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寂しがり屋のひとり好き。

気がつくと僕はひとりになっている。大勢で飲んでいるとだんだんと部屋のすみっこに足が向いて、最終的には角でちびちび飲んでいる。イベントでも名刺交換の時間が苦手で、わいわいと話す人々の輪からはなれてそそくさと帰路につく。

僕はむかしから、この「みんなでわいわい」というものが苦手なのだ。なんていうか、どうも集団の空気に馴染めない。なので、駅前で缶チューハイ片手にわいわい騒いている学生をみると、ほろ苦い感情が胸にせり上がってきてぐむむとなる。自分もそうしたいけどできない、という、嫉妬に似た気持ちかもしれない。

「じゃあ君はずっとひとりでいたいんだね」と言われたら、そんなことないので、話はやっかいになってくる。自分で言うのも面映ゆいけれども僕は寂しがり屋でもある。ひとり家に帰って誰もおかえりを言ってくれる人のいない家のさびしさはたまらない。誰もくだらないテレビをだらだらと横で観る人のいない年末年始のさびしさはたまらないのである。

「寂しがり屋のひとり好き」というコミュニティがmixiであったんだけど、すこぶる言い得て妙で、今更ながら関心してしまう。「それそれ!それなんですぅ!」って感じ。僕はまさに「寂しがり屋のひとり好き」だ。

よく聞く話だけれども、「loneliness」と「solitude」は違う。おなじ「ひとりでいること」をあらわす言葉だけど、孤独というような少しネガティブな含みがある「loneliness」に対して、「solitude」はむしろひとりでいることのポジティブな面まで含んでいるきがする。「寂しがり屋のひとり好き」をいいかえれば、「lonelinessは嫌だけどsolitudeは好き」ということだ。

ただ、「loneliness」と「solitude」の境界線はあんまりないような気もする。僕は「solitude」だったつもりがその境界線を踏み越えて「loneliness」の世界に足を踏み入れている、という瞬間がよくあるのである。そのあたりは、映画「Into the wild」を観るとよくわかる。「Into the wild」は「Into the loneliness」の物語でもある。

僕はたぶん、今日もまた「Into the loneliness」してしまう。でも、「loneliness」から「solitude」にかえる通路も開かれているんじゃないかと信じて、その道を手探りで探している。



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