見出し画像

桃鈴ねねの炎上/炎上は人の持つ攻撃性によってプログラムされていて、攻撃そのものを楽しんでいるかもしれないという話

桃鈴ねねさんが炎上しました。トレパクと言われる最近では古塔つみさんの件が記憶に新しい、他者の創作物をトレースして使用してしまうという著作権にまつわる問題です。

3月5日時点でこの炎上は凡そ鎮火しかけている印象です。潤羽るしあさんの炎上の様な長期化していく状態になる事は無いかなと感じます。

今回の記事もいつも通り僕の観点での意見なので、偏っていると思われる場合があるかと思いますのでご容赦ください。

1:みんなが叩いているから

2:法治国家でなくなる瞬間

今回の記事はこの2点になります。結論に至るまでを回りくどく書いています。最後だけ読んでも問題ありません。


■よくわかってもいないのに不用意に叩きすぎていないだろうか?
今回の桃鈴ねねさんの件で僕が感じた印象はこれです。勿論著作権侵害と言われる様な行為はそもそも避けて然るべきですが。

よくある流れでネット上で対象のイラストの元となるイラストが発見される→徐々に知られる形となって公になり炎上→渦中の対象が謝罪→収まらず叩かれ続ける、という流れです。

物議の的である「トレース」ですが、そもそもこのトレースと言われるものの根底にある「著作権法」についてどれだけの人がきちんとした理解をしているのでしょうか。よく耳にする著作権侵害などについてもそうですが、法律に準拠して善悪として判断するのであれば、その法律について知っているという事が必要ではないでしょうか。

著作物に対する善悪はそもそも殺人の様にわかりやすいものではないです。
・著作権とは
自分が作ったものであるという権利で、その権利によって得られる利益の保護を目的としています。著作権法はその観点で整備された法律という感じです。
・著作権侵害とは
作者や企業が持っている権利を侵害する事です。

著作権に関するものは親告罪です。
このあたりは漠然としていますが、親告罪においては告訴されない限りは犯罪ではない、と言う見解もあります。現実的に、告訴が無ければ捜査自体がされることがなくて、起訴されることもないので、犯罪ではないと言うよりは犯罪が成立しないと言うのが正しいと言われています。成立しなければそれは罪ではないというのが日本では定義されています。
裁判にかけられても、無罪となれば罪人ではないというのと同じです。

つまり、著作権を保有している者から訴えられた場合に初めて罪となる可能性が出てくるという事です。これは著作権を保有しているものが、該当する例えばトレースによって自身の利益を阻害される又はされているという場合に社会的に見ても叩かれる要因になるという感じです。

最もわかりやすいのは漫画の海賊版サイトでしょう。
これは海賊版サイト運営の利益の為に、著作権を保有する側が著しく利益を侵害されているケースです。ここまでわかりやすいケースでも著作権を保有する側が訴えて初めて犯罪の可能性があるものとして扱われ始めます。


今回の桃鈴ねねさんのケースは、僕がネットで見た限りでは表に出た時点で既に当事者間で話が持たれていて恐らくですが当事者間ではほぼ解決に近い状況下にあると思われます。それはカバー社の発表内容で凡そ把握できます。
ですが、ネットでは桃鈴ねねさんに対する糾弾は止まっている様子がありませんでした。冒頭に書いた「よくわかってもいないのに叩きすぎていないか」というのはこれらを基に抱いている僕の印象です。

例えば、同様に親告罪にあたるものに「侮辱罪」があります。AさんがBさんの事をバカだと公共の場で触れ回っている、等の場合Bさんが訴えれば侮辱罪として裁かれる場合があるというものですね。この時Bさんが「まぁ別にいいですよ」としていた場合、周りがあれこれと騒ごうと、どこまでいってもAさんとBさんの間での問題であってそれ以上の問題ではありません。

桃鈴ねねさんのケースでも対象となっている著作権保持者と桃鈴ねねさんとカバー株式会社だけの問題であって、関係者間で解決が図られているのであれば我々が口出しをすべき内容ではないという事を法律が定めています。もちろんそれでトレースという行為が良しとされるかと言えばそれはNOです。

難しいのは、例えば僕のこのブログもそうであるように、個人個人がネットで意見を発するのは、生きるためにプログラムされた呼吸をするように当たり前の事になっていて、誰も止める事ができない点です。


■モラルを問う問題にモラルが必要という複雑さ
今回こういった記事を書くと僕は僕で批判を受ける可能性もあります、圧倒的多数に批判されている側を擁護すると同様に批判されるというよくあるケースです。じゃあなんで書くの?というところですが、少しでも記事をみた方の考えるきっかけになったり、見てくれた方が他の人にこういう観点もあるかもよ、と繋がる部分もあるかもしれないと思うからです。

侮辱罪の事を上に書きました。同様に名誉棄損も親告罪です。SNSなどで特定の人に「お前はバカだ」と書けば申告されれば侮辱罪に問われる可能性があります。「この人はトレパクをした」と書けばその人の社会的評価を落としたとして名誉棄損に問われる可能性があります。

何が言いたいかというと、SNSで批判などをしている人は自身が同じように親告罪に当たる可能性がある行為を、対象の人と同じようにしている事を認識しているのか、という事です。

正しい事を発信しているその内容が実は別の悪になっているというケースです。

■ダーティハリー症候群
正義の執行者を自任し、「悪党に生きている資格はない」という判断、正義感によって、目の前の現行犯人をたとえ微罪でも射殺し、「逮捕に抵抗するからだ」と正当化してしまう。白ひげ戦争編のワンピースの赤犬みたいな、そういう状態です。
SNSで炎上を叩く人を、炎上の内容にも依りますがそういう風に映る事があります。

■マウントを取る快感
人は二人以上の関係性になると力関係が発生します。上に立つ側は優位性から快感というか幸福感というか、そういう感情を得られます。SNSで芸能人や有名人が特に叩かれるのは人のこういった本質的な側面があるように思います。
普段は自身よりも経済的に優れていたり、社会的に評価されている人よりも優位に立ててマウントが取れるという事は快感が伴うのでしょう。こういったケースで叩いている人を見ていった時に経済的に優れている立場の人や、社会的に評価されている人をあまり見かけません。
それはSNSで炎上している人を叩くという行為に快感や幸福感を感じないからでしょう。

僕たちはなんでわざわざSNSでひと手間かけてまで誰かを叩くのでしょうか。不快感やストレスを感じる事はわざわざ自分からやりにはいきません。逆説的に見ると、幸福感やストレス発散になるから、わざわざ手間をかけてまで誰かを叩きにいきます。

ツイッターでよく知らないけど〇〇が炎上している、それを見聞きして、なぜ多くの人が集まってくるんでしょうか?
本能的なものか何かなのでしょうか?

画像でイメージ化してみましょう。

指さされている側が炎上の渦中の人です。
この指差しをしている人たちが炎上で叩く我々です。
この指さす人の数が数万人になっているのがネットの炎上です。

渋谷のスクランブル交差点で、周囲にいる人たちが、一斉に貴方を突然批判し攻撃してきたら、というのをイメージ出来るでしょうか。


これに似た歴史が僕たちのよく知る歴史の中に、人の本質を示すものとしてありました。

■法律の手が及ばない世界
法律は社会生活を営む為の縛りです。その法によって治められているのが法治国家です。この法律が我々の生活を守るひとつの基準になっている訳ですがスマホの普及以降に急速に発達した世界に法律やそれに関連する仕組みは置いてけぼりを食っている様に感じます。

トレースもそういった進化した世界の中で、それを発見するツールなどで簡単に暴ける様になりました。穿った使い方をすれば、叩ける人を探す為に使う事も出来ます。

そして一度火種として目をつけられたが最後、TWITTERを介して途方もない数の人から一斉に袋叩きにあいます。

中世に魔女狩りという忌むべき歴史がありました。炎上は現代の魔女狩りの様相を呈しています。魔女狩りは集団の力と、誤った正義の元に、法律が裁きを下す前に対象者を火あぶりの刑に処して燃やして殺します。或いは魔女の疑いをかけられた女性を磔にして、抵抗できない状態で周囲から一斉に石を投げつけ、殴殺します。
あの娘はパンを盗んだ、きっと魔女だ、火あぶりにしろ、パンを盗んでパン屋でもない無関係の人達から裁きを下される、そんな世界です。

炎上の際の構図と似ていると感じます。
法律の手の及ばない状況で、一方的に集団から断罪される。

後ろめたさというのは集団になると消え去ります。
赤信号で皆が止まって待っている中を一人赤信号無視して渡ると、後ろめたさを感じるでしょう。ですが誰も赤信号で停止せずに進んでいれば、後ろめたさを感じる事無く渡れるでしょう。
炎上で叩いた側は時期が過ぎれば、叩いた事すら忘れる事が殆どだと思います。みんながしている当たり前の事をしただけという認識なので。

叩かれた側は忘れない。
これはいじめと同じです。殴られた側はずっと痛みとして記憶に刻まれます。

叩いた側は何か得られたのでしょうか?

例えば一方的に人を断罪して、決して自身は攻撃されない場所にいる事で、神になったかの様な全能感や幸福感を得られている、等。


■人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した

そういったタイトルのこの記事では人はこう書かれています。

高い認知能力を獲得したヒトは、社会のなかで寛容になると同時に、異なる社会(敵)に対してはかぎりなく残酷に振る舞うよう進化した。

「なぜ殺すのか」の問いに対してランガムは、おそらく本書でもっとも議論を呼ぶであろう回答をする。「不穏ではあるけれども生物学的に意味をなす答えは、殺しを楽しんでいるからだ」というのだ。

 セックスをするとき、「自分の遺伝子の複製を最大化しよう」と考えるひとはいない。異性に惹かれ、セックスを求めるのは、それが快楽と強く結びついているからだ。その「おまけ」として子どもが生まれ、遺伝子が後世に引き継がれていく。

 同様に「殺し」をするときに、生存・性愛の利益を最大化するという進化論的な効果を意識する必要はない。他者(異なる社会のメンバー)を殺すのが快楽になるように脳のプログラムを「設計」しておけば、敵を皆殺しにして縄張りを拡張し、結果として適応の恩恵を受けるようになる。すなわち、「人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した」のだ。


上記は可能性の話で、ひとつの考察です。
魔女狩りや炎上の仕組みは、そもそも人の本質として設計されている暴力性によるものだと。

炎上の際にモラルは逆転して、守る声はマイノリティ・リポートとなります。


■終わりに

僕が何を書こうとこういった炎上は今後も起き続けるでしょうし、断罪される人は定期的に現れると思います。
こういった世界に居るという事を認識しておかないと自身もどこかで足元を突然すくわれるかもしれません。

出来る事はあまりないのかもしれません。
自分の大切な存在がいつか攻撃の対象になる事も全然あり得ます。そんな世界では守る力を持つことが重要だと思います。
今回のケースで言えば、例えばトレース疑惑が出てきたのがそれを発見するツールだったとしたら、こちら側もそのツールを持っておく事で事前に防衛が出来たかもしれません。叩く側に発見される前に、こちら側で発見し、攻撃される前に対応をしておく。それが自身や大切な存在を守る事に繋がります。同様に、何をすると攻撃されるのかという事を広く知っておいて、それを共有しておく事も守る事に繋がります。

人の攻撃性が本能的なもので抗えないのだとしたら、それから身を守る手段を用意しておくしかありません。

炎上する側のモラルがどうだとか、実は意味がない議論かもしれません。そんな起きてしまった後にどうしようも無い事よりも起きないようにする力、起きた瞬間に鎮火する力、知識をつける事の方が優先すべきでしょう。それは今回のケースならカバー社が、ファンが、周囲の人が、自分自身がです。

無防備なまま、危険な場所に身を置いているかもしれない、そんな風に客観的に或いは視点を変えて見てみる事で危険を回避できるかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?