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とても重要な予期せぬ妊娠のこと。

最近では、毎日のようにLGBTという言葉をメディアでは見かけるし、さまざまな人による性の多様性と包摂を社会に訴えるメッセージも聞こえてくるようになった。性のことを話す機会は昔より増えていると思うし、そのような話題が耳に入ってくる機会も圧倒的に増加した。それでも多くの人が話したがらない性に関連する話題の1つに中絶があると思う。

そんなことを思ったのは、昼ご飯を作るときにかけていたポッドキャストを聞いていた時のこと。

荻上チキ Session 特集「アフターピルはなぜ普及しないのか

アフターピルがなぜ日本で普及しないのかについて、現状を詳しく知ることができるとても有意義な番組だったのだが、参加していたゲストのひとりがさらりと自らの中絶経験について触れていた。私生活の中でも、中絶の個人的な経験を聞くことなんて滅多にないし、ましてやメディアで経験者が自らの経験を語ることはとても珍しい。

斎藤美奈子の「妊娠小説」を読まずとも、日本社会において、妊娠は繊細かつ非常にセンセーショナルなトピックであるという理解は、この社会で育った多くの人は自然と身に付けているだろう。中絶は妊娠以上にセンセーショナルなトピックであり、多くの人は口にだすこともはばかる。性に関して語られるトピックは確実に増えたけれども、女性の自己決定に直接関係する中絶に関しては、いまだに人々の口をふさぐような社会規範が強く機能している。

とても重要なトピックなのに、きちんと議論をされることも少なく、その結果、いつまでたっても女性の自己決定権をサポートする社会制度が成立しない。中絶とは、昔から女性の自己決定をめぐる大きな問題であるにも関わらず、社会も個人も面と向かってきちんと対処してこなかった事象のひとつなのではないだろうか。

実はポッドキャストを聞く前から、そんなことをちょうど最近考えていた。なぜなら、たまたま見た映画が、偶然にも望まない妊娠を扱ったものだったから。

「17歳の瞳に映る世界」公式サイト

ベルリンの銀熊賞を取ったからきっと面白いはず、くらいの理解で、気軽に映画館を訪れたのだけれど、実際の映画「17歳の瞳に映る世界」はとても深刻で、女の子たちの切実な状況が胸を締め付ける内容だった。

舞台は現代アメリカのペンシルバニア州。主人公は自分が妊娠していることに気づき、両親の許可が無くては中絶することのできないペンシルバニア州から、許可がなくても施術を受けることができるニューヨークにいとこと共に旅にでる。

あまりテンポ良く進む映画ではないのだけれど、それでも映画にグイグイと引き込まれるのは、主人公を演じたシドニー・フラニガンの卓越した演技力によるところが大きい。岡崎京子「リバーズエッジ」にも通じる(例えが古い…)、アメリカの田舎の逃げ道の無い(と若者たちに思わせる)殺伐とした状況や雰囲気も映画はうまく描いていた。

映画の原題は「Never Rarely Sometimes Always 」。アメリカのミレニアルな女の子たちの日常を扱った、人気ドラマ「the Bold Type」の邦題「NYガールズダイアリー」に続く、不思議な邦題作品の1つだなぁと思っていたけれど、もしも、あの映画が17歳の女の子が見る世界を邦題の通り映しだしているのだとしたら、なんと苦しい世界なんだろう。胸が張り裂ける。映画を見た後に、邦題が妙に説得力を持った。

「The Bold Type」でKatが立ち向かっていた、Fake Abortion Clinicも映画には登場する。Fake Abortion Clinicとは、アメリカの一部で急速に増加している、望まない妊娠をした人々の中絶を阻止しようとするクリニックのことだ。(とはいっても、Fake Abortion Clinicは中絶権利擁護派が好んで用いる名称であり、反対派の人々はPregnancy Resource Center (妊娠資料施設)と呼んでいるらしい。ガーディアンのこちらの記事に少しでています)

映画の主人公、オータムが最初に訪れたペンシルバニアの病院がまさにFake Abortion Clinicであった。そこでは、オータムの事情、希望や意思などは考慮されることもなく、一方的に「産む」方向で話は進められていった。一方、オータムが訪れるニューヨークでも、中絶をサポートする医療施設が出てくる。しかし、ニューヨークでの対応が、オータムに対して特に親切であったと私は感じなかった。そのシーンで尋ねられる質問への選択肢が原題の「Never Rarely Sometimes Always」であり、つらい現実が観客である私たちの前にも突き出される。

性と生殖に関する権利の実現のために、私たちは、開発援助や人道支援を通して、様々な活動を行う。貧しい社会における包括的性教育の必要性を訴え、男の子や女の子たちが自分たちの身体や健康について正しく理解し、自分自身で自分の身体に関する決定を下すことができるように支援する。しかし、そのような活動が必要なのは、経済的に豊かではない国に住む人々達だけでないことは明らかだ。SDGを声高らかに訴えている企業のおじさんたちにも、SDGの中にも性と生殖に関する権利の必要性が謳われていて、日本でも同様の支援が必要な人たちがいることを丁寧に伝える必要があるなと今更ながら考えさせられた。


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