見出し画像

【イトナミコラム6】万物に伸びる縁の道「nagナグ」を見つけよう その1


万物に伸びる縁の道「nag」 ※イメージ画像

◉はじめに


宇宙、地球、大気、土、水、植物、昆虫、動物、人間、素粒子。万物すべてに共通するナニカが存在するのではないだろうか。

その全てに共通するものを誰もに伝わる形に具現化すれば、それは誰もが懐かしさを覚えるような本当に良いものであるはずだ。

それが文化風習、伝統と呼ばれるもので、私たち先人に血をもらった者たちの目指すところだろう。

わたしは日本酒の探求から、その誰もに共通する懐かしさを見つけて、イトナミと名付けました。日本酒は日本のイトナミを具現化して共有するためのものでした。

古代の人たちは自然や神、祖先に対して意図的に縁を起こして関係性をつくり、食料や子孫を得て生命活動を行い、自分の周りの物事に共通点を見いだしてイトナミを継続させていました。

神から人へ作物を贈る。人から神へ酒を贈る。そうして人、自然、神、祖先が一体となってイトナミを継続させようとする純粋な思考は生命への贈与となり縁を起こして、人と自然・神の間に縁の道「nag(ナグ)」を出現させていた。

縁の道nagは、祭り、文化伝統や風習などが行われたときに現れると信じられ色々な形で表現されてきました。日本各地で行われ守られてきた伝統文化は、日本という土地のイトナミを永遠のものにする目的で行われてきたように見受けられます。

ということで、今回は万物に伸びる縁の道nagを考えてみます。


◉万物に伸びる縁の道nag(ナグ)


脳内の神経伝達細胞


日本酒の研究をする過程で古代人の縁起の儀礼を知りました。古代人は自然との縁をつくるために、彼らにとっていちばん大事なものを神や自然に贈与していました。贈与をすれば縁が起きる。それは全世界共通の決まりごとのように無意識的に各地で行われています。

人から神への熊の贈与 イオマンテ
何でもいいから縁起物をまとめて贈与するどんと焼き

自分にとっていちばん大事なものを贈与しなければ縁は起きないことを古代人は知っていました。人から神に贈与されるものは、若い女性、強く大きい動物の獲物、収穫された作物やその加工品で、それらはどれも彼らとって最も大事なものでした。

人から神に贈与をしたら、人から神までの縁の道、nagが現れる。

どうやら古代人は贈与する相手に伸びていく縁の道nagをヘビに例えて信仰していたようです。目に見えない縁の道とクネクネして自在に伸びヘビの姿が重なったのでしょうか。自然界のnagである水や雷、根や草を見てヘビのようだと思ったのでしょうか。

エジプト時代から環太平洋を中心にナーガ(蛇)が信仰され、日本でも土偶、銅鐸、剣、鏡など祭事に使われる道具には、盛んにヘビが描かれアナロジーを湧き立てる装飾がされました。

わたしはその万物をつなぐ、ヘビのような縁の道を古代人に習ってnag(ナグ)と呼ぶことにしました。

◉nagの視覚化


縁の道nagは現実には出現しません。見えません。

縁は現実世界の話ではなく、私たちの脳内で想像される仮想世界の領域で現れます。それこそ神様や近代のインターネットのように、存在しているけど存在しない、存在しないけれど存在している、共通概念と言われるものです。

現代では自然や神と縁切り方向で進んでいるので、神は存在しない、非科学的な世界は信じないという人が増えています。その通りで神は現実には存在しない。しかし僕ら人間の脳内の共通概念の中には存在している。

概念はファンタジーとも夢ともいいます。神とか国とか金とかもそうですね。みんなが共有している概念は、現実には存在していなくて感知できなくても、現実世界に在るものとして捉えられています。

現実と概念の世界を分けて考えれば、神は現実には存在しないけれど、人々の共通概念として存在していると言えますね。縁も同じですよね。現実には存在しないけれど、人々の脳内の共通概念として存在している。

縁の道nagは誰にも見えない共通概念なので、nagを説明するためには概念から五感入力が可能な形式に変換して現実に持ってこなくてはいけません。そのためnagを視覚化してみようと試みました。

雌雄(オスメス)のヘビによる縁起の形であるウロボロスと、それらをつなぐDNAを幾何学風にデザインにしてみました。このデザインを使って縁の道nagを探します。


オスメス記号は縄文人の石板より
互いに食べ合う(体を贈与しあう)と永遠になる
nag(縁)は目に見えないが世界に満ちている
縁の道は贈与によって出現する
満ちているnagはグレー、出現したnagの道には色を付けています。
縁起儀礼1
縁は全てに満ちているので、現実にも概念の世界にも満ちています。
縁起儀礼2
人から神へ贈与を行うことでnagを出現させています
縁起儀礼3
人と神の中間地点には巫女が配置されます。
現実と概念のバランスを保ち、人も神もコントロールする両義的存在です。
昔の巫女は酒と子供と占いという神を匂わせる行動と道具で人を思いのままに操りました。
いまも変わってない気が…

◉人と神をtsu-nag

当時の人間界では自然界と縁を結ぶことが食料確保や生活基盤、団結力などの面で群れの生存と大きく直結するため、人と自然の関係性をつくる縁起儀礼は必要不可欠なものでした。そのためこの人間と神の関係の図式は狩猟時代から近代まで続きました。

人と神の対称性
人と神の間にはもらったら返すルールが適応された。
±のバランスの取れていた時代

そして近代では石油石炭の利用、化学肥料(空気中の窒素の利用)によって大規模な自然利用が可能となりました。このことは自然と人との間に縁を起こすことを不要とし、縁起儀礼は願いの薄まった過去の伝統文化財へと変化していきました。

過去であればあるほど神や自然に対する信仰心が強く、現代になるほど弱くなる。それは人間と自然との縁の関係に比例しているようです。

現代と未来
科学技術で神との間にnagを起こさなくても色々獲得できるようになった
だから神からは卒業しよう。神と縁切りの現代。
すべてを得て神を殺した人間
天然資源は人間、家畜、穀物へと変換され地球上に配置された。
空気と水と触媒を化石燃料や天然ガスでどうこうするとアンモニア(窒素化合物)が取得できるらしい。窒素は化学肥料として穀物や家畜に変換されて人間の食糧となる。
空気を食べた穀物、家畜、人間は増殖肥大していく。
経産省より
地表に溜まったこれらの資源は伝染病によって地に還元されるはずだった。
それを拒否した人間はだれにどう消費されるのだろう。
人間が人間を消費する世界がもう来ている。

縁起の連鎖によって神を天然資源という形で実体化した人間は、やがて認知できない神や自然の存在を嫌悪して遠ざけるようになりました。神や自然という人類全てに共通していた概念を存在しないものとし、野生や野蛮であると卑下したり存在根拠がないと言って嫌悪するようになってしまいました。

男と女 言葉は分類と境界をつくる

そうして神や自然という共通概念を失った人間は、人間同士でも分類による嫌悪を始め、争い奪い、互いを利用していきました。

共通概念である神を失い、人間は万物に繋がりを感じられなくなっていきました。そうして個々の孤独がまん延して、個人主義が当たり前となっていく現代では人間が人間を家畜化する世界が加速しているように感じられます。

どこにも縁が発生しない孤独

◉日本酒から見たnag

わたしもそんな現代で育ち、大人になりました。世界になんの疑問も持たず、人間関係に悩み苦しみ、孤独に陥り、なにか特別なことをしなければ存在が保てないのではないかと、日本酒を造るようになりました。

最初は自分の思うような酒がつくりたい、杜氏という特別な存在になりたいという単純な気持ちで動いていた。

しかしその過程で日本酒を知り、日本、人間、酒、神、古代へさかのぼって、なぜ人が酒を造り人が酒を飲み、その先に何をしようとしたのかを理解したころには、古代人が大きな共同体をベースに物事を考え、実践していたことを知り理解していました。

純粋だった頃の古代人の価値観
全てが縁で繋がれた共同体だった
生命の共同体コスモゾーンを描いた手塚治虫

わたしは昔の人たちが行っていた純粋贈与による縁起儀礼に感動を覚えました。彼らの真っ直ぐな祈りが自然や祖先とのつながりを現実として表現していたからです。

それは魔法や芸術、ファンタジーやSFのようでもあり、とても純粋で美しい祈りの時間が訪れているかのように想像できました。五感から多くの情報が同時に入力され続ける総合芸術のようなを美しさを感じました。

手塚治虫 ブッダ 共同体に溶け込んだナラダッタ


現代人のわたしでも、縁の道を切り開き、さらなる酒を造ってみたい。今までのコラムで考えてきた通り、酒は御神酒であり、神を具現化したもので、酒そのものが縁の道を切り開く魔法のアイテムであるともいえます。

縁の世界を知り、酒に縁の作用を具体的に取り込むことができれば、わたしの酒はもっと本質的な酒に近づくはずだ。両義性を持った巫女のように、現実と概念を天秤にとり、確かな技術で情報を自在に入出力することができれば、もっと多くの人の情緒に刺さる酒が造れるはず。

岡潔先生の言うように、自己情緒から生まれた問いは、共同体からの司令とも言えます。先人たちに酒造りという愛を与えられたわたしには、未開の地を進む冒険をしなくてはなりません。


自己は共同体から親を経由して与えられている。

もちろん縁や共同体は五感で感知できる実体としては存在しません。神や縁、共同体は私たちの脳内に共通概念として存在している。頭の中のイメージを、他者に伝わる形に具現化することは本当に難しい。

その冒険はまず自分の脳の中に飛び込む事、考え方を変える新たな思想を自身にインストールすることが必要です。そんなことが自分にもできるでしょうか。

雇われ杜氏の従業員でいる限りは無理だろうけど、日本酒造りが自由化されて自分の醸造所を持てるならば、誰にも忖度しない贈与100%の酒がこの先できるかもしれませんね。

ニーチェは存在も時間も越えてnagを伸ばせたときに無限が現れると言った
自分の頭はどこまでnagを伸ばせるだろうか
宮沢賢治は脳内のイーハトーブで身近なものと宇宙をnagで繋いで縁起させた。
あの美しいよだかの星や銀河鉄道の夜はそうして生まれたのだろう。

◉自然界のnag

nagは人間の思考法だけではなく、自然界のありとあらゆるところに出現しています。しかもそれは思考ではなく現実に姿かたちで表現されている。nagはそもそも人間が自然界からアナロジーで真似て頭の中で想像したものなのでしょう。

下の自然界のnag画像を見てみると、自然界ではnagを伸ばことが生命活動とイコールになっているように見えます。自身から世界にnagを伸ばすことが生物の生命活動であり、その重なり合いが世界をつくっているのかもしれない。

光を求めて天へ伸びる木の枝のnag
地中の水を求める木の根のnag


天から地に伸びて地中に窒素を贈与するnag
餌を求めて菌糸を伸ばす粘菌のnag
永遠にnagが伸びるフラクタル
ブロッコリーや蜂の巣やヘビの紋様
自然の形は無限へと伸びているように見える
遺伝子情報をつなぐnag DNA
ホモ・サピエンスの母、ミトコンドリア・イブが
美味しいと思う酒が人類全てに共通する美味しさかも
縄文人のつくった記号
これも時を超えてメッセージを伝えるnag
現実も仮想(ネット)も人間の通り道にはnagが現れる
個人の肉体(点)が人間なのか、通った道(線)が人間なのか
位置と運動、個と群れ
どちらが生命なのかを考えさせられる
脳の中で五感入力情報を繋ぐニューロンとシナプスのnag
全身に酸素と栄養素を伝える毛細血管のnag

個や点にはnagは現れない。群れや動のある生命活動をしている自然生命体にはnagは容易に現れる。これも不思議な点ですね。

そして私たちが漠然と「自然」と呼ぶものには、根や枝のようにnagの道が感知できます。そして人間や金属、アスファルト、プラスチックなど私たちが「自然ではない」と言うものにはnagの道は見えてこない。

縁を伸ばそうとしているかどうかを五感で感知できるかどうか。それが自然と不自然の違いかもしれませんね。人間も金属もアスファルトもプラスチックも本来は自然物だけど現実的には見えないだけ。もっとこちらからnagを伸ばせばこれらも自然物に見えてくる。

私たち現代人でも、意識せずとも流れる血液、免疫システム、勝手に伸びてくる髪の毛、自然と成長する力を持つ子どもなど、自分自身の中にnagを見つければ、自身も自然の一部であることを体感できるのではないでしょうか。

人間を人間らしくしている個や欲の概念は、実は私たち人間のごくごく一部だけなのかもしれない。人間のほとんどの部分は他の自然生命と同じように無意識的にnagを伸ばしている。

古代の狩猟採集民のように、そのことに重きをおいて生きることができるのならば、自然と万物にnagを感じ、孤独とさよならできるようになるのでしょうか。

原子に帰れとかスピ系に行くとかの話ではなく、ものづくりをする人が概念を操つり自在に入出力できたらもっと素敵なものができるような気がするのです。思想と技術と情緒が混ざらないと伝わらないですから。

この話は日本酒というより表現文化や芸術創作の分野の話かもしれませんね。

◉次回予告

そこにnagはあるのかい?
そこにnagはとけているのかい?

テーマがめんどくさくて、自分でもどこに収束するか全くわかりません。適当なこと言って酒造って売ればいいだけなのに何をやっているのでしょうね。やればやるほど浮世離れして人と相容れなくなるし孤独になるだけだ。

しかし愛を与えられた者は冒険の旅に出て人生にイエスと言わなければならない。行けばわかるさ己の道を。これが目標までのnagでもあるはずです。

日本酒造りから生まれた疑問に挑戦し続けなければ、酒は簡単に欲望を刺激するだけのアルコールになってしまう。日本酒を純アルコールに近づけてしまっては、日本酒は日本の酒でなくなってしまう。

だからまず日本酒の身近に潜むnagから探してみよう。
次回は土と水に潜むnagを見つけてみます。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?