自己紹介

■出生
1989年7月6日に愛知県名古屋市で生まれる。
一輝という名の由来は、「一番輝け」ではなく、「一つでいいから輝け」とのこと。両親の謙虚さというか、欲のなさが名づけの時点で垣間見える。父は広告の制作業として会社員の時期と、当時にしては珍しくフリーランスの時期が入り混じったキャリアだった。母は専業主婦。二人は大学時代のサークルの先輩後輩とのこと。3歳上の姉と、4歳下の妹と5人家族である。

■誕生~3歳
名古屋市西区の戸建てに住んでいた。父は次男だったので、結婚のタイミングで土地と家を買ってもらい、残りの財産は長男が継ぐという約束を20代でしていたらしい。車やトミカが大好きで、「トミカを買ってもらえる」という餌があれば、たいていのことは我慢できたそう。姉が、国風第三幼稚園に通っており、自分は通っていないのに園名を覚えている時点で、相当聞いていたのだろう。坂井戸公園で母と遊んだ記憶以上に、リビングのローテーブルの下にもぐっていた記憶が一番強い。母曰く、暇さえあればその場所にいたらしく、今でもいつでも出られる退路がある前提での、狭い場所に入ると安心する。よく食べる子供だったらしく、2歳時点でチキンラーメンを一人前平らげていたようで、母が驚いたという話は何度も聞かされた。それもあってか、ぽちゃっとした体型だった。「かずき」の発音が上手くできず、「こじまたぬき」と名乗っていたそうだ。それが可愛かったと母に何度言われたことか。たぬきのようにお腹が出ていたのも影響していたはずだ。姉の幼稚園が教育熱心だったのか、幼稚園のころから九九を習っていた。家で自慢げにそれを唱える姉と、褒める両親を見て。「この呪文を唱えれば親に褒められる」と解釈し、姉の呪文(=九九)を必死に覚えて唱えていた。3歳の時点で九九が言えたらしい。2階建ての一軒家だったが、リビング以外の記憶がほとんどない。3歳までしか過ごしていないので、そんなもんかとも思うが。

■幼稚園
母方の家庭の事情により、姉が小学校、私が幼稚園に上がるタイミングで名古屋市千種区の母方の実家に引越し、二世帯生活が始まる。おじいちゃんっ子というほどではないと思うが、それなりに祖父に遊んでもらった記憶がある。祖父は毎朝10km以上のジョギングを続けたり、尺八を吹いたり、見た目は郷ひろみ似のイケてるおじいちゃんだった。祖母が作る黒豆の煮物が大好きで、作ってもらえることが嬉しかった。この当時の記憶ではっきりと覚えているのは、死に対する恐怖が芽生えたことだ。夜、父母と寝床についた後に、暗い中で父がテレビを見ていた。医療ドラマだったのか手術をするシーンがあり、それを見て“死”という概念を理解した。父も母も、祖父も祖母も、そして自分もいつかは死んでしまう。死んだら自分はどうなるのか、そもそもなぜ自分は生まれたのか、なぜ人間としての形を成しているのか、という哲学的な思想を巡らせるようになってしまった。常に悩まされているわけではないが、ふとした時にその手術のシーンが思い出され、「死ぬのが怖い、いやだ」と両親に泣きついていた記憶がある。考えすぎなのか臆病なのか、いずれにしても恐れを持っていた。同時期に、「時間を逆算して計画的に過ごす」ということを覚えた。きっかけはこれも「恐れ」からきており、NHKの教育番組で怖いと感じるコーナーが決まった時間に流れるので、それを見なくて済むように録画したドラえもんやクレヨンしんちゃんのVHSを毎日流していた。この時間から見始めれば、あの怖いものを見なくて済む。と時間を逆算して再生ボタンを押していた。幼稚園の園長先生に「一輝君はいい子だから、先生のお気に入り」と言われたことを今でも覚えており、「大人の前ではいい格好をする」というのは4歳時点で身に着けていたのかもしれない。振り返ってみても、家の中では姉と喧嘩したり、泣きじゃくったりするけど、外で騒いだり大きな声を張り上げたりした記憶がない。育てやすい子だったと母にも何度か言われた。父親が泣いたり騒いだりすることに対して厳しく、すぐに「騒ぐな!」「泣くな!」と強く言われていたことも影響しているかもしれない。貧乏性で、大事にしすぎて結局使えないという記憶も多い。折り紙やシールなどの、1度しか使えないツールはいつまでも引き出しにしまいがちで、「いつか大事な時に使おう」のいつかは訪れないままということが多かった。こうした自分のペースを乱されることがとても嫌いで、幼稚園のクラスメイトであるショウタくんに、自分の粘土をヘラでぐさぐさ刺されて、癇癪を起したことを今でも覚えている。自分は粘土の半分程度は使い、残り半分はパッケージから出したままの“無傷”なまま残していることが優越感だった。にもかかわらず、横からいきなり邪魔されたので、一気に頭に血が上ったようだ。自分の人生で大きな役割を果たすサッカーをやり始めたのもこのころ。園庭でボールを蹴る程度だが、ど真ん中に木がある園庭だったので、それをかわしてボールを蹴っていた絵が今でも浮かぶ。純粋に、ボールを蹴ることが楽しかったし、それ以上のことは何も考えていなかったと思う。

■小学生低学年
小学校1年と2年の担任は優しくて美人な女性の先生だった。礼儀などには厳しく、しっかりと社会性を身につけさせてもらったと思う。2年生になってT君というやんちゃ坊主が転校してきて、乱暴に椅子を投げまわしたりしていた。その時に果敢に止めに入った友人を横目に、何もできない自分がいた。「自分が怪我したらどうしよう」という思いが先にあり、クラスメイトのためにけがを恐れずに立ち向かった友人を尊敬していた。自分のことを何よりも優先してしまう性格は、この時には確立していたと思う。小学校1年生からサッカーチームに所属して習い始める。どれだけ主体的にお願いしたか記憶はないが、一つ上でご近所に住んでいるヒデくんが通っていたので、「一緒に行く?」「うん!」程度がきっかけだと思う。小学校1年生だったが、小規模のスクールだったので6年生まで同じ時間に練習をしており、「うまい!すごい!」と憧れながら見ていた記憶がある。幼稚園時代と同じように、先生(=コーチ)の言うことを真面目に素直に聞くので、順調に成長していった。2~3年生のころには「自分はサッカーがうまいぞ。このままいけば将来はサッカー選手に絶対なれる」と考えながらサッカーをしていた。低学年のころはとにかくひょうきんもので、下ネタを言ってはケラケラ笑って、クレヨンしんちゃんの真似をして人前で尻を出したりもしていた。今は割とクールぶっているが、根はひょうきんものなのかもしれない。運動神経は得意と不得意に大きな差があった。走るのは早い。球技は得意。でも体操や鉄棒などは苦手だった。3年生まで逆上がりができなくて、体育で鉄棒がある日は学校に行くのが億劫になった時期もあったほど。「自分の利益ばかり考えている」という点で印象に残っているのが、3年生の体育の授業でやった走高跳。クラスメイトの跳躍中に「落とせ!」と声に出してしまい、担任の先生にこっぴどく怒られた。サッカーのGKを始めたのも3年生から。ひょうきんもので目立ちたがり屋な当時の自分は、一人だけ手が使える優越感や、ユニフォームの色が違って目立てることに魅力を感じていた。実際にやってみたら上手くて褒められたので、そのまま味をしめて続けていた。チームでの練習だけでなく、日曜日に家で父とボール遊びをしていた影響も大きいと今では思う。父はソファーに座りながら、ボールを投げる。私はそれをGKとして飛びついて反応する。という遊びが日曜午前のルーティンだった。家具の配置上、自分の右側にボールがくる頻度が高かったので、実際にサッカーのGKをやる時にも、右側に飛ぶのが得意で、左側が苦手という状態で成長していく。小学生のうちはこの左右差に苦労したが、中学生のころに必死に練習して、左右差をなくすことに成功した。

■小学校高学年
通っていたサッカークラブが、愛知県内にたくさんのサッカースクールを持っており、そこから5年生と6年生は選抜チームが作られる。4年生の自分が5年生のチームに飛び級で選ばれた。GKが少なかったという事情もあったはずだが、それなりの実力があったとも自負している。小学校のサッカー部にも4年生から入れた。当時の名古屋市には、通う小学校のサッカー部で出る大会と、所属するクラブチームで出る大会の2種類があった。ここが自分のサッカー人生で大きな分岐点だったと思う。2つ上の先輩に、名古屋市の名門チームで10番をつけて、12歳以下の日本代表に選ばれているK君、その名門チームを抑えてその年に愛知県で優勝したチームのキャプテンT君と正GKのM君がいた。小学校4年生にして、先輩後輩の縦関係を教わったし、上手い人のプレーを見て真似をするということがしみついた。クラブチームではGKをやっていたが、小学校ではM君の牙城は絶対に崩せなかったので、FWとして部活では活動していた。6年生がほとんどスタメンをはるなか、当時4年生の自分と、同級生のH君は出場機会を得た。2トップをK君と組ませてもらった。自分が前半、H君が後半という交代制だったけど、非常に刺激的だった。優勝候補と言われていたなかで、大黒柱のK君が、どうしても外せない予定(代表合宿とかだったのかな?)により、ベスト16あたりで欠場に。自分とH君という4年生2トップでは太刀打ちできず、そこで敗北した。何もできなくて、先輩たちに対して申し訳なさを感じたことを覚えている。小学校5年生で名古屋市のトレセン(=選抜)に選ばれた。こちらはクラブチームの推薦で受けに行くので、ポジションはGK。このころから、チームメイトの名前と特徴を覚えて、声をかけながらプレーすることが当たり前になってきた気がする。GKとしては低身長だったこともあり、他の何かで目立つために行きついたのではないだろうか。「キャプテンやる人?」という監督の声に、真っ先に手を挙げてキャプテンを任された。名古屋市選抜チームのキャプテンなので、今まで自分が経験したどのチームよりもレベルが高かった。それが鼻高々だったのだろう。6年生で愛知県トレセンの試験にも推薦をもらって受けに行った。慣れていない天然芝でボールがよくすべり、満足いくプレーができなかった。加えて、まわりの候補者より自分は身長が低いし、将来性の観点からか親の身長も聞かれた。母は小柄で父は平均的な身長である。結果は不合格。名古屋市選抜では自分の控えだった選手が合格したこともあり、(彼は自分よりも身長は高かった)「自分の能力の限界」に12歳にして気づいてしまった。「あんなにどんよりした一輝を見たのは、後にも先にもあの時だけ。」と母から言われるほど、不合格を告げられた帰り道は切なかった。この時に、自分はサッカー選手になれないのかもしれないと感じるようになった。
実はサッカー以外にもスポーツに取り組んでいた。名古屋市立の小学校が同じサイクルだったと思うのだが、4月~7月まで野球部、7月~9月まで陸上部、8月~3月までサッカー部といった形で、時期によって部活が変わった。クラブチームでのサッカーは通年でやりながら、どれにも参加していた。野球は特に習ったことはなく、家の前で父親とキャッチボールをしたり、友達と公園で野球をしたりする程度だったが、器用にこなせるタイプだったので5年生のころからメンバーにいれてもらい、途中交代で試合に出してもらえることも多かった。6年生では中心選手となり、最後の大会で名古屋市ベスト4に。2番ショートで、かなりの守備職人だったと思うし、フライもゴロもエラーをするイメージがなかった。陸上部では走り幅跳びで千種区を優勝。名古屋市大会では16位(16人中)だったが、それなりの成果だったと思う。
スポーツ万能なタイプだったが、同じように運動ができる友人も学年にはいたわけで、彼らに負けたくないという思いは強かった。それが裏目に出たのが6年生のスポーツテストの中のシャトルランで、「みんな脱落してトップになったら、最後は3人で同時に終わろう」と約束したのに、自分以外の2人が終わった後に自分だけもう1本ダッシュして記録をのばし、結果として自分がトップになった。低学年の時の走高跳と同様に、自分が一番になるなら周りを蹴落としてもいいという志向が出てしまった。どちらも咄嗟の行動なので本性なのだろう。咄嗟にそういった行動をするものの、すぐに「なんでこんなことしたんだろう」と後悔するので、自分の中にも二面性があるのだと思う。
高学年になり、学級委員や児童会長、運動会の応援団長などは全て立候補して務めてきた。目立ちたいという欲と共に、「自分がやれば上手くできる、人に任せたらどうなるか分からない」という不確実性が嫌だったのだと思う。なかなか人に仕事を任せられないのは今にも続いている。

■中学校
そのまま学区の名古屋市立の中学校に進学。成績優秀者でもほとんどがそのまま進学するようなエリアだったので、私立に行く人はまれ。学年130人程度のうち2~3人程度で、それも成績トップ層というわけではない環境だった。サッカークラブの選択はもっと吟味してもよかったと今では思う。小学校時代の10番エースは、名古屋グランパスの下部組織に入っていったが、残りは全員そのまま中学でも在籍した。「どうしたらもっとうまくなれるか、強くなれるか」という貪欲さがこの時すでになかったのかもしれない。県トレセンの試験に落ちてから、「自分の限界をすでに決めていた」からだろう。サッカークラブの活動が月曜水曜土曜日曜の週4日だけだったので、残りの3日は学校の陸上部の長距離選手として、活動していた。登録の関係でサッカー部には所属できなかったことと、走り込みは大事だという考えから始めた。体の成長が早かったタイプなので、入学当初6月にあった名古屋市総体では、1500mで名古屋市2位になった。たいして陸上の練習はしていなかったが、サッカーで走り回っていた貯金で走れたのだと思う。中学の定期テストでは明確に順位がでるので、父親とお小遣いをかけた賭け事をしていた。180人くらいの学年だったが、1位は1万円、2位3位は5千円、4位~10位は3千円を父からもらうことができるが、30位以下になると、自分の少ないお小遣いから3千円を父に渡すというものだった。お金をもらっても特に何かを買うわけでもなく、引き出しにしまっていたが、この成果を出すとお金がもらえることがとても楽しく、3年間で一度も払うことはなく、毎回3千円か5千円をもらっていた。後に東京大学に現役で合格する秀才M君がいつも1位だったので、一度も1万円をゲットすることはできなかった。中学入学と同時に塾にも通いだす。小規模の個別授業をやってくれるところで、「自分のペースで」を重視してくれた母の配慮かと今では思う。
思春期に入って中学2年くらいから、異性に限らず「自分がどう見られているか」に怯えていた記憶がある。今思えば大したことがないものでも、「自分が笑われているのではないか」「自分の今の言動は嫌われないかな?」と常々気にして生きていた。野球部の友人が坊主でかっこよかったので、自分も勢いで一度坊主にしてみたが、まったく似合わなかったのも苦い記憶。そして、生徒会長になれなかったこともさらに自信を失わさせた。会長選挙に立候補したものの、秀才M君に負けてしまった。サッカーはというと、毎年名古屋市選抜には入り、中心選手として試合に出るものの、一度も県選抜に呼ばれることはなかった。ずっと自分の中でのコンプレックスなのかもしれない。
高校では全国大会に出たいと、しっかり意思を持つようになったが、県外の高校などに目が向かなかったし、向いたとしても声がかかるような実力ではなかった。選択肢が少なかったのか、自分の可能性を信じていなかったのか。小学校のサッカー部でお世話になったT君が愛知高校のサッカー部に進学しており、進路を考えていた時に練習参加のお話をいただいた。そこでアピールに成功し、サッカー推薦で合格をいただいた。ただ、絶対何が何でもサッカー選手になるという意識はすでにないため、他の選択肢も検討していた。両親(特に父)は自分がサッカー選手として大成するとは思っていなかったはずで、県立トップの進学校を勧めてきたが、その進学校に行くとサッカー部のレベルはかなり落ちてしまう。サッカーもやりつつ、名古屋大学以上には行くという約束のもと、愛知高校の新設される特進クラスに進むことにする。偏差値を多少下げて受けるので、特別奨学生という、学業で学費が免除される枠を狙いにいった。そのため、サッカー推薦で入学自体は決まっていたが、しっかりと受験勉強も続けた。その結果、無事に全体でトップの成績をとることができ、3年間合計で100万強の学費を免除してもらえた。
中学校の卒業式ではいくつか主要ポジションがあり、上手く先生方が自分と秀才M君に均等に役割を与えてくれた。2年生で先輩に送辞を読むのは自分、3年生での答辞を読むのは秀才M君。合唱が盛んな中学校だったこともあり、卒業式での全体合唱での指揮者は自分が務める。全員が自分の方向を向いて大地讃頌を歌った映像は今でも覚えている。

■高校時代
「サッカー推薦で入学し、学業トップの特待生」で入学したため、校長のお気に入りだった。そんな高校時代は、入学式での代表生徒挨拶から始まる。14クラスのうち、特進クラスは2クラス。2年生で文系特進コースを選び、2年生まではほぼ学年トップの成績を取れていたはず。実家から自転車で15分程度のところに高校があり、朝練もなかったので、しっかりと体を休めて勉強にも集中できた。今思えば、プロを目指すなら朝練もやるべきだったが、その選択肢もなかったなと。入学前から練習にも参加していて、3月末には水戸の遠征にも連れて行ってもらった。入学同時、3学年合わせてGKは9人いた。そのうち自分は4番手だった。3年生にはSさんという2年から試合に出ていた実力者と、身体能力抜群のYさん、2年生にもR君という万能型の選手がいた。初めて練習に参加した日、中学生と高校生のパワーの差に愕然としたことを覚えている。エースのO君のヘディングシュートが強烈すぎて、手を出してもはじかれた。ヘディングで手が負けるなんて中学時代には感じたことがなかった。入学してからすぐにリーグ戦が始まり、4月の間で1~3番手の先輩全員がけがをした。4番手で1年坊主の自分に、スタメンの座がまわってきた。当時の愛知高校は、前年は2年生中心のメンバーでインターハイにも出ており、県内でも優勝候補と言われていた。そのチームに、ついこの前まで中学生だった1年坊主が、責任重大なGKとして出るのである。毎試合だけでなく、毎日の練習でもプレッシャーに押しつぶされそうだった。何とか大きなミスもなく勝ち進んだベスト8で、自分の判断ミスから試合終了間際に失点してしまう。が、たくましい先輩たちがすぐに得点してくれて、何とか逆転勝利ができた。この時、サッカーでのプレッシャーがすごかった分、練習を終えて帰宅してから、家で勉強をする時間が心の休息になっていた。勉強は自分の努力が自分の結果に反映されるだけ、全部自己責任で分かりやすい。一方でサッカーは、自分の活躍がチームを救うこともできるが、チームに迷惑をかけてしまうこともある、なんてシビアなんだと16歳当時に考えていた。結局、ベスト4の時に自分も腰痛を発症してしまい、試合に出場できなくなった。まだ体ができていなかったなかで、高校年代のフィジカルレベルとプレッシャーから、疲労を取ることができなかったのだろう。その後、3人の先輩たちも復帰され、1年の間は公式戦にでることはなかった。優しくも厳しくも接してくれた先輩たちに、感謝しかない。
2年生になり、新チームスタートの時に自分の中で責任感が芽生えたことを覚えている。2つ上の先輩たちは実力もあり、頼もしかったので付いていくだけでよかったというか、それでも自分はいっぱいいっぱいだったが、その先輩たちが卒業して、自分がこのチームを支えないといけないと思った。実際に副キャプテンに就任し、Rくんを控えに追いやり、2年生からレギュラーに定着する。インターハイ予選のPK戦で、自分がPKを止めて全国大会出場が決まった瞬間は、ゾーンに入っていた。極限の集中状態で、キッカーの動きやボールがゆっくり止まっているように見えたし、絶対に止められるという自信に満ち溢れていた。悲願だった全国大会は、試合開始直後にチームメイトがケガをしてしまい、そのまま狂ったプランを修正できずに一回戦で敗戦してしまう。あっけなく、実力も出し切れず終わってしまったことが悔しかった。3年ではキャプテンを任された。ハードなフィジカルトレーニングでも先頭に立ち、常に声を出してチームを鼓舞していたが、チームの士気をあげきることができなかった後悔がある。今思えば、もっと一人一人との対話が必要だった。自分が姿勢を見せればついてきてくれるとどこかで期待していたが、歩み寄りが足りなかった。愛知県のリーグ戦では優勝し、チームを東海リーグにまで引き上げることができたが、インターハイや選手権では望む結果は得られず、最後はベスト4で敗戦し引退。
勉強の話に戻り、定期テストでは点が取れるが、国公立の二次や私大の入試問題では点が取れないタイプだった。型にはまったことを、正確にやるのが得意だが、地頭がいいわけではないと自己認識していた。そのため、学校で1枠あった指定校推薦を使って、早稲田大学の政治経済学部にいく予定だった。学内の成績から見ても、自分が手を挙げればほぼ確実だった。が、3年の5月にその指定校枠がなくなったと担任から知らされる。自分の基礎学力なら本格的な受験勉強にチャレンジすれば、自力でも早慶以上は間に合ったはずだが、AOや自己推薦などの試験対策をすることに。ここでも「自分の限界」を勝手に決めていた気がする。その中の一つで慶應義塾大学の総合政策学部のAO入試を受験。書類選考と面接(というなのプレゼンテーション)という形式で8月に出願したが、書類選考で不合格に。大した対策もせず、「まぁ通るだろう」と油断していたのは間違いない。さすがにこれはまずいと思い、当時の自分の中で一番プレゼンが上手いと思っていた、中学3年時の担任の先生を頼る。0から傾向と対策を行い、11月に二次応募でも出願。周囲の同級生はセンター試験や二次試験の勉強をする中、自分は「入学後に何を学び、どう社会に活かしたいか」というプレゼンの練習をしていた。何とかうまく進み、12月に合格を得る。進路は決まったものの、人生で一度の経験だからと、センター試験は受験。プレッシャー0での受験なので、かなり良い成績が取れた。合格から入学までの約4か月間は、上京資金をためるためにアルバイトをしたり、自動車学校に通ったりと比較的のんびり過ごした。

■大学時代
初めての一人暮らしで神奈川県藤沢市の湘南台へ。授業がある湘南藤沢キャンパスには自転車で20分ほど。部活がある日吉グラウンドには電車で1時間ほど。体育会学生の多くは日吉近辺に住むが、入学前に部活に知り合いがいなかったため、湘南台に家を借りてしまった。体育会の1年生ということで、雑用による拘束時間も長く、毎日往復2時間の電車移動。自炊や洗濯に掃除など、生活するためにやるべきことも多くあり、リズムができるまでは大変だった。入部当初に寝坊して部活に遅刻をしたことがある。粗相に対して学年全体の連帯責任として考え、対策を考える文化だったため、自分一人ではなく同期全員に迷惑をかけてしまった。バイトをする時間は取れなかったので、学費も家賃も生活費も全て親に払ってもらっていた。その中でも、ハードな練習を日々こなすために食事を疎かにはできないこともあり、自炊して節約するなど、倹約する癖が身に着いた。親にお願いすれば、もう数万くらい生活費を増やしてもらうことはできたと思うが、すでに多額の負担をかけている自覚があり、お願いしたことはなかった。1~2年生は授業もしっかりとり、履修した授業で落とした単位は0。授業と部活と一人暮らしに追われる日々だった。
サッカー部は、今まで自分が愛知県で感じた以上のレベルを目の当たりにし、学部でもすでに起業していたり研究に没頭していたりする同級生を見て、自分が井の中の蛙だったことを痛感した。加えて、部活の同期以外に友人関係も対して広がらず、閉塞感を感じる時期でもあった。転機は秋~冬頃。部活では4年生が引退して、新チームになり、自分もAチームに所属するようになったことに加え、桜スポーツフェスタという体育会学生と地域住民の方との交流イベントの実行委員会に所属したことで、自分が組織に必要とされ、価値発揮できる場所があると感じられるようになった。2年になり、GKのレギュラーを同期のN、自分がベンチ入りする体制になった。2年の前期にNが退場した試合に途中出場と、出場停止となった翌節にスタメン出場したが、自分のイージーミスで失点してしまい、敗戦してしまった。とても惨めな思いになり、これを機に大学サッカーに取り組む意識が変わったと感じている。自主的な筋トレや、居残りでのトレーニングなど量的に増やした。そして後期に、レギュラーのNが膝の大けがをしてしまい、残り6節すべてを自分が出場した。最終節までインカレ争いをしていたため、最後に西が丘サッカー場で、関東1部2部の全チームが観客席を埋める状態での試合に出場した。満員の西が丘にて中央大学との試合。自分のサッカー人生で最も注目を浴びた試合で、個人的にもいいパフォーマンスができた。これは前期でミスをしてから量的な努力を増やし、自信がついたからだと思った。結果として、後半ロスタイムの失点で負けてしまったが、引退となる4年生の「ナイスプレーだったよ」という言葉に泣けてしまった。3年と4年もレギュラーNのもとベンチに入り続けるが、試合への出場はほぼなかった。4年の後期になり、後輩の育成目的で自分がベンチから外れる試合もあったが、チームが勝てない時期が続いた。自分がベンチ入りすると戦績もよくなり、最終的にインカレ準決勝で敗退するまで、ベンチ入りを続けた。アップ中やベンチでの振る舞いなどで、何かしらいい影響を与えられていたのではないか。
学業では2年生からゼミ(研究会と呼ぶ)に入り、3年からはゼミ長を任された。スポーツを競技という側面ではなく、健康増進のためのツールとしてとらえたいと考え、ヘルスコミュニケーションのゼミに所属していた。学業と両立しながら、学会発表やフィールドワークも数多く経験できたが、一番の収穫は言葉の定義にこだわる癖を身につけられたこと。卒業論文のテーマが、運動習慣や健康に関するものであったため、「運動習慣とは?」「健康とは?」という今まで当たり前に使っていた言葉の定義を教授に何度も確認された。その当時は、いちいち面倒なことを聞くものだと感じていたが、就職したり独立した現在でも、言葉の定義に敏感であることは自分の強みになったと感じている。とても感謝している。学業にも真面目に取り組んだ証として、卒業論文が学部の優秀論文賞をいただけたことも良い思い出になっている。
3年になり、残り2年でとるべき単位にも目途が立ち、部活の雑用からも解放されてから、毎週月曜日のオフに授業を入れず、知り合いに紹介してもらったインターン企業でアルバイトをしていた。後に上場をするスタートアップで、営業のリスト作りを朝から晩までしていた。営業社員がテレアポするためのリストを、インターネット上で探し、エクセルにまとめる作業。作業自体は単純作業だったものの、まわりの社員のエネルギッシュさと社会をよくするんだという熱意がとても新鮮だった。就職活動の時期に退職させていただき、就職活動終了後はまた別の企業でアルバイト。今度は自分がテレアポをすることに。アポを取るためにはトーク力も大事だが、そもそも出てもらえなかったり運の要素も強いので、数をかけることの重要性を身をもって学べたのは良かった。
桜スポーツフェスタで、グラウンドが隣接する部員との距離は近づいたが、その他の部活の同期とも仲良くなっていった。学部の友人でハンドボール部に所属していたIがきっかけで、彼もまた体育会部員なのに湘南台に住んでいたことで仲良くなった。よく言うと人と距離を詰めるのが上手く、悪く言うとなれなれしいのが彼の特徴で、彼の近くにいると自然と体育会の友達が増えていった。卒業後にも、仕事やプライベートでもかかわりがある他部の同期や先輩と繋がれたのは、とても有意義な時間だった。

■就職活動
3年生の夏になると、外資系のインターンに参加しただとか、すでに内定もらっただとか、自然と就職活動の話題が耳に入るようになる。秋ごろから自分やサッカー部の同期も動き出した。有難いことに、サッカー部のOBが部室まで足を運んで、説明会を開いてくれる会社も多くあった。そんな中、サッカー部の2つ上で、プレイヤーとしても人としても尊敬しているNさんが入社したという理由で、三菱商事に興味を持ったのが就活の序盤戦。付随して他の総合商社や広告代理店、メガバンクや大手のメーカーなどにエントリーし、早期で選考がある会社も受けていたが、何か自分の中で腹落ち感がなかった。そんな時に東日本大震災が発生し、部活 授業 就職活動すべてが1か月ほどストップした。地震発生当時、午前中の部活を終えて自宅で昼寝をしていたが、ただ事ではない揺れと停電により一大事だとすぐに気づいた。当時お付き合いしていた彼女と携帯で連絡が取れたので、停電の中自宅で2人で過ごしたことを思い出す。そして、親が心配していることもあり、荷物をまとめて一時名古屋に帰省。部活や授業が再開する4月上旬まで、実家でのんびりしながら、就職活動を含めた自分の将来について考えを巡らせた。その時に、AO入試で話していた内容を思い出した。いや、むしろそれまで忘れていたことに驚いたくらいなのだが。将来、サッカーチームの経営者になりたいと考えていた、そのために慶應義塾大学の総合政策学部を選んでいた。サッカー界の繋がりは、これまで出会った人を辿っていけば何とかなるだろうと考え、まずは経営者になるための自分自身の戦闘能力を上げることが第一だと考えた。ただ、その手段が分からなかったので、色々なOBに「サッカーチームの経営者になるのは、新卒でどこに入るべきですか?」と聞いてみたところ、7~8割ほどの方が「リクルートじゃない?」と回答してくれたことで第一志望に。無事にリクルートから内定をいただけたので、他の選考は全て辞退して就職活動は終了。入社までの間に、新規事業の立案コンテストや内定式の出し物、内定者研修でのグループワークなど、同期と関わる機会はとても刺激的で楽しかった。あまりにも楽しかったので、卒業直前の1か月一人旅の最中にも、関西在住の同期と何度も飲みに行ったほどである。

■リクルート時代
学生時代から起業やらインターンやらで、優秀な同期がたくさんいたので、自分は足で稼ぐ営業に配属されるであろう。どうせなら、縁もゆかりもない土地で、がむしゃらに頑張ってみたい、ただ、田舎すぎるのは嫌だしという理由で、広島のホットペッパーを志望していた。が、気づいたら東京本社の人事に配属。配属面談をしてくれたM口さんが引っ張ってくれたのかな?事業部に配属された同期は目標に終われて疲弊していたなかで、自分はだいぶ甘い環境にいたと思っていた。まだ労働時間に対しての規制が厳しくなる前だったので、深夜までオフィスで仕事をすることもよくあった。八重洲のオフィスから徒歩10分のところに住んでいたので、終電という概念がなく、仕事と飲み会も夜中まで平気でしていた。入社から半年は研修期間のようなもので、(いま思えば分社化のための対応で人事全体が大忙しで、新人に渡せるような業務がほぼ無かったのだとわかる)高い給料をもらいながら、ただ育ててもらっている時間だった。絶対的にやらないといけないことは、何としてもやる。という自分の良さが仕事に活かせたのは、分社化後の新卒採用立ち上げ時期。12月1日に採用HPをオープンさせることや、会社説明会の司会として、目の肥えた学生の前でプレゼンすること、質疑応答に臨機応変に対応することなど、絶対に自分ができるようにならないといけないモノに対しては、土日も返上して仕事をして何とか間に合わせていた。絶対に自分がやらないといけないものはやりきれるが、自分がやらなくていい理由が少しでも浮かぶとコミットできない、育ちにくい新人だったと今では思う。かなり鍛えられた期間でもあり、それを機に少し自信が持てた。教育担当や上司よりも自分が得意で貢献できる点を見つけることができてよかった。当時の上長であるK部長からは、今にもつながる働き方についての心構えを学んだ。「会社員なんだから、上が言うことは絶対だ。それが嫌なら、自分で会社やれ。」分社化の影響もあり、人事採用だけではなく、200人規模の会社の経営企画として、労務や一部の収支管理、総務として全社イベントの企画や社内報の発行など、コーポレートスタッフとして広範囲の業務に触れることができたのは今となっては財産だと感じる。その後、せっかくリクルートに入社したなら営業を経験したいと考え、社内転職制度を使って新規事業の営業部に異動する。7か月で退職してリクルートを去ることになるのだが、この期間が社会人人生で一番きつかったと感じる。絶対にやらなければいけない理由を見つけることができず、仕事に身が入っていなかった。商材が顧客の役に立つ実感が弱く、その解像度を上げるための努力も怠っていたので、身が入らない→成果が出ない→さらに身が入らないという負のループに入っていった。そんな時期に、ジブラルタ生命から声をかけてもらい、保険という分かりやすい商材と、自分自身が絶対にやらなければいけない環境に魅力を感じた。この時期に関わった方には、本当に申し訳ないことをしたと今でも思っている。
リクルート時代は、よく働きつつよく飲んでいた。職場の同僚とはもちろんながら、部署を跨いだり、配属が分かれた同期だったり、そこから派生した社外の友人とも交流が広がっていった。友達の友達は友達、という感覚は学生時代から持っており、比較的距離は詰めつつも、嫌われない距離感を保てていたからだと感じる。最近久々に会った友人から、「過去のつながりを大事にして広げるのが偉いよね。」と言われたことからも、客観的に見ても特徴なんだと思う。全く苦ではないし、人から求められていることでもないので、Want Toなんだと思う。

■ジブラルタ生命時代
リクルートでの営業部時代に、現状に対して強烈な不満があったために新しいゴール設定を容易にできたのだと思う。保険という、日本人の多くが“買う”ものの、自分も含めて正しく理解していないギャップを埋める働き方と、完全歩合の報酬制度が魅力的だった。今振り返れば、入社後1か月間の研修は、新しいゴール設定 エフィカシーの醸成に満ち溢れていた。絶対にやるんだという覚悟とイメージ、本当に大丈夫か?という一部の不安が入り混じり、熱量高くインプットができた。その後営業活動を開始し、良いスタートダッシュが切れたが、数か月でペースを落とし、できあがったコンフォートゾーンを今でも抜けられないでいる。会社員を辞めてから“自営業”として9年目になるが、業績が上にも下にもブレないのはまさにコンフォートゾーンたるものだと思う。いまこのマインドセットの世界に足を踏み入れて、改めて外資系生命保険会社の研修制度や表彰制度はよくできているなと感じる。

■結婚
ジブラルタ生命のほぼ同期入社で、同じ支社に所属していたのが現在の妻である。11月に私が入社し、翌年2月に彼女からの猛アプローチによりお付き合い開始と同時に同棲(という名の彼女が私の家に住むことに)。すぐに同棲するための少し広い部屋に引っ越して結婚した。とんとん拍子で進んだ。底抜けに明るくてポジティブ、自律していて芯がある、という点でとても魅力的だった。27歳で結婚し、娘も誕生。その娘が今では小学校に通っているので、本当に月日が経つのは早い。妻と出会うまで、自分が27歳で結婚するとは微塵も思っていなかった。

■独立
ジブラルタ生命在籍中の2年間うち、終盤の数か月は転職準備をしていたが、それまでの2年弱は総じて仕事は順調だった。同年代の中では常に上位の業績で、表彰やらスピーチの機会をいただくことも多かった。それに付随して、会社員時代よりも多い収入をいただき、目の前だけを見れば何不自由なかった。しかし、入社1年ちょっとすぎに、お客様からご相談をいただく。「代理店から、保険のプランが今より良くなりますよ!って提案されたので、アドバイスください。」と。ジブラルタ入社時点から、代理店という複数社の保険商品を扱う会社があることは聞いていたものの、実際に自分の領域に入ってくるのはその時が初めてだった。提案された内容を見せていただき、じっくり吟味すると、確かに私が最善を尽くして組んだジブラルタ生命のプランより費用対効果が高かった。その時は「小島さんを信頼しているので。」という理由で、お客様はジブラルタ生命の契約を続けてくれたものの、自分の中で強烈な違和感を感じるようになった。「保険でお客様の役に立った分だけ報酬がある→役に立たないと報酬がない」という思考プロセスにより、これからの長い人生の中で、ジブラルタ生命の保険を販売することでしか人の役に立てない、つまり稼ぎ口がないということに恐怖を抱くようになった。自分の人生のリスクヘッジのために、複数の役に立つ手段を持たなければいけないと考え、1社の生保から複数社の生保、生保だけでなく損保も扱える乗合代理店に移ろうと決めた。そして、自分の経験を活かして採用コンサルや転職エージェントでも人の役に立ちたいと考え、会社を設立することも決めた。ちょうど恐怖がピークの時に紹介で支社長と出会い、上記の環境を満たしているファイナンシャル・ジャパンに決め、2017年11月に移籍。同時に自分の法人も設立した。ジブラルタ生命には丸2年しか在籍しなかったが、早めにこの意思決定をできてよかったと今では強く感じている。

■品川カルチャークラブの成長
リクルートに入社してから半年ほどは、仕事と飲み会ばかりの日々だったが、紹介で品川カルチャークラブ代表の吉田さんと会い、それからGKとして土日はプレーするようになった。リクルート1年目だったため、土日もカフェで仕事をしており、サッカーをやる時間が作れるか不安だったが、始めれば何とかなるもので、週末のサッカーがいい息抜きとリフレッシュになっていた。徐々に選手の獲得にも力を入れ、2018年には神奈川県一部リーグを優勝し、関東リーグ昇格をかけたトーナメントにも出場する。2013年~2019年シーズンまでは主力GKとしてプレー面で貢献し、2020年~2022年はバックアップとしてベテランとしてチームを支えた。2019年に法人化することとなり、代表の吉田さんが代表取締役に就任。自分はサッカー部門の取締役として名を連ねることになった。チームの成長と共に、アスリートのキャリア支援を行う「1.5キャリア」の活動を中心となり進め、他にも複数競技の合流や、自前施設の経営など、吉田さんのもとで刺激的な経験をさせてもらっている。

■住環境
リクルート入社時から通勤電車が嫌で、常に職場から徒歩圏内に住んでおり、ファイナンシャル・ジャパン 東京第一支社への移籍のタイミングで、職場から徒歩7分程度の五反田のマンションに賃貸で住んでいた。職場も近いし、飲みに行っても交通の便もいいし、とても気に入っていた。2020年3月に色々と状況が変わった。まずはコロナのパンデミックにより、保険業も人材業もオンライン化が急速に進んだ。結果、交通の便が良いところにいなくても、仕事がまわるようになった。そして第二子の妊娠を機に、妻が保険業を辞めた。子供2人を育てるにはもっと住環境にこだわった方が良いし、妻の通勤時間を気にすることもなくなった。このタイミングで、少し都心部から離れてでも、一軒家を買うことを決意。色々と資金繰りや物件探しをして、9月末に大田区東雪谷の中古戸建に引越しをした。東雪谷で出会ったママ友パパ友は、とてもフレンドリーで居心地がよく、いい時間を過ごすことができた。息子も誕生して4人家族となった。娘が小学校に上がるタイミングで、より広々とした環境や教育面を考え、2023年4月に茨城県つくば市に移住。現在に至る。


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