遺体は大地の夢を見る
サスティナブルな遺体をめざす
今年の4月に、ジャーナリストの立花隆さんが亡くなった。田中角栄の研究で知られる人だが、癌の宣告を受けてから「死は怖くない」「臨死体験」など、「死」に対してさまざまな視点から模索し、検証している。とにかくなんでも知っていて、いつも大量の本と原稿をバックにしている印象のある人だった。
2014年11月13日号の週刊文春に掲載されたインタビューが、6月23日に文春オンラインに再掲載された。テーマは「死に方」。
このインタビューの最後で、「死んだ後の葬式の挙げ方や、墓の建て方」について、残された肉体に特別な意味があるとは思えないとした上で、こう語っている。
foodskoleの9回目「食べ物とウンコのはなし」、10回目の「それはごみか資源か」でもあったが、排泄物は昔は宝で今はただのゴミとなっている現実の中で、生き物が生命活動を終えればそれは全てゴミであるという考え方。
食べ物も、調理され食べられた時点で生命活動を終えている。フードロスで年間600万トンもの可食ゴミが排出されているが*1、それらは全て生きていたものを人間の都合で廃棄したもの。
食べて排泄されたものは、糞尿となって今はゴミとして処理されている。これも命のなれの果て。
人も地球の生命のひとつであるのであれば、死ねばゴミだ。それを再利用する、究極のサスティナブル。
と、これを読んで、こういうようなことが、私の頭にうかんできた。
では、遺体を環境に役立てるとしたら、他には何かあるだろうか。
人が生きることの贖罪
チベットや東南アジア、シベリア、インド、中東の一部では、今でも鳥葬が行われている。鳥葬とは、亡くなった遺体を、ハゲワシなどの猛禽類に食べさせるというもの。ゾロアスター教など宗教的な理由の場合もあるが、土地の土着信仰で行われることもある。
Wikipediaの説明によると、
この考え方は、立花さんのインタビューの考え方に近いかもしれない。宗教的に遺体を残すものと、残さずに自然にかえすという考え方の違いでもあるだろう。
しかし、シベリアで鳥葬の跡を見てきた人の話を直接聞いたことがあるが、肉体はあっという間だが骨はなかなかなくならず、砂漠を移動していると骨があちこちに累々としており、よく見ると人骨だったりするらしい。
時間がかかり放置されるのであれば、それもゴミになってしまう。
人が堆肥として生まれ変わる
BBC News 2019年5月22日の記事。
Science alert 2019年11月10日の記事。
この記事では、埋葬の費用として
立花さんがNHKの番組でコンポスト葬の話をしたのが、1993年。インタビュー記事がでたのが2014年。笑い話が瓢箪から駒が出て、28年後にはアメリカで実用化されるまでに至る。
実際、日本も墓地の問題は大きな社会問題でもある。土地が足りないというよりは、墓地を維持する問題だ。
日本だと、土をもらってもおいておく場所がないという理由から、受取拒否されるケースも出てくるようにも思われるが、堆肥として販売されることが普及すれば、それが「普通」で「当たり前」のことになっていくだろう。受け取るかどうかは、遺族が決めればいいことだ。
遺体1体あたりで荷車2台分の土が生成されるとなると、これがゴミなら相当量の土が発生することになる。堆肥として農業に役立てるところから、もう少し発展させてバイオガスを生成して発電するということもできるかもしれない。
人が死んで、本当の意味で大地と一体になり、人の食と生活に寄与する。
この話だけとると、なんてすばらしいのだろう....
地球温暖化など嘘だと言っていた人がついこの間まで大統領だったアメリカが、二酸化炭素排出量に対する取り組みに対して認可したというのは、ある意味すごい進歩だとも思うのだが、これはものすごくSDGsに寄ったお金のシステムでもあるような気がしてならない。
ただ、この発想とシステムは、世界的に広まっていくことを期待してもいいと思う。
人道的にゴミと人が一緒に発酵するという時代はきそうにはないだろうが、このシステムをゴミ処理に応用したりできたらもっとすばらしいのだろうなと思うが、プラスチックの問題はここでも大きな壁になっていそうで、これがゴミ問題に転用できるのなら、もうとっくにはじめていてもよさそうなような気がしてならない。
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