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消息不明の父へ

母親と、一つ屋根の下で暮らした期間が7年しかありません。そして、幼い頃に離婚した父親とは暮らした記憶自体がないのです。だから、父が写った写真は宝物のように貴重で大事です。ただし、恵まれていないとは思っていません。母と一緒に住めた期間もあったのだし、離婚後も何度か家にきた父とも面識はあります。それだけでも十分、幸せなことです。

志和家は昔渋谷の道玄坂2丁目にあって、総桐の大きなお屋敷でした。北海道の利尻から東京に来た祖父が羽織の帯を売り歩いて貯めたお金で百軒店にキャバレーやバーを開業し、大当たりしたのです。金融もやって、俳優の長谷川一夫とも取引がありました。

父・志和広隆(廣隆)は松濤中学を昭和30年に卒業した4回生で3年C組。高校は日大鶴ヶ丘に進学しましたがその頃からグレて、よろしくない交友関係にはまったようです。

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そんな父は、歌舞伎町でホストをしていた頃に同じ新宿のコンセルという店でダンサーをしていた母と出会い結婚しました。

母は中学の頃から働いてきた苦労人です。腹違いの姉妹がいて人生の折々でその話をしてくれましたが「今どうしているのかわからないね……」と寂しそうな表情を浮かべていました。母もまた家庭環境に恵まれておらず、それがそのまま私の人生にも影響をおよぼしたのです。私は母の遺志を大切にしたく、母が旅立ったあとから毎日母とご先祖様の位牌にお供えと祈りを欠かしたことはありません。そうすることぐらいしか母と私の人生に欠けていたものを埋めることはもう出来ないと思うのです。

そんな母は、銀座の美松でダンサーデビューしてからは気に入ったバンドを追いかけて上野の新世紀や両国ダンスホールのインストラクターなどしながら、コンセルにたどり着き、そこで父と出会ったそうです。結婚は当初猛反対され、父が睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂を図ったことで、やっと祖父が認めてくれたそうです。

そして、私が生まれました。

だけどほどなく2人は、離婚してしまいました。自殺未遂を図るほどの大恋愛だったはずなのに、人間なんてわからないものです。

私の子ども時代、父は用事ができると母に会うため家に現れました。つど職業が違い、ぬいぐるみを作る会社で働いていたときはその頃流行った猿のぬいぐるみをプレゼントしてくれたのを覚えています。父は母と離婚後、別の女性と結婚して女の子をもうけ、そしてまた離婚しました。だから私にも腹違いの兄妹がいろいろいます。

時代が平成に変わり、私は結婚する直前、父と連絡を取りたくて渋谷の志和家を訪れました。母が「お前が行けば(父の)居所を教えてくれるはずだ」と助言してくれたからです。その通り志和家の人は突然の訪問にも関わらず歓迎してくれ、父にその場で電話をかけてくれました。そのおかげで後日、父のもとへ妻を連れて紹介することがかないました。

父は当時埼玉の大宮で「ひとりぼっち」というスナックの店長をして、ホステスの若い女性とマンションに住み幸せそうでした。きれいで感じのいい女性でした。父は私と妻をもてなしてくれました。カラオケのステージで私は「匂艶 THE NIGHT CLUB」を歌ったのですが、私の前で陽気にタンバリンを叩きながら踊ってくれた父の背中が忘れられません。

しかしその後、父とはまた連絡が取れなくなりました。私も新婚当初は生活が落ち着かず父と再び疎遠になってしまったのです。大宮に泊まった翌朝、駅まで彼女と一緒に車で私たちを送ってくれたとき、運転席から「お幸せに!」と手を振ってくれたのが最後に記憶している父の姿です。

それから10年ほどの月日が流れ、2003年、ガンで闘病の末に母が亡くなりました。母は最後まで父への愛を口にしていました。生き別れた姉妹の顔も一目見たいと言っていました。父に対しては、他に誰とも再婚せず旅立った母からあずかった言葉があって、それを伝えたいのです。父にあと一度でいい、会いたいのです。

父は今、どこにいるんだろうかと思います。大宮のスナックもなくなってしまったし手がかりがつかめません。元気でいれば80代です。

メディアに名前が出る仕事をしているのも、父に気づいて欲しいからです。

会いたい。

消息不明の父よ。私にはあなたのほかに父はいないのです。


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