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●太陽を追って (あるバンド少年の話) (BEATLES ESSAY 9)

小学4年生で、ビートルズで全く、人生が幼くして、変わってしまった小学生はもちろんバンドをやりたいに決まっていた.本当は横浜に暮らしていた頃、母は、僕にヴァイオリンを習わせるはずであったらしい。それが、医者である父が、僻地医療の取り組んでしまったので、片田舎の街に引っ越してしまったのだ.この時、僕は,五島兄弟のようになれたかもしれないチャンスと音楽に親しむチャンスを奪われてしまった.田舎にいると回りにはギターを弾く人も全くいなかった.小さかった10歳の僕には,エド・サリバン・ショウで観た,リンゴがかっこ良く見えたし,ドラムは観ていて,たたけそうな気がした.僕は毎日一人でドラムの練習に励みだした..学校が終わるとすぐに帰宅した.毎日はしって家に帰った.その頃僕は,ポータブルレコードプレイヤーでビートルズを聴いていたが,父は僕に立派なステレオを買ってくれたのだった.なんて幸せだったのだろう.ビートルズの新譜が続々,発売されるし,新しいステレオが目の前にある.僕は毎日大きい音で、レコードをかけて、それに合わせて練習した。と言っても、ドラムはどうしたかというと,その頃、家には、キッコーマンのお醤油が入っていた缶カンに昆布や、かつをぶしを入れて使っていたが、それを全部出して3つ並べて、ドラムにしたのだった.ちょうどいい大きさだった.そうして、シンバルはもちろん.鍋のふただった.最初よく、母が、鍋のふたを探していたのを覚えている.そのふたの持つところのプラスチックの部分を外して使ったものだった.だが、フットシンバルが問題だった.僕はアッパーシンバルの鍋のふたを天井からひもでつったのだった。しかしこれは足をあげるとシンバルが下がる事となった。それで毎日練習していたのだった。そして、中学2年の時、僕の誕生日にドラムセットを買ってもらえる事になった。もう、夢のバンドはもうすぐであった.家はある地方都市に引っ越していた。中学校にも3つバンドがあった。その頃、ドラムセットさえあれば、どんなバンドでも入れたのだった。ドラムセットは高かったのだ。僕のセットはパールのヴァレンシアといって、リンゴと同じ模様なのでそれにしたのだった。それを街の緑屋で月賦で買ってもらったのだった。クレジットという言葉はずっとあとのことである。3万5千円だった。普通の電気ギターは1万円か1万5千円だから、高値の花だったのだ。僕のセットにはシンバルが一つでそれもスタンドはバスドラムから出ていたのだった。アンプの値段は1万円前後だった。我々のアンプはテスコだった。そのアンプにギターとベースとマイクのジャックを差し込んでいたのだから、ドラムが一生懸命たたくとドラムしか聴こえなくなってしまうのだった。バンド活動が始まると、また違った、楽しみが出てくるのだった。楽しい日々だった事か、僕たちは時々、友達の家でコンサートを開いたのだが、楽器の移動には、学校から。リヤカーを借りたのだった。僕たちは、さあやるぞ!と意気込んではいたけれど、端から見ると、ちっとも格好よくありませんでしたね・・・。でも、あの時の中学生達は本当にビートルズみたくなりたかったのでした。その証拠に雪の降った日には、皆で一緒にばたっと倒れたりしていたのでした。メンバーも四人だったし・・・。

2006年 12月 25日1 時34 分 

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