ここの定食屋のからあげは外がサクサクなかがジューシー」と知り、食して「外がサクサクなかがジューシーであった!」と満足そうにインスタに投稿してる。

それが「他人の舌で味わってる」ってことだし、そういうひとの言葉は弱い。心の芯にひびいてこないし、お腹はぐぅとならない。そんなニュアンスのことを平野さんはいってる。(『生まれた時からアルデンテ』117頁)


だけれどかなしいかな、「外サク、なかジュワ」系の言葉は、食以外でもあふれてる。映画を見て「全俺が泣いた」、漫才を見て「腹抱えて笑った」、謝らなきゃいけない場面で「まことに遺憾です」。

楽なのだ、「外サク、なかジュワ」は。なにしろ本気で体験しなくていい。借りものの言葉をつかえば、「いいね」がつく。コスパが非常によろしい。でも、それでいいのか?と思う(ついやっちゃうけど)。

かつてえらい言語学者が、「言葉は世界に先立つ」といった。その学者のいうことを信じれば、「外サク、なかジュワ」系の言葉をつかうひとは、他人の言葉でできた世界を生きることになる。自分の人生じゃなくて。

そんなのいやだ!と、思いませんか?僕は思う。たとえ頼んだ唐揚げが「外サク、なかジュワ」じゃなく、「外べた、なかパサ」だとしても、自分の言葉を、自分の人生を生きる方がよっぽどマシだ!


だからひとまず、今日の晩ご飯を自分の舌で味わってみることにする。唐揚げをはじめて食べたときみたいに、まっさらな気持ちで。「自分の人生を生きる」って、今日のご飯の延長にある気がする。



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